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連休の乱闘①【先生のアノニマ 2(中)〜4】

 四月末、昭和の日。

 ゴールデンウイークの開幕を飾るその日の朝、俺は学園寮の正面玄関に立っていた。普段なら始業間近の時間帯であり在寮生で混み合っているものだが、ウイーク中の事ならば基本的に休業日で、生徒も休みなら職員もそうだ。通学生、寮生の別に関わらず裕福な家庭の子女が多いその寮生なら、長期休業期間の例に違わず殆ど帰郷しており、

「センセー早いっスね」

 などと声をかけてくる寮の主を除くと、誰もいない。

「部活の引率でな。お前は?」

 帰らないのか、とは聞かない。今春高一に進級したばかりの、既に背丈も体格も堂々たる男振りを誇るこの男は、無謀にも高坂宗家を乗っ取ろうと企てた挙句返り討ちに合い、目下国内の司法官憲によって蜂の巣にされている前外相高千穂隆介の実息だ。左建外易(さけんがいえき)によって金権を追及する過程でしっかり色事も忘れなかった、そのどうしようにもない野心家の父と一緒に暮らした記憶がないというこの若者にとっての家とは、幼い頃から寄宿舎であり寮であり。中等部からの進級組ながら早くも主と称される程の在寮日数を誇る彼は、

「近くの大学で合同錬成会があるんで、毎日通いですよ」

「そりゃ精が出るな」

「まぁ好きでやってますから」

 という剣道で、優秀な者のみが許される年齢不相応の昇段を重ね、今や四段の猛者だ。昨年度の全中剣道大会個人戦を制した男に高校レベルは物足りず、日頃の練習は出稽古か歴代OBに頼る事が常態化した壮士は、基本的に学園内では一人(・・)でいる事が多い。昨年度に発生した学園剣道部内におけるトラブルの折には、極短期間ではあるがそこの顧問代行を仰せつかった俺を、以来何故か慕ってくれるこの若き剣豪は、学園が休業期間を迎える度に糧食の確保に追われる気の毒な青年でもある。

