第100話 私がいない間は、試験がんばるのだよ。
逸郎は慣れていないベッドの中で、それだけは馴染んでいる匂いに包まれて微睡んでいる。手を伸ばしたが、匂いの元は不在だった。
「そっか。朝、見送ったもんな」
――この部屋のどこに時計が置いてあるのかはまだ把握できてない。スマホは……たしか向こうの部屋のテーブルの上。
逸郎は薄目を開けて、見える範囲を走査した。ぼやけた視界の先、四角い枠の中に収まった黒いライダースーツのとなりで、デジタル表示の四桁が白く光っているのを見つけた。
*
九月十一日からはじまる学会のために前日の火曜日朝から大阪に出張するすみれは、この一週間多忙を極めていた。昼間は講義や学生との面談、空き時間や夜は発表スライドの差し替えや微調整などで忙殺され、週末の二日間も朝から晩まで作業に費やされた。
逸郎の部屋のTVで日曜の大河ドラマがオープニングに差し掛かったころ、待ちわびていた「サギョオワ」のメッセージがようやくスマホに届いた。
録画ボタンだけ押して早々にバイクに飛び乗った逸郎は、同時に頼まれた惣菜やビールを買い込んで材木町のアパートに急いだ。
玄関で呼び鈴を鳴らす。が、室内で物音する気配はない。心配になった逸郎は、きしみ音で来たことを知らせようとドアノブを掴んだ。と、ノブは抵抗なく回った。
――鍵が開いてる?
恐る恐る中に入った逸郎が目にしたのは、スーツのままでソファに突っ伏したすみれの姿だった。
「不用心にほどがあるよ。玄関の鍵を開けっぱなしとか」
「だって、閉めてたらイツローが入って来れないじゃん」
「それにしたって!」
缶のままビールを飲むすみれは、逸郎の叱責に悪びれるでもなくポテトサラダをつまんでいる。
大学の裏門で逸郎にメッセージを送った後、疲れ切った身体を鞭打ってやっと自室に帰りついたすみれだったが、そこで力が尽きたらしい。
「イツローが来てくれなかったら、私そのまま死んじゃってたかも」
大袈裟な、と笑いながら、逸郎は脱ぎ棄てられたスーツの上下をハンガーにかけている。
「あ、それ、奥の部屋の壁に掛けといてもらえると助かるぅ」
生返事の逸郎がぶち抜きの隣室に向かっている隙に、すみれは素早くストッキングを脱ぎ去った。締め付けられていた圧と熱気から解放されて気が緩んだのか、大きな嘆息をついていた。
「なんか言った?」
なんにも~などと応えつつ丸めたストッキングをテーブルの下に隠したすみれは、戻ってきた逸朗がソファに座るのを見計らって、その足の間に身を滑らせた。ここが私の定位置とでも言わんばかりに、逸郎の膝に頭を乗せてくつろいでいる。
水色のブラウス一枚で生の曲線美をしどけなく晒すすみれ。緊張感の欠片もない無防備な恰好で自分の足にもたれかかる可愛い女を見下ろして、逸郎は声を立てずに苦笑した。
――こんな姿、大学の連中は誰ひとり想像すらしてないだろうな。
ビールとつまみで体力気力を取り戻したすみれと、長いお預けで溜りにたまっていた逸郎がこのあとにすることといえば、ひとつしかなかった。
疲れて寝落ちしてしまうまで愛を交わし互いを補給し合う濃密な時間を経て、ふたりはひさしぶりに満たされた月曜の朝を迎えた。
ゼミ生やほかの先生とも一緒だから明日の見送りは要らない、と言いながら靴を履くすみれを玄関口のキスで送り出した逸郎は、そのままさっきまでふたりで使っていたベッドに戻り、もう一度寝直したのだった。
*
10:32
逸郎の二度寝はどうやら二時間ほどだったようだ。きっとすみれは、もう教壇に立っていることだろう。
――社会人てのはたいへんだねぇ。俺なんか講義は午後からだから、まだしばらくはゆっくりできちゃうし。
