第103話 伊達眼鏡とスーツは、いわば私の戦闘服。
横尾先生の都度の確認や質問に答えながらようやく私が話し終えた頃には、窓の外はもう夕暮の空でした。ひとしきりの沈黙のあとで、先生が口を開きます。
「中嶋さん、本当にたいへんだったね。ううん。今もまだ、たいへんなのよね」
先生の言葉からは、同情よりも当事者に寄り添おうとする意識の方がより強く感じられた。私はそれを素直に、嬉しいと思いました。
とはいえ私が先生と共有したこれまでの経緯は、基本的にはゆかりんに今まで話したこととほぼ同じ。ゆかりんには伝えていない夏祭りでの目撃のことや逸郎さんとの夜のことは、彼女自身が横にいることもあって言い及ぶのは控えたのです。
「まずはいくつか目標を定めるのが良いと思います。そんな大きなものでなくて、むしろ小さな目標の方がいいんじゃないかな。できるだけわかりやすいもの。大学に通う、毎日ごはんをつくる、街に出掛けてみる、お友だちと遊びに行く、みたいな達成が具体的に判定できるもの。それらを積み重ねることで、安定した日常に近づけるはず。目標を決めたら、それらを進めるために必要な材料や手順を精査するんです。文章ではなく、こうやって図にするとわかりやすいですよ」
そう言って、先生はテーブルの下からコピー用紙を一枚抜き取ると、さらさらとフローチャートを描き始めました。
左端に「毎日ご飯を食べる」と書いて四角で囲み、そこから右に真っ直ぐ矢印を引いて「身体の健康」と書いた四角と繋ぐ。矢印の上下に空欄の菱形を二つ三つ。
「率直に言って、現在の中嶋さんに一番必要なのは味方としての協力者だと思います。それも複数人。今の時点で中嶋さんが文句なく味方と呼べる人は何人いますか?」
私は隣に座っているゆかりんを見てから、ひとり、と答えました。
「先輩も加えていいと思うよ」
と、ゆかりん。
「じゃ、ふたり、です」
「私も加えましょう。これで三人」
横尾先生はそう言ってにっこり笑ってくれました。
「できればあとふたりくらい欲しいですね。全てを共有していなくても全体の概ねの流れは知っていて、かつ目標を共有できる人が。人数が必要なのは、協力者の負担を分散するためです。いままではその役割のたぶんすべてを原町田さんが担ってきたんじゃないのかな。でもそのままだと、原町田さんがパンクしちゃったとき、共倒れになってしまうかもしれない。だから、パートパートに分かれてサポートしたり話し相手になったりしながら、全員で流れを共有する。そんなチームをつくっていきましょ。人選はふたりにまかせます。進捗があったら教えてね」
理路整然とした先生の言葉で、私もなんだか、目の前の霧が晴れて前に踏み出していけそうな気がしてきました。すごい。私もこんな女性になりたい。
それから、と先生は話を続けます。
「中嶋さんの場合、既に多くの動画が流布しているという問題があります。でも、その動画と中嶋さん本人とを直接結びつけてる人は、今はまだ限定的ですよね。だからそれをできるだけ増やさないよう対策をしましょう。幸い今のところはYoutubeからも削除されているし販売サイトもストップしているということですから、まずはそれらを恒久的に止めてもらいます。配信者に直接連絡するのが一番ですが、もしも大人が間に入った方がいいのであれば、私が一枚噛んでも構いません。ただ、来週は学会があって出張に行っちゃうから、手伝えるのはその翌週から。ごめんなさいね。腰を折るみたいで申し訳ないんだけど」
私たちはふたりして掌を振って、そんなことないと意思表示しました。今日いただいたアドバイスだけでも充分に力をもらったし、進むべき道も見えてきた。頑張ってちゃんとしようっていう勇気が湧いてきたのが自分でも実感できたのです。
「あと、もうひとつのできること。見た目を変えるのも有効ですよ。髪型とか服とか眼鏡とか……」
「髪型とファッションは昨日変えました」
ゆかりんが被せてきた。
「それはあたしもそう思って、昨日まーや、中嶋さんを連れて美容院とブティックに行ってきたんです。思いっきりイメチェンしてやろうって」
「なぁるほど。この素敵なショートカットと秋物のスタイルは原町田さん演出の成果なのね。素敵よ」
ゆかりんが胸を張ってるのを見て、私もなんだか楽しくなってきました。ありがとね、ゆかりん。私もこの新しいスタイル、気に入ってるよ。
「前まではセミロングのボブに渋めのスカートだったんですけど、短くしてパンツルックの活動的な印象を前面に出そうって」
「うん。すごくいい。こういうことがあると地味目に走っちゃうことが多いんだけど、むしろ攻めに転じちゃう方がかえってプラスだと思うよ」
絶賛のあとで、先生はちょっと思案顔。私の顔を見ながら、顎に拳をあてる可愛らしい仕草で小首をかしげたあとに、そうねぇ、と始めました。
「あと足すことがあるとしたら、眼鏡かな。眼鏡の印象は強いわよ。かく言う私もいま掛けてるのは伊達眼鏡。ホントは両目2.0なの。でも新任な上にそこそこ若いオンナでしょ。舐められてちゃ仕事になんないから、思いっきりスクエアな方に振っちゃった。オフはもう、ぜんぜん違う格好してるのよ。実際、外でバレたことも一度しか無いし。だからね、伊達眼鏡とスーツは、いわば私の戦闘服」
そう言った横尾先生は眼鏡を外し、長い髪を後ろ手に掴んできゅっと纏めてから、とてもいい笑顔を私たちに向けてくれました。
「ほら、外ではいつもこんな感じ」
その瞬間です。私の中にある黒い箱の鍵が開いたのは。
横尾先生は、あのポニーテールさんだったのです。




