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連休の乱闘②【先生のアノニマ 2(中)〜5】

 日本におけるゴールデンウイークは大抵例年飛び石連休だが、中国では五連休と決まっている。五月一日の労働節を絡めて、その前後で五連休となる訳だ。只、中国の場合、そうした祝日を絡めた大型連休には振替出勤日があり、

「日本の学生さん達は沢山休みがあっていいわね。こっちは一日学校を休んだってのに」

 などと、俺のコンタクトの中で少女が皮肉を吐いているように、トータルの休みとしては日本のゴールデンウイークの方が長い。

 その微妙な長さの連休を利用した中国系の観光客が大挙する対岸を尻目に、セントーサ島の離れ小島を貸し切ったそのビーチでは、いくつかの円卓を並べて優雅に夕食を(つま)んでいる俺達だ。それにしても間もなく日没だというのに、連休ともなると世界の観光地はこうも賑わうものなのか。

「オーバーツーリズムってヤツですか」

「全部がそうとは限らんがな」

「まあ」

 ビーチの円卓は全部で五つ。俺と紗生子の卓と、少女が引き連れて来た取り巻き達が座る卓が三つ。もう一つは少女とアンとワラビーの三人だけが座る卓だ。

「大方、あの暑苦しい連中が引き連れて来たんだろう」

 と紗生子が漏らすのも無理からぬその取り巻き達は、少女がいる卓を中心に俺達とは反対側の半円状に配置しており、つかず離れずの距離感で遠慮なく周囲に目や気を配っている。

「折角の晩メシにも手をつけずに、何をやってるんだろうな全く」

「何か、まともに食ってるのが悪いような気がしてきますよ」

 片やこちらは優雅なもので、紗生子などは既に酒が入っている有様だ。一応護衛中だというのに。これはこれで困ったものだ。それこそ、

 足して二で割りゃあ——

 ちょうどよいと思うのだが、そう都合よくいかないのが世の常としたものらしい。短髪の角刈りにサングラスという威圧感に加え、観光地仕様のつもりなのか。無理矢理着ているアロハシャツが、良くも悪くも完全に浮いてしまっている。

「願わくば他でやって欲しかったモンだが——」

「——ですね」

 その異様に加えて見事に男塗れの、そのあからさまな護衛集団は一個分隊規模だ。只の少女が引き連れて来た護衛にしては、明らかに多い。

「何者でらっしゃるんです?」

 米国代表のアンと交渉に臨むような娘だ。

「まぁ只者な訳がないよなぁ」

 という紗生子は、周囲の不思議な状況に構わず、赤ワインをあおり肉を喰らっている。魔女が血肉を(むさぼ)るが如く、実に旺盛な食欲だ。その得意気な鼻が小さく失笑したかと思うと、最後の最後で、

「【Ms.Lilac(ミズライラック)】の孫さ」

 と、吐き捨てるように教えてくれた。

「げ」

「と言うからには、よく(・・)知っているようだな?」

「ま、まぁ人並みには」

「そうか。よく(・・)知ってると思ってたんだがなぁ」

 気のせいだったか、とニヤつく紗生子は、毎度の事ながら俺のような小物の事をよく調べている。世間的に世界に知れ渡るその二つ名は、武丁香(ウーディンシャン)という名を持つ中国の御大尽を示すものだ。

 中国IT大手【美灯(メイダン)】の会長にして武則天(則天武后)と畏れられる富豪は、俺に言わせれば相談役(高坂美也子)によく似ている。いや、中国版高坂美也子と言って差し支えない、通称通りのまさに女帝だ。それもその筈で、この二人は旧知の仲にして良きライバルでもある、とは伝え聞く業界常識。財力で政界でも暗然たる力を有するところなどは相談役そのものだが、二人が決定的に違うのはその基礎の成り立ちだろう。大企業の創業宗家に嫁いで陰ながらその舵取りを担ったフィクサーと、自らが起業した会社を一代にして世界的巨大企業に育て上げた女帝。因みにその通称が本名からきている事は、説明するまでもないだろう。中国で【丁香】といえばライラックを意味する。

 その孫ってんなら——

 ライラックも相談役と同年代の高齢者だ。それなりにいる一族の中でも、これ程の護衛を連れている孫など一人しか思いつかない。中国の現首相の実娘【安美鈴(アンメイリン)】だ。俺の記憶が正しければ、こちらはエリカと同年代の、小学生だか中学生だかのローティーン。の筈が、やはり年齢不相応の俊英振りで、既に清華大学の四年というからエリカ共々大概にして欲しいものだ。見た目は年齢通りというか、逆により幼く見えるのだから何かの悪い

 ——冗談だろ?

 と言いたくもなる。

「やはり先日の中国大使の来校は——」

「——そういう事だ」

 全ては今に繋がるらしい。

「まぁ派閥抗争の激しいお国柄だからな。大使御一行様がどういうつもりで学園に来たんだか知らんが——」

 何はともあれ、

「アンの身分に釣り合う人間を用意したとなると、中国も満更じゃないようだ」

 交渉事において身分の均衡の重要性もまた言うまでもなければ、双方共に国の序列第二位の実娘だ。もっともアンの父は元職だが、その人気振りでは現政権を脅かす勢いとくれば、VIP度合いはそれ以上といっていい。順調な滑り出し、といったところだろう。

 それにしても、

元副大統領(ミスターABC)がよく許しましたね」

 こんな交渉事に実の娘が担ぎ出される事を。確かにアンは、現副大統領(アイリス)とは叔姪(しゅくてつ)の関係でもある。が、実父(アーサー)とその実妹である叔母(アイリス)は、政治の世界では所属政党が違う。分かりやすくは敵と味方だ。その上で今回のこれは、表面的には現政権を野党議員が下支えするようなもので、それは普通

