上
じょー
真っ赤だった。
鉄臭くて、
生暖かくて、
わからなくて、
最悪で、
最凶で、
表現なんて出来なくて、
何が何だかわからないくらいに、ぐちゃぐちゃに。ばらばらに。跡形もなく。
――ただ、人が殺された跡だった。
血の海とか、死体の山とか、そんな生易しいものなんかじゃなくて。
そこは、――死体の海だったのだ。
機械の廃棄によるジャンクヤードの人間版。胸糞悪くなるとかあまりの気持ち悪さに吐瀉物撒き散らして泣きわめくとかそんなよくあるヒューマニズム的なもんではなく、沸いてくるのはもう、自分ではどうしようもないものを前にしてしまった絶望。
どう頑張ったって助かる見込みもなければ、どうしたってここから生きて帰ることは出来ないだろうという中途半端に生存本能捨てて半端な知性や理性とか社会基準の常識なんぞを身に着けちまった人間の脳内を駆け巡って犯してぶっ壊してくれちゃう、絶望感。虚脱感。そんで最後に走馬燈。本当に色々。
ここで殺されたのだろう兄のこと。
残された奥さんと甥のこと。
その甥の幼馴染みの何か頭がおかしい女の子。
あとついでに友達のとあるヤクザんとこの優しい男の子。
何かもう色々と思い返すのが面倒なんで以下略ってことにして皆さんへ。
俺、死ぬわ。
簡潔にして単純でなんてつまらない字面だろうね、まったくよぉ。
諦めて内心で悪態付きながら、ズルズルと俺はその場へと自ら踏み込んで、そのバラバラ死体の海の中心で寝ているそいつへと近付いていく。いいさ。もともと俺はここにどうしても片付けなきゃなんねー用があって来たんだからその後のことなんてどうでもいいんだよ、なんて後悔してたくせに生意気にもカッコ付けて開き直って。
「起きろ―――殺人鬼」
そいつを蹴り起こす。
ああ、やっぱ早まったよ俺。
「う……うん?」血塗れでぐしゃぐしゃになった赤黒い袖で汚れた顔だか目元を拭いながらそいつはうろんな動作で身を起こして俺を焦点の合わない目で見ながら「……どちらさま?」
起き抜けの目やにだか汚れがなかなか落ちないのか、未だにぐしぐしと目元を擦って、余計に顔を汚しながら「うあー」なんて投げやりに呻いてやがる。
ああ、もしかしたら間違えたか? いや。間違えてなんかないだろう。と無駄に反語を使ってみる。どうでもいい。
「ねえ。おじさん、どちらさま?」
舌足らずな声が尋ねてくる。
「まだ『おじさん』なんて歳じゃねーよ」
甥っ子がいるだけに微妙に否定し辛いが、歳的にはまだ大学生でも通用するため俺はまだそんな歳じゃないと思う。思いたい!
「んで、けっきょく誰……? 何なのいったい?」
そんな俺の心の主張を当たり前だが軽く無視して、めんどくさそうに訊いてくる。
彼女としては自分の住家で寝てるとこに不法侵入者がいきなり堂々と現れて快眠中に蹴りを入れられ叩き起こされたわけで不機嫌は最高潮に達していることなのだろう。お前だって不法侵入者のくせに。
「ねーえ、答えてよー」
俺の服の裾を掴んで引っ張りながら駄々をこねる子供のように喚くそいつ。子供か。いや。子供だけども。
「んー……」
何か調子が狂ってしょうがねえな、なんて今さら輪をかけてどうでもいいことを思いながら、いちおう、本当にいちおう確認のために訊いてみる。
「お前、本当に殺人鬼なわけ?」
「うん」
即答。肯定的。こっくんと首肯。
えー。マジでこんな子供が噂の殺人鬼なんかよー?
とか思っちゃったりしなくもないけどそれは即否定。周りを見ろよ俺。こんな惨状の中で堂々と寝れるやつとか生活できるやつとかむしろ生きてられるやつとか目の前にいるコイツしかいないじゃん。きっとコイツで間違いないんだよ。うん。きっと。
でも、やっぱりいちおう確認。
「お名前は?」
「わたし? わたしの名前は、斬原流香」
うーん。やっぱり間違いないんだよなぁ、なんて思い返しているうち。そいつは改めてもう一回。
「わたし、殺人鬼、またの名を病原菌、斬原流香でございます」
そう名乗った。
名乗って、それから。
ごく自然に、当たり前のように、深呼吸でもするように、
「え」悲鳴さえ上げる暇なく「あれ?」戸惑いさえ後から「……おい」文句さえ口に出させてしまうくらい余裕を持って。
――俺を刺した。
こう、ぶっすりと爪から指を。ずぶずぶと。気が付いたらいつの間にかしゃがまされて。同じくらいの目線の高さにある斬原流香が、俺の首を。ずぶずぶ。ぐちゃぐちゃと。いじくり回しながら、
「それじゃあ遊ぼうか、――殺人鬼さん」
そう、不覚にも惚れてしまいそうになる、愛らしい笑顔で言ったのだった。
…………。
■■■
それから、
「何で……? 何で何で!? ありえないぃぃぃぃぃぃいいいい!」
そいつ、斬原流香はいきなりそう言って喚いて絶叫しまくって死体の海の中を転がり回って無意味に身体を汚し始めた。もう服なんて辺り一面の血液やら体液やらがむらなく染み付いて乾いてパリパリだかバリバリしてる黒に限り無く近いとっても汚ならしい焦げ茶色になってて元の色やら質感がどんなものだったのか。そもそもあれは何? ワンピース? ツーピース? スカートっぽいってのはわかるんだけど、上から下までパリパリバリバリしてる上に錆臭くてもうわかったものじゃない。
ゴロゴロといつまでものたうち回ってらっしゃる斬原流香を眺めた後、いい加減にもう見当違いもいいとこだったんで帰ろうかと腰を上げてここを出ようとした途端。
「待って! 帰らないでぇ!?」
「…………」
なんか、泣き付かれた。
こともあろうか、巷ではけっこう噂になってらっしゃる殺人鬼に。
……んーと、何だろうね、この状況。
「とりあえず、」
泣き付いてきた斬原流香をひっぺがし、汚れに汚れまくってる床にいったん座らせて、落ち着くのを待ってから、
「ばいばーい」
「え」
油断していただろう斬原流香の無防備に潤んだ二つの瞳に向かってチョキで目潰し。
「ぎゃああああああ! 目が!? 目がああああああああ!?」
再び床をのたうち回る斬原流香を尻目に俺はその場を後にし、全力でそこから走り去ったのだった。
どれくらい走り続けたのか忘れて、肩で大きく息をしながら振り返る。斬原流香が後を追いかけてきている様子はなかった。
全力で走り、元いた殺人鬼・斬原流香の住家である街外れの森の奥にある元豪邸、現廃墟からだいぶ離れて街の大通りに出て。田舎町特有の大通りでも人通りが並々な中を息を整えながらゆっくりと歩き、度々振り返ってはため息を吐いていく。
端から見たら完全に挙動不審な様でありながら、それをあえて無視して(とはいって自分のことなんで到底ムリな話だが)久々に走って棒のようになった足を休ませるために近くのファーストフード店に入って休憩を取ることにした。
思えば、昨日の夜から何も食べちゃいなかっただけに腹が減っていた。
死ぬ覚悟だっただけに死んだ時に糞尿たれ流しで放置されるのが死ぬよりも怖くて恥ずかしいんじゃねえか、なんて呑気なんだか剣呑なんだか自分でもよく分らない考えを持って昨日は夕飯を食べてなかったからなぁ。結果、こうして生き残ってお腹を減らして普段は絶対に口にしない朝マックなんぞを食いに来てるわけだが。
「そういえばハンバーガーとか嫌いなんだよな、俺」
じゃ、来るなよ。とスマイル無料のいつもニコニコの店員さんからガン飛ばされてもしょうがないようなことを宣いながら朝メニューを見る。……マフィン? 何それ? ハンバーガーとどう違うわけ?
