神様が真理を説く日
「目の前の男を君一人で屈服させろ」
神から発せられた試練の内容は女の心を恐怖で抉った。女からは歓喜の表情は消え、目の前の絶望と混乱によって視界が黒に染まる。不潔の男は女よりも二回りも大きく、私からは醜い欲望を人物化した獰猛な肉食獣にしか見えなかった。不潔な男の骨格の周りには贅肉という強靭な盾を体中にまとわりつけている。私が攻撃したとしてもまるで埃を払うか如くあしらわれるだけだろう。目潰しや顔面の強打を打ち込もうとも私の身長では高くても不潔の男の臍ぐらいで、到底届きそうにない。
「(何故この様な理不尽な状況に遭ってるんだろう。)」
私は恐怖で混濁した脳髄で呟く。別にこの丘に辿り着く前の様にこの不潔な男から逃げれば戦う必要もないし、痛い目も見ないだろう。後ろにいる神みたく美しい男の試練やらに堂々と付き合う必要もなく、かえって、この長い人生を俯瞰したときに、生存率の高い逃げを選択した方が長くこの街に生きられる。女の思考はこの現状を正当化する言い訳に満ち溢れ、まともな思考回路は焼け切れていた。後ろから神が女の肩に手を添える。神が近づいたことで、女は初めて神の匂いが鼻を通過した。女はこんなにも心やすらぐ匂いを嗅いだことなかった。私の街で暮らしていたら一生味わえない匂いだろう。平和が当たり前の国ではこの匂いは一般化された匂いなのだろうか。この匂いはまるで清らかに広がる野原、またもや水平線と同化した海が漣を起こした浜辺を想像させる。自然界にある全てが私を包むかのような錯覚に陥るほど安堵する匂い。女は匂いの傍ら肩に手を添える神の感触に意識を削がれた。こんな醜い下級人種に与えられてはいけないほど優しい感触を匂いも相待って感じた。この街で与えられる感触は硬く握りしめられて殴られるグーに血がミックスした感触と他人から食料を奪われる際ににぶつかる自己中心的な人間の感触だけだ。こんな硝子細工の様に優しく触れたことのない女は体と心がひたすらもぞかしかった。
「神は乗り越えられない試練は与えないという迷信がこの世界にはあるらしいがあれは紛れもなく嘘偽りだ。」
女は神が何か助けを差し出してくれるかと期待していたが、現実はそんな甘くなかった。
「神は古来から人間に試練を与えてきたのは事実だが、試練を突破した者は一握りで、それ以外の者はことごとく死んだ。」
女は神を伝えたいのかが皆目検討もつかずに耳を傾けていた。
「あの言葉は人間が都合の良い解釈に歪曲された偽の言葉だ。本当の言葉は、、、」
神は女に言葉を紡ぐ間にも不潔な男は刻一刻と確実に迫ってきている。
「神は乗り越えられない試練しか与えない。」
女は驚きつつも静かに話の顛末を聞く構えを貫く。
「神は初め人間に突破できるはずもない試練を与えた。その神は人間どもが出来るはずもない試練に立ち向かう無謀さを見て至福を満たしていた。いつも通りその神は人間に試練を与え続けた。その内容は神の身体に傷をつけること。大抵の人間は神に傷をつける前に武器の方が壊れ、まともなダメージを与えなかった。しかし、ある若くまだ成人のいかない小童が短剣だけで神の瞳の奥に消えない傷を残した。神はその偉業とその小童の瞳に宿る強き意思を評して英雄と名付けた。」
神は女に壮大な英雄の物語を聞かせている一方で、女は壮大すぎる話に呆気に取られていた。
そんなかでも、神はやたら長い話を聞かせ続ける。
「それが英雄の原点であり、君がなろうとしている姿だ。目の前にいる人間一人に何を恐怖している。この男を踏み台にして神をも犯す人間になれる君自身に恐怖しろ。君が殺す敵は神だと思え。そう思えば人間一人ぐらいに恐怖しなくなる。」
神の言う言葉の端々に女を勇気づけられる想いを感じさせた。女は勇気と同時に人生初めての実態のない言葉によって背を押された。準備は整ったのだ。恐怖という鎖から雁字搦めされた身体は今にも宙を浮きそうに軽やかで、この大地を蹴ってどこまでも行けそうな気さえした。縛っていた鎖はもうない。後はなるようになれだ。不潔な男は女に徐々に近づいてくる。
「ここにいたのかメスガキ!奴隷商人に渡す前にテメェの身体を隅々まで犯して、使いモノにしてから渡してやるんだから早く来い!!。」
不潔な男は奴隷商人に渡す前に女を汚してから渡して、性欲と金を両方を手に入れようとしている。満遍に放出された悪感情に女は恐怖するのでもなく気圧されることもなかった。ただただ満遍の悪を満遍の笑顔でお出迎し、女は走り出す。女を縛る恐怖はなくなり、今は純然なる歓喜と祝福を感じるだけ。いきなり現れた神みたく美しい男から紡がれた言葉一つ一つが私を新しくしていく。私の中に新しく感じる感情が生まれ、脳や体が化学反応していく。まだ名前すらわからない感情達に名前をつけてあげたくなっていた。私は今自分自身を巡っている感情に承認欲求という名前をつける。あの神みたく美しい男に認められ、頭を撫でてもらいたい。そんなことを思いながら女は走り出し、不潔な男と近づく。不潔な男はいきなり接近してくるとは思っていなく驚きに耽る中、女はジャンプし、不潔な男の贅肉にしがみつく。不潔な男から発せらる悪臭に鼻が痛みを訴える。まるで人間の醜さすらも腐敗した臭いだ。傍から見れば抱きついているように見えるだろう。不潔な男はいきなり抱きしめられたことに驚きはしたが、表情は驚きから性的なものに変わり、女をいやらしい指を軟体動物の足みたくグネグネ動かしながら、私を抱きしめ返そうとする。私は抱きしめられる前に不潔な男の服を蔦って、腹から頭の頭上へ登っていき、不潔な男の肩に太ももを載せ、肩車の状態になる。。不潔な男も性欲よりも命の危機を確かめたのか、私を頭上から離そうとしている。私は不潔な男の頭上の上から見える景色を眺める。神は女を見つめ、また女も神を見つめている。下から私を引き離そうとして一心不乱になっている不潔な男すら気にかけずただ夢中になって見つめていた。私は今あの人の瞳を独占していると思うとただただ嬉しかった。女はこの感情に独占欲と名前を付けるのはまだ先の話である。不潔な男が私を引き離そうとする手が私へ痛みを与えたことによって私は我に帰り、本格的にこの不潔な男を屈服させることに専念する。私は右手で不潔な男の首を私の方、つまり上方向に首を上げさせる。上を向いて、私と目が合う。私は不潔な男を見下ろす。圧倒的に身長差があった私が今不潔な男を見下ろしている。人間にはどうしようもできない生まれ持った不条理の壁を今私は覆している実感が、私の顔に笑みを発生させる。私は笑みを浮かべながら左手を竜の爪のような形にし、不潔な男の眼球目掛けて振り下ろす。
不潔な男から視界という世界が弾け飛んだ。




