第10話 私、全然平気です。
厨房が狭くなるという理由で、菅原先輩とシンスケをダイニングで待機させた俺は、弥生とふたりで十二人分のカレーづくりを始めた。いつもつくる箱入りカレールーは十皿分と書いてあるけど、実際は六~七食で食べ切ってしまう。だからその倍つくれば問題ないはず。そう結論付けた俺たちは、通常の二倍以上の具材を並べた。
じゃがいも剥きが苦手な俺はそっちを弥生に任せて、米の仕込みと飴色玉ねぎを担当する。
薄めに切った大量の玉ねぎを熱くした鍋に流し込み、蓋をして弱火。少し手が空くので人参でもと思い、先を見ないで手を伸ばした。指先が固い人参の表面とは違う柔らかく温かい何かに触れたが、勢いでそのまま掴む。
息を飲む気配に振り向いた俺は、己の狼藉に気づいた。握っていたのは、袖を肘捲りした弥生の手首だった。
「うへえ!」
奇声を上げて手を離した俺は、後ずさりして背中を冷蔵庫にぶつけた。弥生は耳まで真っ赤にして固まっている。右手には包丁を持ったまま。ダイニングのふたりは雑談に夢中で気づいていない。
「ごめん! 俺、見てなくて。とにかく、まずはそれを置いて……」
俺の言葉で包丁を思い出した弥生は、すぐにそれを俎板に置いた。そして、蚊の鳴くような声でこう言った。
「びっくり……しました。まさかこんなところでいきなりだなんて、思っても見なかったんで」
「ごめん。ごめんなさい。俺の不注意です」
俺は土下座しそうな勢いで謝った。
「あの、嫌だったわけじゃないんです。ただ、凄く吃驚しただけで……」
狼狽している俺は、彼女が言っている台詞の意図がよくわからない。とにかく平謝りの一手に尽きる。アメフトで言えば、手の不正使用で十ヤードのロスだ。この後退を取り戻すために俺は何をすればいいのか。
「男のひとに、直に腕握られるの、初めてだったから」
ヤバいヤバいヤバいヤバい。十ヤードどころじゃ無い。これは自陣エンドラインまでの後退だよ。今前に出たら、それは死を意味するじゃん。
もうこれは、黙っておとなしくカレーつくるしかない。
そのあとは、なるべく近づかず無駄口は控え、ただ粛々と作業に専念した。
ちらっとだけ見た弥生の表情はなんだか不満そうに見えた。それほどまでに悪い印象を与えてしまったのか、俺は。
*
食事のあとは、感想戦という名の飲み会だ。最後の夜だから、明朝のホットドッグ分だけ残して食材を使い切ろうという流れになったので、俺は率先して厨房に籠ることにした。時折放たれる、俺を非難するような弥生の視線が怖かったのだ。告白しようなど、お話にもならない。
喧騒を背に淡々と皮付きのじゃがいもを揚げていた俺の背後に人の気配がした。気にせず作業を続けていると、あの、という控え目な声が届いた。振り向くと、そこには弥生が立っていた。瞬時に固まった俺に、弥生が話しかけてくる。
「先輩、私のこと嫌いですか?」
展開についていけてない俺は口も利けずに、とにかくぶんぶんと首を振る。
「じゃあなんで、さっきカレーを作ってたとき、途中から全然話しかけてくれなくなっちゃったんですか。私、イツロー先輩と一緒にご飯つくれるの、凄く楽しみにしてたのに」
え? 俺、拒絶されたんじゃなかったの?
「とにかく、私にも何かお手伝いさせてください」
思考停止している俺に構わず、弥生はずんずん近寄って、俺の横にある冷蔵庫の中身を確認しだした。
冷凍の海老を取り出した弥生は、それをボウルに開けて水を注ぐ。
「しめじもニンニクもブロッコリーもプチトマトもあるし、アヒージョ作っちゃいましょ」
俺、嫌われてるわけじゃなかったんだ。
心底安堵した俺は真横で並んで作業しながら、いつの間にか、普通に話をするいつもの関係に戻っていた。東北では公開されなくて観れなかった欧州発のSF映画の話や、この前貸してもらったライトノベルの風景描写についてなど、いちいち考えなくても俺たちには話すネタがいくらでもある。
「イツローシェフと弥生シェフに敬意を表し、改めてかんぱーい!」
鵜沼会長の音頭に合わせ、全員が思い思いの飲み物を掲げた。俺たちがつくったツマミをアテに、陽気な宴会は日付が変わるまで続く。その間中、俺の隣には麦茶のグラスを片手にした弥生が座っていた。
お目付け役の原町田もシンスケや涼子と話すのに忙しく、今夜は邪魔しに来ない。賑やかなところは苦手と言っていた弥生も、上気した頬を染め、柔らかな笑顔で楽しげなみんなを眺めている。
「煩いの、大丈夫?」
俺の問いかけに、弥生は首を振って答えた。
「こんな宴会なら、私、全然平気です。凄く楽しいし、気持ちもゆったりしてる」
そう言って、少しだけ俺に近づいてきた。二の腕同士が触れているのに気付いているのだろうか。
*
散会し、全員がそれぞれのコテージに戻っていった。会場となった部屋に居残って簡単な片付けをする俺に、同期のシンスケが話しかけてくる。
「見たよイツロー。弥生ちゃんとめっちゃいい感じだったじゃん。これはもう、チャンスとしか言いようが、なーい」
息が酒臭い。てか、なんでみんな俺の隠し事知ってんの?
