第142話 あと片付けは何時に終わるの?
不来方祭明けの金曜日の夜、逸郎の姿はひさしぶりにバーカウンターの内側にあった。
「今日入ってくれなかったらもう辞めてもらおうかって思うくらい、今週は忙しかったよ」
店長が軽口をぶつけてくる。だが店裏に積まれた生ビールの樽と空きボトルの数で、それが単なる冗談でないことくらいは逸郎にもわかっていた。そして週末の今夜も当然のように賑わっている。十八時からのシフトで、逸郎はわき目も振らず働いた。身体を動かし続けていれば鬱屈する想いも頭から締め出せる。
*
閉店の十五分前、残りの客もテーブル席二組のみとなった店に真っ黒なライダーズスーツの来訪者があった。すみれだ。
帰りそびれている客たちの視線を一身に浴びながら、すみれは真っ直ぐカウンターに向かい、いつものように左端のスツールに腰掛けた。隣の席にヘルメットを置くと、すみれは店長に話しかける。
「ご無沙汰してます。今日はバイクなのでアルコールは無しなんですが、いいですか?」
「もちろん。コーヒーでも淹れさせようかな?」
いただきます、というすみれの答えに店長は満足げな表情を浮かべ、背後に立つ逸郎に目で合図をした。
二十日ぶりの再会での緊張を隠し切れない逸郎は、ドリップに注ぐ手の震えを押さえるのに苦労していた。店長は立ち位置を変え、離れたところでグラス拭きを再開する。
「上手く淹れられた自信は無いけど、これは俺のおごりだから」
そう言って、逸郎はすみれの前にソーサーとカップ置いた。
「ありがと」
すみれがカップを両手で包み込むように持って、自分の淹れたコーヒーをゆっくりと飲む。カウンターの内側で、逸郎は得も言われぬ満足を感じていた。三週間求め続けてきたこの瞬間が永遠に続けばいいのに。逸郎は心底そう思った。
すみれは何も喋らず、逸郎に視線を合わせることも無く、ただ時間をかけてコーヒーを味わっていた。
フロアを回る店長の閉店コールに促されたテーブルの客たちが会計を済ませ帰っていく中、カウンターのすみれは微動だにせずそこに居続けている。
「お勘定はここでもいいよね」
「今日は結構です。チャージとかも俺が持つから」
すみれの問いかけに逸郎は答えた。
そう、と言って、すみれはヘルメットに手を乗せた。
「あと片付けは何時に終わるの?」
すみれの質問を、後ろから店長の奥さんが引き取った。
「いっちゃんは今日はもう上がりでいいわよ。概ね終わってるから、あとはこっちでやれるし。せっかくすみれちゃんがこの時間に来てくれてるのに、閉店作業するなんて言ってたら私が許さない」
笑顔の奥さんに、すみれが申し訳なさげな顔で応じた。
「ほら。いっちゃんも早く帰り支度して。うちの一番のお客さんをお待たせしたら、プンプンだからね」
*
店の外に踏み出した逸郎は、思わず身震いをした。深夜の外気は、南関東で言えば冬の冷え込みだった。先に出たすみれは既にVストロームに跨っている。
出たらついてきて。
カウンターから立ち上がるときに、すみれはそう言い残していた。
店の横に停めておいたサベージを引き出した逸郎は、急いで暖気をはじめた。ブルゾンを首まで閉めてヘルメットを被る。逸郎の準備が整ったのと同時に、すみれのバイクが動き始めた。
川沿いをしばらく走ったVストロームは大きな交差点で橋を横目に左に折れ、市街を迂回するパイパスに乗って北上する。その先二つ目の交差点で右折、さらにその先のY字路で街灯の無い上り坂の方に入っていった。
「岩山か」
先行のテールランプを見つめながら、逸郎は呟いた。この先には市街を見下ろす展望台がある。岩山展望台。市街地との標高差は約二百二十メートル。そこからの夜景だと、四方を暗黒の山に囲まれた杜陸の市街が洋上に浮かぶ海上都市に見紛う。
道幅が狭く、途中つづれ織りのコーナーも挟むこの道を真っ暗ななか先頭で走るのはかなりしんどいはずだが、すみれはさほどスピードを落とすこともなくテンポよく上っていく。
随分と乗れてきてるな、と逸郎は舌を巻いた。
――夏にここを上ったときとは段違いだ。この感じだと夜のルートも単独で走り込んでいそう。
霧でぼやけた赤い光が、少しずつ遠くなっていく。
逸郎が頂上の駐車場に辿りついたときには、先に着いたすみれはバイクから降りるところだった。




