新学期②【先生のアノニマ 2(中)〜2】
理事長室での用が終わり散開すると、俺はそのまま校務員室へ向かった。
学園敷地は東西四〇〇m、南北二〇〇mの長方形であり、中々の広さだ。その中央部を南北に貫く本館を隔てて東西に分けられる校内は、東側は校舎棟、西側は付属建物群が壁代わりとなって敷地外周をぐるりと取り囲んでいる。つまりは上空と正門、西端の学生寮にある裏門を除くと、学園内は完全なる閉鎖構造だ。因みに東側の校舎棟に囲まれた中央部にはグラウンド、西側の中央部には芝生に覆われた多目的広場がある。
東西の建物群と本館は、屋上以下、地下に至るまで大抵同一階層で繋がっており、移動する上でのストレスは平面的な距離感だけと言ってよい。無駄に階段を上り下りする必要はない訳だ。
で、本館一階の理事長室から程近い階段を一つ降りると、校内のあちこちで行われている課外の部活動の喧騒が急に遠くなった。地下は、主に倉庫や体育会系部室などが居並ぶのだが、その一角にある倉庫の一つが事実上校務員室と化しており、俺の目当ての人は最近、課外では専らそこにいる。その倉庫に近づくと、相変わらずコーヒーの良い香りがしてきた。校務員室の主が、紗生子から定期的に差し入れられているというコピルアックだ。と、同時に、昼間だと言うのに薄暗い陰湿さが漂う空間とは似ても似つかない、女生徒らしき軽やかな声が二つ、耳を突き始める。ドアが開いているらしく、たわいない会話が筒抜けだ。
「入りますよぉ」
と、一応ノックして中に入ると案の定、俺の警護対象たるミスターABCが御令嬢【Anne Bertha Clark】と、その最側衛の正真正銘極秘くノ一【蕨野】こと通称ワラビーと呼ばれるジョーイが、二人ではしゃいでいた。
「部活はどうしました?」
「今日は休んだ」
「今日もでしょ?」
一時はウソかホントか知らないが、俺に熱を上げていたというこの御令嬢は、一応文芸部に属している。その部活中でも警護する大義を得るため、俺は一応そこの副顧問だ。当然、名ばかりだが。以前は俺を見るなり、何かとスキンシップでベタベタくっつかれては困っていたのだが、今春からはそんな事もなくなった。実は二〇代というワラビーと賑やかな事は変わらないが、一見して明らかに熱を帯びている事が分かるその目は、目線の先にいる一人の男の一挙手一投足を逃すまいと追っている。
校務員室の主たる佐川先生から、学園内のセキュリティーを始めとする有事の備えの説明を熱心に聞く、如何にも精悍で渋味の利いたナイスミドル。先日の始業式に、高坂グループの警備会社から単身で住み込み警備員として赴任してきたこの男は、一見して一九〇を超える上背と、会社の制服を破らんばかりの圧倒的な筋骨を誇り、寡黙で実直。日本の警備員らしからぬ破格の見映えは当然で、【Matthew Calvert】という、アン同様に何かの物語で聞いたようなその名の通りの米国人だ。
そんな男が、黒人系ハリウッド俳優を彷彿とさせる程の容姿を持つのだから、何もアンでなくとも見惚れるのは当然なのだったが、その合わせ持つ迫力のために、アンの外は俺に近しい数名の女達以外誰も近づこうとしない現実があったりする。そうした中でアンが懐くのは当然で、俺達の間でその男は【Mike Miyuki】と名乗る、アンの父専属の双子ボディーガードの片割れだった。
マシュー何某の名は、俺達同様コードネームだ。マイクは表向きは住み込み警備員だが、裏向きでは佐川先生同様、学園内におけるCC業務の一部を委託された、半官半民の極秘みなし公務員。紗生子が名指しで相談役に増員を頼んだ、校内防衛上の補強要員だ。
「相変わらず熱心ですね、カルバートさん」
「いや、中々凄いシステムでしてね。手強いんです」
「それはそうですよ。もう十分に使い熟せるのに、システムの修繕を見越して基礎まで目を向けられるんですから。CCのエンジニアと変わらないレベルですよ」
と、佐川先生が戸惑う程の真面目さを見せるマイクは、
「主幹先生には、佐川先生の業務をお助けするよう仰せつかってますので」
