第132話 奥さん、米屋です。
「おはようございま~す。奥さん、米屋ですよ~」
玄関の方からなんか声がする。寝惚けてるのと頭が痛いのとで、誰の声だかもわからない。鍵は確か掛けてたはずなんだけど。
人の気配が近づいてきてる。かぶっていた布団が剥がされた。目を閉じているのに白い光が眩しい。
「おはよ。ちゃんと生きてるね。えらいえらい」
薄目を開ける。ぼやけてるけど誰だかはわかってる。
「りょーこ?」
「そうよ。安楽椅子探偵の涼子ちゃんがヘルメット一個届けるために、わざわざおうちから出て訪ねてきたのよ」
霞のかかった視界の中心で、両手を腰に添えた涼子が部屋の中を見回している。なんかあったっけ? あ、そうか。昨夜はワイン飲んでたんだ。帰り途のコンビニで赤と白二本ずつ、それもスクリューキャップの安い奴。つまみもいっぱい買った。袋開ければすぐ食べられるものばっかり。とにかく、氷だの割ものだのの手間をかけず、ただただ酔っぱらうためだけに。あ、涼子が床に転がってる空ボトルを片付けてる。私がやらなきゃ。
「起きなくていいからね、すみれ。横にお水置いといたから、必要ならそれ飲んで」
お水? 飲みたい。
背中を上にずらすようにして頭を上げ、枕に肘を掛けて身を起こす。頭が痛い。気持ち悪い。
封切りまでしてあるキャップを震える手で開け、ペットボトルを口に当てる。冷たい。顎に伝った水がTシャツを濡らした。
「これ全部、昨夜飲んだの? 二本半は空いてるわよ」
「ん。アタマいたい」
「もうちょっとゆっくりしてて。コーヒー勝手に淹れるけど、飲む?」
「のむ」
涼子がキッチンに消えた。場所、わかるかしら。ま、いっか。任せとけば。
私はもう一度、目をつぶる。
「イツローが頼んだの?」
グラスが汗を掻いてる。わざわざつくってくれたからひと口飲んだけど、こういうときはアイスも美味しいのね。甘いのも、これはこれでいいかも。
「まさか! あの優しいだけのお莫迦さんはそんな風にはアタマ廻らないよ。昨夜だって、体調が悪いんなら俺が見にいってやらなきゃって言いだしたから、私が止めたの。鍵寄こせってね」
どこから見つけてきたのか、ストローを挿してアイスコーヒーを飲んでる涼子が、ひと呼吸おいてそう答えた。
「そんなに簡単に貸しちゃったの? あのひと」
「あの莫迦ちん、すみれのことは愛してるけど、私には無条件の信頼を置いてるから」
「こわ……」
んふん、と涼子は笑った。
ソファに座って組んでる脚がとても綺麗。私はその正面で、絨毯に直に座ってる。腰を上げなくていいからその方が楽。
「そうそう。片付けしてるときこれ見つけて、ウケちゃった」
涼子が笑いながらブーメランのように投げた紙片は、昨夜の私がボールペンでぐりぐりにした奥入瀬での写真だった。恥ずかしさに顔から火が出て、思わず写真をお尻の下に隠してしまう。
そうやって焦りまくってる私の耳に、涼子の声がすぅっと入ってきた。
「えらかったね、すみれ」
見たことも無いくらい優しい顔で、涼子が私を見つめている。
「誰にもぶつけず、不幸の電話もかけず、そして自分も傷つけないで、ひとりで頑張って夜を越えたのね」
突然、喫茶店での衝撃が蘇った。波のように繰り返し襲い掛かる理不尽な告白の記憶に翻弄されながら、私は堪えてる。全身ががたがたと震えている。涼子がソファから立ち上がって近付いてきた。
留め切れずに込み上がってきた何かが溢れ、私の頬にひと筋の道ができた。
私の横に膝をついた涼子は、私を見下ろしながら両腕を開いて赦しの言葉をくれた。
「もう我慢しなくていいんだよ」
そうなんだ。私は怒りたかったんじゃなくて、ただ哀しかったんだ。思い切り、心の底から哀しみを吐き出したかったんだ。
涼子の胸の中で、彼女の両手に包まれて、私は慟哭した。
ひとしきり泣いてから、私は涼子に、前に十和田湖でイツローにしたようにすべてを話した。
少女の頃の初恋を、杜陸に来た理由を、変わってしまった工藤善全のことを。そして、イツローとの出会いと友好と愛の日々のことも、まるで墓碑に来歴を彫り込むるように。
最後に、弥生から聞かされたイツローの裏切りを添えた。
そのあと涼子が、四月から六月までの私が知らない三カ月のことを話してくれた。
イツローと弥生がどのようにして出会い、どのように接近し、災厄の日の直前にお互いをどう想い合っていたのか。そこから私と会うまでの一カ月半、イツローが何を考え、どう日々を過ごしていたのか。
あくまでも私が知ってる限りだけど、という前置きとは裏腹に、涼子の語りは細心を極めていた。イツローはもとより、弥生の心の機微までも、本人でさえここまでは分析できてないんじゃないかと思えるくらい。
涼子のイツロー語りを聞きながら、私は涼子自身のことも考えていた。
アロマンティック・アセクシュアル。恋愛感情が欠落してるというけれど、このひとはこんなにも深く、論理的に他人のことを見ている。
ドットで再現されたデジタル画像はその解像度を上げることによって元の絵と見紛うほどに再現される。それと同じで、天津原涼子ファインモーションという演算素子が、観測した対象を限界まで微分して論理的に組み上げれば、そこには感情の機微さえもシミュレートされた精細なモデルが再現される。
恋愛感情という機能を初めから喪っていた涼子は、そのために空いていたリソースの多くを割いて、詳細な観測眼と論理演算というスキルを磨いたのではないか。欠損者である己を社会に有用と認めさせるために。
私は涼子に感動していた。
*
「お腹がすいたわね。何か頼まない? すみれの食べれそうなものならなんでもいいから」
気がつけば、もう正午を過ぎていた。私の宿酔はまだ残ってるけど、食べられないほどじゃない。
「美味しいハンバーガーが食べたい」
私は思わず、そう口に出していた。
「いいわね。出前頼んじゃいましょ」
涼子は明るく応え、スマートフォンでお店を探し始めてくれた。




