第114話 それよりも!
壁の時計は九時を回っていた。
「あら、こんな時間になっちゃったね。ゆかりんちゃんは流石にもう帰らないといけないでしょ」
シンスケに並んで横座りしていた由香里が、驚いて顔を上げる。
「や、ホントですね。試験期間真っ最中というのに、流石にこの時間はマズイかもです」
「俺、送ってくよ」
そそくさと帰り支度を始める由香里にシンスケが声を掛けた。
「私もそろそろ……」
ソファから立ち上がろうとするすみれの肩をファインが押さえた。
「すみれさんは、まだ居て。一昨日はオートバイだったからお酒飲めなかったでしょ。ビールもワインもおつまみもまだまだあるし、なんなら秘蔵のスコッチだって開けちゃう。ここでならいくら酔っぱらってもあんしん安全よ」
珍しい、と逸郎は思った。
去る者は追わずの涼子が他人に拘る姿は、逸郎の記憶にはない。それほどまでに、すみれに興味を持ったということか。
ファインとすみれのやり取りを眺めている逸郎の背中を由香里がつついてきた。
「ちょっと話が」
逸郎が顔戻してみると、ファインの交渉は終わっていた。どうやらすみれは残るらしい。
「俺もちょっと予備のヘルメット取りに行ってくるよ。すみれを送んないといけなくなりそうだし」
お礼を言って帰るふたりの後を追って、逸郎も部屋を出た。相伴のすみれを手に入れたファインがソファから手を振っている。
マンションを出たところで、逸郎は由香里に尋ねた。
「話ってなに?」
「まーやのことなんですけど」
「俺、聞いてても大丈夫なの? なんならしばらく離れてるよ」
気を利かせてきたシンスケに、由香里は大丈夫と応える。
「でも、よそには話しちゃダメですからね」
了解と言って親指を立てるシンスケ。やり取りが実にスムーズだ。
――このふたり、フツーにお似合いに見える。
そんなことを考えていた逸郎に、向き直った由香里が逆に聞いてきた。
「イツローさんとすみれさんが付き合ってるってこと、まーやは知ってるんですか?」
――俺に恋人がいることは弥生も知ってる。でもそれが誰かってことまでは、たしかに伝えちゃいない。
「いや、知らないはず。少なくとも俺は言ってない。知ってるのは今のところはキミらと涼子だけ」
――店長夫婦とカゲトラオートの菊地さんは知ってるけど。
「ただ……」
「ただ?」
「俺たちがふたりでいるのを見たことはある、とは言ってた。さんさの初日に映画館通りで」
「さんさの初日って、あの夜?!」
「そう。その夜」
由香里は暗い顔になった。
「それでまーや、あんなことに……」
「ゆかりん、自分がちゃんと捉まえてなかったからとか思うなよ! おまえはぜんぜん悪くないし間違ってもいないんだから。悪かったのは巡り合わせだけ。もし万が一ゆかりんが悪いっていうんなら、弥生を横に置いてやれなかった俺の方が百倍悪い」
「ありがとうございます、イツロー先輩。あたし、自分が悪いとまでは思ってないんですが、あの日の後悔はやっぱり物凄くあります。まーやに要らない体験をさせちゃったって……。それよりも!」
瞬時で気持ちを切り替えた由香里は、逡巡する間もなく話を元に戻してきた。こいつもやっぱり凄いな、と逸郎は改めて思う。
「まーやはすみれちゃん先生をイツロー先輩の横にいた女性ってわかってるってことですか?」
「それはどうだろう。ゆかりんはすみれのオフの姿見たことある?」
由香里はかぶりを振った。
「大学で先生やってるときとはぜんぜん印象違うんだぜ」
そう言って逸郎は、スマホのフォトアルバムから青森でのすみれの写真を数葉開いて見せた。
「なにこれ、ちょー可愛いじゃん! つか俺らと同い年に見える」
横から覗き込んできたシンスケが声を上げた。由香里も吃驚している。
おしまい、と言ってポケットに仕舞った逸郎に、由香里が感想を漏らした。
「たしかに。前に先生自身も言ってましたが、これはわからん、ですね。その可愛らしさしか見てない人がきっちりかっちりスーツ姿のすみれちゃん先生を見ても、同一人物と結びつけたりはしないでしょうね」
「だろうね」
「カウンセリングのときのまーやも、気づいたようなそぶりはまったく無かったし、むしろ心酔してる雰囲気すらありました。了解です。ひとまずは安心しました。自分が振られたひとのいまの彼女に助けてもらうなんて、想像するだけでもメンタルやられそうですからね」
「まぁ、いずれはわかることなんだけどね」
そうこうしているうちに、由香里の家に続く道と材木町方面とを分ける交差点に差し掛かった。
「じゃ、俺はここまで。シンスケ、ちゃんとゆかりんを送り届けるんだよ」
「え? おまえさんなにしに出てきたの?」
「すみれの家までヘルメットを取りに」
「マジで?! お前、鍵持ってんの?!」
「イツロー先輩、合鍵まで持ってるんですか!? オトナ過ぎます」
「同時にうるさい! いいだろ。そんなことは」
「「 そ ん な こ と ! 」」
「あーもう、うるさいうるさい。子どもは早く帰って歯ァ磨いて寝ろ!」
そう言い残し、逸郎は夜の街を材木町に向けて駆けだしていった。