「いやしかし——」
も案山子もなく、佐川先生が言い淀む程にとにかく如才なく、紗生子の顔に泥を塗らない。始業式の新任職員挨拶で、校長以下ズラズラと講堂の舞台上に登壇する者達の最後にその異様を認めた時には、在校生と一緒になってぶったまげたものだったが。あれから約一週間。慣れてしまえば、これ程頼りになる警備員もいなかった。
紗生子によるとマイクはその実、優秀なエンジニアで、ミスターABCのボディーガードを務める傍ら、クラーク家の家電の電池交換からIT技術を駆使した情報収集まで担っていたらしい。その力を持ってして、いざとなればグリーンベレー仕込みの格闘戦も熟す。というか、それが本業だ。紗生子や俺が、学園から離れる事がちらほらあった昨年度。堂々と学園のセキュリティーを守るための大義を持つ強者の存在は、心強いばかりだ。良くも悪くもその見映え故に、余りにも際立ち過ぎるのが玉にきずだが。
「それにしても失礼を承知で言いますと、私はこれ程日本語が達者なブラックアメリカンの方を見た事がありませんよ」
と、佐川先生が頭を掻くのを、少し離れた所ではしゃいでいるアンが誇らしげな目で見ている。アンが子供の頃から、その父親のボディーガードを務めていたマイクにとって、ボスの愛娘はいつまで経ってもその小さい頃の幻影のままなのかも知れない。が、少女は成長し、今や本国において父親に負けるとも劣らない、アイドル並みの人気を博す【ミスABC】だ。いつまでも子供扱いする事にこそ無理がある。そんなアンの想い人が、実はその視線の先にいる一介の警備員である事実を知る者は極少だ。何事も物怖じしないアンの事ならば、人目を憚らずマイクにしがみつきたいだろうが、それをしていないどころかつかず離れずの、遥か昭和の戦後世代の恋人同士のような距離感は、マイクに言いつけられての事だろう。それを守る姿は、飛ぶ鳥を落とす勢いの秀才であっても何処か健気に映る。
"意外に古風な男女観を持っているモンだな、この二人は"
と、そこへ、紗生子のメッセージが俺のコンタクトに届いた。やはり俺のそれを覗いていたらしい。いつもの事だ。
"何せ男の方は、このご時世に日本海軍の開戦電報を使うようなヤツだ"
"あれはカルバートさんの仕業だったんですか?"
ロシアによるウクライナ侵攻直前、そこへ極秘派遣されていた俺の元へ、紗生子経由でもたらされた往年のそれは、ご丁寧にもアルファベットで暗号化された手の込みようだった事は、未だ記憶に新しい。
"他に誰がいる?"
"まぁ、そうですね"
日本文化に明るく日本語も堪能で日本にルーツを持つマイクが、ウクライナ陸軍と連携して別働隊として極秘参戦していた事を思うと、今更ながら当然だ。その今更ついでと言っては何だが、紗生子が海自の身分で極秘従軍した事実こそ、未だに信じられないのだが。しかもこの女が名乗った身分は提督で、出鱈目にも程がある。まぁ別にこの一事に限らず、良くも悪くも何から何まで出鱈目女なのだが。
"つい、マイクさんと呼びそうになるんですが"
"外で間違わなければ、別にどちらで呼んでもいい。内々の連中なら、事情はみんな先刻承知さ"
それはそうだろうが、間違わない癖をつけておかないと、うっかり口にしてしまいそうだ。そういう些細なところから情報は漏れていくもので、そうなってしまってはマイクに悪い。
"どうせ人の口に蓋は出来ないからな。スパイになるような連中は、私に限らずみんな知りたがりだ。アンに纏わる情事も当然知ってる"
"情事って"
また本人達の前で生々しい事を言ってくれるものだ。俺の豊かな想像力が、つい二人の危うい姿を連想する。
「先生、何しに来たの?」
相変わらず佐川先生とマイクが熱心に仕事をしている中で、はしゃぐ女子高生の片割れが、入口に突っ立っている俺に声をかけてきた。ワラビーだ。童顔なのか、スパイらしく変装しているのか、整形しているのか知らないが。いつ見ても何処から見ても、どう考えてもハイティーンにしか見えないこの女子高生が実は二〇代とは、これまた未だに信じられない。一見して美少女アイドルのようなこの女が、実は昨夏の寮内を賑わせた【猿の文吉】のような、整形塗れの毛虫原人だったりしないか。スパイの世界はそれが日常茶飯事というから、それもまた未だに冷めやらぬトラウマだ。
