閑話1 少年ラルスと犬のクロと少女トゥルーデ
本編関連頁 29 グンター、治水工事の隣で
その日もラルスは、虫が嫌いな草が生えている領主の館の裏手に忍び込んで、いつものように一本だけ草を千切った。
ここ数年、毎年ウドパラ川が洪水を起こすようになってから、夏季になると小煩い羽虫が増えたように思う。
中には人を刺す虫や、じめじめした場所に集団で住んで居るような、迷惑で不快な奴もいて、ラルスは虫除け効果のある草をこっそり取りに行く。
役に立つ草だが、他の場所では見なかった。余所では育たないのかもと思うと、むやみに沢山取るわけにはいかない。
それに、何と言ってもこの場所は、ご領主様の館の敷地内だ。建物の裏手で人目に付かないとはいえ、見つかったら大変である。出来れば長居したくない。
こっそりがさがさやっていると、クロがしきりに館の一角を気にするので、犬相手に小声で文句を言った。
「見つかっちゃうだろ。そっちは危ないよ」
しかし、犬の興味を引く物が何なのか気にはなった。だから、草を取った後クロの行きたい方へ行ってみた。
館の裏側の低木の茂る陰、地面すれすれに、子供の肩幅くらいの間隔で金属の柵がはまった窓があった。
クロはくんくん匂いを嗅ぎながら、白っぽい薄いカーテンの吊されたその窓を調べている。
カーテンが僅かに開いているところを見つけたので、ちょっとしゃがんで、その横長く細い窓をそっと覗いてみると、カーテンの隙間からこっちを見ている目とかち合った。
「!?」
「静かに、見つかるわ」
きれいな青紫色の瞳に少女の声。ラルスが手で口を押さえて頷くと、その目が満足そうに細くなった。
「だれ? 何してるの?」
小声で聞いてみると、同じく小声で返答された。
「ここから出られないかと思って」
「……無理じゃないかな」
柵が頑丈だ。それに、窓は横に長いが高さが足りなさそうに見える。頭が出られても体がどこかに引っかかりそうだ。でも、小柄だったり痩せていたら、通れそうな気もする。
「やっぱりそうかな。ねえ、そこは庭なの?」
「違うよ。ご領主様のお屋敷の裏だよ。庭なんて、僕、入れないよ」
「そっか。ここを出たら裏に出るのね……。ねえ、外からこの柵、壊せない?」
「え、なんで?」
「逃げるの」
目をこらして窓の中を覗いてみると、少女が居るのは薄暗い部屋だった。他にも人がいるようだが、こちらに背を向けており、誰も少女を気にしていないようだ。
他の人の背中がずいぶん低い位置にあるので、その部屋が半分近く地面の下に埋まっているのだと気が付いた。
少女は椅子を踏み台にしてその上に立ち、やっと頭が窓から見えているのだった。
「なに、この部屋」
「みんな閉じ込められてるの。あなた、ここ壊して助けられそう?」
言われて、周囲を見回したが、何も道具が無い。石さえも砂利程度の大きさしかなく、土ばかりで、あとは雑草が生えているだけだ。破壊の手助けになりそうな物が無い。
「出来なさそう」
それを聞いて、少女はがっかりした顔になった。しかしすぐキッと決意に満ちた表情になり、柵を両手で握って力任せに押したり引いたりし始めた。
びくともしなかった。
それでも、顔を真っ赤にして格闘しているのを見て、一緒に柵を握った。
「引っぱるよ」
「うん」
嬉しそうに少女が頷いた。その笑顔がすごく可愛らしいことにちょっとドキドキしながら、ラルス少年は手を貸した。
それから、押したり引いたり、蹴ってみたり、柵の根元を掘ってみたり、色々やってみた。
「駄目ねえ。腹が立つわ」
少女はむうっと口を引き結んで、手を離した。少女の手の甲には、赤く蚯蚓腫れがあり、それに続く腕にも細く赤い傷跡や、青黒い打撲跡がちらほら見えた。
どうやら日常的に打たれたりしているようだ。その割には、着ている物は清潔でそこそこ上等な淡紅色の衣裳だし、綺麗に金髪も梳かれている。
「金物だから、ナイフじゃ切れないしなあ」
一緒に考えながらもう一度左右を見る。やはり何も思いつかない。
クロが寄ってきて、尻尾を振ってきゅんきゅん鳴いた。
「犬……」
驚いたように少女がつぶやいた。若干青ざめている。
「あ、犬嫌いなの? 大丈夫、こいつは言うこときくから」
ラルスはクロの頭を撫でてみせた。
「……違うの。あなたの犬なの? ここの番犬じゃなくて?」
「そうだよ。クロって言うんだ」
