第120話 ワトソンと小林少年
「あんな計画で本当に大丈夫なんでしょうか」
運転席の坂本さんがあんぱんを齧りながらくぐもった声でそう聞いてきたけど、そんなの私にだってわからない。
「あのビデオは横尾さんも一緒につくられたんでしょ?」
「それはそうだけど、そんなこと言ったら坂本さんだってノリノリでリハーサルやってたじゃないですか。ここで委託状と委任状を提示するから十秒間インターバルください、とかアイデア出してきたり」
そりゃ、このような格好の良い役は初めてですから……と語尾が下がる坂本さん。熊みたいな人がこんな風に照れてるのを見ると、妙に可愛い。
*
涼子とイツローが部屋に入ってから一時間。追い出されたり騒ぎになったりしてないから、潜入自体は上手くいってるみたい。
持ち込みのスーツケースに隠したスマートフォンが走らせてるZOOMの音声で、槍須さんが真面目に涼子の持ち込んだ偽番組の動画をつくってることまではわかる。けど、なにぶんにも収音レベルが低すぎて、カーステに繋いでスピーカーから吐き出される室内音だけでは会話の細かいとこまで聞き取ることができない。中途半端な情報だとかえってやきもきさせられるだけかも。
「そもそも槍須氏は、このあと本当に天津原さんを襲ったりするんですかね。さっきから聞いている限り、彼女の番組作りを実に丁寧に指導しているようにしか感じられないんですが」
それはたしかに坂本さんの言う通り。切れ切れに聞こえるふたりのやり取りは真面目で有意義な動画作成風景で、部外者である自分が聞いていても槍須さんの動画制作にかける並々ならぬ情熱と知識が感じられる。というか、それしか感じられないのだ。弥生さんを陥れ猥褻な動画を配信し続けた人物とはとても思えないほど。
このままだと、こっちは待ちぼうけに終始して、午後には偽番組ができあがってありがとうございましたとか言いながら涼子が部屋を出てくることになっちゃうんじゃないかしら。
あ、そうなったらイツローはどうなっちゃうんだろう?
我らが明智涼子の解き明かしは、いったいどこまで信頼できるのかな。
「私たちのホームズの見立ては、本当に大丈夫なんでしょうかねえ」
膝に置いたコンビニ袋にあんぱんの空袋を押し込んだ坂本さんは、私が感じた疑惑と同じことを口にしながら今度はアーモンドバーを取り出して封を切った。
この一時間、彼はずうっと何かを食べ続けている。視線に気づいた坂本さんは、食べます? と尋ねてきたが、私は首を横に振った。
「コレがコレなもんで、先月から煙草やめたんです」
こちらを振り返ったままで、左手の小指だけを上げて右手でお腹の上の空間を撫でる仕草の坂本さん。ヤスなの? 階段落ちするの?!
「そしたら滅多矢鱈に口寂しくなっちゃってね。おかげで五キロ太っちゃいましたよ。結婚指輪も抜けなくなっちゃったし。妻からはどっちが妊娠したんだっけ、なんて言われてます」
そう言って苦笑しながらバーを齧る坂本さんを見せられると、後部座席の私は曖昧に微笑むしかない。カーオーディオからは槍須さんの、オレンジジュースでいいよね、という声が聞こえた。
三本目のアーモンドバーが残りひと口になったところで異変が起こった。
「ごめんなさい。なんだか私……」
涼子の声が弱々しく途切れがちになり、会話が拾えなくなった。と同時に、なにか大きなものが柔らかいところに落ちたんだか倒れたんだかしたような、そんな音が微かに聞こえた。
最後のひと欠片を口に押し込んだ坂本さんがボリュームを最大にする。
しばらくの間無音だったカーオーディオは、なにかが動く音とともに、最前までとはまるで違う低く黒い男の声を流し始めた。
「どっちにしろ高価そうな服は汚したり破いたりすると面倒だし、とりあえず全剥ぎするとすっか……」
「はじまった!」
そう言うが早いか、坂本さんはコンビニ袋を足元に払って助手席に置いてあった大きな肩掛けバッグを抱え上げた。私も自分のスマートフォンのアプリを立ち上げてイヤホンを付けた。横に置いていた手術用の手袋も、爪で穴を開けないよう気をつけながら慎重に両手分をはめる。坂本さんがダッシュボード上のスマートフォンを掴み上げ、ブルートゥースをイヤホンに切り替えた。それを上着のポケットに滑らせると、坂本さんは運転席のドアを開けた。後部座席で私も続く。
小走りでマンションの階段に向かう坂本さん。片耳にワイヤレスのイヤホンを押しこんでいる。後ろをついていく私の左耳には槍須さん、いや、槍須がイツローを誰何する怒声が聞こえてきた。
私が追い付くと、部屋の入り口の前で立ち止まった坂本さんが手袋はめてドアの施錠を確かめていた。イヤホンではイツローと槍須のやりとりが続いている。
「金か? 金ならあるぞ。この女にももう手は出さない。一緒に連れて帰ってくれるなら、金を出す。十万でどうだ?」
「音声傍受はもういいでしょう」
耳からイヤホンを外しポケットに仕舞った坂本さんは、横に立つ私に作戦開始を告げた。
「田中くんが上手く止めてくれているようです。大丈夫。鍵も開けてあります。私たちも合流しましょう。横尾さん、手順は解ってますね」
私は深く頷く。ここからが本番だ。
スニーカーにビニールカバーを履かせた私たちは、玄関のドアを開いてそのまま室内に突入した。