「何しにって、本業に決まってるだろーが」
どうせこの場の全員は本業絡みの面子ばかりならば、遠慮はない。
「私に相手されなくなったから寂しーんだよねぇ? ごめんねー先生ー」
『コイツもよく言うな。ちょっと配慮してやったらすぐこれだ』
アンのあざとい一言に、今度は耳から天の声が突っ込んでくる。そうは言っても、アンの事をよく知る紗生子によると、マイクが赴任して以降の何日間だけで、アンの情緒は随分と穏やかになったらしい。鈍い俺に言わせればそんな変化は全く見られないのだが、プライベートでも知己の紗生子は加えて同室者だ。隙を見せない早熟の天才の機微を垣間見ての事だろう。
『調子に乗った勢いで、さっさと一緒になればいいものを』
"いやそれは"
『生徒と警備員だ。全く問題ないさ。しかも留学生だしな。日本の法や慣習なんかクソくらえだろう』
本国は州の数だけ法律がある。結婚可能年齢もその数の分だけまちまちだが、一六歳以上なら親の同意があれば何とかなるケースが多い。アンは留学中とはいえ、定期的に里帰りしている事でもある。
『何より最高権力者が事情を承知しているんだ。何をぐずぐずしたモンだかな』
と言うこの女は、その言葉通り好き放題やらかしてくれて、その挙句が俺との偽造婚なのだから、おつむがいいんだか悪いんだか。訳が分からない。
"クラークさんはよくても、マイクさんはどうなんですか?"
『愛し過ぎて堪らないだろうな。だからこその目の前の距離感だ。近づき過ぎたら抑えられない。人間なんぞ欲の前には無力さ』
随分と分かったような事を、ズケズケ言ってくれるものだ。もっともこの女は、諸々の事情を分かった上で言っているのだろうが。
『三〇歳差が何だってんだ。愛の前にあらゆる障壁は無意味としたモンだろうに』
と、意外にもロマンス趣味がある紗生子の口から、意外な情報が飛び出した。
"三〇歳差!?"
『おっと、これは口が滑ったな』
それを白々しく認める風情の紗生子によると、今年でマイクは四七になるらしい。
"四七!?"
想像以上に年がいっている。一見して渋い俳優のような紳士的な立居振舞は、言われてみれば確かにその年齢相応だ。まんまと若々しくもエネルギッシュな見た目に騙されていた。
『しかし私とした事が。——ホント、君の素朴さというか素直さは罪だな。つい口が滑る』
"はあ、然いですか"
『それだそれ。全くついこの前まで撃墜王だったヤツとは到底思えん』
仏外人部隊から始まった俺の軍人生活は、何の因果か知らないがテストパイロットの方に道がついてしまった。後、仏空軍、米空軍と流れた挙句、とても経歴に書けないような、テストという名の極秘作戦で積み上げた撃墜記録は、つい先日のウクライナのそれで俺の盟友に塗り替えられるまで、第二次大戦以降で最も多かったらしい。俺にとっては過去の辛酸でしかないその秘事も、この女にかかれば舌遊びのネタだ。
『まぁマイクもそんな調子だし、どうやら一定数はそんな猛者もいるようだが、どうせ同じ結果なら、ぐずぐずせずにさっさと結果を求めた方が面倒臭くなくていいと思うんだがな』
と言ったそばから、
「あーっ!? こんなところにいた!」
と、目を吊り上げては周囲など目もくれず、一目散にマイクの片腕にしがみつく少女が現れた。
「離れなさい、エリカ」
「ちょっと! エリカっ! 厚かましくも何くっついてんのよっ!?」
マイクとアンの口から共に出てきたエリカというこの少女こそ、
『言わんこっちゃない。折角お膳立てしてやったってのに、いつまで経っても煮え切らんからだ』
と呆れる紗生子が言うところの、結果とやらの障壁の一つらしい。