「有り得ないのではないかと——」

 思うのだが。それを紗生子に言わせれば、

「月並みだが、そう簡単に割り切れないのが政治の世界だ」

 という事らしい。

「大体が、あの怪人何面相(・・・・・)だか知れんスチャラカVP(元副大統領)は、今や無理矢理政治家をやらされている口だしな」

 と、ここは紗生子の毒も理解を示さざるを得ない彼の人気者(ミスターABC)は、昨秋の学園文化祭の折に驚くべき変装で極秘来日し、学園を視察したという信じられない前科を有する。そのノリで職務の方も、

「適当って事ですか!?」

「そこまでじゃないにせよ、まぁ開き直っちゃいるな」

 良く言えば柔軟、なのだとか。

「——ですか」

 紗生子ではないが、アンの父君も常に何処かしら愚痴っぽく、何かを憂いていた。その悩ましさの中での答えとしたものなのかも知れない。

「国のためになるからこそだろう。もっとも私に言わせれば、それにつき合わされるのが何故私なのかという事に尽きるんだがな」

 そんなところも俺などでは理解出来ない、政治の世界の駆け引きなのだろう。事がそこに及ぶと、また紗生子の機嫌が怪しくなるので、そろそろ

 ——やめとこ。

 と、思いきや。

「ここで私闘に走ってみるか?」

 とまた、俺の事(・・・)をくすぐられた。

「もう、終わった事ですよ」

 俺個人としては、それはもう遥か昔の若かりし頃の汚点にして、終わらせた(・・・・・・)事だ。が、

「相手はそうは思っていないと思うがな」

「——でしょうね、やはり」

 それは安美鈴からすれば、血縁絡みの因縁だったりする。殊の外それを大事にする中国人の事だ。恐らくは俺が考えている以上に根が深い。しかもよりによって、紗生子が言う相手(・・)の方が、あらゆるステータスにおいて圧倒的に優位なのだ。それを俺のような、何処の馬の骨とも知れぬヤツに一太刀(・・・)浴びせられたまま(・・・・・・・・)とあっては、一族のプライドが許さないだろう。となると、

「向こうのあの異様な護衛は——」

 俺が影響しての事なのか。

「——だとしたら何だってんだ?」

「いや、それマズいでしょ!?」

 これから何かを取りまとめようとする時に、その護衛が妙な因縁を抱えるなど。

 それを、散々くすぐってくれた紗生子が、

「気づかれたところで、大した事じゃないさ」

 などと、あっさり覆した。

「私なんて、そんな事(・・・・)だらけだぞ」

「それは——」

 まぁ紗生子なら、確かにそうだろう。

「君をどうこういう前に、あれは私を警戒しての事だ」

 何せ俺の前でさえ、数々の無茶をやってきている、こちらも大した前科者(エージェント)だ。それが世界中で暴れ回ってきている事は、本人の口から聞くまでもなく容易に想像がつく。

「——確かに」

 その、少しの間を察したエスパー紗生子が、

「まるで暴れん○将軍扱いだな」

 と、失笑混じりの自虐を吐いた。

「上手い事言いますね」

「いやそこは全力否定するところだろうが!? これ程の美女に(はべ)る身だぞ君は?」

 全く言うようになったな、と返す刀の矢継ぎ早の三段論法だが、先刻俄かに噴出しかけたガスは抜けたらしい。やれやれだ。

「——敵味方なんて目紛しく変わる業界の事だ。その時々の状況に合わせてやっていくしかないさ」

「そんなモンですか」

「そんなモンだ」

 そこは流石の紗生子の、肝の太さというヤツだろう。と、今は俺の事は置いておくとして。

 俺だけが落ち着かないのかと思えば、メインテーブルも何だか、

「さっきから落ち着かないというか——」

 立ったり座ったり、ぐるぐるとテーブルを回ったりしている。

「まぁ初顔合わせだからな」

 他人のコンタクトを覗き見る権限がない俺に、紗生子がコンタクトの映像を転送してくれている、その映像元はワラビーのものだ。日中の護衛達が、周囲を取り囲むように円卓を並べるその中心卓には、アンと美鈴とワラビーの三人が掛けている。アンの秘書たるエリカと、美鈴の秘書と思われるアラサーの女性は、それぞれ主の傍の小卓に控えるように掛けており別卓だ。

 その中心卓で、まず積極的なのは美鈴のようであり、

『海を眺めたいから場所を代わって』

『眩しいからやっぱり代わって』

『蚊がうっとうしいから代わって』

 などと、存分にお嬢様にありがちな我儘を繰り出しては、目紛しくも椅子取りゲームのように座る位置を変わっている。

「アンの方がお姉さんなんだ。人の振り見て我が振り直せとはよく言ったモンだな。少しは周りの苦労が分かるだろう」

 と皮肉る紗生子のその視線の先で、確かにアンは普通話を使っている。多言語話者(ポリグリット)であるミスターABCの娘もまた、いくらかの言語を口ずさむ事が出来るようだ。年下の美鈴を慮っての事なのだろう。

 不思議なのは、そんな二人と一緒に掛けているワラビーだ。

 何であの二人に——

 CCのくノ一が紛れ込んでいるのか。中心卓には秘書はおろか、通訳もいないというのに、だ。見たところワラビーは、米中の若過ぎる全権代表を前に、薄く反応を示しては一緒に椅子取りゲームに加わっている。紗生子が交渉詳細を知るために座らせているのか。

 ——いやいや。

 十数mしか離れていない中心卓の事なら、会話の内容はイヤホンの集音機能だけで十分聞き取る事が出来る筈だ。そもそも紗生子なら、少々離れていようが口の動きを読めるのではないか。俺でさえそれが出来るのだ。天才肌の紗生子にそれが出来ない訳がない。