基本的に肉よりも野菜を好む俺としては野菜分がケチャップとピクルスとみじん切りのタマネギがちょっとしか入ってなくて肉が油っぽくぽんと入ってるバーガー苦手な俺にも優しいものだったら嬉しいな。……そんなわけないか。若い子受けするにはとにかく肉を盛ることだもんね。クォーターパウンダーとかそのテンプレじゃん。
「コーヒーとポテト」
ビバ百円マックって感じで暖かいコーヒーと野菜分と油分で構成されていて油分過多なポテトを購入。計二百十円を支払ってコーヒーとポテトを受け取り早朝のためガラガラな店内のテーブル席の一つに腰掛ける。カウンター席とか一人用のとか、窓の外から人に見られたりの見せ物みたいでなんか嫌だから。まあ、席も空いてるんだしいいでしょう、と。
座って、コーヒーを啜って、穏やかな一時をここに居座りながら送る気満々で、息をつく。
「死ぬ気で、だったんだよな……」
ぽつりと独白を漏らして、天井を見上げる。無駄に陽当たりがいい店の店内を無意味に明るく照らそうとする白い照明に目を細めながら思い返す。
心から愛していた恋人が殺された。
敬愛してた兄が殺された。
犯人の名前は斬原流香だ。
斬原流香は街外れの廃墟に住んでいる。
それからは、昨日のこと。俺は死んでもいい、むしろ死ぬ覚悟でそこに行き、後悔し、絶望し、それでいて無様というかバカらしいというか、とにかく生還してしまった。
本当に、どういうわけだか。
果たしてこれは運が良かったのか悪かったのか、神のみぞ知るってオチにしても随分と出来の悪い結果になってしまったもので。
けっきょく、昨日一晩で俺は何も出来なかったし、何もされなかったのだ。本当にマヌケなことに。死ぬ覚悟なんて形だけで終わってしまったのだった。
「本当、マヌケだよな、俺ってさぁ」
冷めてくたくたになったポテトに囓り付き、独白。
まぁ、なんつーか、とりあえず。
「あーあ、空とか飛びてぇなあ……」
意味もなく、無駄に思い付いたことを呟いて、
「……っとにさぁ……」
ちょっと自己嫌悪の時間になった。
なんかもうブルーな気持ち全開になりながらもそもそとポテトを頬張りコーヒーで流し込んでからコーラにしとけばよかったと後悔してさらにブルーな気持ちに。もう藍色もぶっちぎりの真っ青。
ちょっとの休憩のつもりが予想外に自分自身でダメージ受ける結果になってしまった。
それから気持ちの切り替えに小一時間。
あんまり居座って店員に顔を覚えられても嬉しくないため、早朝から朝と言えるような時間になり人入りも多少は出て来たのを期に店を出た。
自宅のボロアパートへと向かいながら道中コンビニへ。買ったのは野菜スティックとBLTサンドとコーラ、ついでにペーパーバック版のブッタとジャンプ。そういえば今日は月曜だったな、なんてどうでもいいことを思い出しながらレジへ。
レジにいた店員が中学生時代のクラスメートだったがたぶん向こうはこっちに気付いちゃいないだろうと勝手に解釈しながら金を支払い商品を受け取った。
コンビニを出てから煙草をくわえて一服、……といきたいところだったがライターがない。どうやら無くしてしまったらしいことに今更気付く。一週間ほど吸ってなかったため、無くしたことにまったく気付かなかった。
一服したかったのだがライターを買うためにまたコンビニに引き返すのも気が進まず、一度くわえた煙草を戻してしまった。帰ればガスコンロか何か、とりあえず火の一つや二つくらいはすぐだろう。いざとなれば建物を燃やしたっていい。
帰りがけに我が家であるボロアパートの隣人がスーツ姿で横を通り過ぎていったが互いにかける言葉はない。それが暗黙の俺らのルールってことにしといて。
やっと着いた自室、201号室の防犯、空き巣対策にはあってないような鍵をガチャガチャと回してあけて入りいちおう鍵を閉めて、ワンルームしかない中、年中無休で働いている妙に硬い布団の上に寝転んで今度こそ休憩。一休み。
「今ならきっと空も飛べるはず……」
とか何とか。
無意味にトリップしてイきまくっちゃってることを一人呟いて。
無気力と虚脱感が臨界点突破してるんだろうなぁ、昨日から無意味に頑張って空回りばかりだもんなぁ。マジでカッコ悪ぃな俺。と最後の最後に何だかもう覚えちゃない曖昧模糊で私利死滅なことを思いながらぷっつんとそこで意識は途切れる。
つまり、おやすみ。
…………。
「起きろよ―――自殺志願者」
寝ている時にいきなりテンプルをぶち抜く衝撃に襲われ、驚きに俺は声にならない悲鳴を上げた。
「な、なんだ……?! 敵襲か! 敵襲なのか!?」
「なんだとは随分な反応じゃないか」
微苦笑混じりに言ってくれるはいつもの如くこのボロアパートの十人にして紅一点……などではなく、惜しげもなく晒された浅黒い肌にメキメキ割れた腹筋を晒す上半身裸にジャケット一枚羽織っただけのラフを通り越してむしろキツい格好をしたオッサン。
「何の用だよ、屑桐」
「遊びにきてやったんだよ、九条」
ぬけぬけとそう言って勝手にコンビニの袋を漁ってやがるこの男。
屑桐楽冗。
このボロアパートの住人にして最悪の空き巣。
今日も勝手に鍵を開けて勝手に部屋の中に入ってきやがった。空き巣のくせに家主がいる時に入って窃盗の現行犯見られるなんて空き巣失格だろうに。屑桐はそんなこと一切として気にせず世間話でも切り出すみたいな口調で言った。
「噂の殺人鬼、斬原流香に逢いに行ったんだってな」
「お前それ、」
「うん。面貫から聞いた」
悪びれる様子もなく、俺が言い終わるよりも前にあっさりと答えられた。
てか、やっぱりか、あの超絶おしゃべりストーカーめ。
「いつも思うんだけど、アイツはいつもどこから見てるんだろうな」
「さてね、そんなことよりもだ」
今度はまともに聞いてすらももらえず、屑桐は変わらぬ口調でまたあっさりと聞いてきた。
「お前、斬原流香に逢いに行ったってのは、アレか? 死ぬつもりだったのか? アレに自分から逢いに行くなんて朝の通勤ラッシュで慌てふためくリーマン達を無視してホームからスキップで電車に飛び込むよりも酷い自殺だぜ?」
「んー……」
死ぬ覚悟ではあった。
なんて言ったらこの屑桐という男は俺をぶん殴って全力で説教タレてくれることだろう。それだけは今のうつらうつらな俺として勘弁願いたい。
何せ、普通の自殺よりも質が悪いものなのだから。いや。自殺に普通とか質が悪いとかがあるのか知らないけど。
「そんなことをぼんやりと考えつつ、俺は説教されるのが嫌だから違うと言ってみることにした。まる」
「全部口に出てるよバカ野郎」
うん。わざとだけどさ。
すっかりと毒気を抜かれてしまったのか、肩をすくめて息を吐き、
「本当に死んぢまったらつまんねーぞ、自殺志願者」
「自殺志願者じゃねーからその呼び方はやめろよ、空き巣」
最後にニヤニヤと嫌な笑みを残して屑桐は部屋を出て行った。朝に買ったコーラを盗って。
「けっきょく何なんだろうなぁ、アイツは……」
根は他人を思える良い奴のくせに人のものを盗ることにはまったく遠慮のない空き巣野郎。未だにアイツが良い奴なんだか悪い奴なんだかよくわからない。
まあ、ぶっちゃっけ、どうでもいいけど。
屑桐の話があれだけだったのならもういいわけで。
今度こそ、ゆっくりおやすみといきますか。
…………。
「起きてよ―――自殺志願者」
寝ている時にいきなりテンプルをぶち抜く衝撃に襲われ、驚きに俺は声にならない悲鳴を上げた。
「な、なんだ……?! 敵襲か! 敵襲なのか!?」
と少しだかけっこうだか前に吐いたセリフをリピートしながら俺のテンプルにトゥーキックをかましてくれたのであろう目の前にある足を引っ掴んで「なんて言うと思ったかこの空き巣野郎!」持ち上げて足をすくって転ばせて思いっ切り床に叩き付ける!
「んなああああああああああ!?」
鼓膜をぶち抜く甲高い絶叫。
俺のとっさ過ぎる反撃が予想外過ぎてまったくの受け身を取らせることもなく空き巣野郎を背中から床に叩き付けて朝だか昼間のボロアパート中に轟音を響かせる。
「…………あれ?」
そこまで遠慮なし躊躇なしにやってから初めて気付いた。
「誰だ、コイツ?」
床には見知らぬ女の子が白目を剥いて泡吹いて寝ていた。屑桐じゃなかった。
てっきり屑桐がまた来て遊びに来たんだと思って相手を確認なんてせずに思いっ切り叩き付けてしまったのだけれども。もしかして俺が床に向かって思いっ切り叩き付けたのはこの女の子?