アンよりやや小さくダイナマイトボディーではないが、既に紗生子よりも背が高い。スレンダーなモデルと見間違えんばかりの、そのボディーラインの美しさには、つい目を奪われる。顔つきも大人びており、それこそアンではないが、ハイティーンを過ぎたアイドルユニットのメンバーが学園物気取りのグループの制服を着ているような。そんなアイドルチックな可憐さをも合わせ持つ美しい少女は、日本のアイドルには馴染みがない黒人系の、まさにブラックダイヤだ。
あえて少女と言い続けているのには訳があり、何とまだ一二歳、日本の学制に当てはめれば小学校六年生という大変大人びたこの少女は、俺の周囲を取り巻く女達の例に違わず知能も高く、母国では既にMITに通っているという逸材だったりする。そんな才色兼備が、何故わざわざ日本の学校、それも高二のアンのクラスへ狙い打つように留学してきたのか。
「だってマイクが好きなんだもん」
と、呆気らかんと素直に言い放つこの美少女とマイクは、実のところ姪と伯父の関係だ。エリカはマイクの双子の実弟【Louis】と、ミスターABCの実妹にして米国初の女性副大統領として現在もその要職に就任中という【Iris Camilla Eagle】の敏腕補佐官【Claire Miyuki】との間に生まれた長女で、【Erica Miyuki】という。
「何をいけしゃあしゃあと! アンタ、私の秘書を仰せつかって来たんなら、秘書らしくしなさいよ!」
"そうなんですか?"
そんな裏事情に疎い俺は、当然初耳だ。
『まぁなぁ。——正確には政策秘書なんだ。これまたよくある話で、いろんなところで綱引きした結果の産物さ』
詳しくは何れ分かるかもな、と面倒臭そうに吐き捨てた紗生子が
『この姪っ子が、伯父さん大スキスキだからなぁ——』
とボヤいた。
「秘書なんて、そんなの片手間で十分なの。私にとってはマイクを毒牙から守る事の方が大事」
「小学生風情が背伸びしてんじゃないわよ!」
「いやぁねぇ、オールドミスは怒りっぽくて。理性的なマイクには到底不似合いだわ」
誰を捕まえてオールドミスと言うのか。何かにつけて昨今の低年齢化は、こんなところにも及んでいるらしい。
「アンタさっきからマイクマイクって、ちゃんとここでの名前を使いなさいよ!」
「言われなくても他人の前じゃ上手くやってるわよ。ただ私はマイクを、何かの物語の好々爺にしたくないだけ」
好々爺などという日本語が、それも流暢に出てくるブラックアメリカンなど、日本広しといえどもそうはいないだろう。そこは両親の薫陶を受けたという事のようだ。
「あ、でもマシューとアンだったらお爺さんと娘だし、結婚出来ないわね」
「何言ってんの? あの二人は物語上あくまでも他人よ他人。アンタこそ、大好きな伯父さんとは結婚出来なくて残念ね」
本国は、日本では法律上も慣習上も一般的に受け入れられている【いとこ婚】ですら、法で禁止されている州が半分を占めており、慣習上忌避感も強い。ましてやその上をいく結婚など、もっての外だ。が、
「そんなの叔姪婚が認められている国へ行けば全く問題ないわ。それらの国々の結婚可能年齢は大体一六歳。それまでにしっかりとした社会的信用を築いて、精々周りを屈服させてやるわよ」
何とも計画的な事だが、それにしても小学生的な年齢の少女の口から叔姪婚などというフレーズが出てこようとは。
「そのためにも、あなたの秘書はきっちりやったげるわ。心配しないで。その代わりマイクは私のもの」
と、語尾にハートマークでもつきそうな余韻を残したかと思うと、そのままマイクの首根っこにしがみついてキスをしたではないか。
「離れなさい、エリカ」
「なんで? こんなのいくらでもやってきたじゃない?」
「もう子供じゃないんだろう?」
「まだ子供よ」
会話だけ聞いていれば、蜜月関係以外の何物でもない二人を前に、アンの顔がみるみるうちに変色する。
「さっさと国へ帰れ! えぇい、離れろ! この! この!」
「ちょ、ちょっと、何でワシまで——」
その取っ組み合いに、マイクの隣に座っていた佐川先生までが何故か巻き込まれて揉みくちゃにされ始めると、耳の奥で天の声が、
『中国系に黒人か。アンのヤツの身辺も、何だかリアル水戸黄門になってきたな』
と、人ごとのようにまたボヤいた。
"どーすんですか、これ?"