今回(GW中)はどうするんだ? 風呂はシャワーで済ますとして、飯は困るだろう?」

 加えて今は、実父が強制捜査の対象者だ。満足な仕送りを得られているとは思えない。

「昼と夜は大学の寮食を注文してるんですよ」

 体育会系の強豪大学らしく、食事のボリュームが凄いとかで気に入っているのだとか。朝は既に、近くの定食屋で済ませたらしい。

「まぁ新しい警備員さんよりマシですよ。ずっと自炊で缶詰食うそうですから」

 というマイクは、休業中も留守番で学園に駐在する。

「あの人は特別だからな」

 軍人の口に食えない既製品はない。ストイックなマイクなら、何年でも缶詰を食い続けられるだろう。

「先生こそ、休みの朝っぱらからどうしたんです?」

「だから引率だ」

「って、あの新しく出来た女だらけの同好会の?」

「校外研修でな」

「へぇ、何やるモンだか」

「ハーレムみたいな、いいモンじゃないんだがな」

「そうなんですか?」

「めんどくさいんだよ女は」

「めんどくさくて悪かったな」

 そこへ突然、背後から紗生子の声が割り込んできた。

「げ」

「あ、俺もう行きますわ」

「一応、道中気をつけろと言っておこうか、高千穂」

「お気遣い痛み入ります。行ってきます、主幹先生」

 と、隆太のヤツに上手く逃げられると、紗生子の後ろから追っつけでやって来たJRC同好会の面々の目が痛い。

「めんどくさいってどういう意味よセンセー?」

「まぁ引率で、アッシーで、護衛も兼ねてれば、そんな捻くれた一言も出るでしょうよ」

「美女の中に朴念仁が一人だもんねー」

 と、アン、エリカ、ワラビーの連歌に返す言葉もない俺の前で、

「ああ見えて、アイツはしっかり自立しているぞ」

 などと珍しくも紗生子が、小走りに駆けて行くその背中を褒めている。

「これまでの学費や寮費は、全て奨学金で賄っている」

「そうだったんですか?」

「親の金を全く受け取らんそうだ。まぁ出どころの怪しいそれを、見かけによらず意外に硬派な隆太のヤツが拒否するのは分からんでもない」

「硬派ですか」

 紗生子の表現は相変わらず、たまに古い。

「片や我が同好会の姫君達ときたら、色気と食気と遊興にかまけてうるさい事敵わんとする君の意見はもっともかも知れんな。当然私はその中に入ってないとは思うが」

「はぁまぁ」

"何だってぇ!?"

 迂闊にも乗せられ、口から漏れ出た嘆息混じりのその一言で、呆気なく他三人を敵に回す俺だ。

「あ、いや、その——」

「同世代にも、あれ程自立したヤツがいるという事だろう」

「これから一肌脱いで、その生活の根幹を何とかしようっていう人間に言う事?」

 というアン以下、同好会の面々は皆一様に制服を着ている。一応、同好会活動の格好だが、

「全てをお膳立てしてやるんだ。つまらん仕事(・・)はするな」

 その仕事というフレーズ通り、内情は校内研修と言えるような悠長なものではなく。

「難題を子供に投げといて、どの面下げて大人が言うモンかしらねぇ」

 政治家連中は何やってんのよ、と愚痴るアンの言い分はもっともだ。

「出来る大人もいるんだが、子供に任せた方が都合が良い事もある」

「何よそれ。素直に出来ないって言えないの?」

「つべこべぬかすな。これから数日はそんな理不尽も飲み込んでナンボの立場だ。少しは気を引き締めろ」

「はいはい、少しはね」

 隆太(寮の主)が出かけて誰もいなくなった寮の玄関にて集合し終えた顧問以下五名のJRC同好会は、数分後、正面玄関にやって来た高坂宗家の高級車に乗り込むと、正門前で見送るマイクを横目に一路羽田空港へ向かった。


 ビジネスジェット専用ゲートに乗りつけられた車から降りて、

「お気をつけて」

 と恭しくも見送ってくれたのは、校務の佐川先生だ。

「お戻りの際にもお迎えに上がりますよ」

「いやぁ、どうもすぃません」

 と、ウケ狙いでも何でもなく、無意識的に往年の落語界の偉人の持ちネタを繰り出す俺の横で、

「折角の休みに悪いな」

 主計(かずえ)ちゃん、などと相変わらず年長者にタメ口紗生子は、実に堂々としている。

 それにしても、高坂家の車なら、

弟さん(・・・)は一体——」

 どうしたのか。車を見送りながらも、今更だが肩透かしをくらった気分だ。

兵庫(執事)なら、今は広島だ」

「広島?」

 字面にすれば県名が並んだようなその一文の最初の県名は、高坂宗家の現筆頭執事の通称であり、校務の佐川先生の実弟でもある。その人が今は、俺の兄が住んでいた広島の山奥の山小屋にいるらしい。

「何でまた?」

 兄は今春、スイスに移住した。ヘリの操縦技術を買われ、ドクターヘリに乗っている。その入れ替わりで、兄の婚約者が住み始めたとか。

「その護衛らしい」

「はあ」

「中々いい所だそうだ」

「そうなんで?」

「昭和の田園風景が目に染みるらしい」

 機会があれば行ってみたいものだが、とは、予想外の紗生子のノスタルジックだ。

「まぁ、今はあの姫様達のお守りだ」

 というその三人娘は、はしゃぎながら既に中に入っている。学園の外は、一寸先の闇が更に濃くなる混沌だ。佐川先生に思いを引かれながらも、慌ててその後を追うその短い道すがらで、

「しかし、レク○スSUVのストレッチリムジンなんて、初めて乗りましたよ」

 つい、そんな驚きが口から漏れ出てしまった。それも最上級グレードの厳ついヤツで、その特注仕様のリムジンだったのだ。目立つ事極まりなく、道中で周囲の車が驚いている様子がありありと見て取れたもので、それが今になって口から出る。