「やべ。間違えた」
棒読みで自分の失態を認め、とりあえず白目剥いて眠ったまま動かない女の子が風邪をひかないように愛用の万年床である布団で簀巻きにしてガムテープで目貼りした後、首から上だけ引っ張り出して呼吸は出来るようにした後、部屋を出て右隣りの部屋202号室へ。
「病田さんいるー? いなかったら昼寝させてー」
インターホンなんてないボロアパート故に入る時はこんな洒落た挨拶なんぞを一つ。
「いるわよ。いるからうちで昼寝なんてしないでちょうだい」
返ってきたのはそんな不機嫌そうなしゃがれた声。また遅くまで酒を飲んで酔い潰れたに違いない。
「とりあえず上がらせていただきますよ」
「帰りなさいよ、バカ」
扉を開けるなり酒臭い空気に思わず眉をしかめる。
この部屋の主人は小さなベッドの上にぐったりとスケスケのネグリジェ一枚で横たわってらっしゃっており、せっかくの美人が台無し。
「ったく、こんな格好今をかける若い男に見られたくなんかないのに……」
口では忌々しげに拒絶しているが口だけ。どうやら二日酔いで動くのは億劫らしい。 俺は苦笑で答えて窓を開ける。俺がここに居座るには換気がものすごい必要だったので了承なんてとりもせずに。
気持ちの良い爽やかな風が吹き込む。
「それで、何で珍しく九条君の方から来てくれちゃってるわけ? よりにもよってこんな現状の時に」
病田さんは今さら気にするような間柄でもなしに気怠げに身を起こしてそう言った。起き上がったさいに少し傷んだ金色の髪がバサバサと流れた。
せっかくの美人を目元のクマやら汚れっ面やらで台無しにしまっているこの人、病田晶は隣人のアルコール中毒者だ。医者からもうこれ以上飲むなと止められ医者を殴り飛ばして近所の病院から出禁を食らった経歴を持つほどのジャンキー。本当に救いようがねえ。
「っんとにさぁ、いつもは誘ってやってもなかなか来ないくせにさぁ……。何もこんなカッコ悪いとこに来なくてもいいじゃないの……」
「そりゃあ、ねえ?」
皮肉られてるとわかっていながらテキトーな相槌を打って、ゴミが散乱してる床に無理矢理スペースを作って腰を下ろした。
「大丈夫ですよ。病田さんは二日酔いしててもお綺麗ですから?」
嘘だけど。
「顔、笑ってるわよ」
「生まれつきこうゆう顔ですよ」
肩をすくめて濁して笑ってやる。病田さんがますます不機嫌そうな顔付きになっていくけどそれだけ。いつもみたいに殴りかかって来れるような状態ではないらしい。
コイツは二日酔いどころか重度のアルコール依存なんじゃないかと思うね、俺は。
「しかしまぁ、昼寝ねえ? 今日、予備校は?」
「休み」
正確には自主休講だけど。
「何で自分の部屋で寝ないの?」
「見知らぬ怪しい女の子がいるから」
「………は?」
なんか怪訝な顔で見られてしまった。つまらない冗談言ってるわけじゃないのに。むしろ真正直に言ってるのに。
「九条君のとこに女の子……? なに、ついに幻覚症状でも出た?」
「アルコール中毒者のアンタと一緒にするな」
少なくとも俺はコイツよりはまともである、はずだと思う。
「嘘だと思うならちょっと水飲むついでにうちの部屋を見て来なさい」
「うん」
なんか素直に頷かれてしまった。あれ? 予想外の展開。てっきりメンドーだとか言ってそのまま寝たきりだと思ってたのに。
「じゃ、ちょっと水もらいに行ってくる」
ズルズルと身体を重そうに引きずりながら立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足取りで病田さんは部屋を出て行った。もしかしてただ単に水が飲みたかっただけなのかもしれない。だったら別にここでも飲めたんじゃないかと思うがまあ、言う間もなかったんだからしょうがない。
それから数分。
「九条君の部屋に怪しい簀巻きの女の子がいたんだけど」
すっかり酔いの覚めたご様子の病田さんが帰ってきた。ご丁寧に俺のマグカップを片手に。
それも珍しいことにけっこう驚いてるご様子で。
「なに、何なのあの抱き心地の良さげな装備」
「あれは俺が装備させました」
どっかのRPGの最初の防具である鍋の蓋よりは防御力は高そうだ。攻撃力が格段に下がるだろうけどそこは御愛嬌。
「しかも気持ち良さそうに寝てるのは装備アビリティってやつ?」
「それ別のゲーム。あと寝てるのは装備アビリティじゃなくて素で寝てますよ」
気持ち良さそうに、とは思えない寝顔だったと思うけど。
「てか何、どうしたのアレ?」
「勝手に部屋に入ってました」
「寝てるのは?」
「俺が力技で寝かせませた」
「ちなみに知り合いだったり?」
「さっき言いましたが彼女は見知らぬ怪しい簀巻き少女です」
簀巻きにしたのは九条君じゃんと最後に言って、俺は苦笑で答えて会話は終了。
あんな得体の知れない簀巻きがいるんじゃしょうがないとの理由と俺があどけない少女に欲情しないようにとの理由により病田さんの部屋に居座ることは認められ、俺は背を壁に預けて座ったまま寝ようと。
うつらうつらときた頃に病田さんが声を掛けてきた。
「九条君ベッド使っていいよ」
「嬉しい提案ですがそのベッドはもう病田さんが使ってるじゃないですか」
「一緒に寝ればいいじゃない」
「謹んで辞退させていただきます」
寝ゲロでもかけられたら堪ったもんじゃない。
「こんな美人と寝られる機会なんてそうそうないくせに勿体なーい。これだから童貞は」
「それ、童貞関係ないですよね?」
いや。知らんけど。
絶対とは言い切れない弱さが俺にはあるけど。
だって童貞だし。
「とにかく、俺みたいな社会不適合者で浪人生で童貞は美人のお兄さんと一緒に寝るなんて光栄過ぎるので辞退させていただきます」
「辞退までは許すけど『お兄さん』までは許さん」
コンビニ袋をオーバースローで投げ付けられた。中に入ってたジャンプが致命傷になりかねない。BLTサンドはぐちゃぐちゃになって御臨終。つか、これ俺のじゃん。
「次から気を付けます」
「ん。次から気を付けなさい」
袋の中から野菜スティックを取り出しポリポリと囓りながら反省。そうだったそうだった。皆様のお姉さんはお姉さんであってお兄さんではなかったのだ。外見的に。
潰れてトマト分がべっしゃべしゃになってて何だか見た目がものすごく悪いことになってるBLTサンドを咀嚼。味はまあまあだけど食感が悪過ぎる。何だこのべちゃべちゃ。
「それで、これからどうすんのよ?」
「ここでお昼寝タイムですよ?」
「そうじゃなくて、」冗談だとわかってもらえなかったのかちょっと苛立ったような声で「いつまでもあのままってわけにもいかないでしょう?」
「ええ。まあ……」
はい。なんて曖昧な相槌だろうね。
あの簀巻き少女のことをどうするかと聞かれると、むしろどうすればいいんだよと聞きたいわけで。
「とりあえず今週のジャンプとブッタを読んでから考えますよ」
結果、先送りにするのであった。まる。
■■■
「ほぉぉおどぉぉおいてぇぇぇぇぇええええ!?」
どっすん、ばったん。
「あ。起きたかな」
「起きたんじゃないですか?」
隣りの部屋、もとい僕の部屋から薄い防音性なんてまったくない壁を通り抜けて何とも怨みがましい唸るような声と何か軟らかそうなものが弾み回るような音が聞えてきた。
「見に行かなくていいの?」
「向こうが落ち着いてくれた頃に見に行こうと思います」
それに今はブッタがブラフマンから聖痕をいただいたかなり良いところなのだ。簀巻きが暴れて埃立ててる光景よりも絶対に優先して読むべきだと俺は思う。
「ブッタなんて小学校のうちに読んどけばよかったじゃん」
「俺のいた小学校には手塚作品はブラックジャックとトリトンしかなかったんですよ」
叶うならば火の鳥やジャングル大帝の方が読んでみたかったのだけれども。本当に個人的にだが。
そんなことを思いながら読んでいるといつの間にか読み切ってしまっていた。ペーパーバックじゃこれからというところで……!
「……はぁ。しょうがない。ちょっくら見に行ってきますか……」
ブッタも読み終わってしまったし。ちょうどいいことに隣りの部屋から息切れっぽい呼吸音が聞こえ始めたし。てか本当に壁薄いのな。
「いってらっしゃーい」
「はいはい」
と、他人事でしかない病田さんは付いて来る気さらさら無しで見送り一つ。
しょうがないので一人で自分の部屋に入り、その瞬間に呆れた。
「ひっ……ぐ……うぅ……」
「…………」
うーわー。
布団の簀巻きが床に転がりながら啜り泣いてやがったよ。さっきから随分と大人しいなぁとか思ったりもしなくなかったけど、まさか泣いてるとは……。
「病田さぁん、泣いてる女の子を笑顔にしちゃう便利で素敵な魔法を教えてー」
壁の向こうをノックしてお願いすると理想の魔法が。
「後でロリ系のAV貸してあげるぅ」
うわぁい。最低の魔法だぁ。
「……最低ですね」
「いや。見せないよ?」
「アナタのことじゃありません」
「あ、そ」
ぴしゃりと言われてしまった。
まあ。見せないと言って借りないとは言えなかった俺は心底から正直なやつだと思うことにして。あと最低とは何だ、最低とは。
とにもかくにも、病田さんの魔法のおかげで泣く子は笑顔になれなかったものの泣き止むことは出来たわけでちょっとだけ感謝。でも俺の中での病田さんの株は急落下中。下落が半端ねえ。
「そんで、お宅はどちらさま?」
「人の名前を聞く時は先ず自分から名乗るのが礼儀というものじゃないですか?」
何、このムカつくテンプレ。コイツ自分の格好わかってて言ってるの? 簀巻きだぞ? 簀巻き少女。自分の立場わかっててもの言ってんのか。
「ふつーは弱いものから住所と電話番号まで聞き出して弱み握って延々としゃぶり尽くしてやるもんだから今はお前から名乗りやがれよ」
「あれ? もしかして私、しゃぶり尽くされること決定事項になってませんか……?」
呑気なのか頭が弱いのか。どうやら本当に自分の立場というものがわかってないらしい。
「まあ、名乗らせていただきますけど、」けっきょく名乗るのかよと言う言葉を飲み込み、「私、――殺人鬼、感染体、斬原流香と申します」
「……ん?」
どっかで聞いたことのあるような名前だな。てか、あの廃墟に住んでるリアルホームレス中学生じゃねえか。
「ちょっと見ない間に小さくなったというか、もっと別の名前だったような……?」
たしか、“病原菌”だったよな?
改名したのか?