「何でワラビーが——」

 そんな疑問が、つい口から漏れ出たところで、

「アイツは私の名代だ」

 と、またしても紗生子が意外な事を吐いた。

「はあ?」

「米中両国の仲介役を果たす日本の、その代表さ」

「あのギャルがですか?」

「あれで本籍地(出向元)は、外務省のCTUだったりするからな」

「ウソでしょ!?」

 思わず口に含んだものを吐き出しそうになったそれは、分かりやすくは日本の防諜機関の一つだ。ここ何年かの間に新設されたとは聞いていたが。

「対テロ専門の情報ユニットを立ち上げたまではよかったが、不慣れな政府連中は使い方を知らなくてな——」

 それで紗生子が何人かを引き抜いた、ワラビーはその中の一人らしい。

「俺なんかに喋っちゃっていいんですか?」

「別に減るモンでもないだろ。それに君は口が固いしな」

"センセーならボディーサイズも教えちゃってもいいわ"

 とそこへ、ワラビーが割り込んできた。

「そんなん知りたくもないわ」

"あらぁ、随分な事言ってくれるなぁ。これでも結構モテるんですけどぉ"

 中心卓での全権娘達を前に、器用にもメッセージを送ってくるワラビーは、わざわざ紗生子が引き抜いただけの事はあって優秀という事だ。この女子高生扮するギャルが、実は二十代というのが未だに信じられないのだが。

「そろそろ他の仕事仲間とも、少しは信頼関係を築いた方がいいだろう」

「そんなモンですか?」

"あーそれ言えてる。主幹センセーとばかり親密になってるしぃ"

「やかましいわ! 余計な事に口を挟む暇があったら、目の前でぎこちなく揉めているお嬢様方を何とかした方がいいんじゃねぇのか!?」

我知道(分かってるって)!"

 と返されて、確かに仲間内の事を何も知らないと思い知らされた俺だ。にしても、ワラビーが紗生子の名代だとすれば、日本側の代表は、

 ——紗生子?

 という事になる、のか。

 って事は——

 米中の構図から鑑みて安直に考えると、実はこの魔女が今の日本の副総理の娘

 ——とか言うんじゃねぇだろうな。

 という事になる訳だが。

 ——いやいやいや。

 有り得る話だが、そうであって欲しくないと思うのは、上流階級に少なからずの徳を期待する小市民の僻みだ。そんな紗生子と俺の親密度が、百歩譲ってワラビーの言う通りだとしても、俺は相変わらず紗生子の事を何も知らない。分かるのは、日常的に接する事で得られる表面的な情報だけだ。

「やれやれ、仕方ないヤツらだ」

 と、そんな俺の疑念をよそに、晩メシの手を止めた紗生子が(おもむろ)に立ち上がると、周囲が見つめる中で無遠慮にも中心卓に肉薄し始めた。

「ちょっ、主幹——」

 それと同時に中国側の護衛の何人かが素早く立ち上がり、緊張感を纏わせて迫る。素性の知れぬ連中だが、一党専政の共産主義体制国家の事。国有企業は言うまでもなく、民営企業の中でさえ党組織が常駐し、その意思をもって運営される会社とは事実上の国有企業であって国の手先だ。

 そもそも——

 企業云々を論じる前に、あの熟れない格好の刈り上げ頭を見れば、誰がどう見ても軍か公安絡みの護衛である事は疑いようもなく。それに対する西側のアレルギー反応は、俺でさえ例外ではない。その対抗意識故か、数秒うちに中心卓に護衛の人(だか)りが出来てしまった。

「ちっ」

 その中心で舌打ちをする紗生子に対して、向こうは全員が切迫している訳ではないにしても一個分隊規模。こちらはワラビーも含めて三人だ。玄人相手に一人当たり三人以上の割り当てとなると、流石に少しは骨が折れるかも知れない。

「暑苦しい連中だな。教育が行き届いてないぞ? みすず(・・・)

 ——げ。

 渦中で紗生子は、実に堂々と相手方を日本語読みで、しかも呼び捨てだ。

「主幹!?」

「いいんだ。これでもこのお嬢様とは知り合いでな」

「はあ?」

 剣呑なムードが漂う中で、またしても意外な事をぬかす紗生子を裏づけるように、

「もー我慢出来ない! 紗生子ぉ!」

 と、その人集りの中心で、みすず(・・・)が紗生子の腰にしがみついた。しかも、実に流暢な日本語だ。

「お前まで、暑苦しいと言ったろうが」

「だってぇ、久し振りの再会なのにぃ甘えられないなんて耐えられないよぉ!」

「その前に、この取り巻き共を下がらせろ」

退下吧(お下がり)

 器用に日本語と普通話を使い分ける美鈴のその一言で、腑に落ちない素振りを見せながらも中国側の護衛が下がって行くところを見ると、今更だがこの年端も行かない少女が本当に中国側の代表らしい。エリカと違って、どう見ても子供だと言うのに、だ。

「君も下がらないか。余りぐずつくから説教するだけだ」

 ——説教ねえ。

 暑苦しいだの説教だのと切り捨てる割に、紗生子はじゃれつく美鈴の頭を撫でている。対する美鈴も、目を細めてそれを堪能する様子はまるで、

 ——猫かよ。

 差し詰め紗生子は、その飼い主のようだ。

 しかしまぁ——

 何にせよ、ここでも結局、紗生子が一番上におわすような構図が成り立っている。安定的にその立ち位置は謎塗れの一方で、分かりやすいのは、

「対岸の中に不躾な目(・・・・)が——」

 チラホラしているそれはどうやら敵意だ。実は先程から気になっていた。明らかに目つきが怪しい男達が数人。何者だか知った事ではないが、コンタクトでロックオンして情報展開してやる。と、

「大丈夫だ。今のこれ(・・)はその陽動でもあったんだが、とりあえず様子見らしい」

「何ですか? あの連中」

「それはあなたの事よ」

 などと、予想外にも(美鈴)が俺に噛みついてきた。

「は?」

「——じゃないわよ。何勝手に私の紗生子と結婚してんのよ、この泥棒猫!」

「泥棒猫?」

 猫はそっちだと言いたくなるのを辛うじて喉元で食い止めるのだが、それにしても予想外のメロドラマ展開だ。

「いや勝手に結婚したのは——」

 紗生子の方なのだが。

「何だかんだでまだまだ子供ねぇ」

 と、そこへアンの余計な一言が入り。何やら妙な事で込み入り始めた

 ってぇのにこのお姫様がまた——!

