第131話 はい!
最初のひとことを口にしたら、もう止まらなくなってしまった。
私はまるで操られるように、秘め続けなければいけないはずの私とイツローさんの物語を吐き出し続けたのです。聞かされるひとの平らかだった幸せの日々を根底から壊してしまうことはわかっていたのに。
先生は言葉を失い、その身を震わせていました。私は、私がただ満足するだけのために、私を助けてくれた恩人を深く傷付けてしまったのです。
でも、もう遅い。すべてはもう、白日に曝されてしまった。私の手によって。
「なぜ。なぜ今そんな話をするの!? イツローの、私のイツローのそんな話を!!」
先生はこぶしをテーブルに叩きつけました。倒れた先生のカップから半分以上残っていたカプチーノが川になって流れ、テーブルの端から滝となりました。その落水は、すぐに枯れてしまったけれど。
白い泡で縁取られた茶色の川が水源を失って涸れていくのを目で追いながら、私はこっそり頷きました。私だってわかってるんです。このことが本当は黙ってなきゃいけない秘め事だってことくらい。
「私、あのときイツローさんに言ったんです。今夜のことは夢だから、実際には何もなかったことだからって。あのときは、そう思えるって疑ってなかった。イツローさんの恋人に悪いだなんて、考えもしなかった。夢の中でちょっと借りただけ。そんな気持ちだったの」
莫迦な私が亀の歩みで考えた私の思ったことを頭に渦巻く霧の中から掻き集め、なんとかしてこのひとに伝えたい。
「でもゆかりんと一緒に研究室に行ったあの日、眼鏡を外して笑った先生と、映画館通りのコンビニの前で笑いながらイツローさんとアイスを分け合ってたポニーテールさんが重なったとき、私の中にあった黒い箱の鍵が開いちゃったんです。私は人としてやってはいけないことをしたのではないか、って疑惑の」
もどかしい。拙い私の言葉は、私の思いの半分も伝えられていない。
「もちろん、私のもののはずだったのにっていう口惜しさだって、今でも発作のように浮かび上がってくることはあります。でもやっぱり一番大きいのは、あの夏の夜私が望み、彼に応えさせたことが過ちだったっていう悔恨なんです。私、他人のものをその人が見てないところで黙って借りるのが泥棒と同じことなんだって、今頃になってやっと気づいたんです」
わかった!
私は、自らが発火点となったあの過ちの記憶に押しつぶされそうになっている。だから私は、告解することで魂の赦しを求めているんだ。カウンセラーや牧師や大きな穴なんかじゃなく、全てを自分のこととして理解し共有してくれてるこのひとに。
「私は、この過ちを胸に秘めたままで次には進めない。すみれさん。本当に、本当にごめんなさい。悪いのは全部私、この汚い泥棒猫の私です。イツローさんはなんにも悪くない。ただ、優しかっただけ」
演技などでない、心から突き動かされた衝動で、私はテーブルに額を押し付けていました。
何分経ったのでしょう。耳にお店のBGMが戻ってきました。先生が深呼吸する気配が伝わってきます。
「顔をあげなさい」
抑揚に乏しい先生の声が聞こえ、私は恐る恐る顔を上げました。いつの間に片付けられたのか、倒れたカップは無くなって、乾いた川も拭き取られています。
「お話はわかりました。いいえ。わかったような気がします。要するにイツローは私に、横浜にいると嘘のメッセージを送りながら、実は予定より二日も前に杜陸に戻ってきていたってことなのね。あなたと一緒に。そして、私が学会の準備で忙殺されたりバーでナンパされてお持ち帰りされそうになっていた頃、彼はあなたとふたりきりでよろしくやっていた、ってことね。その上、ご丁寧にもわざわざ一関に戻るなんて小細工までして」
先生がどんどん冷静さを失ってきているのは、鈍感な私でさえわかります。
「なんなのよ! これじゃ工藤とおんなじじゃないの。疑いもしなかった間抜けな私を嘲笑って、別の女と関係を持っているなんて」
「違います。イツローさんは嘲笑ってなんかいません! ずっとあなたのことを守ろうと……」
「うるさーいっ! イツローさんって呼ぶな!」
立ち上がって腕を降り上げた先生を、店内にいる人全員が注視しています。
先生は空気が抜けたように手をおろすと、バッグから財布を出して千円札を二枚、テーブルに置きました。
「私、帰るわ。ここのお代はこっから払っといて。おつりは取っといていいから」
ふらつきながら歩き出した先生は、無言の私の横を通り過ぎてから、振り返りました。
「中嶋さん。これだけは必ず守って。今日はもう、まっすぐに舘坂に戻ること。明日には由香里さんが訪ねてくるだろうから、彼女の言うことをちゃんと聞いて。そして全部リセットして、月曜からは真っ当に生きなさい。そのためにみんながあなたを助け、私があなたの最後の懺悔をこの耳で受け止めたんだから。約束よ」
恐ろしいほどの厳しい目で、横尾先生は私を射抜いていた。縫い留められた視線を離すこともできずただ固まっている私に先生は、返事は、と念押ししてきました。
先生の言う通りです。私の今日までの荷物はもうすっかり降ろされて、本来あるべきところに収まったのです。
もう私は独りで踏み出せる。いや、踏み出さなきゃいけない。私を救ってくれた人たちのためにも。今、ここで新たに背負った荷物のためにも。
先生は私のこの決意をわかってくれるだろうか。
万感の想いを込めて、私は返事をしました。
「はい!」