「ってゆうか別人だよな? ええっと、病原菌とはさ」
どう見ても。まったくもって、俺の知ってる斬原流香じゃない。
「アナタ、病原菌の斬原流香を知っているのですか?」
「知ってるというか何というか……」
なんて言ったらいいんだろうか。女の子との共通の話題ができて嬉しいとか言ってみるべきなんだろうか。いやいや、そんな場合ではないよ俺。
「まあ、昨日の夜に会いに行って明け方に帰ってきたような間柄かな」
嘘じゃないよ。いちおう。
「そんなに親しい間柄なんですか!?」
そんなに親しい間柄じゃありません。
「てゆうか病原菌の斬原流香に逢いに行って殺されなかったんですか!?」
「見ての通りにピンピンしております」
首にずぶっと指刺されたけど、何でか痛くも痒くもなくて傷口がもう塞がってる不思議な結果に。
「首に注射跡があるのに!?」
「注射跡……? ああ、いや、別にこれは……」「逢わせて下さい! 斬原流香に、病原菌に!」
「…………」
人の話を聞く気がないのかこの簀巻き少女が。
「……ま。別にどうだっていいけどさぁ」
逢いたいってゆうなら別に逢わせてやればいいだけで、噂の殺人鬼は俺みたいな自堕落な浪人生の一人すら殺せない紛い物だったのだ。逢わせてやって特に問題はないだろう。たぶん。
「そんじゃあ、ま。ちょうど今日一日暇なわけだし行ってみますかね」
「はい! ありがとうございます!」
「んじゃ、行こうか」
「はい! でもその前にさっきからご自分で何度も強調して下さってるこの簀巻き状態をどうにかしてもらえませんかねぇ!?」
「あ」
そういえば、何となく無視しようかとも思ってたけどそんな格好してるんだったよね。はっはっはっ。
「大丈夫、似合ってるから」
「異性の方から格好を褒められたのは初めてですけどまったく嬉しくない!?」
わぁ。なんか面白いなこの子。
ついつい苛めたくなっちゃうくらい。
「学校で苛められたらお兄さんのとこに来な。全力で助けてあげるから」
「ただ今現在そのお兄さんに苛められてるのですが!?」
ああ、もう。本当に良い声で鳴いてくれるなぁ。
ちょっと芽生えそうになるS心を燻らせながらも頭を撫でてやる。柔らかい髪が指の間を流れる。もう、もういっそロリコンの方に目覚めてしまいそう。
「じゃ、行こうか」
「だからぁあ……!?」
ああ、もう可愛いなぁ本当に。そして以下、無限ループ。
そんなこんななことをずっと繰り返していたらいつの間にか夕方に。
……いや。いやいや、いくらなんでも遊び過ぎでしょうよ俺。もしかして本当にそっちの方に目覚めてしまったのか、それともただ単に昨日からの徹夜でテンションがおかしくなっているのか。
さっきから三点リーダですらセリフが出て来ないくらいに自称感染体・斬原流香がぐったりしてる。
「ま。ちょうどいいからこのまま運んでやるか」
「アナタ正気ですか!?」
お。元気になった。
「だって逢いに行きたいんだろ?」
「この格好のまま行けと!?」
「だから俺が担いで運んでやるって。安心しろ、こう見えて体力にはけっこー自信あんのよ俺」
「そういう問題じゃなくて……」
はいはい。あとのセリフは黙殺。どうせ布団に包まれたまま担がれたらもふもふ柔らかく身体を捩るくらいしか出来ないだろうと予想。
「はーなーしーてーくーだーさーいーっ!?」
暴れるもふもふ感を存分に堪能しながら担ぎ上げ外に飛び出す。
寝不足のテンションのままボロアパートを飛び出して街の外れに向かって走り出す。しかもあえて大通りを通って人目に付くように心掛けながら。自称感染体・斬原流香はぐったりしててもう暴れる気配がない。もしかしたら死んだフリか布団と同化しているのか、人目に付くのが恥ずかしいのか大人しくなってしまった。そりゃそうか。俺とコイツが逆の立場だったら切腹ものだもんな。
そんなこんななことを考えて今深夜に侵入した後に死ぬ覚悟を決めて空回りしてなんかメンドーなことになりそうになったから逃げた廃墟へと急ぐ。
「着いたよ」
「やっとですか……」
着いた頃にはすっかり日も落ちて夜に。布団に巻かれた簀巻きが夜中の廃墟を見上げて感想を一つ。
「……相変わらず薄気味の悪いことで……」
「そうな」
同感だった。
日本で夜中の廃墟(しかも豪邸の)とかもうホラー映画の世界ですらお目にかかることのできないレアなステージだと思う。本当に。
そんなステージに悠々と踏み込む青年と布団。訂正、布団は下に足付いてないから踏み込む布団を担いだ青年。
ここには一度ラスボスステージまで進んだことがあるため迷わずにラスボスのいる部屋へ。進行を邪魔する雑魚キャラとのエンカウントもなければ隠された最強の装備もない。
「ここだ」
真直ぐに歩き着いた先、無駄に豪奢で錆び付いた鉄の扉、一つの惨劇があり続けていた地獄の一室。
その部屋には、殺人鬼、斬原流香がいる。……はず。
「入って下さい」
「あいよ」
一度目よりも二度目の方がすんなりと扉を開けることが出来た。
扉を開けて一番、冷えた錆臭い匂いが鼻孔を犯す。
暗い部屋の中、昨日とは違い、そいつは起きていた。
「誰……? 今わたし、すごく真面目に何か考え事してたんだけど」
暗い部屋の中で立ち上がり、猫みたいに細められた眼が、僅かな光を拾って輝く瞳が小さな存在感を主張する。
殺人鬼、斬原流香。
またの名を、病原菌。
「降ろして下さい」
対してこちらも、
殺人鬼、斬原流香。
こちらの名前は、感染体。
言われるままに彼女を降ろして布団を剥してやって、俺は一歩だけ彼女から離れた。
昨日は病原菌の方から逃げられたから、今日も何とかなるかもしれない。
でも、こっちの感染体の斬原流香からは、殺されることになったら逃げられないかもしれない。もしかしたらこっちのが本当の殺人鬼の斬原流香なのかもしれない。
今さらそんなことを気にしても、な感じもするがいちおう。
今はもう俺に死ぬ覚悟はないのだ。
「あら? おじさんは……」
「おじさん言うな」
そんなちょっとへたれたシリアスチックなことを考えていたら場の空気を読まずに俺を指差してお目めをパチクリ。やあ、何時間ぶりだろうね。
「それからそちらさんが……?」
首を傾げる病原菌。ああ、もう同姓同名ってメンドーだなちくしょう。
そんなこんなを考えながらも律義に病原菌に感染体を紹介してやろうと口を開きかけた時。
「斬原流香……!」
忌々しげに、憎々しいと言わん許りに、憎悪と殺意を激情に映して唸って、
「あん? 感染体じゃん」
そして、
ぐっしゃり。
「………え?」
「もー。いっそ何とかホイホイみたいのが欲しいよねー」
と。
俺の横で。
感染体が、――潰れた。
「いちいち現れる度に殺すのってダルいんだからさー」
そう、あっさりと。
感染体は、病原菌によって殺されてしまったのだった。
■■■
「そんで、アンタはアンタで何でまたわざわざ現れてくれたんかな? と、その前に……」
ずぶり、ずぶり。
首を握り潰し、両肩を砕き、内臓を叩き潰し、腰から上と下とで一人の人間を二つに引き千切り、首を捩じ切り、鷲掴み、
「ぐちゃっ、とね☆」
憤りか焦躁に表情の歪んだ顔のまま死んでしまった感染体の首を部屋の中へと投げ捨てて、終わり。
「さて、いったいおじさんは……」
「お前、」目の前で起きた突然の出来事に喉の奥から震え、真っ白になった頭の中身と関係なしに言葉が繰り出される。「何で、殺した……!」
年端もいかない少女の胸倉を乱暴に掴み上げ、背中から壁に押し付けて問詰める。
「ったいよぅ。ね、ねぇ……何キレてんのおじさん?」
「お前、それ、本気で言ってんのか……?」
斬原流香は返り血を全身で浴びて汚れた顔を呑気に袖で拭いながら、俺に聞いた。
本気で、自分が何で怒られているのかわからないとばかりに。
戸惑いながら、俺に聞いた。
「何で、殺人鬼が殺人鬼を殺しちゃいけないの?」
「殺人鬼だ殺人鬼じゃないかなんてことじゃなくて、相手は人間だろうが!? 何でそんな簡単に人間を殺せるんだよ、お前はッ!」
「だ、だから何で殺しちゃいけないの……? 何が悪かったの?」
本気で言っているのか。
コイツは、人の命を何だと――。
「ね、ねぇ。教えてよぅ……。何が、」
「良かったとか悪かったとか、そんな問題じゃねぇだろうが……!」
「ひ」
小さな、息を呑む声がして、頭に上ってた血が一気に下降した。
「ひっ、ぐぅ……ぅう……」
何のためらいもなしに、まるで当たり前のように自分よりも小さな女の子を殺した殺人鬼、斬原流香が、嗚咽を噛み殺して泣いていた。
何だか罪悪感が胸につっかえ、斬原流香を放す。
冷えた頭が一気に先程の光景をフラッシュバックさせ、吐き気が込み上げてくる。
こんな幾多数多の屍の海よりも、目の前で起きてしまったたった一人の人間の惨劇の方が傷が深かった。
「悪い奴じゃ、なかったんだぞ……」
よく知らないけど。悪い奴ではなかったと俺は思う。愛嬌があって、どこから来たんだかまったくわからない得体の知れない上に知り合ったのは今日、数時間前のことだったけど。決して、こんな形で殺されていいような奴なんかではなかったと思う。
「……ごめんなさい」
虫の鳴くような声で聞こえたその謝罪を、斬原流香は誰に向けて言ったつもりなのだろう。
叶うならばこの言葉が、彼女に殺されてしまったすべての人に聞こえたなら、俺の胸の中のもやもやは少しはマシになるかもしれない。
「……ちくしょう」
もう誰を責めたらいいのかすらわからなくて。何を言えばいいのか、何を考えればいいのか、何をどうすればいいのか。もう何もわからなくて。
でも何もわからないまま終われるほど俺は壊れた人間じゃなくて。
「どうなってるんだよ、本当に……」
何もわからない俺は、何もわからないまま、目の前で起こって終わってしまった結末に、足掻くことすら叶わない、たった一人の弱い人間でしかなかったのだ。
■■■
「九条君が生JCをお持ち帰りしてきたぞぉぉぉぉぉぉおおおお!!」
「人聞きの悪いことを全力で叫ぶんじゃねぇぇぇぇぇぇええええ!?」
マイホームのボロアパートは今日も阿鼻狂乱としていた。
「なに女子中学生とか部屋に連れ込んでんの!? ロリコンなの? 九条君ってペド野郎だったの!? ってことは私は範囲外か!?」
「そもそも俺にBL趣味はない!」
ぎゃーぎゃーと騒ぎ立てまくる病田さん。そりゃあそうだよなぁ。
何せ今、俺の部屋には斬原流香が来ているのだ。
けっきょく何も出来ないまま、俺はぽっかりと開いてしまった胸の何かから逃げたくて廃墟を出た。
そしたら、ついて来てしまったのだ。気付いたのは自分の部屋の前で。よくも気付かなかったものだと思う。
「なんか今、一人になりたくない」
随分と平坦な声でそんなことを言っていた。今までずっと一人であの中で寝ていたくせに何を言ってんだとも思うが、今さら一人で帰らせて誰かがまた殺されたらと思うと無下に帰すよりも目の前に置いておいた方がマシだと思ったから。
幸いだか何なんだか、どういうわけだか斬原流香は俺を殺すことが出来ないらしいからこその措置だ。
斬原流香を部屋に上げてから畳に寝そべってそのまま、昨日からずっと俺にアプローチをかけ続けている睡魔に誘われて眠ってしまいそうになったその時、病田さんが乱入。今に至る。
てか、さっきから大人しいなぁ。こんなに騒がしいオカマ(公然の秘密)がいるっつーのに。
「ん? 寝てんのか……?」
よく見ると、体育座りの恰好で俯きいたまま規則的に肩が上下に揺れている。
「薬まで盛ったのか!」
「とんでもない邪推だ!?」
もう本当に出てってくれないかな、この人は!