『さぁな。なるようにしかならんだろ』
高千穂兄の牙に狙われている状況下だというのに、内憂外患とはこの事だ。
その日の夜。俺は学園の屋内プールにいた。学園敷地で言えば南西角、西端の南半分を占める女子寮の目の前にあるそこは、観客席こそないが縦五〇m、横二五mの長水路が丸々一つある中々立派なもので、文武両道を掲げる私立校の事とは言え、所謂スポーツ特待生がいない学校としては十分過ぎる物だ。
屋内プールという事で基本的に年中利用可能であり、週末休みや夏休みなどの長期休暇期間には同窓生やその家族、近隣住民にも開放しているのだが、平日は学園関係者に限られる。よって今日は、課外で水泳部が使った後は利用者はいなかった。使おうと思えば、後片づけさえすれば学園職員が自由に使える時間なのだが、どうやら約一名を除いて水泳に興味を示す職員はいないらしい。その約一名が黙々と泳ぐのを、プールサイドで監視させられている俺だ。世間的にそれは、眼福と言うのかも知れないが。
相変わらずの競泳用のワンピースの水着はシンプルな物だが、見事なまでの凹凸は目のやり場に困る。その隙のない健康美は、既に一時間は泳いでいると言うのに、一向に上がってくる気配がない。と思っていると、徐に俺の前にその肢体を露わにし、背中を見せて開脚ストレッチを始めた。
「何をボサっとしてる。言われなくとも押さんか」
と、これもいつもの事だ。押さなくてもその形の良い胸は、余裕で床につくというのに。
「押さなくても——」
「いいから押せ」
と、いう問答もお決まりなのだが、俺の両掌が紗生子の予想外に柔らかい背中に慣れる事はない。その生暖かい体温に動揺するのもいつもの事だが、合わせて感心させられるのは筋肉の柔らかさだ。それは普通、アスリートの中でも中々到達出来ない理想なのだが。その上紗生子は、最早目の毒とも言うべき玉体を誇るのだから、これはもう罪だ。しかも加えて極めて優秀な頭脳を誇るとくれば、もう何と表現すればよいのか。俺のボキャブラリーでは、もうついていけない。
「まだ泳がれるんですか?」
「何だ? 腹が減ったか?」
マイクが赴任してからというもの、俺達三人は交代で日々のトレーニングをするようになった。基本的には、課外に入るとまずはマイクがトレーニングを開始する。定時で校務の佐川先生が帰るまでがマイクの時間だ。その途中、時間差で部活が終わると、それまでアンにつかず離れずだった俺がトレーニングを開始。大体いつも、マイクが風呂を済ませて佐川先生から防犯システムを引き継ぐ頃合いで、トレーニングを終えた俺が風呂に行く。俺が風呂を済ませた頃にはマイクは晩飯を済ませており、後は紗生子のフリータイムだ。校内全般のセキュリティーはマイクに預け、俺は晩飯を食っていい筈なのだが、何故だがいつも紗生子の守りをさせられるため、プールサイドで小腹を満たしながらの監視というか眼福というか。
「いや、そうじゃないんですが——」
今、この瞬間、俺は良くも悪くも紗生子の傍にいるだけだ。今日は確かに、マイクが佐川先生に防犯システムの質疑をしていた事で少し開始が遅れたため、いつもより少し時間が遅く腹も減ってはいる。が、それよりも何よりも、セキュリティーもクソもなく、マイクに預けて呆けている自分が何とも情けないのだ。
「アンの護衛は後二年あるんだぞ。途切れる事のない緊張は身体に毒だ。特にこの一年、我々は日常的にリフレッシュ出来る瞬間がなかった。だからこそのマイクだ」
「まぁそれは分かりますが——」
マイクに預け切っているというか。勿論俺は、その実力を知っているし認めている。何せ如才なくも、何年もあのミスターABCの護衛を務め上げてきた男だ。問題は、それを俺の今の同僚がどう思っているのか。
「マイクの事なら当然、周囲には紹介している。異論をぬかすヤツは誰もおらん。何せあれも智勇兼備の男だからな」
というマイクが、紗生子がグリーンベレー時代の後輩である事は知っているが。
