第130話 私は今、どんな顔をしているのだろう。
弥生さんに向かって留学を勧めながら、私は昨夜届いていたメールのことを考えていた。それは母校、スタンフォード大学の恩師からで、新学期を迎えての時候の挨拶的なものだった。が、文末に添えられた一行がずっと気になっていたのだ。
If Sumire comes back, always have a cool post.
(もしすみれが戻ってくるのなら、いつでもイカしたポストを用意するから。)
白状すると、駅弁大学での今の仕事は私にとって満足できるものではない。収入はもちろんだけど、それ以上に研究施設の質が低過ぎる。扱えるデータも少なく、専門データベースに関しても、そもそもアカウントすら持ってなかったりするのだ。先日サポートとして参加した日本心理学会でも、取り立てて目を見張るような発表は無かった。
もともとが工藤善全の妻の座をピンポイントで狙っての杜陸入りだったから、給料や研究レベルなど二の次なことははじめからわかっていた。だからその当初の目的が就任ひと月で御破算になった身としては、学究の徒としての存在意義も既に皆無と言っても言い過ぎじゃない。むしろこの二週間の弥生さん社会復帰ミッションの方が余程意義があったと言えるくらい。
しかしそれも完遂してしまった今となっては、この大学に居残る理由は最早ひとつしか残されていないことが自分でもよくわかってる。
イツロー。
彼とともに在ることで得られる何物にも代えがたい充足感こそが、今の私の原動力のほぼすべてだ。
でも、それでいいんだろうか?
私はさっき、この子に言った。『まだ何者にもなってない、未来だけの男』と。そんな彼に、十年かけてつくりあげた私という現象の未来すべてを背負わせていいのだろうか。そしてそれは本当に彼のためになるのだろうか。
私自身、私のために高額の教育費を投資してくれた両親への恩返しも、まだできていない。
「もっと別の、胸張って言えるあなただけの得意技を育てるためにリスタートして欲しい」
なにを偉そうに私は言っているのだろうか。私が十年かけて磨いた、でもまだ未完成のキャリアは、この半年の間いったい何をやっていたの?
自分の脳内世界のループに嵌っていた私は、しかし弥生さんの言葉で一気に覚醒した。
「私、田中逸郎さんが好きだったんです」
はぁ? この子はいったい何を言ってるの?
「GWの合宿で、私、イツローさんから告白されたんです。次のコンパでそれをお受けするつもりでした。でもそのコンパで、私は槍須さんに持ち帰られてしまった。そこからすべてがひっくり返ってしまいました」
え? え? なに? 私は今、なにを聞かされているの?
「槍須さんのところから逃げてきた後も、彼はゆかりんと連携して私のことを気にかけてくれてました。そしてさんさ祭の最初の日、私は見てしまったんです。イツローさんとポニーテールさんが一緒にいるのを」
さんさ祭の初日。憶えてる。イツローと初めて喧嘩して、そのあとにイツローの秘密を聞いた夜の翌日。そんなことがあった次の日だったから、誘いの電話を貰ってものすごく嬉しかった。あの日?
「それを見て私、また壊れちゃった。地元でゆっくりしたら良くなるかなって思ったんだけど、今度は昔の同級生に動画出演がバレちゃって。勢いだけでなんにも持たずに家出してたら、イツローさんがオートバイで迎えに来てくれたんです。水沢まで」
え?! いつ? いつの話なの?
「そのあと二日、私、イツローさんの部屋に置いてもらいました。彼はとても優しくしてくれました。ひとりにするとどうなるかわからないからって、ずーっと一緒いてくれたんです」
私の頭の中はもう真っ白で、八月のカレンダーだけがぐるぐると廻っている。
「彼女がいるっていうのは聞かされていました。だから、私を置いてもらえる場所は無いってこともわかってた。でも、本来の杜陸に帰ってくる予定日までの間だけでいいから、私を愛してもらえるようお願いしました。最後の夜、彼は私に力をくれた。そのときの幸せがあるから私は立ち上がれたんです」
力をくれた? なにそれ、寝たってこと? 私じゃないこの子と、イツローはセックスしたってことなの? 私がいるのに?!!
「この話は誰にも言ってません。ずーっと黙って、私の胸の中だけに留めておくつもりでした」
じゃあ! じゃあなんで言うのよ?! イツローはそんなこと、これっぽっちも見せなかった。私に一切を気づかせなかったのに。今ここで聞かなければ、あなたが言わなければ、そんなこと無かったままでいられたのに。
「でも、ポニーテールさんに遭ってしまったんです。私が憧れて、尊敬してしまった先生のはずだったのに」
そこまで言って、弥生さんは嗚咽を漏らした。でも、泣きたいのは私の方。
「本当にごめんなさい。こんなこと、先生に言っていいことじゃないことくらいわかってます。でも、駄目。このことをポニーテールさんに話さずには、私は次に進めない!」
私は今、どんな顔をしているのだろう。




