最終話 未来が、良いものでありますように。
まだ三時台だというのに、仄暗かった昼が終幕を予告するかのように、薄い雲がオレンジに染まり始めています。
この街の冬は、昼が短くて昏い。
誰もがひっきりなしにコーヒーを飲むフィンランドですっかりコーヒー党に取り込まれちゃった私は、強力なスチーム暖房のおかげでぬくぬくのお部屋で、ひとりコーヒーブレイクを愉しんでいます。
お昼に食べ残してパサパサになってるシナモンロールをひと齧りして、コーヒーをひとくち。それからおもむろに、三つ折りの紙片を開きます。地球を半周して届けられた懐かしい友だちからの手紙。
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オーロラの写真、ありがとう。
すっごいとこに住んでるんだって改めて思ったわ。うらやましいっての通り越して、なんかもう別世界のひとみたい。女優とかそういう類の。
ま、そんなことはないんだけどね。
杜陸は、まあ変わんないよ。
相変わらず冬は寒いし、雪はそんなでもないけど道は滑るし。でもさっき調べたら、そっちも気温は零下なんだよね。似たようなもんか。
杜陸は変わんないけど、あたしには大変化がありました。
なんとゆかりんさん、この秋に母になります!
ここんとこ調子が思わしくなかったんで、もしやと思って先週病院行ってみたの。そしたらご懐妊だって。四週目。予定日は十月十日。
びっくりだよね。
去年の二月に結婚してようやく暮らしのペースが落ち着いてきたかと思ったら、これだよ。嬉しいのは嬉しいんだけど、それより不安の方が大きいかな。あたしみたいなのがお母さんになって大丈夫なのかなってさ。
シンスケさんは、もちろん喜んでるよ。彼、基本的にそういうの大歓迎のクチだしね。まだ早いっつってんのに、今から父親学級とか行きはじめてんの。無関心よりは百万倍いいけど。
子育てに関しては(いやそれ以外も全部だけど)大先輩のファイン先輩が全力応援するって言ってくれてるから、あたしが心配し過ぎることはないかな、っていうのが正直なところ。ほんと、ありがたいよね。
そうそう、ファイン先輩といえば、先輩の会社がまたなんか新しいこと始めるらしくって、世界の余剰食糧を一括管理して再流通させるシステムを構築してるんだって。新会社つくってCEOをやるんだって言ってた。なんていうか、スケールがでかすぎてわけわかんないや。
それともうひとつニュース。人社で同期だったリュウジくん(まーやが彼と友だちになってたなんて知らなかったよ。あたしたちの披露宴で帰国したとき? に川崎で知り合ったって彼言ってたけど、どういうこと?)、こんど結婚するかもだって。お相手は福岡のひとで、彼も東京の仕事辞めて向こうでお仕事探すんだとか。かもってのが煮え切らないのも彼らしいっちゃらしい。いずれにしろ新年早々おめでたいね。
駅弁大学卒業してもうじき二年。みんないろいろと変わってきたなって感じ。
そんなあたしたちに先んじて大変身したまーやはいかがお過ごしですか?
そっちの大学も今秋には卒業だよね。まーやは日本に帰ってくるのかな。それともそっちで暮らしていくのかな。
あたしとしては、どっちでもいいって思ってる。まーやが杜陸に帰ってきていっぱい会えるようになるのならそれはそれで最高だけど、なんかそういうイメージは浮かばないかな。この街はまーやが住むには狭すぎるし。いずれにしろ、どこを選ぶにしても、まーやがまーやらしく過ごしていくことができるところであれば、それが一番いいだろうなって。
だってまーやがどこにいても、なにやってても、あたしたちはずっと友だちだから。
じゃ、この便りはこのへんでおしまい。
また手紙書くね。あと、たまにはビデオチャットにも応じてよね。
2025年1月末
杜陸より愛をこめて
ゆかりん
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杜陸は、もう夜でしょうか。
読み返したばかりの昨日届いた手紙を脇に置いて、私は窓際に向かいます。結露したガラスの向こうには薄ぼんやりとした空と背の低い街並み、その向こうに黒く重たい海が覗いています。遠くセウラサーリ湾が望める南向きの二重窓、霞がかかったラウッタ島に吸い込まれるように伸びている51号線のテールランプは、空と海を分ける赤い切り取り線みたい。
港町エスポーのこの部屋から見る冬の景色は今年で四度目になるけれど、いつもおおむねこんな感じです。
まだ早いから、分厚いカーテンを閉じて、冷気と薄暮の空から温かいお部屋を隔離しましょう。