「君にはどう見えているのか知らんが、あの双子はあれで【高等軍事研究院】を出ているからな」
「そうなんですか!?」
それは米陸軍が誇る軍事学の大学院であり、通常高級将校しか入れないエリートコースの一つだ。識者に「非常に厳格」と言わしめる程の厳しさ故に、卒業生についた通称が、
「【ジェダイの騎士】だったとは——」
などと比喩される、業界人なら知らぬ者などいない強者だったりする。
「それも実戦経験豊富な歴戦の雄だ」
双子の兄マイクは軍事工学専攻で、所謂工兵のスペシャリスト。弟ルイスは軍事理学専攻で、所謂戦術眼に長けた作戦参謀。二人はその後MITに編入し、マイクは機械工学、ルイスは情報工学の博士号をとったとか何とか。
「だからウクライナに派遣されたのは——」
近代戦では【何でも屋】的な重要兵科でもある、
「——工兵のマイクだったという事だ。アカデミの一隊を率いて、攻防の要になっていた訳さ」
とは、恥ずかしながらまたしても、今更初耳だ。今聞いた経歴が事実なら、ウクライナ戦でのアントノフ国際空港奪還作戦で、マイクの能力は遺憾なく発揮された事だろう。
「言ってなかったか?」
「——ええ」
わざとだろう。もっとも、あえて知らせる必要がなかったためだろうが。それにしても俺の周りは、どうしてこうも出来るヤツらばかりなのだろうか。
「あのアーサーが、あの兄弟を囲っている理由の一つだ」
「しかし今は、その一翼がここにいますが——」
「側衛の二人が一人になっただけの話さ」
実際にはミスターABCの身辺は、常時民間軍事会社から雇ったボディーガードが何人か張りついているらしい。それこそ、
「——アカデミですか?」
「そういう事だ」
その上にマイクやルイスがいて、指揮をしているとか。
「現状アーサーのヤツは野党の無役議員だしな。選挙が近くなったり、与党の役つきともなると身辺が慌しくなるが、今は参謀だけでも十分だ」
真っ直ぐなマイクは周りのために挺身し、替えの利く捨て駒になる道を選んだ。双子で言えば前衛だ。他方、ルイスは後衛。知恵を回す代わりにアーサーから離れられない運命を選んだ。今は身辺が切迫していないアーサーを説得して、その前衛を借り受けたという事らしい。
「まぁルイスのヤツは、嫁さんもいる事だしな」
「あの二人って、一緒にいる時間あるんですか?」
夫は元副大統領のボディーガード、妻は現副大統領の敏腕補佐官という夫婦に、家庭を顧みる時間があるとは思えない。
「意外に一緒なモンだぞ? お互いの主はワシントン暮らしだしな」
「まぁそうですが——」
「あの夫婦も、意外にアツアツだからな未だに」
「そうなんですか?」
双子兄弟がMITに在学中、ハーバードのロースクールに通っていたクレアと知り合ったのだとか。
「MITとハーバードは単位互換制度があるしな」
世界に名を馳せる二大大学が隣同士なのは有名な話だ。
「旦那さんがMITで、奥さんがハーバードで、その娘さんもMITですか」
ここまでくると高学歴のバーゲンセールのようで嫌になる。
「その娘は一見生意気な事ばかり言ってるが、あれで実は現実主義者だ」
理数系で名高い世界的な学閥において、わざわざ人文科学を専攻しているらしい。
「数学に関しては既に研究者レベルだってのに、あのお嬢さんも中々の偏屈者でな——」
独りよがりの研究に没頭して学問を極めるのは、過去の偉人の知識を簒奪している旧態のやる事なのだ、とか。新たに増えたそのお嬢様は、確かに意外と言っては何だが女子寮の普通部屋で、人並みな生活を送っている。何でも、アンの秘書を全うするため、学園内で一般学生との距離感をつめておきたいそうだ。もっともそれはワラビーがやっている事だが、情報を吸い上げる人数は多いに越した事はない。それにしても、マイクの事であれ程ライバル視しているというのに、重ね重ね意外な事だ。尚、エリカはあくまでもアンの秘書の任で来日しており、CCとは関係がない。そのあたりは、高坂宗家からアン専属の家政士として派遣されている、イザベルことベルさんと同様の扱いだ。