 これでは火に油だ。

「なぁにお姉さんぶってんのよ! こっちが下手に出てるのをいい事に調子に乗ってんじゃないわよ!」

「は? 何言ってんの? 調子こいてんのはそっちじゃないの!? さっきから黙って聞いてりゃ、海だの眩しいだの蚊だの駄々捏ねてんじゃないわよこのちんちくりんが!」

「何よ! 何でもデカけりゃいいってモンじゃないわよこのホルスタイン女が!」

「な、な、な、何だってえ——っ!?」

出来吧(出合え)!」

 その鶴の一声で、一瞬にして中国側の護衛がまた集結し、今度は小競り合いが始まってしまった。俄かに日本側の護衛を排除しようとする不用意な手が紗生子に伸びた瞬間、その腕毎妙な方向に曲がり、断末魔と共にガタイのよい大男が宙を舞う。説明するまでもなく紗生子の手業だ。

「しゅ、主幹!?」

 その容赦ない手合いは、最早丸く収めるつもりもなければ、完全に油を注がれた火炎に成り下がっている。それをどうにか食い止め、収拾させたかったのだが、

「ダメだこりゃ」

 などと、紗生子の口から思いがけず懐かしの決まり文句が飛び出したせいで、気が抜けてしまった俺は出遅れて雁字搦めにされてしまった。

「な、何でこんな時に——」

 そんな擦り切れたギャグを出してくれるのか。恨み節の一方で、押し込まれた分を取り戻すために、手加減する余裕がない。

 ——や、やむを得ん!

 俺の両腕を後ろで極めている一人に身体をぶつけて張っ倒すと、もう後戻り出来なくなってしまった。開戦だ。

「私に触れるとは無礼なヤツらめ! 遠慮はいらんぞゴロー!」

 などと、バディ(・・・)は完全に調子づいている。性悪魔女のそれだ。恐らくは酒のせいも多分にあるのだろうが、こうなってしまったからには、多少の無遠慮は大目に見てもらうしかないだろう。何せ相手は気味が悪い程統制がとれた、悪く言えば盲目的な集団だ。手加減も難しければそれ以上に、乱闘好きの武闘派女を止める術がない。

 混戦の中でアンの身は、最側衛のワラビーが寸前で絡め取って安全圏に離脱している。こういう時は俺達二人が防波堤だ。玄人相手に二対一〇の小競り合いは流石に分が悪い、そんな中。

「どうした!? そんなモンかっ!?」

 などと、すっかり勢いづいた紗生子の、その黄金の平手打ちが炸裂し始めた。途端に形勢が逆転。がっくり膝を折った一人が地面に平伏(ひれふ)すと、次の瞬間にはまたその魔手が別の一人を沈めてしまう。

「ちょ、ちょっと!?」

 ——程々にしとけっての!

 玄人相手でも炸裂する一撃必殺は流石の一言に尽きるが、今日はもうダメだとしても明日の交渉相手だ。やり過ぎは今後に禍根を残すと思うのだが、そんな憂慮が今の紗生子に通じる訳もなく。くずぐず考えているうちに周りは死屍累々だ。

 あちゃぁ——

 酔う程に強くなるそれは酔拳か何かなのか。当然、初日のワーキングディナーはこれにて打ち切りとなった。散々の結果に終わった事は言うまでもない。


 翌日、シンガポール二日目、午前。

 昨夜はそのまま、セントーサエリア内のホテルで一泊した同好会の面々は、朝食後に中国側と合流。そのまま一緒に島内施設の観光に入った。常夏の国らしく朝っぱらから蒸し暑いというのに、昨日と異なるのは、最初から美鈴が紗生子にくっついて離れない事だ。

「暑いから少し離れろ」

「いやぁだぁ。久し振りだからいっぱい甘えるって決めてたんだもん!」

 日中を代表する企業の支配者同士。個人的にも交流が深い高坂グループ会長夫人の美也子と、IT大手美灯(メイダン)会長の武丁香(ミズライラック)の仲が、どういう経緯でこの二人の仲睦まじさに繋がるのか。アラサーの紗生子からすれば、優に一回り以上の年齢差があるというのに。

 美鈴の実父、(アン)首相といえば、俺の記憶が正しければ還暦手前の若さで党の序列二位まで登りつめた出世頭だ。そんな御大尽の愛娘がミズライラックと繋がる訳は、ライラックの実娘が安首相の妻という単純な話。が、何処をどう結べば、それらと紗生子が繋がるのか。毎度の事ながら、その人脈の広さに恐れ入ると共に、謎は深まるばかりだ。

「今回の私は、あくまでも護衛だ」

「だからちょうどいいんじゃないの」

「お前は自分の国の人間に守ってもらうべきだろうが」

「何言ってんの。昨日の夕方、散々やっつけてくれたくせに」

 今はちょうど、水族館をぶらついているのだが、周囲には相変わらず熟れない軽装の角刈り軍団がつき纏っている。その面々がわざとらしくも包帯を巻いたり、あからさまに絆創膏を貼ってみたり。要するに、昨夕の乱闘劇の

 ——当てつけか。

 その一方。

「私はアメリカ側の護衛なんだよ」

 と、面倒臭そうにボヤいている紗生子以下米国側の三人は、何れもあの乱戦の中で無傷だったりした。更に言えば実働は二人で、その内俺が退けたのはたったの二人。要するに、紗生子の独壇場だったその大立回りだ。が、その張本人は、