「高性能と車内居住性は言うまでもないが——」

 防弾、防爆、気密、ランフラットタイヤ等々。

ビースト(米大統領専用車)程じゃないが、それに近い屈強な車だ」

 とか何とか。

「そうだったんですか?」

 確かに装甲(・・)の厚さは感じていたが。高坂宗家ともなると、その屈強さを要する程の要人と接触しているという事なのだろうが、それにしても目立ち過ぎだ。

「あの手のリムジンは、欧米仕様のモンだと思ってましたが」

「姉様の国産信奉は最早意地だからな。それに国産車だって霊柩車仕様でそのノウハウがない訳じゃない」

「それはそうですが——」

 随分と強引なオーダーのような気がしないでもない。

「本当はセン○ュリーロイヤルが欲しかったそうだが、あれは菊車(皇室)専用で流石に憚った結果さ。そのうちセン○ュリーSUVをリムジンにでもするだろうな」

「セン○ュリーのSUV?」

 セダン全盛の時代に生まれた俺からすると、つい時代の変遷を感じてしまう。

「まぁ何にしても目につく事は否定せんが、それに見合う安全性は姉様の心遣いという事だ」

 有り難く受け取っておこう、などと口を動かしながらも手続きを済ませると、また思わぬ再会が待っていた。

「ご無沙汰しております、提督」

 外の駐機場(エプロン)に控える米国イーグル社製の汎用ビジネスジェット機の搭乗口で、これまた堂々と待ち構えていたのは、俺の前任地での直属の上司にして新型戦闘機開発チームの同僚たる

「インテリさん!?」

 ではないか。

「手間を取らせて済まんな、大佐」

 海将補(・・・)の紗生子は、その上をいく態度のデカさだが、先に来ていた筈の三人娘がそんなインテリを見て呆けている。マイクに似ていぶし銀系で鳴らすこの男は、実直路線のマイクとは一線を画したクレバーさが売りで、そのコールサイン通りのハンサムブラックだ。無理もない。

「積もる話は道中にて。——ほれ行くぞ」

「え? 何です、一体?」

「お前はこれから見極め(・・・)だ」

 と、元上司に襟を摘まれコックピットに引きずり込まれる俺は、やはり何も事情を聞いていない。

「まさか、お客さんのつもりで来た訳じゃないだろうな?」

 と言うインテリは軍服ではないが、それでも端正なスーツ姿だ。

「って事は、俺の飛行時間(・・・・)も兼ねてる訳ですか」

「こう見えて、俺も色々忙しいからな。余り面倒は見てやれんから一発で合格してくれよ」

「いやしかし、服装が——」

 俺は只の引率のつもりで来ていただけに、機動性重視の年中仕様の軽装であり、とても公の資格の飛行時間を稼ぐようなスタイルではない。が、

「お前も変なところで律儀なヤツだな。服装なんて関係あるか」

 と言われるがままに俺はコックピットへ押し込まれ、他御一行様はほくそ笑みながらもキャビンへ消えていく。何とも要領を得たものだ。

「落ちても知りませんよ」

陽炎(ヒートヘイズ)に比べれば、これ程楽な機体もなかろう」

 俺が昨年度末の海外出張(ウクライナ派遣)でおしゃかにした、色々と大出鱈目なじゃじゃ馬(専属テスト機)を引き合いに出されては、

「毎度毎度、何にも教えてくれないんですよ全く」

 そんな悔し紛れの恨み節ぐらいしか吐けない。

「それが嫌なら、少しは身の回りの情報くらい耳を傾ける癖を身につけろ」

「うわ、それよく聞かされるヤツですよ」

嫁さん(・・・)にか?」

 ステディには甘いなあの人(提督)も、などと嘯くインテリを副操縦席に据えると、分乗した俺達同好会御一行様は、自前の運転手(・・・・・・)で南洋へ向かって飛び立った。


