第126話 合鍵を貸して。
午後六時を回ったが、すみれからの連絡は戻ってこなかった。
ファインへのミッション達成報告もひと通り終え、持ち寄った軽食もすみれ用に取り分けたものを除けばほぼ無くなったところで、逸郎はすみれに電話をしてみた。だが、呼び出し音だけで応答する様子はない。
「っかしいなぁ。もう説明は終わってると思うんだけどな」
四本目のハイネケンを空にしたシンスケが、誰にともなくつぶやいた。
たしかにおかしい。そう逸郎も思ったところで、グループLINEにメッセージが届いた。全員が各々のスマートフォンを開く。みんな気にしているのだ。
Violet
「ごめんなさい。ちょっと体調を崩したので家に帰ってます。今日明日はゆっくり休もうと思いますので、打ち上げは皆さんで楽しんで。
--すみれ@もう若くはない」
18:17
Violet
「追伸
弥生さんも舘坂に帰ると言ってました。」
18:18
「やっぱ疲れが溜まってたのかな」
シンスケの所感にファインも応える。
「そうね。一昨日の夜も動画作るのに明け方までかかっちゃったし。ほら、私は本番ではぐっすり眠ってただけだけど、すみれは証拠集めに動き回ってたっていうしね」
「いずれにしろ、ふたりとも無事に家に帰ったというのであれば、まずは安心ということでしょう。お、疲、れ、様、ゆ、っ、く、り、お、や、す、み、く、だ、さ、い、っと」
由香里が話しながら返信を打った。シンスケは帰り支度を始めている。キッチンでグラスを洗う逸郎が、カウンター越しにファインに声を掛けた。
「涼子は本当にもう大丈夫なのか? 今日明日は休日だから病院はちょっとアレだけど、月曜日も悪いようだったら付き添うぞ」
「ん。ありがと。でももうほぼほぼ復活してる。明日休めば月曜からは通常営業できるよ。ちゃんと入金してるかどうかも確認しなきゃいけないしね」
「確かに」
ショルダーバッグをタスキに掛けたシンスケが言葉を引き取った。隣でディパックを背負った由香里がそれに応じる。
「あたしが責任もってまーやに口座確認させますから」
「お願いね。ゆかりんちゃん。あ、それと印鑑登録も一緒に頼んじゃっていいかしら。委任状もそうだけど、実印は今後絶対に必要になるはずだから。で、登録済んだらくれぐれも無くさないようにって念押ししといてね。命の次に大事って」
そう言って、ファインは由香里に印鑑袋を手渡した。
「中身確認させていただきます」
「えらいわね、ゆかりんちゃん。その習慣、とってもいいよ」
取り出した桐の印鑑は実印にしてはやや小振りで、『弥生』とだけ彫ってあった。
「高価いのは象牙なんだけど、ワシントン条約的にはアウトだからこっちにしといたの」
あたしもそのうち作んなきゃと言いつつ、由香梨は印鑑を丁寧に元に戻し、自分のデイパックに仕舞った。
*
「「お邪魔しました~」」
元気な声のユニゾンとともに、由香里とシンスケは連れ立って帰っていった。
「あのふたり、真っ直ぐ帰るのかしら?」
「どうかな。まぁ、寮生と自宅生だし、市内だと外れまで行かないとラブホ無いから足無いと不便だし、案外真っ直ぐ帰るんじゃね?」
「いっくんはそんなこと考えてるの? いやらしい」
「え!? 話振ってきてそれかよ」
呵々と笑ってソファに身体を預けたファインは、逸郎に顔を向けた。
「で、いっくんはどうするの?」
「ん。ちょっとすみれのとこに行ってこようかと思ってる。心配だし、もともとその予定ではあったし」
「今夜はやめときなさい」
予想外の強い制止に驚いた逸朗が振り向くと、ファインは真顔だった。その瞳には、問いかけを拒絶する力がこもっている。
「冷静に考えてみて。作戦中まで体調不良の素振りのなかったすみれが、夕方になって急にそう申告してきたのよ。聞くけど、昼間一緒にいてなにか不自然さを感じた?」
「いや。まったくいつも通り」
「でしょ。ということは、作戦終了の午後一時四十分からさっきのメッセージまでの四時間半の間に、不調となる原因があったってこと。そしてその間あった、こちらでわかってることと云えば?」
「……弥生との面談」
「もうわかるよね。そして、そこにいっくんがしゃしゃり出てったら、場合によっては火に油を注ぐことにもなりかねないってことも。いっくんも胸に覚え、あるんじゃない?」
炸裂するファインの千里眼を目の当たりにした逸郎は、直面したくない想像を頭に描き言葉を失っている。
「合鍵を貸して」
ファインは逸郎の目の前に手を差し出した。
自動機械と化した逸郎は、キーホルダーからすみれの部屋の鍵を外して、その掌の上に置く。
「明日の朝、私が行ってくる」