かと言って追い出せば追い出したでまた酷い邪推を叫ぶわけでああもう厄介な性格したアル中だなチクショウ!
「とか考えながら少女の目の前で私を犯してトラウマ植え付ける計画を立てていると見た!」
「お前の脳みそは何色だ!?」
「ピンク色の向日葵のお花畑さ!」
「ダメだ!? 会話が成り立ってるようで全然通じてねえ!」
まさかモノローグにまで邪推をかけてくるとはまったくの予想外だった。てか器用なことをしてくれんじゃねぇよ。
「もういっそお酒を浴びるだけ呑まされて酔い潰れたとこに頭から蒸留酒かけられて火付けられて燃えて事故扱いされたらいいのに!」
「無駄に計画的な反抗だなオイ」
あ。今のちょっと素だった。
「まあ、なんかもういっそ、どうでもいいけど。騒ぐんなら帰って下さい。ここにいるなら最低大人しくしていて下さい。マジで」
「何で?」
「何でって……」
「あの子なら気にしなくていいじゃん」
「いや。よくないでしょうよ」
「だって起きてるよ?」
え?
壁を背にして座ってる斬原流香を見てみる。寝てる。これがタヌキ寝入りなのだとしたらそれだけで重宝ものだ。
つか騙されたな俺。
「寝てるじゃないですか」
「んー? いや……? いやいや……」
可愛らしく小首を傾げながらガサゴソと俺の部屋の角に積まれた雑誌の山から一冊ジャンプを取り出し、
「えいっ」
「――――」
眠っている斬原流香に向かって投げ付けた。
ジャンプを思いっ切り、可愛らしい掛け声に似合わず気持ちのいいくらいに振りかぶって。
安アパートの狭い部屋の中だ。起きていたってこんな狭い距離じゃ避けられないであろうそれ。
間違いなくそれは斬原流香に直撃―――するはずだった。
斬原流香が、自分に向かって投げ付けられたジャンプから身体を横に倒して避けなければ――。
「ほら、ね」
「…………」
無言の圧力を向ける俺の視線をひらりと無視して「起きてなかったら直撃してたわよ」と、じゃあ起きてなかったらどうするつもりなんだよっつー問題あること言ってくれちゃう病田さん。
なんつー無茶してくれやがる。
「偶然に決まってるでしょうが」
横に倒れたままでも膝を抱え込んだ格好のままの斬原流香。寒いのか?
押し入れからタオルケットを取り出し彼女の身体にかけてやろうとした。
瞬間。
「あ。危ない」
「え」
ひゅん。
病田さんの言葉に振り返って、少し目を離した、その瞬間に。
風切り音が頬を掠めた。
「だから言ったのに」
「え……ええ?」
「危なく両目斬られて失明してたとこじゃないの」
と、言われても実はまだ状況が飲み込めてないのが現状だったりする。
何だか頬がチリチリヒリヒリと熱を持ってきているのだけども、何これ? な状態。両目斬られてって、何が?
「もしかして……」
「そのもしかして、よ」
「斬原流香って寝相悪いのか……?」
「バカ」
頭叩かれた。
いや、うん。わざとだけど。
「まさか、本当に俺に襲われるとか思ってタヌキ寝入りを……? そんな……病田さんのくだらない戯言を信じるなんて、なんて……純粋な……」
「おーい、九条君? わざとやってんのかい?」
今度は真剣に言ったつもりだったのだが冗談とさえ思われなかった。地味にショックだ。
そんなちょっとブルーな気持ちになってる俺に病田さんが今の斬原流香の状態をありがたいことにテキトーかつ簡潔に説明してくれた。
「この子、半分起きてて半分寝てるわ」
「うん。意味わかんない」
何、その状況?
右半分くらい起きてて左半分くらい寝てる感じ?
「んー……説明すんのが難しいんだけどね。武道家って寝込み襲っても倒せないじゃん? あんな感じ」
「どんな感じですか」
普通は武道家なんて襲ったなんて経歴作ろうとしてもなかなか作れないだろうから一般の方にはわからないと思います先生。
「あー……うーん……るろ剣でゆうとこの寝てる剣心に布団かけようとした巴さんに斬りかかっちゃった、みたいな……?」
なんとなくわかったようなわからないような微妙な例えをいただいてなんとなく納得。したことにする。なんとなくだ。
「つまり斬原流香は武道家か剣心だったってことですね?」
「いや。殺人鬼でしょうよ」
何か冷静に返されてしまった。
てか病田さんも斬原流香が殺人鬼って知ってたのか。そうだよな、この街では有名だもんな殺人鬼、斬原流香の存在はさ。
「そうだね」病田さんは不意に立ち上がり、寝ている斬原流香を見下ろしながら呟く。「まあ。噂みたいにやたらめったらすれ違い様に人殺しまくるイカレ野郎みたいなやつじゃなくて、まさかこんなガキだとは思わなかったけどね」
寝ている時は関係ないみたいだけど、なんて言い残して、病田さんは俺の部屋を出ていった。
「もう帰るんですか?」
「ん? 引き止めてくれるのかしら?」
にんまりと意地悪く笑いながら病田さんが聞いてくる。そんなわけあるか。
「まー。あれなら九条君が欲情しても斬原ちゃんに手は出せないから安心なんで帰るけど。体内のアルコール分が切れてきたし」
「アルコール分って……いや、つか、襲わねえし。それよか俺の身の心配とかは?」
「九条君が必要以上に近寄らなきゃ大丈夫と見た」
そんな無責任な……。
「大丈夫、大丈夫。身体は起きてるけど頭ん中は完全に寝てるはずだから寝てるうちは九条君を殺せないって。とりあえず今は九条君が斬原ちゃんを監視。斬原ちゃんが起きたら必ず私んとこに連れてきてくれればその後のことも保証しちゃいまーす」
しちゃいまーす、と言われても何を保証されるのかがまったくわからねえ。
「ま。そんなわけで、お酒が私を呼んでいるのでバイバーイ」
「あ。ちょ……」
ばたんっ。
無情にも扉は閉められ、部屋には俺と斬原流香だけが残されてしまった。しかも監視しとけとの御達し付き。
てか、最後の理由付けはいくらなんでも酷いんじゃないかと思う。あのアル中お兄さんめ。
しかしよくよく考えてみると病田さんが残していった指示はけっこう的確なもので。殺人鬼、斬原流香を野放しにするよりもずっとまともであった。ただし俺という尊い犠牲が出ているのだけれども。まあ、そこはよく考えたら負けだと思うので頑張って忘れよう。いち、に、さん……
「いや。やっぱ無理だわ」
ポケモンなんかだと新しい技のためにすぐに忘れられるんだけどなぁ。リアルじゃやっぱ無理だよなぁ。そもそも十二歳で旅に出るって時点で今の世の中じゃリアルだもんなぁ。
とりあえず、と斬原流香から一番離れた部屋の角で座り込んで息を吐く。
緊張が少しだけ和らいで、瞼がゆっくりと重くなってくる。
そういえばけっきょく、昨日から丸一日まともに寝てなかったな、なんてどうでもいいことを思い出してから。
気が付いたら、俺は眠っていたのだった。
そんで、それから。
目が覚めてみれば、俺はガムテープでグルグル巻きにされていた。
布団で巻くよりもこっちのが簀巻きっぽいなぁ、なんてどうでもいいことを寝ぼけて血の巡ってない頭で考えながら欠伸……が出来ない。なんと口までガムテープで塞がれている。
「んー、んーっ」
助けてーとか叫んでみるも声が出てない。いくらこのアパートの壁が薄くともこれじゃあ隣人に助けを求めることすら出来ないじゃないか。
とりあえず転がって芋虫みたいに這いずりながら壁に向かって、
「むがーっ」
ごんっ。
頭突きしてみた、が。無理。超痛い。超痛いくせに音なんて鈍いやつが壁じゃなくて俺の頭から出た。もしかしてこんな薄い壁よりも俺の頭は弱いのか。
抵抗2。今度はびちびちと身体をくねらせて足で叩く叩く。びったんっ。ばったんっ。おお、良い感じ……
「うるせーんだよ、クソ浪人生ッ!?」
「むー!? むーっんーっ!?」
「騒いでんじゃねーよ今夜中の何時だと思ってやがる!? 明日の朝日を拝みたかったら黙って寝てやがれ!」
そんだけ言って寝たのか静かになったお隣さん。いや、本当にごめん。たぶん声の感じからして屑桐。そういえばお前は俺の事情知らないもんな。まさか殺人鬼を連れ帰ってきちゃったなんてさ。
屑桐の助けは諦めて反対側へ。今度は病田さん。つーか最初っから病田さんを頼るべきだった。
またゴロゴロと身体を転がしながら移動し、壁に向かってびちびち。
すると壁の向こうから早くも返事が。
「なに九じょうぅええええ……」
ダメだった!
