第133話 生きてくのって、哀しいね。
秋の風がほんの少しだけ肌に刺さって気持ちいい。たぶん、今までで一番良い季節。
杜陸に来て半年。大きな川のある、四方を山に囲まれたこの小さな街は、時間とモノの流れのテンポが私にちょうどいい。ちゃんとした都市なのに新しいものと旧いものが地続きで混在してて、今のように川沿いの散歩道をゆっくり歩いていたりすると、つい思索的な気分になってしまう。
「ごめんね。ブリュービーグルってオープンしたてでUberはまだ扱ってないらしくて。せっかくすみれとおうちデート満喫しようと思ってたのに」
「涼子の所為じゃないよ。今日は気持ちいい天気だし、むしろ午前中うちに籠ってたのがもったいなかったくらい。それに、歩いて汗かいた方がアセトアルデヒドも抜けるしね」
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涼子が検索で探し出した良さげなハンバーガーショップ『BrewBeegle』は、私の家から歩いて十分ほどの河畔緑地内に新しくできたお店らしい。メインは花巻で醸造されてる地ビールのようなのだが、北上川を背景にしたオープンデッキで供されるボリューミーな本格ハンバーガーの画像を見てたら、無性に食べたくなってしまった。
ワイドパンツにGジャンの涼子に合わせて、私もロンTとサルエルパンツに裸足でスニーカーというゆるい組み合わせに着替え、材木町の通りに出た。石でできた路傍のふくろうが大きな目を開いてこちらを見てる。私の大好きな温故知新の街並みをゆるりと抜けて橋を渡ったら、川沿いのお店はもうすぐのはず。
橋の袂から緑地に降りた私たちは、背の高いススキの間に伸びた遊歩道をゆっくりと歩く。とくに話すことは無く、ただ同じ時間、同じ空間、同じ運動を共にする遊星のように。
私は、午前中に語りあっていたこれまでの逸話をひとつずつ反芻しながら、頭の中で整理していた。それぞれが点だったり線分だったりするイベントやエピソードも、こうやって順番に全部並べ直してみるとお互いの繋がりや因果が影響し合っていて、傍目には避けられそうに見える物事が回避不能の必然となっていたりするのが解かる。
イツローの裏切りにしたって、弥生との行為を求める不埒から来たものなんかで無いことははっきりしてるし、弥生の夏祭りでの自らを毀損した行為にしても同じ。
ひとつひとつの行動に大きな間違いは無いし、別の何かにそんな形で影響を与えるなんて想像もしていない。なのに気がついたら、もう逆戻りできず、どうにも変えようがないところに行き着いてしまう。まるで切替の無い線路のように。出来るのは、ただ口をつぐんで見なかったことにするだけ。
今、涼子と並んで歩いている視界の両側が塞がれたこの一本道も、等速直線運動を続けてる間は平和で安定した閉じた世界でいられる。でも、道が分かれたり、横から何か(猪とか)が飛び出してきたり、壁にぶつかって行き止まりになったりする未来だって、同じように起こり得るのだ。
ススキが途切れると、鉄骨で組みあがった新しい建物が突然の如く現れた。
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思いのほか大きなハンバーガーとパイントジョッキの地ビールを前に、私の食欲はいい感じに湧いてきた。うん。食べられそう。睡眠導入剤の影響が抜けてひさびさの固形料理を前にした涼子も、その感覚は同じみたい。
ふたりとも、巨大な塊をどうやって服を汚さずに攻略するかに集中して、僅かにやりとりした会話は、感嘆符の付いた短いセンテンスのものばかりだった。
お互いに大物を平らげて、食事のエンタメ感もようやく落ち着いた。ぼうっとしながらフライドポテトをつまんでいると、皿を下げに行った涼子が琥珀色のジョッキを両手に戻ってきた。爽やかな午後の迎え酒。
二杯目のビール味わいながら、私はひとり語りのようにぽつりと呟く。
「生きてくのって、哀しいね」
涼子は不思議な顔もせず、ただ無言で頷く。彼女のことだから、そこに至る私の思考の流れをほぼ正確に追尾してくれているのだろう。
陽射しはまだ高い。が、頭上を飛び交う蜻蛉は、秋の深まりを予感させていた。もうじき季節が変わる。私が経験したことの無い、深い冬に。
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「で、すみれはどうしたいの?」
来るときよりさらにゆっくりした歩調でススキの道を戻りながら、涼子が聞いてきた。
駒の配置は把握できたが、そこから先の数手を未だ読み切れていない私は、考えながら慎重に言葉を紡ぐ。これから発する自分の言葉に自分自身が影響されてしまうことがわかっていたから。
「わからない。イツローが、私のことを一番に考えてくれてることは信じていいって思ってる。でも、嘘を吐かれたことは許せない。ううん、そうじゃない。許しちゃいけないって思ってる。これは絶対に有耶無耶にしてはいけないところ」
ああ、これは私の議長の宣言だ。
「話し合うのが正しい、とも思ってない。だって彼がそうしたことは、初手での多少の瑕疵はあったとしても、結局のところ必然だったってわかってるから。下手な話し合いなんてしても、悪くなることはあっても今の認識より良くなることなんて、無い。それくらい私は、イツローの私を大事にしたいと思う気持ちを信頼してる」
「でも、前と同じようにはいかない」
涼子の投げる合いの手は、まるで鏡のようだ。
「そう。そうなっちゃう。私ね、ホントは全部赦したいと思ってる。少なくとも、そう思ってる自分が、けっこう強くいるの。私の中には、たぶん三人くらい私がいて、普段は統合されてるんだけど、大事なことを決めるときには三人がバラバラに独立して、合議するイメージ。論理的な私、倫理的な私、奔放で創造的な私」
「マギシステムね」
「そうね。あんな感じ。まぁ、どの私も決して賢人ではないけれど」
「その脳内会議はどんな結論を出すのかしら」
「今はまだわからない。なんだかんだ自分たちで考えても、最後の結論は、やっぱり逢って、そのやりとりの中で決めることになるんだろうな、って思う」
「そうね。いっくんにだって、行く末に物申す権利はあるよね。ふたりの話なんだから」
 




