第110話 だってこれ、私のだもん。
大学の前で逸郎とファインは車を降りた。シンスケは由香里を送ってから車を返しに行くと言って去っていた。
「シンスケくん、あのままゆかりんちゃんをどっか連れてって食べちゃったりして」
楽しそうな顔しながら不穏なことを言うファインに、逸郎はかぶりを振って応えた。
「それはない。シンスケはああ見えて、俺の十倍チキンだから」
「なにそれ。いっくんのお墨付き?」
「でもまぁ、それも時間の問題って気はするけどね」
「やっぱりそういう見立てなんだね」
逸朗とファインが笑い合いながら、人気の途絶えた夜の学内を逸郎のバイクが停めてある駐輪場目指して歩いていると、少し先の街灯の輪の中に人影が現れた。ふたりに向かって手を振っているように見える。それに応えてなのか、逸郎も手を振り返した。
怪訝そうな表情のファインに逸郎が声を掛ける。
「今日はまだ時間あるよな?」
大丈夫だけど、と応えるファインに逸郎は笑顔で返した。
「前に話してたひとだよ。涼子の言い方を借りれば、『経常的にセックスする相手』。さっき連絡したら、会ってみたいってね」
街灯の足下に立つパンツスタイルの人影は手を振るのをやめて、軽いお辞儀をしてきた。間を置かず、ファインも会釈を返す。
「おかえりイツロー、競馬はどうだった?」
影を手前に延ばしつつ歩み出てきたポニーテールが、軽い口調で尋ねてきた。逸郎もくだけた調子でそれに応える。
「競馬場はやたらでかくて綺麗だったけど、戦果の方は可もなく不可もなく、かな。最初だけは当たった。で、こちらが俺の友だちの天津原涼子ファインモーションさん」
ファインの横から大股に歩を詰めた逸郎は、そのままポニーテールの側に立って向き直った。
「はじめまして。横尾すみれです。お話はイツローさんから伺ってます。世界一のゲームプレイヤーって」
心の準備が無いくらいでファインの基盤が揺らぐことはない。逸郎が紹介する未知の女性を前にしても、動じることない振る舞いで鷹揚な挨拶を披露する。
「こちらこそ、はじめまして。田中くんにはいつもお世話になってます。あと世界一なのは私が所属するチームであって、別に私個人じゃありませんから。それよりいっくん。ちょっと聞き捨てならないんだけど、私って『友だち』なの?」
剣呑なまなざしで射抜いてくるファインの視線は、慣れている逸郎でも背筋に電流を走らせる。その効果を自覚したうえで、一瞬で表情を弛緩させるのがファインだ。
「『親友』だと思ってたのに、がっかりだわ」
両手を広げてそらを向くファインに赦しのサインを受け取った従僕は、いつもの調子に戻って軽口を返した。
「そんなこと言って、俺が親友って紹介でもしたら、即座に『執事』ですって訂正するんだろ」
隣に立って軽いやり取りを眺めているすみれも、穏やかな笑顔を見せている。表面上は和やかな出会い。
――このふたりに関しては両方ともオトナだから、いきなり角を突き合うこともあるまい。
逸郎はそんな風に高を括っていた。だが開始のゴングは、今まさに見えないリングで鳴ったばかりだった。
逸郎の想像の埒外で行われるマウントバトル。ファインに先制を許したすみれは、先行された失点を取り返すべくリングサイドに誘いをかける。
「立ち話もなんだし、晩ご飯でも食べに行きません? 私、ひさしぶりに高島屋の定食食べたくなっちゃって」
すみれの誘い水に微笑で快諾するファイン。水面下が見えていないお気楽な逸郎も加え、三人は夜のキャンパスを連れ立って歩き始めた。
*
「どうだった? 涼子の印象は」
「凄い美人。でもって、その容姿以上にスケールも大きい。ほんと、世界は広いなぁって思った。遠くにいてもすぐにわかる、みたいな。半径五十メートルくらいのエリアならなにもしなくても制圧できちゃう強者オーラを感じちゃった」
いや、すみれも全然負けてないけどね。
腕枕から溢れた髪を指で手遊びしながら逸郎はそう思ったが、話がブレてしまいそうなので口には出さない。
*
三人での食事は、実のところとてもいい時間だった。
振替休日の夜ということでそれほど混み合ってはいなかったが、すみれとファインの圧巻過ぎるツーショットは、店内にいた全ての人の注目を集めてしまった。
方や、オフショルダーのワンピースで気品と色気を振り撒く碧い目の正統派美人。もう一方は、隠しきれないボリュームでTシャツの前を押し上げているデニムとブーツのカジュアル美人。目立つなと言っても無理な話だ。TVのロケと見紛われても不思議じゃない。ちなみのその際の逸郎の立ち位置は、番組ADか。
別軸だが絶対値は同等の美人だからか、お互いに容姿に関する遠慮や引け目みたいなものが全くなかった。しかもともに英語圏での生活経験があって知識も豊富。年齢や趣味、出自などに違いはあるものの、各々が自分の成り立ちに自信を持って日々を過ごしていることも共通だった。
要するに、おそらくはお互いが初めて出会えた同格の相手なのだ。無意味なマウントの取り合いなど早々に放棄して、対等な立ち位置で向き合う。そんなエース同士の話が盛り上がらないワケはない。
凡人の逸郎は、傑出するふたりの初めての邂逅をいちばん近い場所で見ていられることがなによりも嬉しかった。
*
「あんな美人さんと一年半も仲良くしてて、よく好きにならなかったね、恋愛的な意味で。もしかしてイツローってどっかおかしい?」
タオルケットの下に隠れている逸郎の分身を指先でなぞりながら、すみれが追及してくる。
「俺じゃなくて向こうの方がね。彼女、アロマンティック・アセクシュアル(※)なんだって。すみれの言う通り、あの無差別美人オーラはめちゃめちゃたくさんの告白攻撃を誘発してたんだけど、涼子はそれ全部、即決で断ってたんだよね。搦め手とかの小細工一切無しの一刀両断で。傍目で見ててもよさげな物件はいくつかあったんだけど、とにかくなんの躊躇も無くぶった切るもんだから、さすがに今は、少なくとも学内では落ち着いてる」
「イツローも告白したの?」
「しないしない。そんなこと考える前に、あっちからもこっちからも降ってくる告白の嵐を目の当たりにして、気がついたら専属の会場整理アルバイターにされてたよ。ていうか、それ握って睨みながら聞くのやめて」
逸郎は、ちょっと切ない色の苦笑を見せた。
「だってこれ、私のだもん」
小声でそうつぶやいたすみれは、握った手をそのままに裸の胸を押し付ける。脚を絡めながら耳たぶを甘噛みしてきた。
夜はまだ長い。
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※アロマンティック・アセクシュアル
→心理学用語で「恋愛的な性的惹かれの欠如、または欲求が少ない人(傾向)」を指す。TVドラマ『恋せぬふたり』(NHK,2022)の主人公たちがそれ。天津原涼子ファインモーションの場合、特殊な条件下でのみ「性的惹かれ」が極端に強化される傾向があるので、純粋なアロマンティック・アセクシュアルとは言えないかもしれない。