 同日夕方前。

 やって来たのは、東京時間から一時間遅れの常夏の都市国家シンガポールだ。その同国内東部に位置するチャンギ国際空港は、今や東南アジアを代表するハブ空港として名を馳せ、天地共々大変な賑わいの中で、CIP(商業的重要人物)ターミナルは雑音に縁遠い静謐さを保っている。そこへ横づけさせられると、

「落ちずに着いたじゃないか。立派なモンだ」

 ハイジャック機を一発で夜間着陸させただけの事はある、と重ね重ねインテリが、思い出したくもない狂った過去の作戦を軽々しくも嘯いてくれた。

「やれやれだなぁホント」

「気を抜いてる場合か。お前の仕事(・・)はここからが本番だろう」

「何か人ごとだなぁ」

「当たり前だ。俺はコイツ(チャーター機)と一緒にここで留守番だからな」

 妙な連中に爆弾を仕掛けられても困る、とさらりと只ならぬ事を口にする。

「だからこその、新旧(・・)撃墜王による運航だった訳だ。道中に狙われんとも限らん」

 という、イーグル社のこのビジネスジェットも類に違わずの特別仕様で、その気になればミサイルの一発や二発は躱せる性能を持っているとか何とか。それにしても、

「民間機なのに?」

 それ(ミサイル)を仕向けるようなヤバいヤツとは、一体何処のたわけだ。

「曲乗りは得意だろう?」

「確かに身軽さは感じちゃいましたが」

帰り(・・)も見極めだからな」

 と、そこでぶつ切りにされると、今度は慌ただしくもコックピットを追い出された。

 ホント——

 やれやれだ。

 降機したらしたで、

「センセーの知り合いなのに、何であんなにカッコいい訳? マイクはマイクでカッコいいけど」

「確かにマイクを別にして、何か戦闘機ものの映画にそのまま出られそう。先生の知り合いのくせに」

「類は友を呼ぶ例外ってあるんだねぇ——」

 などと、誰が何を言ったものか。三人娘が口々に好きな事をぬかしている。

「散々言い散らかしてくれてますが——」

 その三人娘はいつの間にか、制服姿からドレスアップしているではないか。

「まぁここからは、ビジネスカジュアルな場だからね」

 ——ちゃっかりしてやがる。

 かくいう俺は、いつものポロシャツと綿パンだというのに。が、紗生子だけは学園から変わっておらず、温暖期の常装(いつものワンピース)だ。

「そう拗ねるな。確かにここから先の我らは(もり)役であって、主役は生徒達(・・・)だ」

 だからこその常装、と言いたいらしい紗生子に背中を押されると、その勢いでやはり入国審査エリアを出た玄関口に待ち構えていたストレッチリムジンに連れ込まれた。

 その車中で早速紗生子が、

我ら(・・)がまともにドレスアップしたら、可愛い教え子達がそれこそ拗ねる事になるからな」

 とぬかすと、はしゃいでいた生徒達が俄かに押し黙る。

「そ、そりゃあ紗生子は分かるけど、センセーはどうなのよ?」

「さっき誰かのやかましい口が言っていただろう? 類は友を呼ぶのさ」

「そうかなぁ——?」

 紗生子の美観って時々分からない、などと、重ね重ねも昨年度はベタベタくっついてくれていたアンの口とは思えない失礼さだ。

「ある程度は見た目も必要かも知れんが、そうは言っても男は生き方だ。確かに普段は軟弱者にしか見えんが」

 そのフォローになっていないような紗生子の一言に、

「ギャップフェチだもんねー、主幹センセーは」

 などとワラビーが、微妙な追い討ちをする。