何か想像付くけどダメだった!?
そして、ホームなのにまさかの助けがまったくないウェーな状況で悶絶しながら今さら気付く。
斬原流香が部屋にいない。
……ヤバい。
ヤバい、ヤバい。いくらなんでもヤバ過ぎるだろうそれはよぉ……!
「んーっ!? んーっ!」
思いっ切り全力で部屋の中を暴れ回って音を立てる。このさい明日の朝日なんて拝めなくてもいいから屑桐来い! 酔っててもどこで吐いててもいいから病田さん来てくれ! 下の階の魔宮でもいい……! 誰か、誰か……!
そう願いながら暴れて、その願いが届いたのか、部屋のドアノブがガチャガチャと乱暴に回され、開いてそいつが飛び込んできた。
「うるせえっつってんだろ……うが……あ?」
「むーっ」
屑桐だ。屑桐が来てくれた!
部屋に入るなりガムテープで簀巻きにされてる俺を見て、怒りに真っ赤にした顔の屑桐の顔が困惑にしばし停止し、やがて口を開く。
「一人緊縛プレイ?」
「むーっ!?」
そんなわけあるか!? そしてそれはどんなニーズ向けだ!?
「ええー? なに、何がどうなってるのさ……?」
いまいち状況が飲み込めないらしくも、手は俺の身体に巻かれたガムテープを下からビリビリと剥してくれている。
でも惜しいかな。俺としては真っ先に口に貼られたやつを剥してほしいんだけど。それかせめて手の方を開放してほしかった。口が塞がれてるから文句も要求もいえないのだけれども。そこは助けられている立場のために自重。
やっと手の辺りまで開放され、最後に自分で口に貼られたガムテープを剥し、礼を言う。
「ふつーは口のから剥さねぇか?」
「ああ、そうだね」
間違えた。文句だった。
屑桐のやつも惚けやがってるから今はそんなことどうでもいいとして先ずは説明。
「屑桐、落ち着いて聞いてくれ。殺人鬼の斬原流香が野放しになった」
「あ、そ」
屑桐、欠伸を一つ。
「じゃ」
そして、帰ってった。
いや。あれ? えー?
反応薄くね?
てか信じてないだろお前。
「屑桐、冗談じゃないんだから話をちゃんと……」
「うるせえ」
パァンとさっきまで俺の身体を巻いていたガムテープの切れ端を俺の両目を覆うように貼り付けて一言。
「知るかボケ」
「…………」
屑桐って、こんなに寝起きの悪いやつだったのか……。
オカマ呼ばわりした時の病田さん並に怖い屑桐の後ろ姿にそれ以上何も言うことが出来ず、俺は自分の部屋へと帰っていく屑桐を見送って。
「よし。病田さんとこに行こう」
切り替えることにした。
いや。だってそうじゃないと色々と保たない気がしたんだよ。主に内面的な問題で。
病田さんは病田さんで酔い潰れてぐったりしているのだろうけど、緊急なのだ。しょうがないのだ。決して屑桐フィールドから逃げ出したいわけじゃないからな!?
「助けて病田さぁん……!」
いつも通りに鍵のかかってない扉を開けて駆け込んで、
「あ。自殺志願者だ」
「……は?」
なんと、俺を迎えてくれたのは病田さんではなく。
水の入ったコップとキャベジンを持ってる殺人鬼、
斬原流香だった。
「はい。お水」
「ありがと……斬原ちゃん……」
「あとキャベジン」
「ありが……うっぷ……」
ゴミ箱に向かって「うええええ……」「あーあ、後で洗うの大変そう」なんてやり取りをしてる斬原流香と病田さん。
何、何なのこの人達。
「てかさ、」
「あん?」
「おじさんよくあのガムテープ剥せたね。念入りに巻きまくったのに」
「あれ巻いたのお前か!? 俺がどんだけ苦労したと思ってやがる!?」
「いや。だってあのままにしとくと犯されるって……私、美少女だから……」
「何言っちゃってんのこの子!? 犯さねえよ!? つるぺたのガキが!」
「誰がつるぺたかぁ!?」
「頭痛いんだから騒がないでぇ……」
「お前が痛いのは存在でしょうがぁ!? もう何なんだよこの殺人鬼とオカマがよぉ!? 誰か切に俺に今の状況を説明しやがれえ!」
「私が起きたら知らない部屋でしかもおじさんがいたからとりあえず簀巻きにして部屋出たら何かそこの酔っ払いがゴミ箱抱きながら泣いて吐いてたから介抱してたら隣りの部屋でポルターガイストがあったりなんかもして……」
「いや。もういい、もうわかった」
そのポルターガイストは俺だとは言わず、とりあえず、と切り直し。
「とりあえずで簀巻きは今後二度とやんな」
そして、ついでに。
「お前、そういえばなんか臭いから風呂入って来い。着替えなんかは病田さんの勝手に持ってけ。あと風呂は俺の部屋の使え。病田さん家の風呂めっさ汚いから」
「え、ええ、うん?」
戸惑いながらも頷き、斬原は勝手に病田さんとこのタンスを漁っていくつかの衣類と下着を持って部屋を出た。そのさい見えたのは紫のガーター。いや。それを選んだお前もお前だけど、病田さんも病田さんで何でそんなもん持ってんだよ。
「斬原ちゃん……それ、対九条君用の勝負下着……」
「んなもん用意すんな」
パタパタと駆け足気味に出て行った斬原流香の背中に届かない手を伸ばしながら呻く病田さん。絶妙に俺の趣味をとらえているところが恐ろしい。
とにもかくにも、
「うっぷ」
「……もう全部吐いてさっさと楽になって寝て下さい」
めんどくさい。話がまったく進まないし、何より今のままじゃ病田さんは戦力外もいいとこだ。
再びとにもかくにも、斬原流香が帰ってきたらアイツをどうするかとこれからどうするかを検討するにして。……って、警察に駆け込むのが一番なんじゃねーとか今さら思ったり。そういえば俺の目の前で人殺したし、あの廃墟にある斬原流香の寝床である死体の海は何よりの物的証拠になるのではないだろうか。てかならなかったら日本の政治制度は見直すべきだと思う。
簡単に訳すとそんな感じのどうでもいいことをかれこれ一時間近くも無駄に費やしながらぼんやりと頭の中でいじくりこねくり回しながら病田さんの介抱しているうち、病田さんはいつの間にか眠っていて、俺は眠った病田さんをベッドまで運んだ。見た目美人のお姉さんでも中身は引き締まったインナーマッチョボディ兄ちゃんの病田さんは重く、持ち上げるのがしんどかったため首根っこ掴んで引きずりながら。感染体の斬原流香なんか持ち上げた時はあんなに軽かったのに、見た目ともに美人でもやっぱり中身が違うということを実感。いや、それこそ心底どうでもいいけど。
「感染体……何でなんだろうな……」
今さらいくら嘆いても、泣いてもしょうがないとわかっていても、胸の奥から何か込み上げてくるものがある。
目の前で殺されてしまったあの少女はいったい何者だったのか。なぜ俺の前に現れたのか。今となっては全てが謎になってしまった。
同じ名前の、斬原流香の手によって。
「ただいまー」
「……おかえり」
今さら何を思っても拭いきれない感傷から引き離してくれたのも、斬原流香。
そういえばコイツもどうして俺についてきたのか……。
………?
「ん? 誰だお前」
「え? 斬原流香だけど?」
いや。そりゃあ見れば何となくわかるんだけど、風呂に入る前のと入った後のとであまりに差がありすぎてちょっとわからなかった。
鉄臭くて茶色のパリパリした髪が実は透き通るように真っ白でさらさらしてそうだったとか。浅黒いように見えた肌も実はその髪と同じぐらいに白かったとか。薄着になってみると着痩せするタイプなのか、意外に胸があるとか。パッと見でイメージした美少女がたぶんこんな感じなんだろうなとか。
とにかく、詐欺レベルの代わり映えだった。
「あー……誰だぁ……」
ほら。酔っ払いが寝言でツッコミ入れるレベルだし。てかアンタ実は起きてるんじゃねえか。
「どうよ……? これでもまだ臭いって言える?」「あー、そうなー」
もしかして気にしていたんだろうか。だったら悪いことを言ってしまったか。
野性児からお嬢さんに見た目だけクラスチェンジしたのはいいけども、服が大きいのかちらちらと色々と見えてて嬉しい反面ちょっと苦しい。まさか本当にロリコンだったのか俺は。
一人心の内だけでそんな葛藤を繰り広げていると、斬原流香が不意に突拍子もないことを言い出した。
「いちおう聞いておきたいんだけどわたしさ、まだしばらくここにいていい……?」
「知るか」
それから、あまり深く考えずに返事をしてしまった俺。
「お前の好きにしたらいいだろうが」
そして、これから俺は色々と後悔することになるのだった。
もう本当に、色々と。
…………。
■■■
「はじめまして、そこ行く不幸なお兄さん」
「……はい?」
日々悶々と過ごしていたある日のこと。
「アナタはあたしを信じますかー?」
「いいえ。信じません」
なんか変なキャッチの人に捕まってしまった。
つか普通、あたしじゃなくて神をじゃねぇのか?