「面倒をかける我儘娘だ」

 などと、全く気にする素振りもなければ悪びれもせず、呆気らかんとしていて既に過去の事といわんばかり。その代わりといっては何だが、何故か俺の方が

 ばつが悪いような——

 気がする、そんな微妙な道中だ。

「堅苦しい事言わないの。アメリカ側なんて、大層お強いステディ(・・・・)が一人で守ってくれるってば」

 と、白々しくも俺をチラ見してくれるみすず(・・・)は、俺を毛嫌いしている。恐らくは、

 ——昨日のオセロか。

 その勝敗を根に持っているのだろう。ばつが悪いのもそのせいだ。

 昨夜紗生子は、同じホテルに泊まった美鈴を同好会の女子部屋に招いた。無茶苦茶な終わり方をしたワーキングディナーを、流石に少しは気にしたのだろう。紗生子を除いた四人が言葉に窮した挙句、ぎこちなくもとりあえずトランプを始めたのが事の発端だ。外交とは、意外な細やかさで道が開ける事もある。が、子供であって子供ではないこの四人のやる事で、何をやっても異様なレベルの高さに初期の目的などあっさり消滅。その中で美鈴の強者振りが際立つと、またしてもアンが爆発。隣室で束の間の開放感に浸っていた俺に、八つ当たり気味の白羽の矢が串刺しにされたのは言うまでもない。

 インカム(コンタクトとイヤホン)で敵襲を演出したアンに騙されて女子部屋に飛び込むと、ネグリジェ(そそる夜着)の紗生子に代表される目の毒攻撃と、独特の女香(にょこう)による幻惑作用で忽ち酩酊寸前に陥ったところを監禁される俺の間抜け具合も大概だが、その本能と理性の間で美鈴との本気勝負を条件に解放を約束されては手も抜けない。いつの間にか用意されていたオセロ盤を前に、そうは言っても相手国の全権に花を持たせてやった三番勝負の初戦で、見事に手抜きを指摘する賢しい連中の手前だ。文字通りの逃走本能全開で存分にコテンパンにしてしまうと、負け慣れていないお嬢様の事。加えて素性の怪しい俺のような与太公に、その屈辱を強いられたとあっては尚更だろう。これも外交の、一つの苦味だ。

「いるのよねー、ああいうのだけ(・・)強い人が」

 結果、珍しくも配慮のようなものを見せた紗生子の労を、部下の俺が台無しにしてしまった。それどころか、

「いるのよねー、素直に負けを認めたがらないお嬢様が」

 などと揚げ足を取るアンに、口撃のネタにされてしまっており、二人のお嬢の間はもつれるばかりだ。

「流石にホルスタインだけあって持ち駒が多い事ね。どんな手でたらし込んだのか知らないけど、ちょうどこんな感じ?」

 と、目の前の水槽の中では、大小のイルカがベタベタくっついている。授乳だろう。

「もうこんなのほっとこうよ先生」

 思えばアンは、それなりの身分ながらも気さくな部類だ。片や中国は、長年の一人っ子政策の影響から子供の我儘振りが問題になっていると耳にした事があるが、

 ——小皇帝だったっけか。

 どうやらそれを実体験させられているらしい。皇帝とはよく言ったもので、美鈴などはまさにそうした家柄の人間だ。無理もない。

軍人奴隷(マルムーク)のくせに。身の程を弁えなさいな」

 また俺に向けられた辛辣なその一言は、何故か俺《本人》を差し置いて紗生子の表情を凍らせた。

 ——ヤバい!

 雰囲気一変。俺の二、三歩先を、それこそ先程見たイルカの母子のようにベタベタくっついて歩いていたその大きい方が、只ならぬ殺気を伴って立ち止まる。

「いけません!」

 慌てて割って入った俺に、当たりどころを配慮する余裕はない。最早お約束気味に、物の見事に紗生子の見事な胸に顔を突っ込んでしまうと、気づいた時には薄暗い天井を仰いで倒れていた。これで俺も、負傷者リストの仲間入りだ。


 更に翌日、シンガポール三日目、夜。

 予定では最後の夜なのだそうだが、それを記念しての事か。米中の御一行様は、マリーナエリアの名物リゾートに来ていた。高さ二〇〇mを誇る三棟横並びのビルの上に、船のデッキを模した広大な屋上が乗っかっているそこのナイトプールを堪能している双方は、例によって違和感丸出しだ。垢抜けない格好の護衛(取り巻き)が原因である事は、最早説明するまでもない。

 相も変わらず、初日の乱闘による負傷をアピールする中国側の護衛がチラホラ目に入る中で、不本意ながら俺も、それにつき合わされる事になってしまった。昨日の紗生子の平手打ちによる負傷である事は、これまた言うまでもなく。

「全く君は純情振るくせに、中々どうして積極的だ」

 いい加減にしとかないとそろそろ顔の輪郭が変わるぞ、と言われた俺の鼻の頭には、漫画のようにガーゼを当てられた上にバッテンマークのテーピングが施されている。

「その程度で済むとは、軟弱そうな見た目の割にホント頑強だな」

 無事これ名馬とはよく言ったものだ、と感心する紗生子によると、感情任せの反射の一撃で無事な例は記憶にないらしい。

 いや——

 無事じゃないのだが。それでも紗生子の中では、想定外の軽症なのだとか。

「君が初めてだろう」

「恐れ入ります」

 と言う俺のその返事は、見事な鼻声だ。何せ未だに鼻の穴に突っ込んだ詰め物が取れない。骨折こそしなかったが、軽い脳しんとうと副鼻腔外傷による出血。要するに何かの拍子で鼻の中の傷が開いては、中々鼻血が止まらないのだ。

被害者(・・・)が治療してくれるんだ。少しは有り難く思え」

「全くです」

 中国側の護衛達のアピール(・・・・)を思い知らされた。一見して俺よりも派手な手当ての跡は、つまりは本気の負傷だ。思い起こせば紗生子は見た目を度外視した怪力の持ち主であり、事ある毎にその平手打ちの威力をその間近で、時として肌身で体感して来た俺ではないか。つい外見の麗しさに騙されて、それを忘れてしまうのが原因なのだが、

 いい加減——

 うっかりでは済みそうにない。一度目は昨秋の文化祭での事だった。やはり激情に身を委ねた紗生子を遮二無二食い止めたのが原因で、要するに今回と同じシチュエーションだ。こんな調子で三度目があったら。それこそうっかり、

 ——死ぬんじゃねぇか?