「良かった。外へ出ても番犬がいるなんて、どうしようかと思ったわ」
少女はほっと息を吐き、犬に向かって手を出した。クロはその手の匂いを嗅ぎ、ペロリと指先を舐めた。
少女が笑顔になる。やはり可愛らしい。花が咲くような心地がした。
「あなたは、名前なんて言うの?」
「僕? ラルスだよ。君は?」
「私、ゲルトゥルーデ。トゥルーデよ」
「トゥルーデ。覚えた。明日また来るよ。何か道具持って来る」
「ありがとう。あ、来るなら今の時間にして。見張りがいないのは、今だけなの」
「わかった」
ラルスはしっかり頷き、約束した。
「絶対来る。頑張って」
「うん……うん!」
ちょっとだけ涙目になって、トゥルーデは何度も頷いた。
秘密と少女の瞳に胸がドキドキする。
ラルスはクロを連れて、今は家路を急いだ。
翌日、密かに家から鋸を持ち出して、挑戦してみた。
駄目だった。鋸の刃がちょっと欠け、思ったより凄い音がしてしまい、誰かに見咎められる前に大急ぎで逃げ帰った。
次に木製の円匙を担いできたが、当然無駄だった。子供のラルスが、重たい金属製の円匙を持って来るのは難しかったので、この選択だったが、金属の柵の下は石壁だ。土を掘っても意味が無かった。
今度は、と金属製の梃子をもってきてみた。ラルスが運べる重さの金物は、これが限度だ。しかし、勝手に持って行ったのを家族に知られたら、大目玉だ。金属品は高価である。
結果は徒労に終わった。理由は力不足である。
口惜しそうで悲しそうなトゥルーデを見るにつけ、何とかしたいと思うもののどうにも出来なかった。
「ごめんね、無理そうだ」
謝るとトゥルーデは首を振った。
「ううん。ありがとう。別の方法を考えてみるわ。絶対に諦めない」
「そっか。何か手伝えそうなことがあったら、言ってよ」
「うん」
それから、ラルスは暇を見つけたらトゥルーデの元へ通うことにした。
最初の出会いから十日近く経った頃、ラルスはトゥルーデが包帯を巻いているのに驚いた。
そして、窓から外を見るため、いつも踏み台に使っていた椅子の代わりに、小さめの脇机に乗っていた。
「っ、その怪我どうしたの?!」
「負けちゃった」
「え、どういうこと?」
「部屋の入り口に居た見張りを、やっつけようと思ったの」
は? とラルスが口を開けたままぽかんとすると、トゥルーデは説明をした。
「最初に椅子で入り口の戸をがんがん殴って壊すのは、上手くいったんだけどね。見張りが思ったよりも強くて。戦ったけど、ちょっとかなわないってわかったから、とりあえず逃げようとしたの。でも、館の中が複雑でよくわからなくて、捕まっちゃった」
地面にしゃがみ込んだまま、ラルスは「えええー」とうめいた。とんだお転婆お嬢様である。
「危ないよ! 怪我するよ、って、それで怪我したのかぁ……」
「失敗したわ。もっと強くないとだめね。護身術じゃなくて、お兄様と一緒に武術を習っておけば良かったわ」
「ごじん術って、なに?」
「ごしんじゅつ、よ。ええと、人さらいとか、悪い奴から襲われたときに、身を守る方法のことよ。……例えばこんなのとか」
言いながら怪我していない方の腕を曲げて、肘をグッと押し出す真似をした。肘鉄というやつだ。
「へーえ。……あ、姉さんも出来るよ! 前に、酔っ払ったご領主様の私兵に肘を当てて、僕を引っ張って逃げたんだよ」
「逃げるだけなら、それで何とかなるかもしれないけど、それじゃ、倒せなかったわ」
少女は口惜しそうに唇をかんだ。
「そういや、何でみんな閉じ込められてるの?」
今更の質問だった。
「皆、領主様のご子息に、脅されてるみたい。なんで脅されてるのかそれぞれ違うみたいだけど。許して欲しかったら、将来ご子息の愛妾になれって言うの。最低だわ」
「ふうん。あいしょうっていうのになるの、嫌なんだ?」
「嫌。だってご子息様なんか、大嫌い」
「そうなの? でも、ご子息様はえらい人なんでしょ?」
「身分はね。偉い公爵家の息子だけど、嫌な奴だもの。怒鳴るし、叩くし、意地悪なの。そんな人の愛妾なんて、ごめんだわ」
えらい人なのに嫌な奴なのか、とラルスはがっかりした。ご領主様とおんなじか。
次の領主になる人が嫌な奴だと、生活がもっと苦しくなりそうで不安だ。
ラルスは初めて誰かを……何回か窓越しに会っただけの囚われの少女を、助けてやりたいと思った。




