第1話 彼女はひとりだけ光り輝いていた。
粉雪ちらつく曇りがちの空を見上げ、ほぉっと白い息を吐いた。
ひと月後には「令和」という耳慣れない元号に切り替わることが発表されたばかりの四月はじめ、凍った融雪がてかてかに光らせた轍を前に、田中逸郎は赤信号を見つめている。
県道の除雪は概ね済んでいた。それでも道路脇の残雪は車道と歩道を分かつように膝の高さまで連なっている。北東北のこの時期は、銀世界と呼べるような美しいものじゃない。むしろ灰色、まだら色。
すべての汚濁を覆い隠すはずの白銀が、路面で溶けて飛び散って、それらが夜にはまた凍る。繰り返され地層のような黒い筋の入った雪溜りは、お世辞にも綺麗とは言えない。
故郷の南関東であればすでに咲き始めている桜はおろか、梅さえもほころぶにはまだ遠い。曇天もほぼ毎日。要するに、明るくなる要素がないのだ。
逸郎は思う。パッとしなかった俺の一年とおんなじだ、と。
信号が赤から青に変わった。
スノトレの靴底に意識を集中し、路面に刻まれたつるつるの轍を慎重に跨ぎながら逸郎は対岸に渡る。この街に住みはじめてようやく二年目、アイスバーンを歩くときはまだまだ緊張する。
無事渡り終えた正面の、背よりも高い門柱には白字に墨書の看板が立てかけられていた。
平成三十一年度 駅弁大学入学式
全四学部の新入生が一堂に集うはじまりの式典。
少なくとも今日のこの場所だけは、明るい希望に満ちあふれているはずなのだ。
「まあ実際には、代わり映えしない新入生が平凡で刺激の少ない四年間を送るってだけなんだろうけどね」
聞く者のいない諦めを呟きながら、逸郎は馴染みの人文社会科学部棟の脇を通り過ぎた。キャンパスに人影が少ないことから、新入生どもは未だ講堂にいるのだろうと当たりをつける。
――とは言え、急がないと。
逸郎がそう思ったタイミングで、視界の先の建物からぱらぱらとひとが押し出されてきたのが見えた。
ダウンジャケットのポケットが震えているのに気づいた。取り出したスマホの画面には、シンスケからのLINEメッセージ。
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まだか?
式、終わっちまったぞ。
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こっちからも見えた、とだけ返し、逸郎は足を速めた。
徐々に大きくなる講堂の正面入り口からは、ぜんぜん似合ってない借り物の衣装を着こんだ新入生たちとその父兄が吐き出されはじめている。スマホを片手に手を振ってくる馴染みのアーミージャケットも見えた。
「間に合ったぜ!」
入り口正面の好位置に立つシンスケの横に走り込もうとしたその瞬間、逸郎の視界は晴れ間を予感させる薄い雲でいっぱいになった。
「イツロー、超ダセぇ。見ろ。新入生が指差して笑ってんぞ」
島内伸介が、上から見下ろしていた。
肘を突いて半身を起こした逸郎は講堂の方に目を移す。顔を向けて口元を押さえる女学生、軽く指さして奥さんにたしなめられているスーツのおじさん。ほかにも何人かがこっちを見ていた。
――くっそ。見物に来たつもりが、こっちが見世物になっちまった。
シンスケに引き上げられ、したたかに打った腰をさすりつつ立ち上がった逸郎は、デニムのパンツもダウンの背中も雪だらけになっている。気温は零下だから簡単に溶けて染み込んだりはしないが、格好悪いことこの上ない。
これだから関東もんは、と嗤うシンスケに向かって、逸郎は毒づいた。
「うるっせ! たまたまだよ、たまたま! 弘法さまだって筆滑らすことくらいあるわ」
「いや、お前のは筆じゃなくて足元だけどな」
