第99話 こちらがあの三日間の経費となるわけなんですが。
「概ねわかりました。だいぶ乱暴ではありますが、要するにスキルどうのこうのよりも、まーやの中での先輩とあたしの位置の違いの方が大きくものを言ったということですね。まぁ納得です。無駄な敗北感を味合わずに済みました」
夜の濃厚な癒し合いの部分だけは端折った逸郎の説明を聞き終えたあと、由香里はそう言って納得した顔を見せた。のどが渇いた逸郎は、新たにハイボールの追加を注文する。後ろから由香里も、アイスココアもよろしくお願いします、と重ねてきた。
「それにしても、従兄妹設定のデートってのは実に背徳的な治療法ですね。たしかにロールプレイングが対人療法の効果的メニューだというのは聞いたことありますが、よりによって疑似近親者の役どころとは。さては先輩、シンスケさんの変態が伝染りましたね。いや、もしや先輩の方が師匠?」
待ち構えていたのではないかと思うくらい素早く届けられた飲み物を一口飲みながら、由香里が突っ込んできた。逸郎は飲みかけたハイボールがむせそうになるのをこらえた。
――やらしいところを見逃さずにツッコんでくるのは相変わらずだな。
「単なる思いつきだよ。別に他意は無い」
「その台詞、刑事ドラマの取調室で確信犯がよく言うやつですね。シナリオ的には自白と同義です。だいたいにして、善良な一般人は思いつきで可愛い後輩に自分のこと『お兄ちゃん』とか呼ばせたりはしません」
「そう呼びだしたのは弥生だよ! 俺が指示したわけじゃない」
「いーや、十分想定できてたはず! そんなの中学受験の範囲ですよ。あまつさえ逃げ道まで用意するとは、心理療法士の風上にも置けませんね。先輩のポイントはマイナス二十です。このままじゃ進級は難しいですよ」
誰が心理療法士だよ、と逸郎は笑った。
アイスココアの最後のひとくちをずずずっと吸い上げてナプキンで唇を拭った由香里は、タイミングを見計らったかのように口を開いた。
「それで、イツロー先輩はこれからどうするおつもりなんですか?」
これからが「カラオケボックスを出た後の行き先」ではないことくらいは、流石に逸郎でも理解できる。
「弥生とつき合うことは、できない」
理由ひとつ付け加えない簡素な言葉で、逸郎は由香里の問いに答えた。
――その席には既にすみれが座っているから。これはもちろん正当な理由。だが、そんな表層の話で簡単に切り捨てられるものではない。
――弥生をなんとかしてやりたい気持ちはある。それもとても強く。そうするのには、弥生を安定的に自分の隣の席に置いてやるのが最善だってことは、俺もわかってる。誰かを救いたいと思うなら、その人の全てに寄り添う覚悟が必要だって話。でも本当にそのやり方が合ってるのか?
――そもそも「救いたい」という上から目線はなんなのか。傲慢さが見え隠れするそんな立ち位置では、いつまで経っても保護-庇護の関係から抜け出せないんじゃないのか。
――なによりも最初に考えなければいけないのは、そうなった場合に席を明け渡すことになるすみれの立場だ。彼女自身になにひとつ落ち度なんて無いのに、ただそうなったからって理由だけで、信じて安心している自分だけの居場所を追われてしまう。そんな理不尽を強いるなんてできるはずがない。しかも彼女とは、保護-庇護なんかじゃない、均等で安定した関係が既に築けてる。そいつをぶち壊すことによってすみれに与える衝撃は、男性不信という彼女の黒い記憶を呼び覚まし、さらに分厚く上書きすることになっちまう。それはもう、間違いなく。
片皿に錘を乗せればもう片皿が上にあがる天秤の支点で、逸郎は決断を迫られた。そうして、日常を演じる数日間の中でようやく出した答えが、いま由香里に告げたこの宣言だった。
「……そうですか。理由は……まぁ聞きません。たぶん先輩もいろいろと考えられたのでしょう。それにまーやには、状況だけで判断すればそれだけで一発アウトみたいな項目が多過ぎて、無理やり聞き出しても単なる下世話事に成り下がるだけな気もしますしね」
大きく落胆したでもない表情で、由香里はそう応じた。
すまない、と首を垂れる逸郎だったが、すぐに顔を上げ、言葉を続けた。
「それでも、助けたいと思う気持ちには変わりないし、正面に立つことはできないかもしれないけど、可能な限りバックアップはしたいと思ってるんだ」
「ええ、ええ。わかってます。とりあえずやっていただけることはそう多くありませんが、お気持ちだけは充分に理解しましたから。今はまーやがいつ戻ってきても大丈夫なように畑でも耕しててください」
あたしの方も、と由香里は真っ直ぐ逸郎を見据えて話を繋ぐ。
「今週はけっこう忙しくします。明日は外部の相談窓口を当たってみるつもりです。ちょっと思い当たる先があるので。それからまーやのイメチェンを図ろうとも考えてます。夜中に塞ぎ込んだりすることはまだありますが、少なくともうちの家族とのコミュニケーションは良好に過ごせてますし、九月頭には間に合わなかったけど、後期が始まる前までには普通の大学生に戻れるようプログラムを組みますから」
由香里が、まかせてください、と話を締めたタイミングで、部屋のインターフォンが呼び出し音を鳴らしてきた。スマートフォンを見ると、たしかにもう二時間近く経っている。
「かぁ! 結局三曲しか歌えてない。最低でも二十曲はノルマだというのに、なんという無駄遣い。不覚です。次回はきっちりお返しさせていただきますので、覚悟しといてください!」
そう言って帰り支度をはじめた由香里に、逸郎はおずおずと切り出すのだった。
「えっと、ゆかりんさん。ちなみにこちらがあの三日間の経費となるわけなんですが…」




