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駅弁大学のヰタ・セクスアリス  作者: 深海くじら
第5章 原町田由香里
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第26話 あたしのことこれから『ゆかりん』って呼んでいいですよ。

 座り込んでしまったからにはもう一歩も動かない。そんな強い意志を放散する由香里に気圧された逸郎は、給茶器まで行って二人分のお茶を注いできた。目の前に置かれた湯呑碗を一瞥する由香里は、このくらいは当然という態度で、白湯に等しい出がらしをひと口あおった。

 向かいの席に戻った逸郎はその様子を無言で見ていた。無事帰還した偵察兵にいきなり詳しい説明を求めたりはしない。話すべき内容の取捨は原町田自身に任せればいい。そう思ったのだ。


――発案者はたしかに俺だった。でもプロジェクトリーダーの立場はすでに原町田の手に移ってる。


 沈黙を破ったのは由香里からだった。


「あたしが思うに、先輩はもうしばらくまーやを放し飼いにしてる方がよろしいのではないかと」


 さすがに疲れたので適当なところで帰りますが、と前置きしたうえで由香里は話し始めた。


「先輩がどこまで聞かれたのかは知りませんけど、再充電後に届いたメールのタイムスタンプから類推するに、バッテリーが召されたのは二十三時四十分から二十三時四十七分の間。てことは、まーやの独白の触りに入ったか入らなかったかくらいでしょう。ちょうどいいところだと思いますね。まるで計ったように、です。もしくは謀ったように」


――謀ったのか? わざとなのか?

 いや、こいつならやりかねん。


「小耳に挟むレベルでは納められない機微情報を勝手に漏らすわけにはいきませんが、ざっくり言って、まーやには骨休めをする時間が必要と結論しました。先輩がおそらく悪人ではないことは、昨日から今に至る観察でほぼ確証されてます。ですが、悪人でなければいいというものではありません。もっと言うとまーやにとって本来有益と言っても過言ではないひとたち、例えば家族とかからも距離を置くべきではないかと」


 個人的な懊悩でぶれまくりの逸郎と違い、由香里の目的テーマは極めてシンプルである。すなわち、急激な変化の波をひとまず乗り越えた弥生が落ち着くまでの間をゆっくりと安らぐことができる時空間の確保。


――そういうことだよな。


「なぁに、そう長い時間ではない、とあたしは予想しています。ひと月かもう少しか。あ、ひと月後だと夏休みに入ってますね。ということは、秋からの通常運航が目安ではないでしょうか。昨夜の様子から考えるに、そのくらいの間はまーやも無茶をすることは無いかと」


 逸郎は黙って頷いた。

 ミッション遂行に逸郎が役立つと判定すれば、昨夜の弥生が語った内容も原町田の言葉で教えてくるに違いない。そう感じたのだ。


――涼子も凄かったが、こいつも凄いな。この安心感はいったい何なんだろうな。



「あー、もう眠いから帰るんですけど、最後にあたしからのひとことをお伝えしておきます」


 逸郎は身構えた。場に緊張が走る。


「ごゆうるりと。そんな緊張する話じゃないですから」


 掌をひらひらさせて話の軽さをアピールしてくる。が、由香里は油断ならない。


「昨日マイナス一万二千ポイントから始まった先輩の評価のことなんですが、この二十四時間で龍も裸足で逃げ出す急上昇をみせましてですね、現在の採点ではなんと七十点という大躍進を遂げております。しかも百点満点で。驚きのいきなり及第点、ですね」


 由香里先生は講評を続ける。


「百回放校してもおつりがくるような超問題児がひと晩で進級できたのには、もちろんですが理由があります。最も評価したポイントは、想定外の柔軟性です。先輩は他人(ひと)の話を聞くとき、場合によっては相手のポリシーやイズムが自分のそれを侵食するという可能性を認めてますよね。先輩にとってはもしかしたら普通のことなのかもしれないけど、ある程度以上成長したオトナにとって、それはけっこう大変なことなんです。ATフィールドがありますから。破られたら、極端な話、自分の行動原理(ドグマ)すら変わってしまうかもしれない。でもどうやら先輩は、それを恐れてない、ですよね」


 想定をはるかに上回る高評価に、逸郎はかえって狼狽えた。


「そりゃ買い被りだ。俺だって無闇に自分が変わるのは恐い」


 そう返した逸郎を軽くいなすように、由香里は、そんなことはありません、と大きくかぶりを振った。


「今だって、昨日あたしが言ったあたしのポリシーを、先輩なりのやり方で取り込んでるじゃないですか。たったひと晩で。しかも無理やりではなく、きわめて自然に」


 息継ぎに合わせ、由香里はテーブルの上の湯呑みを口にした。空っぽだった。顔をしかめて見せたが、それは一瞬のこと。


「先輩のそういうとこ、あたしはかなり気に入ったんです」



 さて、とテーブルの荷物を背負い上げた由香里は、それじゃあまた部室で、と言い残してあっさり立ち去った。

 空っぽになった椅子の背もたれになにか白っぽいものが引っ掛かっている。気になった逸郎は、さっきまで由香里が座っていた席に回り込んでそれを確かめた。薄い青の模様が差し込まれた白い細身の傘。


――あいつ、昨日こんなの持ってたっけ?


 逸郎は掛かっていた傘の柄を手に、振り返って背後の窓を見やった。昨夜遅くに降り出した雨は激しくではないがしとしとと続いていて、今も曇った窓ガラスを濡らしている。

 白い柄を握りしめ、逸郎は食堂のエントランスに急いだ。と両開きのガラス戸が外側から押し込まれるように動き、開ききらない隙間から由香梨がバタバタと駆け込んできた。


「先輩酷いじゃないですか。わかってたんならちゃんと声掛けしてくださいよ。傘忘れてるぞとか雨じゃねとか。もぉ、ぷんすか」


「いや、俺もいま気づいたとこだから」


 なんかこれ、言い訳じみててやだな。そんなことを感じながら、逸郎は手に持った傘を差し出した。


「この傘、今朝まーやから貰ったばかりなんですから。宝物なんですから」


「宝物を簡単に忘れるな」


 いーっ、と顔を突き出す由香里。


――か、可愛いじゃねぇか。


 虚を突かれ立ち尽くす逸郎の前に、由香里は、そうだ、と声を上げつつ一歩踏み込んできた。パーソナルスペースのぎり内側に顔を突き出す由香里は、逸郎を見据えながらこう続けた。


「先輩、あたしのことこれから『ゆかりん』って呼んでいいですよ」


 微量の悪戯っぽさを含んだ柔らかめの笑顔を残し、由香里改めゆかりんは、梅雨空のキャンパスに駆け出していった。

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