 そんなもしもが有り得る紗生子のビンタだ。そんな怪力女の診断では、安静にしておけば一、二週間で治るらしい。

「次に私に触れる時には、同意をとる事を忘れるな」

 そう言う自分は——

 同意もクソもなく、やりたい放題やってくれているというのに。とは、また何を言われたものか分からないので口にはしない心の声だ。その代わりと言っては何だが、

「どうも、すぃません」

 と無意識に、また昭和の爆笑王のネタが口から出てしまうと、何故だか古いネタに嗜みがある紗生子が失笑する。それが鼻声とあっては間抜け度も何割か増しだ。自分でわざわざ笑いのツボを突くような、その一人時間差で俺自身が失笑してしまうと、鼻に詰めた栓が

「フガフガ」

 と、愛嬌たっぷりの子豚の鼻息ような音を出してくれた。それに堪り兼ねた紗生子が、

「ぶはっ!」

 と、盛大に噴き出す。これまた無理もない。俺でさえ笑えるのだ。

「す、すぃません」

「わ、分かったから喋るな」

 いつもは揺るぎない堂々たるその美声が、制御不能に陥り喉に腹に痙攣している。どうやら抱腹絶倒クラスのツボを突いてしまったようで、それでもひとしきり笑いを堪えた後で、

「——スマン。悪気はない」

 と、小刻みに震えながらも謝罪のようなものを垂れるそれは、一応俺の何処かに対する配慮だ。返事をすると、また変声で笑わせてしまうため、首を縦に振って答える。と、まだ脳が揺らいで、軽い目眩(めまい)を覚えた。

 ——マジかよこれ。

 相撲取りの張り手といい勝負が出来るのではないか。全くもって末恐ろしい、文字通りの必殺の一撃だ。

 そもそもが——

 同意をとっていたならば、美鈴が俺以上の負傷を負っていただろう。あどけなさが残る小さい身体だ。それこそ冗談抜きで、

 ——死んでたかもなぁ。

 安く見積もって入院、それもICU系。悪ければ即死。それを少しは紗生子も理解しているようで、

「——今回は助かった。そういうところは頼りにしている」

 などというそれは、褒めているのか謝っているのか。相変わらずの分かりにくさだが、紗生子の事ならそんな不器用さが、逆に真実味を帯びるのだからおかしなものだ。大体が、もとを正せば、それは俺の名誉のためだったのだ。それを紗生子のような絶美に擁護される事は、男としてそれこそこの上ない名誉だろう。

 美鈴が口走ったマルムークとは、中世から近代にかけてイスラム世界に存在した軍人奴隷の事だ。奴隷とはいったものの寛容な見方もあったようで、史上では王朝まで興し繁栄を築き上げた英雄すら実在する。要するに実力主義であり、そこは古代ローマの剣闘士(グラディエーター)と同類だ。

「中国は歴史的に賎民や奴隷に対する差別意識が強い。それは日本にも言える事だが、みすず(・・・)ともあろう娘が、それをわざとらしく口先で弄んだのが許せなくてな」

 そんな美鈴は、昨日から紗生子と少し距離を置いている。少し元気がないというか、表情が固いように見えるのは気のせいではない。紗生子の剥き身の殺意のようなものを、あの小さな身体で感じたのだ。これもまた当然としたものか。慕っている人間のそれは、余計でも戸惑いを覚えるだろう。

「中華至上主義は結構だが、力を背景に傲慢をまかり通すのは関心しない」

 アンタが——

 それを語るのか、と思わず突っ込みたくなるのを慌てて飲み込む俺だ。

「私は使い分けているぞ?」

「え?」

「私の事だと思ったんだろう?」

「いえ」

「ウソをつけ」

 喋るなと言っておきながら話かけられると、

 ——辛いんだが。

 やむなく鼻の詰め物を取ってズボンのポケットに入れた。もう大丈夫そうだ。

「傲慢な人間が、他人の名誉のために怒る訳がないですから」

「——分かったような口を利くようになったじゃないか。だが、点数をつけるなら五〇点だな」

「然いですか」

「身内だ。他人じゃない」

 また——

「——そこ(・・)ですか」

 紗生子は事ある毎に、殊更そこ(・・)を強調する。

そこ(・・)とは何だ? 随分なヤツだな。勿体つけて自分で全部言わないから、わざわざ()に指摘されるんだろう?」

 そうやって、ウブな()夫の反応を楽しむ性悪()妻だ。それをする相手が何故俺なのか。それにしても、そこ(・・)だけで五〇点も減点とは。採点基準も含めて安定的に謎だ。

「俺は一〇〇点とれる程、頭良くないんですよ」

「よく言うな。私はあの小賢(こざか)しい娘っ子が、あの手の(アブストラクト)ゲームで負けたのを初めて見たぞ」

「そうだったんですか」

「何せIQ一六〇オーバーの天才だ」

「まぁそんな感じですよね。あのお嬢様は」

「何だ? 驚かんのか?」

「だって、今に始まった事じゃありませんよ」

 俺の周りにいる女達は、幸か不幸かそんな天才に塗れている。

「昨日のオセロに限っては、たまたま俺が勝っただけの事ですよ」

「マルムークにそんな同情をされたのが、余計癪に障ったそうだ。悪く思わんでやってくれ。あれで反省はしている」

 それこそまるで、身内を叱るが如くだが。

 ——まさか。

「お身内とか——?」

「——な訳なかろう。が、それに近いものはあるかもな。子供の頃の私に似ているせいだろう」

 ——確かに。

 どんなところが似ているのか、確かめるまでもなく包括的に似ていそうだ。

 そんな紗生子は、護衛中だというのに実にのんびりとビーチチェアで踏ん反り返っており、フルーツ盛りのソフトドリンクをストローで啜っている。それもその筈で、傍には警護対象のアンがいなかったりした。実は訳あって、ワラビーとエリカ共々、別の場所で待機させているためだ。とはいえ、紗生子の傍で丸椅子に座ってぼんやり()している俺の反対側には、サングラスをかけて好き好きの帽子を深く被っては、やはりビーチチェアに踏ん反り返っている三人がいるのだが。