暢気に寝転ぶ逸朗は、ベッドサイドにあった時計の横に飾られた写真立てに手を伸ばした。奥入瀬で偶さかのライダーに撮ってもらったツーショットが差し込まれている。逸郎のスマホに入っているのと同じ画像だ。渓流の際に並んで立つすみれと逸郎。深い緑を背景に、艶やかに光を反射する漆黒のライダースーツのシャープな輪郭。それとは真逆に、まぶしく弾けたすみれの笑顔。
――隣の俺は完全に添え物だよな。
軽く頭を振って写真立てを元の位置に戻した逸郎は、あらためて周囲を眺め直した。淡い茶色の床に白い壁。長押にぶら下がっているのは昨夜自分が掛けた仕事用のスーツと写真のラーダースーツ、それに横書きで奥入瀬渓流と入った白地のTシャツ。ベッドの横で垂直に立つ真っ黒な棒のようなフロアライト。金属のポールとワイヤーで組み上げられた機能的な棚の一番上には赤いヘルメット、その下は小ぶりのポーチと単行本サイズの鏡。下の二段にびっしり詰まっているのは、たくさんの原書や心理学の専門誌、背表紙がブランクの薄い冊子など。
働く女性の独り住まいの部屋。シンプルだけど、ほどよく整理された居心地の良いスペース。
部屋全体を満たす柔らかな空気に包まれて、逸郎は幸せの意味を知った気がしていた。ここで朝を迎えるのは二回目で、ひとりで過ごすのは初めてになる。
広いワンルームを寝室とリビングに仕切っていたアコーディオンカーテンもいまは全開にされ、大きな窓から差し込む残暑の陽射しの恩恵がベッドの側にも及んでいる。
目線の先はリビングのローテーブル。ガラス天板の中央には逸郎のスマホと、ねぶた祭り限定の根付が付いた銀色の鍵が見えた。
――本当に俺、唯一無二の恋人としてすみれに認められたんだな。
逸郎は改めて、あの日自分の出した結論を正しかったと感じていた。
たしかに弥生のことは大事だし嫌いになったわけでもない。でもそれは恋慕とは違う。自分にはいないから断言はできないが、もしかしたら「妹への思い」がいちばん近いのかもしれない。そんな中途半端な考えのまま八方美人を続けていても、結局は誰も幸せになれないのだ。
逸郎は思った。重要な選択の場面で何かを選ぶというのは別の何かを捨てることと繋がる、という理が初めて腑に落ちた。経営学の授業で聞いた言葉を思い出す。
選択と集中。
「その通りだよなぁ」
聞く者のいない部屋で逸郎は独り呟き、あらためて胸に誓った。
――あの夜の出来事は決して口外することなく墓場まで持って行こう。そして、これからはすみれに全てを集中させるんだ。
ベッドから起き上がった逸郎は着るものを探しにリビングに移った。昨夜脱ぎ散らかしたはずの逸郎の服は、綺麗に畳まれてミニソファに置かれている。ほっこりとした逸郎が一番上のポロシャツに手を伸ばすと、乗っていた紙片が床に落ちた。拾い上げたメモ紙にはこう書かれていた。
―――――
おはよう!
ゆうべは駆けつけてくれてありがとね。
夜だけだったけど一緒に過ごせてよかった。おかげですっごく充実したよ!
これで学会も乗り切れそう。
冷蔵庫の飲み物とかは勝手にやって。
今回はさすがに無理だったけど、
次はちゃんと朝ごはんつくるから期待しててね♡
あと、くれぐれも鍵は無くさないように。
スペアはそれしかないんだから。
私がいない間は、試験がんばるのだよ(笑)
―――――
にやけながらメモを読んでいた逸郎は、文末の一文で我に返った。
「やべ! 前期末、明日からじゃん」
焦って服を着て帰り支度を済ませた逸郎は、合鍵を掴んで玄関に向かった。
乱暴にスニーカーを履いている最中に、尻のポケットが震えた。呼び出しを続けるスマホの画面の真ん中には「ゆかりん」と表示されていた。
「はい。俺だけど」
「イツロー先輩、落ち着いて聞いてくださいね」
由香里の声は、いつもよりさらに早口になっていた。逸郎の背筋に冷たいものが流れる。
「まーやの仕送りが止められました」
 




