第17話 私いま、すっごく濡れてるよ。
「来たってことは……」
逸郎は唾を飲み込んだ。
――ここまでの話はわかった。
ファインの深層に隠された望みというものも、それがあるというところまでは逸郎も受け入れることができた。だがそれはあくまでもヴァーチャルな体験によるもの。現実とは別のはず。
――だって涼子だぞ。見た目とは真逆の恋愛指数皆無で、まるっきり朴念仁の。ゲームこそが世界の中心と言ってはばからない真正のゲームおたく……。
「んふん。まぁそういうこと、だよ」
照れ笑いを浮かべていたファインは、さらに相好を崩した。
「いっくん相手なら普通に話せるかって思ったけど、やっぱり恥ずかしいものね、自分のセックスライフのカムアウトは」
――やっぱやったのか? 女子高生が、いきなり4Pで?
逸郎は自分の中にある常識という名の楼閣が瓦解する予感を感じた。
「私の春休みに合わせて彼らが来日するって言うんで、東京まで行ってね。うーん。もういいよね。他でもないいっくんだから全部話しちゃお」
誰に許可を承認してもらってるのか知らないが、左右に顔を振り向けて頷き、ひとつ深呼吸をしたファインが手のひらを下にした右手を斜めに突き上げた。
「天津原涼子、高校二年の春休みに東京で処女喪失してきました。一週間をまるまる使って、外人さん三人相手にいろんなところで思いっきり姦られてきちゃった。んふふふ」
大口を開けたまま逸郎は固まった。それほど強烈なショックを受けていた。弥生の痴態動画の衝撃が、少なくともこの一瞬は完全に吹き飛んでしまったほど。
ガチガチの尼僧でもここまで性に無関心ってことはないという地面よりも固いファインの理が、目の前に座る当の本人の告白によって完璧に覆されたのだ。
この先も聞いてもらうお礼にとファインが注文した追加の飲み物が届いたあとに、彼女の生々しい告解は続けられた。相槌ひとつ打ち返せない逸郎は、グラスに刺さったストローを咥えたまま聴き続けることしかできなかった。
――推定百人は下らないだろう涼子のファンが万が一この話を聞いたら、暴徒となってUKとカナダとシンガポールの大使館を襲う話だよな、これは。
「……とにかく凄かった。めちゃくちゃで素敵な一週間だったよ。私、もうずぅーっと歓喜に震えてたんだから。ほら、見て。思い出してる今も、快感がぶり返して鳥肌が立ってる。それに、これはもうホントにいっくんにだけの秘密だけど……」
手を伸ばしたファインは逸郎の頭をテーブル越しに抱き寄せた。想定外のスキンシップに思考能力がゼロになった逸郎の耳元に吹きかけるように、ファインはこう囁いた。
「私いま、すっごく濡れてるよ。」
*
コーヒーフロート(これはファインの分)とジンジャーエール(こっちは逸郎)を飲みながら、ふたりはクールダウンしていた。
「私、恋愛なんて意味の無いものだって今でも思ってる。もちろん興味もぜんぜんない。でも趣味とか癖とか好みとかは人それぞれの個性が見えて面白いし意味だってある、って理解してる。私たちのサークルもそんな人の集まりだよね。そういう個性の一側面として、セックスに対する志向やこだわりなんかもやっぱり興味深いと感じるのよ。私の場合はダイハンのスペシャルなステージで、私自身のセックスに関する、世間的にはたぶん異常な性癖を知ることができた。それもかなり明確に。さらに幸運なことに私は、ヴァーチャルな世界でのその目醒めをリアルで再現することさえできた。これはホントのホントにラッキーだったんだよ」
自分の言葉に軽く頷きながら、ファインは汗をかいたグラスにスプーン型のストローを突き刺した。
「弥生さんの、弥生さんと槍須先輩の動画を見てるとね、もしかしたら弥生さんも出会っちゃったのかな、見つけてしまったのかな、って感じたんだ。誰が見るかもわからない、場合によっては親兄弟や友だちが見てしまうかもしれない。実際、私たちも見てるしね。そんな危ない橋を、彼女は『嫌がったりしない』っていう自分の意思の鑑で許容し続けてる。だとしたら、それはもう、彼女が潜在的に求めていたセックスのカタチが槍須先輩という媒介を通じて実現されているってことなんじゃないのかな。私みたいに。ね」
思っても見なかった弥生に対するファインの解釈に衝撃を受けつつも、逸郎はその可能性を自分でも既に見つけていたことに気づいていた。自身が抱えている諦めとそれを克服したいと願う外向きな志向。弥生の中に仄見える、そのアンヴィバレンツな魅力。
「そう、例えば私はいっくんのことをかなり気に入ってる。私の『鍵をかけて死ぬまで仕舞っておくべきプライベート』を、こうやって共有してもいいって思っちゃうくらいに。こんなこと、この先一生、誰にも話さないかもしれない。そのくらい、いっくんを気に入ってるってことなんだよ」
ファインはそこで、アイスコーヒーに浮かぶ半分溶けたバニラアイスを掬って口に運んだ。赤い唇の端に白いものがはみ出している。そこに縫い付けられた逸郎の視線に気づいたファインは、艶やかに笑ってから紙ナプキンで丁寧に口を拭った。
「でもね。私、いっくんとはセックスはしないだろうな」
ファインは、身を乗り出して囁くようにそう言ってから、ゆっくりと落ちる花弁のように椅子の背に身体を落とした。