「まぁ駄々を捏ねた分、その身をもって借りを返す根性は認めてやらんとな」

 とはつまり、美鈴は囮であり、俺の横の三人は影武者だった。

「これで一暴れしなくてもいいんなら、それなりに満足なんだがな」

 今度は何が攻めて来るのか。相変わらず俺は詳細を聞いていない。そんな間抜けな俺は、これまでそれなりに世界を彷徨(さまよ)って来た身だが、その中にシンガポールの履歴はなかった。そもそもが、東南アジアには縁がなかったと思うこの研修旅行だ。つまりは現状、学園のような地理的優位性がない。

 それを——

 紗生子はどうやって凌ぐつもりなのか。

 今回の短い滞在で分かった事だが、地方自治体がない都市国家とはいっても、都市計画上の区分というものが存在するらしい。よくある方角分類の例に違わず、東、西、北、東北、中央の五つに区分けされた地区がそれだ。その地区で言うなれば、この三日間で俺達が滞在したのは、東部にあるチャンギ空港を除けば中央地区だけだった。全てはやはり、紗生子の思惑だったようだ。

「実は一応、有事に備えて行動範囲を絞っていた」

 そのこころは、

場所(・・)を貸してもらうんだ。乱闘エリア(・・・・・)は小さい方がいいだろう?」

 という事らしい。

 既に少し触れたが、実は初日から周囲で不穏な動きがあった。それに関連した詳報が紗生子にもたらされたのは、昨夜の事だったとか。

「シンガポールの駐在員から報告が上がってきてな」

「そんな人達がいるんですね、やっぱり」

「ああ。世界中にいる」

 その駐在員の報告では、チラホラしていたのは斥候らしい。で、

「何れ何処かのタイミングで必ず攻めて来るんだ。それならぼんやり待つのは性に合わん」

 という事で、昨夜から今朝にかけてのんびり準備を整えていたらしい。

「君の看病がてらな。お陰で実は少し眠い」

「そ、それは面目ない事で」

 言葉の何処かにあざとさが見え隠れする紗生子の言う通り、片や昨夜の俺はビンタの影響で、実は結構グロッキーだったという情けなさだ。とはいえ、相撲取りの張り手を至近距離でまともに食らえば、普通そんなものだろう。

「何かホント、毎度すいません。何も出来ず」

「そんな事はない。君は実に優れたバディだぞ。柴犬なんだろ?」

「はあ」

 そんな事を俺の口が吐いた事もあったような。

「日本犬といえば柴犬だ」

 結局は、慰み物扱いらしい。一応これでも男なのだが。重ね重ね何とも情けない限りだ。

「元々相当賢いと言われる犬種だが、中々どうして、躾が難しい拗らせ屋でもある。飼い主次第で極端に個体差が表れるというから腕の見せどころだ」

「然いでしたか」

「まるでどっかの誰かさんのようだろう?」

「はい?」

「まぁ、そう言う事にしておいてやろう」

 と鼻で失笑した紗生子が、啜っていたソフトドリンクのストローを抜いて、ある一点を指し示すような仕種をした。数百m先にあるマーライオンの遥か向こうを、視野(コンタクト)をリンクさせた紗生子がクローズアップしてロックしたそれには、イスタナの注釈がついている。マレー語で宮殿を意味するそこは、シンガポール大統領公邸兼執務室及び首相執務室があるシンガポールの中枢だ。

「水面下でシンガポール政府と交渉していた。ドンパチやる事が分かっているのなら、許可の一つもとっておこうと思ってな」

「何処が攻めて来るんです?」

「あの偏屈なみすずが急転直下で囮を申し出るんだ。余程の事だと思わんか? あのプライドの塊が形振り構わずとくれば——」

 随分と回りくどい言い方をしてくれる。あえて俺に言わせようとするその誘導が正直煩わしい。何故こうもこの女は、一個人のセンシティブな情報に触れる事が出来るのか。

「——身内の不始末、ですか」

 と言うと、

「思い出すだけでうんざりだろうが、向こうは偉く御執心だ。時間の問題だと思え」

 と、その見た目通りに冷たく言い放ってくれた。かと思うと、そのまま傍のテーブルに置いていたつばの大きい麦わら帽子で、その御尊顔を隠す。

 やれやれ——

 だ。

 話は武丁香(ミズライラック)の一族に触れる。それは今武則天の逆鱗であり、耐え難い公恥(こうち)にして、改めるべき弊害だ。庶民感覚では関与はおろか、触れる事すら憚られる醜聞なのだが、先日来何かにつけてその話を仕向ける紗生子は、当然許してはくれない。

 ライラックの夫は、自身が米国留学中に知り合った米国人IT研究者で、ファミリーネームをRye(ライ)と言った。後、中国に帰化して(ライ)と名乗ったその夫との間に三人の子を儲けたライラックのその末娘が、安首相に嫁いだ美鈴の実母だ。政財界の血脈の巡らせ方は、古今東西の例に違わずという事だろう。真ん中の二男は稼業美灯(メイダン)を継ぎ、現在は社長。下の二人(・・・・)はライラックの子らしく、それなりの人物に成長した。問題は、残った長男だ。