とにかく現状、頭からすっぽりと被ったかなり大きめの麦わら帽子と真っ赤なロングマフラーで顔は隠れ、さらには袖から指先すら出ないほどにサイズが合っていないダッフルコートにビーチサンダルを履いた季節感総無視のとてもとても怪しい人に。コンビニでサンデーを立ち読みしてからマガジンを買った帰り道に後ろからがっしりと両肩を捕まれ見事に引っ掛かってしまったのだった。はい。説明終了。
そんで今に至るわけで。
「ところでちょっくらあたしとランデブーしませんか?」
「知らない人にはついていくな。危ないと思ったらすぐに逃げろと隣人から言われているのでお断りします」
「つれない方ですねー」
つれるつれない以前にこんな怪しい人の誘いにのこのことついてく輩はそうそういないだろう。いたら出て来い社会勉強ってやつをさせてやるから。
「まったくしょうがないですねー。困ったことになってますよー」
まったく困った様子もなくそう言って、
「引き合いの中でこの名前を使うのは最終手段なんですがー」
「随分と早い最終手段だな」
「まー。そう言わず、」
くつくつと忍び笑うような、まるで謳うように。
「斬原流香と自殺志願者♪」
「――――」
「ああ、そういえば申し遅れましたが、」
そいつは、言った。
「私、――殺人鬼、感染体、斬原流香と申します」
一昨日聞いたあのセリフと一字一句同じ自己紹介を。
帽子とマフラーに隠れたそいつの顔が、アイツのような無邪気な笑顔を見せて。
「お話、聞いてもらえますか?」
「…………」
今度こそ、俺は本当に捕まってしまったのだった。
「では、どこか落ち着いて話せる場所に移りましょうか」 そう言ってそいつ、感染体は俺に背を向けて歩き出す。どこか自信あり気に。俺が絶対についてくるだろう、と信じて疑わないように。
「ねえ。自殺志願者さん」
「…………」
返事なんて、聞くまでもするまでもなく。
俺も歩き出して答えてやる。
「いったい俺をどこに連れてく気で」
「アナタが知らなきゃいけないことを教えるため」
「だから、どこに?」
「そうですねー。とりあえず、」
一拍置いて、
「お腹が空いたのでどこかでお茶なんか飲みながらでどうです?」
異論は挟めなかった。
それから、
「で、マックで一杯ってか」
「洒落ているでしょう」
マックで怪しい風体の輩がコーラのLサイズ抱えてビッグマックを四個も並べて囓ってるのが洒落ているのか洒落てないのかは一般人な俺にはまったくもってわからないが。
もしかしたらうちのボロアパートの住人ならばコイツのセンスがわかるかもしれない。だって揃いも揃って変人ばかりだもの。
「いいじゃないですかマック。あたしは大好きですよ、ファーストフード」
「俺は大嫌いだよ、ジャンクフード」
一昨日来たばかりだしな。メニューだって朝マックと普通マックで何が変わるんだって話。見た感じ、けっこー変わってたけど、この手の油たっぷりの肉料理はけっきょく舌が受け付けてくれないので今日もコーヒーとポテト。前回の失敗を活かしポテトはSサイズ。でも何か間違えた気がする。
「それなら最初に言ってくだされば違うお店にしましたよ」
「たとえば?」
「モスバーガー」
「けっきょくファーストフードじゃねーか」
たしかにマックよりもファーストフードから離れてはきているような気はするけど、けっきょくのところお高いファーストフードじゃねえか。
そんな俺のツッコミにもめげず、感染体二号はもう一軒。
「松屋」
「それは……どうなんだ?」
たしかにファーストフードっぽくないけど、料理が出てくるのは早いし。てかファーストフードのボーダーラインってどことどこの間に引かれてるんだろうか。
「では、サイゼリアとか」
「いや。もういいや」
めんどくせえ。
まさかマックは苦手なんだっつーどうでもいい話題からこんなに引っ張られるとはまったくもって思っても見なかった。
「さて、食事も終わってお腹も落ち着いたことですし」
「いや、待て。もう食べ終わったのか」
いつの間にやら。四個もあったビッグマックが消えていて、感染体二号はズーズーと音を立てながらストローを吸いながらそう言った。
「まあ。話はあまり人に聞かれて面白い話でもないので、とりあえずこれから自殺志願者さんのお家に……」
「――来んな」
酷く、重たい声が出た。
感染体二号が俺の家に来る、そう聞いただけで一昨日のあの光景がフラッシュバックを起こして、口に出たのは拒絶。
「……何故です?」
「お前を迎え入れたくないから」
「どうしてです?」
「どうしても、だ」
「……ふぅん……」
「いちおう言っておくが、俺はお前のために言っているんだからな」
本当に。
今、俺の家には、殺人鬼で、病原菌の、斬原流香がいる。
もし、感染体を名乗るコイツがあの斬原流香と出会ってしまったら――あの時と同じことが繰り返されるんじゃないか、と。
そう思ったのだ。
「そりゃあ、どうも」
とりつくしまもなしにかたくなに拒絶する俺を、感染体二号はどう思ったのかはわからないが、そいつが言ったのはそんな心ない言葉と。
「それではここで話すことにしますけど、――後悔、しないでくださいね?」
尋ねるようなそう、忠告だった。
「先ずは大前提、――斬原流香の存在――について話しましょう? 質問は?」
「二つ……斬原流香ってのは、斬原流香という名前の殺人鬼はいったい何だ……? そんで、何で斬原流香は複数いるんだよ」
「んん。それこそが根本ですね。なかなか、拙い割に直球の良い質問ですよ」
そう茶化して、感染体二号は言葉を紡ぐ。
「斬原流香は実在する最強最悪の殺人鬼であり、この世界ではその殺人鬼を複製しようとした天才が存在した」
「複製? クローンってことか? そんなSFみたいな……」
「クローン、当たらずも遠からずとでも言っておきましょう」話は途中なのでまだ続きますよ、と挟み「実際は人格の感染というそれ以上に劣悪なものですけど」
そう言って、自嘲気味に笑った。
人格の感染?
何だそれ?
「あたし達、複数名の斬原流香のうちの誰かに逢ったことはありますか? ありますよね」
「あ、ああ……病原菌と感染体になら……」
「そう。あたし達には病原菌と感染体の二種類が存在します」
「その二人は、どう違うんだ……?」
訊いて、聞かなければよかったと後悔した。
「オリジナルとコピーの違いですよ。……それも、オリジナルですら偽物、作り物の存在ですがね」
「ちょっと、話が見えねえんだが……」
「アナタの家にいる病原菌」
知っていたのか、いや、調べたのか。
「あれがあたし達、感染体の斬原流香のオリジナル。彼女を中心に、――斬原流香という人格は周りの人間に感染し、感染体となり、斬原流香という人間になる」
故に、感染体。
故に、病原菌。
それが、斬原流香。
「病原菌は自分の意志で他人に斬原流香を感染させることが出来、たまたま感染してしまった被害者は彼女の破壊衝動の糧となり、一生を彼女の存在に怯えて隠れて生きていかなくてはならない。なぜならオリジナルである病原菌から斬原流香の人格を移されたところであたし達、感染体は人格が斬原流香になっただけで身体的なスペックで圧倒的に彼女に負けているから」
「そんな……」
そんな理由で、あの感染体は殺されたって言うのか。
そんな、殺されるためだけに作られたような――
「作られたようなじゃないんですよ。あたし達、感染体は、病原菌の彼女に殺されるためだけに日々いつでもどこかで量産されているんです」
そこまで言って、感染体二号は立ち上がった。
「今日はこれくらいにしておきましょう。一度に全部を話しても、それを一気に受け入れるなんてことは出来ないでしょうから」
まともな神経をしていたら、なんて言い残して。
「では、またいつか」
感染体二号は、行ってしまった。
残された俺は、それを目で追いかけるのが精一杯で。
頭の中で今話されたことがグルグルと巡り回っていて、ただ立ち上がることさえ、出来なかった。
…………。
■■■
「……ただいま」
「おかえりなさい」
雑誌を広げて部屋に寝そべりながら迎えてくれた、そいつ。
死体の海で目覚めてから俺についてきて、住み着いてしまった少女。
殺人鬼、病原菌、斬原流香。
「おじさん、どうしたの? 死人みたいな顔して」
「お前さ、」
何で人を殺すんだ?
と、率直に正直に訊くことが出来たらどれほど楽だったろうか。
「……それ、質の悪いジョークだわな」
「うわ。酷いなぁ」
何言ってんだ俺。
心配してくれたってことくらいわかってるくせに、何だってこんな皮肉が出てしまったのか。
「メシ、どうすっかな」
「しかも人の話を聞いてないし」
「お前、なに食べたい?」
「んー。肉」
肉て。
「何肉だよ?」
「鳥か牛がいい!」
「また幅がデカいな」
「焼き鳥か焼肉!」
「じゃ、焼肉な」
「いよっしゃーっ!」
登場から今に至るまで斬原流香のお子様キャラがいっさいぶち壊れないのは何故なんだろうか。俺のただの偏見か?
