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生者の走馬灯

作者: 別津

 私は「変人」なのだろうか。変人の心理は、変人にしか理解(わか)らない筈なので、考えてもムダなことはもちろん承知しているが、どうにも一度気にしてしまうとスルーできないのだ。自らを振り返ってみれば、かなり幼少のころから同じテーマについて考え、答えを出せぬまま、ここまで来てしまっている気もする。

 私は日本という島国で生まれ育ち、早二十数年は生きてきてきた。日本人は空気を読む人種とされているらしい。ならば、その特質が少しぐらいは私にも入っていても良いはずだろう。が、他者の心など読めた試しがない。むしろ、空気を読むのが得意であろう他者から、「不思議な人だよね」と(いぶか)しがられる。やはり、私の心理は人のモノとかけ離れているらしい。そもそも、このような無意味な考察をしている時点で、やはり私は(こじ)れた変わり者なのだろう。




 周りの人はどうして笑っていないのだろう。なのに、僕はどうしていつも笑っていなきゃいけないのだろう。また、下校中に変なことを考え始めてしまった。先生は、僕が明るい顔をしていないと心配していたけれど、周りの大人が、テレビを見るとき以外で笑っているところを、あまり見たことがない。確かに、周りの子は元気ではしゃいでて、授業中でもしょうもないことで笑っていた。笑う所がわからなくて縮こまって、授業中も真面目にいようとするような子がいじめられるのも、当たり前なのかもしれない。周りの親戚は、真面目で大人と同じぐらい気を遣うからと、僕をよく褒めてくれる。ただ、外の人には「子供らしくなくて可愛げがない」、「子供が大人ぶって賢くいようとするのはやめなさい」なんて言ってくる人もいる。どうして他人の子の僕にそんなことが言えるのか不思議だけど、世の中から見た僕は、そんなものなのかもしれない。

 そもそも、なんでこんなことを考えていたんだろう。大人は常に笑っていなくても良いのに、子供は可愛い子ぶって無邪気に笑わなきゃいけないのに腹が立っていたから?それとも、周りに合わせて笑えないのがつらいから?単純にいじめられるのがイヤなだけ?どれも合っている気がするし、もっと他にモヤモヤしていることもあった気がするけれど、はっきりとは良くわからない。そんなことを考えているうちに、家に着いてしまった。

 僕は、今、元気に振舞えているのだろうか。これからも笑顔でいられるだろうか。




 私は今、この高校に進学して良かったのか悩み始めている。文武両道を掲げた進学校ではあるが、年々学校のレベルが下がって、自称進学校に近づいているのは肌で感じている。先生方はもちろん熱心で、休みがちな私のことも気遣って下さるので、感謝はしている。ただ、下着の色だの髪の長さが何ミリどうだの、変なところに気を遣う割には、黒板消しはズタボロで使い物にならず、チョークはほぼ常に足りないので、しょっちゅう授業が止まる。体育に至っては、教官室の雰囲気は最悪なので、体育の授業連絡は有って無いような始末だ。こんな有様で良い学習環境などと言えるものだろうか。

 臨時集会中にも関わらず、そんなことを私は考えている。講演会は今月二度目なので、正直ややウンザリしているが、もちろん優等生キャラではあるので、メモはしっかり取っている。そもそも、授業の時間が足りないというのなら、よくわからぬ外部講師を真夏の体育館に呼んで、午後の授業をつぶすのを止めればいい。某自動車メーカーの生産方式やら、T県K町の葉っぱビジネスの話なんぞ、5年も前からテレビで散々見たわ!