「そうなんですか?」

「そうとも言えるかも知れんな。私の趣味の範疇に熊はいない」

「熊?」

 それはどんな意味なのだ。

「それ程の強さを、ある程度の見た目を持つ男に求めるって事?」

 そこを冷静なエリカが、見事に文字変換してくれた。

「私が男に求める部分は、それだけ限られているという事だ。どんな男だろうと私と並んだら存在感を失うだけだろうが」

 何せ一騎当千の才勇と、周囲を瞬間で黙らす程の絶美の紗生子だ。それなら、

「私について来られる強靭さが備わっていて常識的な見た目なら、後は何もいらん」

 という事になるらしい。

誰かさん(ヲタクのアン)がよく読んでいる、漫画のキャラのような奇抜さは求めないって事だ」

 と言いながらも、

「くどいのと暑苦しいのはダメかもな。後、雑なヤツもダメだ。そうだな——」

 兎みたいなヤツか、などと、何食わぬ顔でとんでもない我儘を言っている紗生子だ。

 ——結局無茶苦茶じゃねーか。

 それが奇抜でなくて何だと言うのか。

「被食動物の愛くるしさの中に、捕食動物の精強さを求める訳?」

 と、それを直球で指摘したエリカの目が、遠慮なく俺を舐め回す。そこで俺と重ねられても困るのだが。

「お前達は、この男の本業(・・)を見た事がないからそんな事が言えるんだ。白兵戦で私とバディを組むようなヤツが、現代屈指の戦闘機乗りなんだぞ?」

 それが飄々と(とぼ)けた面で学校の先生面が出来る程の社会性を持ち合わせている、などと、惚けた面は甚だ余計だ。

「これがどれ程の事か。蕨野には理解出来ても、他二人には分かるまい」

"そんなモンかねぇ——"

 と口を揃える中には、しっかり蕨野(ワラビー)もいるのだが。

「それに、これでこの男の制服姿は中々のモンだ」

「どこで見たんです?」

 俺ですら、何処でそれを着たものか覚えていないというのに。

「見なくても分かる。一流は仕事着姿もまた一流だ」

 と臆する事なく言い放つ紗生子に、

"結局惚気(のろけ)かぁ——"

 と呆れる三人娘の前で、俺の居心地は悪くなるばかりだ。

皮相浅薄(ひそうせんぱく)は敵という事だ。愚者は経験に学ぶのみだが——」

 俄かに始まった女子トークが延々続くのかと思いきや。南国らしく急に雲行きが怪しくなってきた車窓を尻目に、紗生子が顧問らしくも気を引き締めるような事を口にする。

「——後の句を継いでくれ、副顧問」

「——ビスマルクですか」

 賢者は歴史に学ぶ、と語った近代ドイツの豪傑の格言など、俺が口にするまでもないだろうに。

「この場の諸君は、それが出来る者達ばかりだろう。どの道大人の世界のとばっちりだ。後は好きにすればいいが、やるからには下手を打つな」

 とはやはり、暗にこの三人娘にも熊の強さを求めているようだ。


 その約三〇分後、やって来たのは事前にワラビーが口にしていた通りのセントーサ島だった。シンガポール南部のリゾート島として有名なそこの、離れ小島を一つ丸々貸し切っての大盤振舞で、またしてもはしゃぎ始めた三人娘を前に、

「これって何処からお金が出るんです?」

 と、小心者の口が思わず水を差す。

「私が払ってないから、誰かが持ってるんだろう」

 相変わらず小さい事を気にするヤツだな、と失笑する紗生子によると、先方(・・)はまだ来ていないらしい。そんなビーチの一角では、景観を損なわない程度にケータリングが控えており、如才ない所作で何かを待ち構えている。

