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駅弁大学のヰタ・セクスアリス  作者: 深海くじら
続章 物語は終わったけれど
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第156話 私だってできるんだから。

 ファインが今年に入って二回目の渡英に旅立ち、すみれの渡米準備も着々と進む二月の半ば、巷では不穏なニュースが広がりを見せていた。隣国中国の産業都市、武漢で発生したアウトブレイクと、横浜港に寄港したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の感染隔離がそれである。

 新型コロナウィルスと呼ばれることになったその感染症は、強烈な感染力と高い致死性で一部の地域で猛威を振るっていたが、グローバル化の進んだ二十一世紀の世界においてはパンデミックの恐れが大いに懸念されていた。駅弁大学のある岩手県にとってはまだまだ遠いところでの悲劇だったが、二月も終盤になると、繊細かつ敏感な一部の急進派のひとびとによる自主的な県境封鎖活動などもそこここで見られるようになってきた。


          *


「カリフォルニアは大丈夫なのかな?」


 荷造りするすみれの背中に向かって逸郎が尋ねた。もちろん、すみれが明確な答えを持っているはずがないこともわかってはいたが。


「どうなんだろうね。スタンフォードは田舎だから比較的安全だと思うけど、サンフランシスコとかLAは人の動きが激しいから、来るときは来るんじゃないかな」


 はい、この箱は終わり。そう言って次の書籍類の箱詰めに取り掛かるすみれ。さして気にする様子ではない。


「フライト、来月の二十八だったっけ」


「そ。けっこうギリギリなのよ。一日から研究室入るのに、向こうの住まいも準備しなきゃいけないから」


「もう少し余裕持っても良かったんじゃ……」


 ひとまとめに積み上げられたゴミを仕分けながら逸郎が独り言のように口にしたその言葉に、すみれは手を止めて向き直った。


「だって、できるだけ長く一緒にいたいもん」


 ソファに浅く掛けて作業する逸郎ににじり寄ったすみれは、膝に手を乗せて顔を見上げた。

 逸郎は違うの? と目で言っている。

 滑らかな手の上に自分の手を重ね、逸郎も応えた。


「そうだよな。しばらく逢えなくなっちゃうんだもんな」


 その上に預けてきたすみれの小さな頭を空いた方の手で撫でながら、逸郎は続けた。


「春休みも一緒に過ごそうな。鎌倉とか湘南とか、あちこち行かないと」


 顔を上げるすみれの口元が艶やかなピンクに染まっている。引き寄せる逸郎。こんなことばかりしているから、いつまで経ってもすみれの準備は終わらない。


          *


 二月末で材木町のアパートを引き払ったすみれは、大学でのそのあと二週間の残務処理を高松屋敷から通った。束の間の同棲生活でお互いの新たな発見をし、様々な意味で今まで以上に親密になったすみれと逸郎は、三月第四週火曜の新幹線でお互いの実家に帰った。出発は土曜日。


          *


 感染症水際対策で通常の半分の運航が間引きとなっていたが、幸いなことにすみれの乗る便は予定通りだった。閑散とする成田空港の四階ロビーで手を繋いだすみれと逸郎は、パタパタと音を立て続ける隙間だらけの表示板を揃いのマスクに覆われた顔で見上げていた。


「あと一時間か」


 絡めた指に力を込めて、逸郎が呟いた。

 前日入りした空港傍のホテルで朝食も食べずに愛し合った余韻は躰の隅々にまだ残っていたが、こうして出発案内を目の当たりにしていると心悲(うらがな)しい気分で一杯になってしまう。

 握る力だけで応えたすみれが無言で逸郎を見上げた。と、携帯の着信音。

 手を放し、互いに自分のスマートフォンを探る。アラートはすみれのスマートフォンからだった。ディスコードのアイコンをタップする。


「六週よ!」


 画面の中のファインが大声を上げた。奥で碧眼で細面の紳士が破顔している。


「涼子?」


 覗き込む逸郎。すみれは、周りを一瞥してからスマートフォンに話しかけた。


「六週って、もしかして……」


「そうよ、妊娠六週目。二度目の挑戦(トライ)で見事当てたわ。凄いでしょ。あ、こっちがデューク。例のおじさま。お腹の子の遺伝学的お父さんよ」


「Delighted Sumire! I am Duke. It's great pleasure to meet you.」


 いきなり手前に出てきたデューク氏の挨拶に狼狽えつつも、すみれも流暢な英語で答礼を返した。

 そんな挨拶はどうでもいいから、と紳士を押しのけたファインが言葉を被せてきた。


「そこは成田? すみれももうじき出発なのね。いっくん、横で泣いてる?」


「泣いてないよ。まだ一時間もあるんだから」


 すみれに顔をくっつけて参入してきた逸郎に、ファインが大笑いする。重かった空気が一気に軽くなった。


「さっき検査から帰ってきたの。私よりもデュークの喜びようが凄くって。車の中でもブラボーブラボーって五月蝿いの」


 そう言いながらもファインは嬉しそうだった。いつもの落ち着いた居ずまいとはテンションがまるで違う。空港から祝福の言葉を贈るふたりの頬も、知らずに綻んでいた。



「すみれは、これからスタンフォードに戻るのね」


 そう言ったファインの台詞に、すみれは違うと応えて逸郎の腕を引き寄せてみせた。


「行くの。戻るところはこっちだから」


「はいはい、そうなのね。あら、いっくん泣きそう」


 茶化してくるファイン相手に、逸郎は反論できずにいる。



「日本に戻るのは五月末くらいになりそう。安定期は十二週からって言うから。四月からの前期は休学になるかな。とりあえず、私からの報告事項はこんなとこ。すみれも、向こうのお仕事楽しんできてね」


 またね、とだけ言って手を振ると、ファインはこちらの返事も待たずに通話を落とした。


          *


「じゃ、行ってくるね」


 絡めていた指を解いて、すみれは足下のキャリーバッグを掴んだ。

 マスクを外し、顎を上げて軽く目を閉じるすみれに顔を寄せ、逸郎は押し当てるだけのキスをした。だが放そうとした逸郎の頭をすみれの手が押し留める。こじ開けて、舌が絡まってきた。逸郎もすみれの背中に腕を回した。


「私だってできるんだから」


 それだけ言うとすみれは身を翻し搭乗ゲートに向かって足を踏み出す。

 ゲート直前で振り返ったすみれは、真っ赤になった顔のまま大声で、最後の呪いをかけた。


「ちゃんとひとりで待ってるのよ!」

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