 講演会の締めに入ると、毎度の如く、若者に希望と責任感を持ってほしいとの話題に突入した。自分たちの時代と違ってSNSで気軽に発信できる、やりたいと思ったことがすぐに実現できる社会になった今こそ、輝ける若者には、社会人としての責任感を胸に、経済を引っ張ってほしい、とのことだ。

 言わせてみれば、厚かましい論調だ。若者の私からすれば、失われた30年を作り出し、少子高齢化を進めたのも、バブル期にロクに将来への投資をせず、自由な発想を持つ子供とその保護者を冷遇してきたのも、全部大人のやったことだ。社会人になる以上、責任を負う立場になることは重々承知しているが、前の世代の尻拭いをするほど、お人良しにはなりたくない。便利なネット社会を享受しているのは今の大人も同じなのだから、若者に押し付けようとせず、自分たちも社会を引っ張ってゆくのだという自覚を共に持ってほしいものだ。そういう気概もないのにドヤって講釈垂らすのが、どうにも素直に聞き入れがたい要因なのだろう。

 最初の話に立ち返れば、入る学校を間違えたというより、社会人養成訓練校と化した「高校」という存在が好きになれないのだろう。こんな調子の私にも、「社会人」とやらになって、「社会」の一部になれるというのだろうか。




 私は、遂に今年「社会人」になった。あの嫌いで嫌いでたまらなかった「社会人」に。大学時代は、相変わらず勉強一本に絞った生活で、アルバイトも部活動も経験しなかったが、恥とも何とも思っていない。社会人経験が薄いことは自認しているが、職務経験も、職が変わってしまえば、100%全て役立つわけではなくなるだろうし、勉強してきたことが、社会人生活に1%も活かせない、というわけでもないはずだ。部活動も立派な成果になるのかもしれないが、自分が好きなものを選んで熱中するといった点では、趣味や勉学でも同じことで、部活動での経験こそ必要不可欠と言われるのは、やや承服できない。このような調子のまま、大人になったというわけである。


 さて、私は今「社会人」ではあるのだが、正確には休職中である。職場の同期や先輩方には大いに恵まれ、感謝の念しかない。まさか休職することになろうとは思ってもいなかったほどに、良くして頂いていた。それこそ、部活動なぞ経験せずとも良好な人間関係を築けるのだと、嬉しく感じていたぐらいだ。業務もキツかったが、「そんなに頑張ってキツくない?新人のうちに気を張らなくても大丈夫なんよ」といったような、ちょっとした励ましの言葉1つで頑張れた。ただ、勤務地変更があったり、研修期間が短かったりと、今に思い返せば、環境の変化に弱い私にとって、厳しい環境ではあったようにも思う。

 ある日の帰りに、店員さんに目を合わせられなくなっている自分に気づいて以来、対人恐怖症ぶりが急に現れ、みるみる心が弱っていくのを感じた。なんならば、心に「ミシッ」とヒビ入って折れる音すらした。本当に音がするんだと、一人驚いたことは一生忘れないだろう。


 こうして知らぬ間に心を病み、ある意味トントン拍子のスピードで休職まで至ったわけであるが、今の私にはもう一つの悩みの種がある。それは愚痴を言える相手が一握りほどしかいないことだ。厳しい社会にいるのは私だけではない。むしろ、より厳しい世界で頑張っている人だって大勢いるだろう。私の場合なんて平均から見れば軽いものだった、という可能性も十分に有り得る。そう思うと、なかなか他の人に相談しようとはなりづらいのだ。事実、長年激務をこなしてきた父も、遂に弱音を吐くようになってきたし、私よりよっぽど社会人らしい周りの友人らから、メンタル不調の話を聞くこともかなり増えた。

 私はともかく、まっとうな人間すらも心に苦しみを抱えて生きる世とは、精神の健やかな人の方が稀な世であるとは、此れは如何にか。




 私は「変人」なのか、休職で空いた時間を使って考えてみたが、これまでの自分を振り返ってみても、やはり答えを出せていないし、出てきそうもない。ただ、「『大人』になる、『社会人』になることとは、苦しみを抱え続けねばならぬことと同義である。」というのが、数十年もの間、何かを失い続けた現代社会の定理として機能してきたようだ。やはり私は、この「社会」を好きにはなれない。ただ、この社会を形作ってきた人々までもを嫌いになることはできなかった。その人々こそが私を形作ってくれたのだから。こんな矛盾を抱えながら生きてきた私は、やはり「変人」なのかもしれない。

ご一読下さり、ありがとうございます。

初投稿でしたので、右も左もわからぬまま、投稿させていただきました。愚筆ではございますが、この文がどなたかにとって僅かでも意味のあるものになれば、幸いです。

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