「ちょっと蒸し暑いが、道中でさっさとスコールがきてくれてよかった。雨だけはどうしようにもないからな」

「はあ」

 島の向こう岸で溢れ返っているアジア系の観光客は、やはり労働節という名の大型連休がある中国人だろう。それを尻目にこちらは何とも優雅なもので、

「やはり若さは眩しいな」

 などと、まるで意に介さないらしい紗生子は実に悠長だ。

 ——何を年寄り臭い事を。

 そんな紗生子の視線の先では、三人娘が裸足になって波打ち際ではしゃいでいる。

「君にもあんな時代があったか?」

「え?」

 俺にとってそれは、相侮超克(そうぶちょうこく)の苦い記憶を積み重ねた時代の事だ。反射で込み上げたその苦いものが、

「——何といったものか」

 そんな戸惑いを口から吐かせる。

「——私()そうだ」

 それをやはり知っている紗生子だ。

「君も私も、何かの犠牲の成れの果てという事だ。波乱の青年期を強いられる人間を生み出す世であって欲しくないモンだが——」

 現実としてそれは程遠い、夢のまた夢の理想。

「この狭い星の中で飽きもせず覇権を争っては、そのツケを年端も行かぬ若い世代に平気で払わせるような世だ」

 最早呆れて笑う外ないな、などと、紗生子にしては珍しくも、そんな三人娘を眺めるその目が何処か感傷を思わせる。

「日米だけの話なら【Joint(共同)】ではなく、【Allied(同盟)】という表現を使うだろう」

 レンジャーはそのままの意味だとして、と続ける紗生子が、

「学校の施設管理だけの意味なら、同じ管理人でも【Caretaker】ではなく【janitor】と言うだろうな」

 そこまで言われれば、やはりシンガポールに向かう事しか聞かされていない俺でも、何となく意味が分かりそうなものだ。組織や政権、経営上の暫定、組織管理上の代理などの意味もあるケアテイカーを用いるその活動は、

「共同代表——」

 その文言の何処かにレンジャーが入るその心は、

「——交渉人」

 と銘を打ち、水面下で国を背負った事前協議を担うプロジェクト。

「立派な秘密外交さ」

 それは今春の様々な人事が全てを物語っていたようだ。

 引率のために学園を空ける紗生子に成り代わり、留守を任す事が出来る人材の補充としてマイクを派遣させ、秘書を用意させてアン(交渉人)の母国との連携を確立させた。その上でアンに、学園内で同好会を結成させて裏交渉に導かせる大義と、日々下準備を出来る素地を作らせた。学園から空港までの高坂の送迎はその橋渡しの表れ、イーグル社のビジネスジェットはその家に嫁いでいる現副大統領の代理である事の裏打ちだ。

「相手は何処だと思う?」

「中国です」

「何故だ?」

 シンガポールは近年、中立外交を掲げては【東洋のスイス】を目指しており、

「場所貸し外交を活発化させていますし——」

 中立を表明するその国を舞台とするのなら、今の本国(米国)サイドが自ら進んで話し合いたい相手と言えば、東側のその大国を置いて外にない。それ故の、先日の中国大使の来園だったのだろう。

「——国政レベルの険悪さと、経済レベルの親密さのチグハグを、少しは是正したいんじゃないかと」

 それ故の、離れ小島の閉鎖環境という事ではないのか。

「やはり、そう見るか」

 とは、どっちなのか。

「一般論過ぎましたか」

 俺の見識など、その程度だ。

「答えの正否ではないんだ」

「はあ?」

 ますます、分からない。

「君のそんな素直な言葉が聞きたいのさ。これでも一応、都度驚かせて悪いとは思っているんだがな」

 説明不足には、そんな理由があったらしい。

「幸か不幸か、私の周囲にはそれなりに使える人間が多い」

「それを不幸と言っちゃ、みんなが怒りますよ?」

「まぁそうだな。悪気はないんだ」

 ははは、と空笑いする紗生子が、

「私は反射で物を言うこの癖のせいで誤解を受けやすい」

 と、それを認めるのも珍しい。

「——どうしました?」

「さっきのスコールのせいで、折角の海が濁ってるな」

 ——何なんだ?

