第146話 俺たちはもう充分に思い知った。
永遠のような数分間ののち、逸郎は唇を離した。ふたつの身体を繋ぎ留める四本の蔦は、未だ絡み合ったまま。
「狡い」
ゼロ距離の唇が、小さく呻く。
「こんなことされたら私、もうイツローを断ち切れない。そのために三週間も掛けたのに」
それには応えず、逸郎は想いだけを言葉にする。
「俺たちはもう充分に思い知った。これ以上の御託はもはや必要ないんだ。大丈夫。俺たちはまた、始められる」
背中に回していた手を肩に移して逸郎の体を押し戻したすみれは、一歩下がってから弱々しく応えた。
「そんなこと言ったって、私はもう決めちゃったのよ、アメリカに行くって。早ければ来年の春に」
「そんなの構わない。すみれは自分のやりたいことをやればいい。俺は俺で、ここでの残りの二年半を有効に使って何者かになる。そして、すみれと並んで歩けるようにする」
離れてたって、今はインターネットだってあるしね、と逸郎は続けた。
「あんな隠し事し放題のシステムで、あなたが嘘吐かないって保証は?」
「もう二度と、すみれには嘘や隠し事はしない。空手形なのは百も承知だけど、次にそれをやってしまったら、もう俺じゃなくなる。そして、俺は俺じゃなくなりたくない」
「それ、本当に信じていいの? もしも裏切られたら、今度こそ私、壊れるよ」
「俺が俺じゃなくなること以上に、俺はすみれに壊れて欲しくない」
「その約束、重いわよ。三時間待ちぼうけさせるのとはわけが違うんだからね」
すみれもあの日を思い出してくれていた。逸郎はその一点だけでも、踏み出したことに満足ができた。
「そのつもりで言ってる。軽い言葉だけど、俺を信じて」
疑念と保証の応酬に無言で区切りをつけたすみれは、ゆっくりと歩を進め、展望台の手摺に近寄る。と、縁から下界を見下ろしたすみれが、弾んだ声で逸郎の名を呼んだ。
「見て、イツロー。霧が晴れたわ」
逸郎もすみれの横に並ぶ。
眼下の全てを覆い隠していた雲の海はすっかり晴れ、いつの間にか、赤や白や黄色の光を散りばめた杜陸の街の夜景が蘇っていた。世界の再生。
――小さな街だ。
逸郎はそう思った。自分が育った横浜の夜景とは較ぶべくもない。日付も代わった深夜の所為なのか、灯り全体もまばらで弱い。それでも、美しかった。
取り囲む山々の黒い闇の中で、孤島のように浮かび上がる人々の営み。その中に自分の居場所はある。すみれも、弥生も、涼子も、ゆかりんも、シンスケも。いや、それだけじゃない。店長さん夫婦もナイル先輩も鵜沼会長も、あの槍須だって、間違いなくその中にいる。小さいけれど、様々な思惑や生き様がそこに渦巻き、駅弁大学という特異点を裡に抱えて秩序と混沌とを同時に包み込んでいる限定的な生活圏。
――きっと将来、俺はこの街のことを故郷のように憶い出すのだろう。
手摺に乗せた逸郎の冷たい手に、同じくらい冷たいものが乗った。接触したところからじんわりと熱が熾ってきているのを、ふたりは同時に感じていた。
*
「明後日。ううん、日付で云ったらもう明日かな。午後からあとの時間を空けといて。心が残ると困るからスルーするつもりだったけど、やっぱりちゃんと準備する。そうね。三時に珈琲館にしましょ。うちの近くにある光源舎の奥の喫茶室。他の人との用事は、それまでに全部済ませといてね。涼子にも言っとくから」
ヘルメットを被り終えたすみれは、そう言ってからVストロームのエンジンに火を入れた。
「今日は寒いとこに連れてきてごめんね。帰ったらあったかくしてゆっくり休んで。私もそうするから。風邪とか引いちゃ駄目よ。日曜の午後を万全の体調で迎えるように。これ、絶対だからね」
Catch You Later.
そう言い残してすみれは走り去っていった。
「おまえはロイ・シャイダーか」
闇に流れるテールランプを見送りながら、逸郎は今夜の流れを思い返していた。
――結局なんだかわからないまま有耶無耶になったけど、少なくとも断頭台の上にあった首の皮は繋がったらしい。明後日(日付では明日? ややこしい)には逢ってもらえるようだし、ひとまずは良しとしよう。
そう納得した逸郎は、ゆっくりと帰り支度をする。
すみれから厳命されているのだ。少なくとも十分は待ってからここを発つように、と。
「下りは恐いからあんまりスピード出せないの。ひとりで先に帰るけど、万が一にも追いついたりはしないでね」
そう宣言されたのでは、こちらも従うしかない。屈伸やら後屈やらで身体を動かして気持ち温めてから、逸郎もサベージのイグニッションを回す。
どうやらすみれは、途中で事故ることもなく無事下りきったようだ。
――そう言えば、こんどの日曜日ってなんかあったっけ? てか、なぜに涼子?
ヘッドライトの光だけが頼りの下りコーナーを、そんなことを考えながら走っていた。
右折してバイパスに乗ったところで、逸郎はようやく気がついた。
「十月二十日って、俺の誕生日じゃん」