そんな憎まれ口を叩きながらも背中の雪を払ってくれるシンスケ。悪い奴ではない。そんなことは、一年間同じ寮の飯を食ってきた逸郎も十分判っている。ただバツが悪いだけなのだ。
そもそも、可愛い新入生でも探しに行こうぜと誘ってきたのはシンスケの方だった。賛同して勇んで来た我が身を棚に上げ、逸郎は憤然と顔を上げた。
――こうなったらせめて、これはという娘のひとりやふたり、拝んでおかないと。
*
晴れがましい一年生とその父兄らが集うキャンパスで所在なさげにうろうろしているのはあきらかに不審者だ。祝われる者と祝う者のどちらのフリをするにしても、着古したダウンとアーミージャケットはドレスコードからして間違っている。
早々に立ち去った方が無難だと見切りをつけた逸郎は、まだ粘るシンスケを置いて歩道の端を歩きはじめた。向かう先は中央食堂。あったかいうどんでも食べて溜飲を下げよう、と。
道の中央を流れに乗って歩いている女の子たちは、揃いも揃って頬が赤い。まさに林檎のようだ。環境適応なのか、と逸郎は漏らした。彼の知る関東の同世代とはまったく印象が違う。
素朴とか純粋とか慰撫だとか、そういった単語が逸郎の頭の中をつらつらと巡っていた。
「すまねけんど、こちらの学生さんだが?」
自分に掛けられた言葉と気づくのに数瞬遅れた逸郎は、これと思しき人物に顔を向け、そうですがと応えた。
純朴そうな笑顔を満面に浮かべた紳士は足早に近づき、手にした一眼レフを押し付けてきた。
「写真、お願いでぎますか。シャッターさ押してもらうだけで結構だがら。おーい、弥生も母ちゃも、お願いしだがら早く門柱の横さ並べ」
台詞の後半は振り向いた先に佇む母娘に向けてだろう。
「いや、俺、まだOKしてないんですけど」
そうつぶやく逸郎の声など紳士の耳には届かない。
受け取ってしまったカメラを見下ろした逸郎は、苦笑しながら被写体に身体を向けた。
背の高い針葉樹の脇に立つ『人文社会科学部』と彫り込まれた柱の隣に並ぶ母娘と、ふたりに向かって小走りで駆けていく小太りの紳士。
――おっさん、急ぐと転ぶぞ、俺みたいに。
そう思いながらも、一眼レフを手にした逸郎は撮影位置を探す。基本、頼まれたことはきちんとやるタイプなのだ。案の定転びそうになった紳士だったが、娘と奥様に支えられ、なんとか膝をつかずに済んだようだ。
カメラを構えた逸郎は、ファインダーの中の親子を見つめる。右に礼服の父親、左に和服の母親。両親に挟まれた真ん中には、もこもこの白いコートを腕に掛けピンク色のスーツに身を包んだ、見るからに育ち良さげの愛娘。少しだけ潤んだ大きな瞳がこちらを見ている。
画面の中心でその顔を捉えた逸郎は、思わず呟いていた。
「可憐だ」
人差し指がシャッターを切るその直前、急な突風が吹きこんだ。
連射モードになっていたカメラが立てる連続したシャッター音が、枝が揺すられる音にかき消される。
ばさばさっ、どさぁ。
ファインダーに映る画面は、さながらホワイトアウトだった。
雪煙が収まったあとには、真っ白になった三人が取り残されていた。
強風が木を揺すり、枝葉に蓄えられていた雪を落としたのだ。
雲が切れ、空には久しぶりの太陽が少しだけ顔をのぞかせている。さっきまでの並びを崩し、身体に降り積もった雪を懸命に払い落としている三人にも陽射しが差し込んだ。
逸郎はカメラを構え直した。
弥生、と呼ばれていた少女をズームして、何度もシャッターを切り続ける。差し込む金の陽光の中で真っ白の粉雪を無心に払う少女の姿は、降臨したばかりの天使に見えた。
この灰色の世界で舞い散る雪の結晶を纏った彼女は、ひとりだけ光り輝いていた。比喩ではなく、本当に。