 いつになく、大人しいというか。と思っていると、

「アイリスのヤツも何を考えたモンだかな」

 などと、堂々と米国副大統領をけなす。

「使えるものは何でも使うでしょう。国のためなら」

 米国とは、そういう国だ。国を第一に掲げる事については、東西を言えたものではない。ましてや現職の副大統領なら、逆にそれを惜しむべきではないだろう。

「その責を負う方です。ただ——」

 アンはあくまでも、今のところは私人だ。遅かれ早かれ、アイリスと似たり寄ったりのような事になるのだろうが、それでも今は今だ。ハイティーンの身で早くも名門一族としての労を負わされるのは、少し気の毒に思えてならない。本人はどう思っているのか知らないが。

「それならそれで、その面倒を一族の者が責任を持って見ればいいだけの話だろう? それを日本滞在中のどさくさで、何故私が押しつけられる?」

 確認しておくが、アンは次期大統領候補筆頭の人気者の愛娘にして、その本人も既に只ならぬ人気者という有名人だ。その熱冷ましのための極秘留学なのだ。であるにも関わらず、良くも悪くも目立ってしまい、良からぬ魂胆の脅威に晒されてしまっている。実際ここ一年で、この平和な日本で、何度か襲撃される程の引きの強さだ。その存在の好奇が引き寄せる日常的な危険性を上げると、最早切りがない有様なのだ。それ故の、万全を期すための非公開の公儀隠密(内閣の事務員=CC)による護衛

「——だというのに。この上更に、秘密外交に絡む労まで負わされるとはな」

 と言う、紗生子の言い分は珍しくも筋が通っている。

「——これは高くつくぞ」

 今度は俄かに沸騰し始めているではないか。

 ——うわ。

 この情緒の忙しさはいつもの紗生子としたものだが、安心する一方でそれを垣間見るのは毎度の事ながら心臓に悪い。

「今回のアイリスがいい例で、小賢しい人間は得てして独善に走りやすい。それが女を武器に形振り構わず繰り出してくるとなると、これ程質の悪いモンはないな」

「まあ——」

 それは、分かる。別に女だけの武器ではないが、女にそれを実装する人間が一定数存在するのは事実だろう。女の方が効果絶大だからだ。分かりやすくは、

「弱音を吐く。後は周りが何とかする。何とかなってしまう事に味を占めて——」

 拝み倒し、泣き落とし、情に訴えて道理を捩じ曲げる。

「——だから女は嫌いだ」

「副大統領はそんな方には見えませんが?」

「見た目はな。やってる事は同じだ。あの立場で逃げを打つとは、アイツもまだまだだな」

 と言う紗生子は、

 確かに——

 良くも悪くも、毎度正面を強行突破でぶち破るタイプだ。頭がいいんだか悪いんだか、今一つ理解出来ないが、その分かりやすさは嫌いじゃない。毎度無茶が過ぎるのが玉にきずだが。

「ああなると、また何を言い出すか分かったモンじゃないからな。そのせいで、いらぬ責任感を植えつけられる部下など見たくはないさ」

「それは——」

 俺の事か。

「昨年度末の海外出張(ウクライナ派遣)は、その最たるものだったろう?」

「あれは——」

 別に泣き落とされてはいないのだが。

「それが同じ事だと言うんだ。極秘作戦である事を良い事に公式記録に残らないあの出張(・・)は、文字通りアイリス(副大統領)の拝み倒しで始まった事だ。事実上の私戦といってもいい。生きて帰って来たからいいものの、ではそれで君は何か得たのか?」

 当然、何も得てはいないし、そんなものを貰う気もなければ諦めてもいる。

アイツ(アイリス)の個人的な我儘で『死ね』と言われたも同じなんだぞ? そのくせそれに報いる担保の一つも用意しなかった。安っぽい生還の懇願だけだ。笑わせる。大方、手駒が減るのが嫌な吝嗇家(りんしょくか)のやりそうな手口だ」

 昨夏のハイジャック事件の折は、最終的に勲章を得た。公式記録に残ったからだろう。が、海外出張(・・・・)は未だ何もない。ある訳がないし、そういうものだと思っていたが。そこで、話の変遷の早さについていけない俺を見た紗生子が、一つ長嘆する。