「病田ー! 焼肉行くよー!」
「おい。ちょっと待……」
「呼ばれて飛び出てジャンジャジャン! どうも、病田さんです!」
「呼んでねー」
「地味に斬原ちゃんに今のやり取りを仕込んだかいがあったぜ九条君の奢り万歳! と壁の向こうでガッツポーズ決めてたりしてました!」
「帰れ! 帰って野菜囓ってろ!」
どうゆうわけだかこの二人、ものすごく仲が良かったりするのだ。
なんつーか、迷惑なところで。
昨日今日とで二人に押されっ放し。今日もけっきょく抵抗むなしく病田さんも一緒に焼肉コースにまっしぐら。
「いいじゃん。端から見れば誰もが羨む両手に華よ?」
「傍らから見たら彼岸花とトリカブトくらいに酷い取り合わせですけどね」
何せアル中のオカマと殺人鬼の中学生だ。これ以上の最悪な組み合わせなんてそうそうないだろう。
ボロアパートから三人で手を繋いで出た(俺の意志は関係なく無理矢理)。
日はとっぷりと暮れており、街灯と家屋の光が眩しいと感じる。
「焼肉どこでやんの?」
「牛角が美味いけどなー。近くにないから安楽亭かな」
「いやいや、九条君。叙々苑なら近くにあるぜよ」
「黙れセレブ」
正直、安楽亭でも三人分の出費は痛いというのに何が叙々苑か。
そうこう言っているうちに安楽亭に到着。夕食時よりも幾分早かったからか、店に入ってすぐに席に着くことができた。
「食い放題三つ」
「生一つ!」
「カルピス!」
俺、病田さん、斬原流香の順に注文。今日くらい酒は控えてほしいとこだが、どうせこのアル中は言っても聞いてくれないだろう。
そんで斬原はカルピスで肉食うな。
食い放題のコースから頼めるだけ肉と野菜を頼み、肉が運ばれてくるのを待つ。
「生一つ!」
「オイ」
乾杯の音頭の一つもなく、病田さんが早くも二杯目に突入。止める隙もない早技にくだを巻くしかない。
「あ。こっちも! コーラ!」
「お前はいい加減ジュースで肉食おうとするな」
本当にお子様か。見た目だけなら中学生くらいだっつーのにこのガキは。
「生!」
「アンタも少しは自重しやがれ!」
何で肉が来る前からこんなに盛り上がってんだよこのテーブル。
ビールでチビチビやりながら大きくため息。本当にコイツらといると退屈しないというか何というか、いや、迷惑って一周回ると「もしかしてこれ楽しくね? 幸せなんじゃね?」とか間違えちゃうんだね。知らねえよ! つか、そんなわけねえよ!? 迷惑なもんは迷惑なんだよ!
「おまたせしましたー」
「店員さん日本酒!」
「クリームソーダ!」
「アンタら少しは肉にかまえよ」
店員が、もとい肉が来てからもハイになったテンションが止まることを知らない俺ら。マジで迷惑。
肉っつーメインが来ても何のそので酒とジュースをとにかく飲んで飲んで飲みまくる。
それでいて俺が肉を焼き始めると、
「野菜多くない?」
「肉以外いらないわよ」
「肉以外もちゃんと食え」
こんな感じ。
何なんだこの肉食動物どもめ。飲むだけ飲んどいて今度は肉と野菜のバランスにまで文句つけるのか。本当にめんどくさい。
「肉おいしー! 初焼き肉うめー!」
「何がどう初なんだ」
「生まれてから」
そんなバカな。
「あれ? ツッコミなし?」
しかもツッコミ待ちときたか。
どうにも昨日一日、病田さんのとこに預けていたせいかあのダメな大人代表の影響を大きく受け過ぎている気がする。
反面教師が教員免許をとるとこんな感じなのかもしれない。
「んなバカなこと言ってないで、初なら初で悔いのないようにたらふく食いやがれ」
「はい! 悔いのないようたくさん飲みます!」
そう言ってジョッキを傾けて一気する病田さん。お前に言ったんじゃねえよ。
てか何で俺、病田さんの面倒まで見なくちゃいけねえのよ。
ああ、もう。
マジでめんどくせえ。
「随分と楽しそうですね――自殺志願者さん」
「は?」
それは、突如としてだか突然なのだか。
座敷にいる俺達を観察でもしてたのか。通りから身を乗り出してこちらを見ているそいつ。
頭からすっぽりと被ったかなり大きめの麦わら帽子と真っ赤なロングマフラーで顔は隠れ、さらには袖から指先すら出ないほどにサイズが合っていないダッフルコートにビーチサンダルを履いた季節感総無視のとてもとても怪しい人物が、いた。
殺人鬼、感染体、――斬原流香。
「お、お前――何でここに……!?」
最悪なことに、
病原菌――斬原流香を前に……!
「ちょっと、お話の続きには最高のシチュエーションを用意してもらえたので」
「ばっ、」
「お話? つーかさ、」
俺の言葉に被せて、斬原流香が聞いた。
「――感染体じゃん」
瞬間。
病原菌の斬原流香の箸を握った手が動いて――
「やめろ!」
「あ。ちょ――ええ……? あれぇ!?」
俺は咄嗟に動いていた。
病原菌と感染体を引き離すように、病原菌の両腕を抑えるような形で押し倒して。
「わお。九条君ってば大胆☆」
黙れオカマ!
こっちとらぁ必死なんだよぉおおお!
「あら。見せ付けてくれますねー」
「いちおう分かってて言ってるだろうけど、お前のためにやってんだからな!?」
もう少し別の見方ってもんをしてほしいよ俺は!
モガモガと俺の下で暴れている病原菌こと斬原流香がヘルプヘルプと言っているが内心では俺が助けてほしいんだよ!? 世間様から見ても傍から見てもJC押し倒してるようにしか見えない俺の立場を誰か助けてくれやがれよ!
「まあ、そんな冗談はさておき」
「やっぱり分かってて言ったんだよな!? 信じてたぞ俺の正当性!」
「離してあげたらどうですか。病原菌が苦しそうな顔してますし。それに流石にこんな人目の多い場所じゃ病原菌は殺戮を行えませんから、あたしは大丈夫ですよ?」
「俺の今の一瞬の正義感と度胸と努力が無駄に!?」
あまりのショックに力の抜けた俺の腕から病原菌の斬原流香が抜け出し、俺の頭をぶっ叩いた。いてえ。
「九条のばかぁ!? はじめては普通もっとムードとか場所とかさぁ……!」
「何か文句が純情に重たいよ!?」
斬原流香に顔を真っ赤にされて叫ばれてしまった。
てか誰がどう見たってそうゆう雰囲気じゃなかったでしょうよ!?
てか何でこんな物語的には節目っぽいとこでこんなに緊張感がないの!?
「ったく、九条は……んで、さぁ……そっちの感染体は何の用のわけ?」
赤らんだ顔を誤魔化すように長い髪をくしゃくしゃどころでなくぐしゃぐしゃと掻き回しながら聞く斬原流香。
感染体は、それに歌うように答えた。
「自殺志願者さんにあたし達、斬原流香についてのお話をしたくて現れました」
「……自殺志願者?」
「ええ。そちらの」
柳眉を吊り上げて聞く斬原流香と、俺を指し示す感染体。
「俺?」
「ええ。アナタのことです」
今まで何度もそう呼ばれていながら実は知らなかったフリをしてみたが一瞬で撤回されてしまった。
てか、お前ら俺のことを自殺志願者って何なの?
「人違いよ」
病原菌が言う。
「いいえ、間違いありません」
感染体が否定する。
「わざわざまだ未来のあった若い感染体を一つ捨ててまで確かめたのです。間違いなどあって堪るものですか」
強い口調で、言った。
感染体を一つ、捨ててまで……?
「たしかにあの場で、アナタは感染を行い、そして、殺害に失敗しました」
「……ええ」
話にいまいちついていくことの出来ない俺を無視して、二人は話を続ける。
「それから、感染して間もないとはいえ、感染体を目の前にして、発作的に感染体の一つをあっさりと殺戮しておきながらアナタは――彼を殺さなかった」
いいえ、と言葉を紡ぎ、
「殺せなかった――んじゃないですか?」
いつの間にか、感染体ののんびりとしたうろんな口調は無くなっていて。代わりに真剣な瞳と、まるで別人のものみたいな自信に満ち足りた声だった。
「彼が――感染しなかったから」
「黙れよ」
「つまり今、アナタがあの廃墟を出てここにいるのは……」
ぶっつんっ。
今度は止める間なんてなかった。
七輪の上にじゅうっと焼ける音を立てて落ちた――人間の耳。
なんと、斬原流香が、感染体の右の耳たぶを引きちぎったのだ……!
「――――」
声を噛み殺して悶絶する感染体を、冷たい目で見ながら、斬原流香は吐き捨てるように言った。
「お前らがわたしの何を知って何を確信していようが関係ないけど、」
当たり前のように。
「わたし達のご飯が不味くなるようなことだけは言わないでよ」
■■■
「…………」
「…………」
「…………」
それから、
あれだけ騒いでいたくせに三人ともが無言になってしまっていた。
その原因である感染体が帰ったのもまた一因か。いや。いてもいなくてもあそこからならこんな空気にはなっただろうが。
「九条君、水」
「はい」
ほら。まさかの病田さんがお酒じゃなくて大人しく水飲むくらいの空気だ。
なんか俺まで水だし。
「ごめんなさい……」
そんな気まずさに堪えられなかったのか、斬原流香が、ぽつり。俯いて、そう言った。
「なんか雰囲気悪くして、ごめんなさい」
「そんなこと、ねぇよ」
俯いて表情は伺えなかったが、俺の言葉は届いただろうか。
なんか、狂うなぁ……色々と、俺も、この殺人鬼も、なんか目の前の全部が、色々――。
「ああ、もう……」
本当に、
何がどうなってやがるんだか……。
…………。