「あのね。さっきちょっとだけ試してみたんだよ。けど、やっぱり、だったしね。だから私はしない。少なくとも今のままのいっくんとはたぶん、絶対に」
あ、槍須先輩とならしてみてもいいかも。なぁんてね。
そう付け加えたファインは笑顔を見せた。
「なんで?」
答えはわかってる気がしたが、逸郎は敢えて尋ねてみた。んふん、と笑いながらファインはこう応えた。
「だっていっくん、普通のセックスしかしたくないでしょ」
*
昼前に入店したはずなのに、いつの間にか窓の外の世界はオレンジ色に染まっている。
抜け殻になっている細い空袋を苦労しながらストローに被せ直す真珠色の爪と長い指。再利用コンドームロケット~、などと適当なことをつぶやきながら、ストローのスプーン側を咥えたファインは、ふっと息を吹きこんだ。しわしわの紙袋が逸郎のグラスに命中し、ぽとりと落ちた。
「そろそろ帰ろっか」
「そうだな。俺もバイトがあるし」
「バーテンだっけ。そのうち仕事ぶり見に行くね」
前もそう言ってたじゃん。どうせすぐ忘れちゃうくせに。
そう思いながら逸郎は鼻を鳴らして軽く笑った。
カウベルを鳴らして逸郎がドアを開ける。レディファーストの世界が染み付いているファインは、ごく自然に先に立って店を出た。
農学部に併設する実験植林の小道には北国の遅い春を待ちわびていた様々な草木の開花が第二幕を迎えていた。コブシ、ツツジ、ボタンにカキツバタ。頭上に枝を広げた桜は、新緑がその色を深くしはじめている。斜めの陽射しが陰影を際立たせる夕暮れの散歩道を、ファインと逸郎は並んで歩いていた。
光の輪郭で縁取られた澄まし顔を真っ直ぐに、凛とした姿勢で滑らかに歩を進める隣の美少女。涼子が昨日までとは別人に見える、と逸郎は思った。でも、いったいどこが変わったのか。
同伴する気配を意識しながら逸郎は思考を巡らせた。ファインの話を聞く直前まで覆っていた重たい霧は、その密度をずいぶんと薄め、いまは別のことを考える余地さえ拓けている。
エッジの立った美貌をおっとりとした所作で和らげることで意志の強靭さを隠すファインの見た目は、昼間となんら変わりもない。話し方も立ち振る舞いにも変化などない。
――あたりまえだ。
逸郎は胸の中だけでうなずいた。
昨日から今日にかけてのファインの身に起こったイベントといえば、秘密にしていた過去の一体験を逸郎にカミングアウトしたことぐらい。強敵を倒したとか高レベルの魔法石を手にいれたとか、あるいは重篤な傷を負ったとかいうシフトチェンジを経たわけじゃない。つまり、昨日の天津原涼子ファインモーションと今の彼女は、リニアな軌道を巡行速度で移動する全くの連続体だということ。
――じゃあいったい何をして「別人」と感じるんだ?
「今いっくんが考えてること、当ててあげようか」
不意に立ち止まったファインが、覗き込むように逸郎を見上げてきた。目が笑っている。
「私が違って見えてるんだよね。別人みたいって」
見事言い当てられた逸郎は大いに狼狽える。
――こいつ、エスパーなの?
「変わったのはね、私じゃなくていっくんの受信機の方。だって私が望んで集団レイプされたのは二年以上も前のことだよ。いっくんとはじめて出会ったときの私は、もうとっくのとうに体験を済ませたあとだった。つまりいっくんの受信機の方が、今日の私の昔話を聞いて機能拡張したの。有り体に言えば、性能が上がったんだね」
飛び上がって頭の上の箱を殴り、落ちてきた茸を咀嚼するヒゲの小男の姿が逸郎の頭に浮かんだ。
ピロリロリン。
「明日からいっくんがどんな対応してくるのかはわからないけど、レベル上げトリガーの私としてはちゃんと受け入れるつもりだよ」
ファインは逸郎の左手を取り、両手で包むようにそっと握ってからすぐに放した。
「弥生さんのこともそう。彼女の場合は、彼女自身も大きくシフトチェンジしてるからいっくんサイドだけでどうにかなるってほど単純なものでもないはず。でも、それでもやっぱり彼女も繋がって変わってきただけなの。中の人の入れ替わりがあったわけじゃない。だからいっくんも、階段を飛び降りたり道を通行止めにするみたいな乱暴はしないで、彼女の変化も自分の変化も受け入れてゆっくりアジャストして」
裏門を出る時には夕陽はほとんど沈んでいた。上弦の月の少し下で、宵の明星が針の先のように光っている。
「私はこっち。いっくんは街に出るからそっちだね。じゃ、またね」
「ああ。また。今日はありがとうな」
「んふん。こちらこそ。じゃ、ね」
綺麗にターンして歩き去ろうとするファイン。逸郎は残照に向かって歩くその美しいシルエットをしばし見送りたいと思った。と、踵を返したファインが小走りで戻ってきた。
「そうそう、言い忘れてたけど弥生さん、そろそろ戻ってくると思う。これは私の勘」
根拠は、と尋ねようとして、逸郎は口をつぐんだ。
――そうだ。涼子の勘はよく当たる。
逸郎はありがとうだけ言って、曖昧にほほ笑んだ。
「あとね、私はいっくんとは寝ないけど、弥生さんはそうでもないと思うな」
なんと返せばいいのかわからず思案顔の逸郎に悪戯っぽい笑顔を向けて、ファインは続けた。
「あの娘、嫌って言えないタイプだから」