そっかぁ。ゆかりんもママになるのか。
去年の四月に招待された披露宴を思い出します。
素敵にドレスアップして、見違えるように女らしく綺麗になったゆかりんと、八割増しくらいハンサムになった白タキシードのシンスケ先輩。懐かしい顔がいくつも来てたなぁ。鵜沼会長とナイル先輩。おふたりはご夫婦になってた。変わらず美人のファイン先輩。お子様がいるって聞いてすごくびっくりした。顔つきが精悍になってた田中先輩をお見かけしたときには、ドキっとしちゃったっけ。
そして、その隣に立ってた横尾先生。
あのひとたちと言葉を交わしたのは最初の挨拶だけ。彼女の瞳に私への警戒の色が見えたから。いくら私だって、大切な友だちの結婚披露宴の席でひとの彼氏に誘いを掛けたりはしないのに。
ゆかりんが手紙の中で慎重に省いてた彼らの消息は知ってます。先月、田中先輩からメールをもらったから。
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あけましておめでとう。
新年ということで、とりあえず報告を。
随分と時間がかかったけど、この春にすみれと結婚する。彼女の方がいまの身分のまま非常勤の講師という形をとれることになったので。
きみの望みになにひとつ応えてやれなかった俺が言うのもなんだけど、弥生にはおめでとうって言って欲しい。そして、弥生が弥生のままで信じる道に進んでいけることを俺は本心から願っている。きみの望みを共有することができなかったとしても、きみと俺が友だちだってことに変わりは無いのだから。
いつかまたみんなで、ゆかりんやシンスケや涼子と一緒にきみとも逢える日がきますように。そしてそのときはうちの妻も同席させて、笑って昔話ができるといい。
2025年が、そして未来が、弥生にとって良いものでありますように。
田中逸郎
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田中先輩らしい甘っちょろいことを言ってます。でも、変わってないってわかって安心もします。
*
私の長い学生生活も、今年の秋で終わり。あと半年しか残ってません。そろそろ本気でその先のことを考えなくちゃいけない。
考えてみれば、もう六年も大学生をやってるんですね。駅弁大学からはじまって、いまはアアルト大学。戯れ会のひとたちも川崎で会った同期の彼も、みんな次のステージに居場所をつくってるっていうのに、モラトリアムも大概にしろって感じですよね。
来月には二十四歳、そして九月には卒業。社会に放り出されるのは、もう秒読みです。そのとき、私はどこにいるのでしょう。この国に居続けるのか、それとも日本に戻るのか。明確なビジョンは、ぜんぜん見えてない。
暮らしに慣れた今は、ここで根っこを張るのもいいかな、とは思います。なによりもこの国は、私の性癖にマッチしてる。去年日本に帰ったときにあらためて思いました。私の求める関係をあの国で実現するのはやっぱり難しいって。ドラマや小説の中では随分とフランクになってるけれど、あの国の性に対するモラルはまだまだ閉鎖的だって実感したのです。杜陸だけでなく、東京でも。
カーテンの向こうはすでに真っ暗になってる様子。時計はまだ四時半にもなってないのに。ここから明日の朝八時半まで、十六時間におよぶ長い夜がはじまるのです。
この国がセックスに寛容なのは、この長い夜の所為なんじゃないかなって思います。暗くて寒くて長い夜に安寧を求めるならば、誰かと抱き合って過ごすのがいちばん手軽で、いちばんいい。生き残るためのそのニーズは、広範で自由な行為を忌避するモラルよりも高い優先順位を与えられたのかなって。
おかげでこの三年半、一夜のパートナーを週で三日も切らしたことはありません。本当に、私にとっては夢のような環境。
でもだからといって、私にしたって、たくさんの相手とつまみ食いのようにとっかえひっかえし続けることを求めてるわけではありません。お互いのいいところを理解して馴染んだ相手とするセックスの方が、初めての相手とのそれよりも大概は満足できるって知ってます。実際、この半年のパートナーは三人しかいませんし。
いずれはひとりに絞って、長く深く愛し合い続けられればいいのかな、とも思ったりします。もしもそれが実現できるのなら、堅苦しい日本のモラルでも非難されずにやっていけるのではないでしょうか。
ああ。なんとなく見えてきた気がします。
ゆかりんたちの披露宴で、来賓の誰かがこんなことを言ってました。