「あれは何処の国の実話だったか?」

()の狼の子の逸話ですか」

「中々大したミスタートリビア振りじゃないか。私を前に、無駄にしゃちほこ張るところが愛くるしくも潔い、実に素直で良く出来た柴犬だ」

 重ね重ねも白々しい事だが、ペット扱いに加えて酒肴の要素も見出されているような気がするのは気のせいなのか。魔女の嗜好とは、未だに理解不能だ。

「駆け引きが面倒臭いだけの、短絡的な愚か者ですよ」

「わざとらしく卑下するな。私はその通りだと思うが、世間はそれを嫌味と受けとる」

 それは——

 そうかも知れない。

 俺のような無学の者がその一端を掻い摘むと、学を有する既得権益者達は何らかのアレルギー反応を示したものだ。主に誹謗中傷、萋斐貝錦(せいひばいきん)偽詐術策(ぎさじゅっさく)。何とも悍ましきは人の世だ。

「君はそれでも、狼少年にならないメンタルの強さをたまたま持っていた。何かが違えば、ひょっとすると君の方こそその狼子(・・・・)だったかもな」

「いや俺は——」

「ポテンシャルだけならそれ以上だ。何せ私の傍を任せられる人間だからな」

「はあ」

 どうやら褒めているようだが、俺にとってはそれすら気味が悪い。駆け引きは面倒でも、裏を読む癖は身をもって養ってきた俺だ。

「ベクトルの違いさ」

 今も裏稼業のようなものだが、辿れば一応国家機関だ。それが辛うじて、最後のたが(・・)になっているような気がしないでもない。だがもしも、本当の闇の世界に塗れてしまったら。

 確かに俺も——

 長男と同類だったかも知れない。

 狼子野心(ろうしやしん)、という四字熟語がある。そもそも四字熟語の起源は、古代中国の故事成語か仏教の教えを説いたものの二形態に分けられると言われるが、狼子野心は前者だ。それは「生まれた子は狼の子だから、殺さないと一族が滅ぼされる」という予言を無視して育てた子に滅ぼされた、古代中国に実在した公家の実話。余談だが、野心という言葉の起源はこの実話からきているとされる。

 この狼子野心を地でいく長男は、まさに飼い慣らされる事なく狼の子として成長し、気がつくと香港に本社を構える世界的な人材派遣会社【万来(ワンライ)】グループを築き上げていた。任侠の世界を渡り歩く度胸は言うまでもなく、その巨大組織の頂点に見合う頭脳を持ち合わせていたという事なのだろう。その根本は、人身売買のシンジケートという落ちだ。

「前門の虎、後門の狼——ですか」

 長男の朋友との二大巨頭体制の、その片割れは【(ワン)】という。他方、中国の子供の一般的な苗字選択の例に倣い、父方姓を名乗ったライラックの長男の姓は【(ライ)】。その二人の姓を合わせたグループ名は、その裏の顔までも知る日本人が聞けば皮肉に聞こえるだろう。その万は虎、来は狼と呼ばれるその根拠は安直にも、

「刺青通りの虎狼の輩共だな」

 と紗生子が蔑む通り、それはそれは立派な刺青を彫っているが故の二つ名だ。

「随分と肥大化したようですし、俺のような小物の事なんかとっくの昔に忘れてるモンだと思ってたんですが」

 裏を掘り下げれば切りがない、闇に塗れたグループだが、今となってはその実情を知る者は極めて少数派だろう。それを打ち消して余りある表向き事業の躍進振りなのだ。

「ああいう連中は執念深いからな。何せ今時、プライドと命の価値が同じという時代遅れの連中の事だ」

 今では日本でもよく耳にするその外資系人材派遣会社が、まさかそんな任侠道の世界と繋がっていようとは。

 ——誰が想像するモンかな。

 それはそれこそ、CCの存在レベルに近い都市伝説のようなものだ。

「それに君は、虎を食った(・・・・・)んだろう?」

「俺じゃありませんよ」

 実は【万来(ワンライ)グループ】の二大巨頭体制は、一昔前に終わっている。その原因を作ったのは、確かに外ならぬ俺かも知れない。俺を発端とした一騒動の中で虎の方(・・・)が死んだのだから、

「狼が忘れると思うか?」

「そりゃまあ——」

 と、言う事になる。

「それは分かるんですが——」

 何故今ここで、攻めて来るのか。

「不肖ながら、私も狼に例えられた部類の人間だからな。気持ちは分からんでもない」

 前外相(高千穂弟)が口走っていた【赤い狼】の事なのだろうが、

「そんなモンですか?」

「そんなモンだ」

 と言い切られては、返す言葉もない。

「考え込む程難しくないだろ? 中国政府筋の対米強硬派と繋がってるだけの話だ」

「それがどうして——」

 ここで、俺と繋げられてしまうのか。

「連中の諜報能力も、あれで中々侮れんぞ。事実、四つ星(警視総監)はアクションを仕掛けてきただろう?」

「はあ」

 と呆れる外ない俺には、確かに過去、今や世界に蔓延る闇の片割れを葬り去る程の原因を作った、忌々しい因縁があった。それは明らかに、非合法の非人道的稼業を営む相手方こそが悪であって正義は我にあったのだが、相手(悪党)は決してそうは思わない。所謂、逆恨みというヤツだ。

 ——切りがない。

 俺の因縁の発端は所謂仇討ちなのであって、こちらは逆恨みではないというのに、だ。ここにも小さいながら、恨みが恨みを呼び、暴力が暴力を生み出す負の連鎖の構図がある。人間社会の争い事など、大小問わずこんなものだ。

「結局は、どちらかがどちらかの息の根を止めるまで終わらないんだ」

 腹を括るしかないぞ、と呟いた紗生子が帽子を僅かに上げ、その美目を遠くへ投げた。その視線を追うと、一機のヘリが同レベルの高さに見える。

「——おいでなすったな」

 その一言に呼応するかのようにそれ(ヘリ)が速度を上げると、真っ直ぐこちらに突進し始めたではないか。慌ててコンタクトを拡大すると、

Mi(ミル)-24!?」

 それは旧ソ連が誇るロングセラーの攻撃ヘリだ。当然、武装している。

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