「——いつも言っているだろう。もっと自分を労れ」

「え?」

「安売りするなと言ってるんだ。いいように使われて犬死するだけだぞ。それと、もっと周囲の事に関心を持て」

 それは今朝程から重ね重ね、時を変え人を変え。言われ続けるばかりだ。気づいたら、これは何かの説教らしい。

「知る事を他人に預けるな。自らの全うな力をもって活路を見出せ。誰も助けてはくれんぞ。それをまかり通して捻じ曲げるは、それこそ女の泣き落としだ」

 横並びで濁った海を眺めていると、いつの間にか太陽が水平線の直上だ。その黄昏時の切なさのせいか、何となく詫びを入れないといけないような雰囲気になり、

「すみま——」

 と言いかける。と、

「——まぁこれは、とある恩師の教えだ」

 と紗生子が失笑した。

「恩師、ですか?」

 この魔女に、素直に教えを乞うような存在がいた事自体が意外過ぎるのだが。

「アイリスのヤツのせいで、つい愚痴っぽくなったな。久し振りに、のんびり海なんかを眺めたせいだろう」

 すまん、と今度は謝る。

「——いえ」

「説教ついでだ。君はスペックの割に達観した生き様が目につき過ぎる。まさに長所であり短所だが、それを放置して諦めている感もある。少しは野心を持て」

「はあ」

「だが、その素直さや淡白さを当てにしている部分もあったりする」

「はあ?」

「組織や集団は、類に違わず凝り固まりがちだ。その中で君の素人目線は貴重な客観性だ」

 そう言う紗生子は相変わらず、褒めているのかけなしているのか。必ず皮肉がスパイスされる捻くれ具合だ。

「責任は私一人が取ればいい。下手に情報を共有すれば、君は無駄に律儀だから気負い兼ねん。秘密主義にはそんな理由もある」

 中々深いだろう、と今度は恩着せがましい。結局は、

 ——迷わずついて来いってか。

 とでも言いたいのだろう。

「これまでのツケは必ずアイリスからむしり取ってやる。君の分も含めてな」

 だから励め、と色々な押し引きの挙句に出てきた激励のようなものが、紗生子が意外にも支持を集めている所以なのかも知れない。威風堂々、傍若無人、傲岸不遜、癇気旺盛等々。上げれば切りがない冷淡なる鉄血の魔女が、要所でスパイス代わりに啓蒙君主の真似をする。普段は絶対王政の太陽王がそれを繰り出してくれるのだから効果は絶大だ。こういうところがずるいというか、

 ——何というか。

 それはまるで洗脳だ。朝からの乗り継ぎによる軽い疲労と、リゾートならではの開放感のせいか、脳が浮ついているところへ、その薫陶のようなものが染み込んでくる。その止めのつもりか、紗生子が矢庭に急接近して来た。

「な——!?」

「蚊だ」

 と、俺の目の前で手を振ったかと思うと、俄かに魔性の怪しさを醸し出す切れ長の麗しきその美目が、俺の据わらない目に絡んでくる。

「シンガポールは気候や土地柄を考えれば蚊は少ないが、それでもいない訳じゃない」

 南国の蚊は重病をもたらしやすいものだ、と通過した筈の手が、今度は俺の頬をなぶり始めた。

「あの程度の運転(・・)の労で疲れるようなタマじゃないだろうが、気を抜くな。警護中の事でもある」

「——そ、それはもう」

「よし」

 というやり取りは、結局何の話だったか。相変わらず慣れないスキンシップのせいで、大半は忘れてしまう軟弱者の俺だ。

「あーっ!? またベタベタしてるぅ!?」

 それを三人娘に見咎められたところで、

「——相手方もいらっしゃったようだぞ」

 と、またその視線を追うと、無理矢理カジュアルな格好で身を包んだ角刈りのいけ好かない男達の中から紅一点。小洒落た感のある少女が現れた。

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