「人生は有限で、順列組み合わせでもって世界中の人間との相性を試してみたあとに一人を選ぶ、なんてことはできない。だからこそ、ただの偶然をただの偶然だと知りながらそれを運命とする心の働きに人の世の美しさがあります」
言ってることはわかります。実際、私だって世界中のひとと相性を試すことなんてできないし。でもこの言葉、結局は『出たとこ勝負』って言ってるだけですよね。
人生の重要なチェックポイントとして一夫一婦を置くのなら、その相手選びは慎重にいかなくちゃいけない。だって私が求めるセックスは、その相手としか行わなくなるのだから。生涯、とまで大袈裟では無いにしろ、それに値するくらい納得できるパートナーを掴むなら、偶然に頼り切るわけにはいきませんよね。誰もが横尾先生みたいに、たまたまいいタイミングで偶然に田中先輩みたいなひとと巡り会える、なんて幸運を持ってるわけじゃないんだから。
私のスタートアップは、やっぱりこの国のようなおおらかなところではじめるのがいいのでしょうね。可能な限り多くの有望な相手と試してみて、そのうえでお互いがベターって思える関係を選び取る。そう。プロスポーツの長期契約みたいなものですね。例えば同郷のオオタニさんの、日本の球団やアメリカのエンジェルスを経て、ドジャーズとの相思相愛の長い契約を掴んだ、みたいな。
それが実現できれば、どこに暮らすかも自ずと見えてくるんじゃないのかな。
幸いなことに私の預金はまだ少し余裕があるし、昨年夏に卒業してった先輩からから引き継いだ、不定期だけど割のいいアルバイトもあります。日本から来る個人観光客のツアーアテンド。あの仕事を年間五~六本こなせば、三十歳くらいまでこの国でやっていくこともたぶんできるはず。
お試しはひとり三カ月、平行は最大三人として、六年間だと七十二人。これくらい網を張れば、田中先輩くらいのひとともマッチングできそうですよね。
うん。なんだかイケそうな気になってきました。
五年前の秋、大学の昏い廊下のどん突きで美しい先輩からもらった解放の呪文を、今日も私は唱えます。
「私がこの先どうなろうが、それは私の勝手。回りの誰かに取る責任なんて微塵も無い」
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テーブルに置いたセルラーが通話の着信を鳴らしました。
「モイ」
「モイ、マーヤ。あと十分で下に着くよ。待ってるから、なるべく早く出ておいで」
岬のソフトウェア会社に勤めるプログラマーの彼からの呼び出しです。去年のクリスマスからつきあい始めたいちばん新しい彼。
そうだった。月曜は彼の日だった。急いで準備しなくっちゃ。
乾燥除けの乳液と口紅だけの簡単なお化粧。鏡に向かった私は、そこに映る背後の顔と目を合わせました。いつもの決め事。
化粧を済ませ、外出着に着替えた私は、壁に掛けられた無垢の少女と向かい合います。
十八歳の私。
舞い散る粉雪の煌めきに縁どられた、奇跡のような一瞬。
「行ってくるね」
大判の額縁に声を掛けた私は、真っ白なコートを羽織って部屋をあとにするのです。
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スポティファイのプレイリストはいつの間にか終わって、エアポッドからは入れた覚えの無い楽曲が流れていた。空港ロビーのベンチでうたた寝から醒めた逸郎は、慌てて荷物を確認する。なくなっているモノはない。
耳に流れるのは知らない男性ヴォーカル。でも、なぜか日本語の歌詞が心に沁みてくる。すれ違ったまま回り出したふたりの未来。いつかどこか、例えば川沿いに続く坂道とかで、被害者づらして笑い合って歩けたら。そんな詩。
浮んできたのは去年の四月に書き替えられた垢抜けたショートカットではなく、肩先に触れない黒髪ミドルボブの方。視線を向けただけでもかき消えそうな淡い幻影に、逸郎は意識の手を伸ばす。いや、伸ばそうとしてやめる。
――六年遅いよな。
逸郎は口の端だけで笑った。別に満たされていないわけじゃない。ちょっと思い出しただけ。
音楽が着信のノイズで途切れた。取り出したスマホの画面に届いたばかりのメッセージが浮かんでいる。
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やっと渋滞抜けた。空港、見えてきたよ。もうちょっとだけ待ってて♡
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今度こそ屈託の欠片も無い笑顔で、逸郎は顔をあげる。
壁一面ガラスの向こうに広がる真っ青なサンノゼの空は、雲ひとつ無かった。
(了)
 