「もういいから、お前も早く寝ろ。朝メシに起きれなくなるぞ」
部屋の灯りを落とした俺は、シンスケを強引にベッドに運んだ。
*
帰りのバスの中、シンスケと並んで一番後ろに座った俺は、ふたつ前の通路側に座る弥生の小さな頭ばかり見ていた。窓側の原町田が機関銃のように喋るのを、ときどき頷きながら聞いている。
肩に乗ってくるシンスケの頭を反対側に押しやっているとき、不意に振り向いた弥生と目が合った。笑いかけてくれたその顔は、だがしかし、原町田の呼びかけですぐに前を向いてしまった。
その瞬間、俺は電撃的に理解する。これこそが『好機』のサインなのだ。
先人たちの教えに従い、俺は決断する。今日バスを降りたら、弥生に告げよう。君が好きだ、と。
もう三年前の轍は踏まない。三ヶ月以上想い続けた挙句、三日掛けて書き上げた恋文の間抜け極まりないエピソード。あのとき彼女は、俺が手渡した手紙の中身も見ずにこう言った。遅かったよ。先週塾で知り合った他校男子から昨日告白されちゃって、OKしたばかりなの。
*
駅西口の、この街では珍しい高層ビルの前にあるロータリーでバスは停まった。各自が荷物を受け取れば、あとは流れ解散だ。会長とナイル先輩は、ボードゲームを載せた車で帰ったから既にいない。バスを降りる先輩たちは車中で挨拶を交わし、そのまま夜の街に消えていく。
弥生も立ち上がり、俺に手を振ってから出口に歩いて行った。でも、そのまま帰るわけじゃない。バスの腹に収納されていたスーツケースを受け取るはず。前の人の緩い歩みももどかしく、俺は出口へと急いだ。
外に出て振り返ると、弥生はちょうど手荷物を受け取るところだった。
俺は自分の半券をシンスケに押し付けて弥生に走り寄る。彼女の荷物を横から強引に掴むと、少し離れたところにある鯨の尻尾のようなモニュメントの影まで先導した。
微妙に不安げな、でもそれ以外の光も見え隠れする瞳で俺の次の動きを見届けようとする弥生。
スーツケースを間に立てて弥生と正対した俺は、大きく息を吸い込んでから、大事な言葉を告げる。早口にならないようできるだけゆっくり、と意識しながら。
「中嶋弥生さん。俺はきみが好きです。俺と、付き合ってください」
バスの中でいろんなセリフを考えた。中には使えそうな思いつきもあった。でも、本番で口から出たのは、陳腐で凡百で、ただ真っ直ぐなだけの言葉。
驚きが占めていた弥生の表情が緩み、笑顔の予感が見えた。その慎ましやかな唇が何か言葉を発しようかというそのとき。
「探したよ、まーや! そんなとこに居たのね。もおっ。勝手に帰っちゃったのかと思った。ぷんすかだよ」
空気を読まないいつものテンションで、原町田由香里が走ってきた。
「ありゃ。イツロー先輩じゃないですか。こんなとこでなに佇んでんですか。そんな意味ありげな立ち姿してると、告白でも目論んでるんじゃないかって勘違いされますよ。ただでさえキャラ建ち不足で微妙なんですから、誤解されないよう気をつけた方がいいですよ、ホントに。じゃ、お疲れ様でした。ほら、行くよ。まーや」
嵐のようにやってきた原町田はその勢いのまま、返事する直前の弥生を連れ去って行った。
取り残され、モニュメントの前でひとり立ちすくむ俺に、離れたところから声が掛かった。
「イツロー! お前の荷物、ここに置いとくぞー! で、どうだったぁ?!」
シンスケのボケ。でかい声で機微情報を喚くな。どうだったもなにも、結果聞く前に消えちまったよ。
俺は自分にしか聞こえない声でそう呟いた。
ふたつの荷物を足元に置いたシンスケに歩み寄った俺は、こう答えてやる。
「延長戦になった。決着は、四日後の合宿打ち上げコンパだな」