「自ら得たものを後世や社会に還元する事にこそ学問の真髄はある。そうやって人類は進化してきたんだ。MITはそんな社会性のある人材育成を進めている。何せ理工系大学のくせに卒業に必要な単位の約二五%は、人文・芸術・社会科学系の科目になっているからな」
理工系の知識だけでなく、バランスのとれた科学技術指導者の育成を目ざす独自の教育体制をとっているそれは、
「マクナマラの誤謬の防止という訳ですか」
「何かととんでもない事をする国だが、ちゃんと反省する事を忘れない国でもあるって事だ」
紗生子がウクライナ絡みの幽霊船内で、その失策を例に批判されたのはつい先月の事だが、言われるまでもなく実務と学術を熟知していると言いたいのだろう。
「それにしてもMITの事にお詳しいようですね」
「私もその隣の大学に行った口だからな」
「そうだったんですか!?」
「医学、法学、国際関係学の博士号はハーバードで取った」
「その年で三つもですか?」
アラサーでそんな事が可能なこの女の頭の構造とは、一体どんなだ。
「一々驚かれてももう何だかな。別に嫌味でも自慢でもないんだが、そう受け取られる事が多くて正直うんざりしてる」
「はあ、何だかすみません」
「まぁ君は素直なヤツだと分かっているから言ったまでだ。気にするな」
「然いですか」
聞けば聞く程、一際己の無学さが浮き彫りになる。マイクの事など心配する前に、己の事はどうなのだというバカさ加減というか、人の良さとでもいうのだろうか。
「マイクの事に異論を唱える者は誰もいなかった」
「そりゃあ、そうでしょうね」
紗生子が何処まで掻い摘んで説明しているのか知らないが、何せあの見た目だし、あくまでもマシュー・カルバートなる住み込み警備員に徹するマイクは、他の生徒達がいる前ではアンやエリカを近づけるような迂闊をしない如才振りだ。赴任して僅か約半月。その短期間ながら、既に紗生子から一時的とはいえセキュリティーの全権を預かる程の力量こそ、何よりの信任の証だ。今、この時もマイクは、正門傍にある同窓会館一階に宛てがわれた面談室という名の仮住まいで、早速使い慣らしたCCの機器をもってして、滞りなく学園の隅々に目を光らせている事だろう。
「君の時とは偉い違いだ」
「それも、そうでしょうね」
「それどころか、君に至っては未だ懐疑的な目が多い」
「まあ——」
——そーだろーなぁ。
何せコンタクトの中で、未だに容赦ない言われようだ。そのくせちゃっかり校内組で、才色兼備の仲間内に塗れてのほほんとしている
「おいしい役どころと思われてるんだろう」
と、俺の心理を相変わらずもよく理解している紗生子が、遠慮なくそれを口にしてくれる。その紗生子が唐突に、
「リデル=ハートは何と言った?」
と発したかと思うと、不意に身体を起こしてきて、危うくその背中に顔が当たりそうになった。当然それはやすやすと躱したが、押し寄せる芳香までは躱せない。
——うわ。
紗生子に近づくと、毎度これにやられているというのに。いつまで経っても学習出来ない俺だ。周囲の僅かな塩素臭を軽々と上回る美女の香気に、一瞬で酔いそうになる。それを生唾を飲み込んでごまかすと、入れ替わりでどうにか
「『平和を欲するなら、戦争を理解せよ』——ですか?」
と、その心を吐いてやった。
戦史において、二〇世紀を象徴するとまで称されたイギリスのその戦略家は、研究業績と共に多くの言葉を残した、その最たる名言だ。
「これだ」
「はあ?」
と、嘆息ついでに鼻で失笑するのは、賢い人間の専売特許なのか。こうやって俺はこれまでに、紗生子から何度小バカにされたものか分からない。
「どういう訳か君はそういう事を知っている。加えて実体験済みときたモンだ。大抵の人間は、頭の中だけで終わってるモンなんだがな」
「何かの本で読んだだけです。暇潰しで」
「私の前で謙遜するか」
つまり紗生子は俺の詳細を知っている、とわざとらしくも言っている。他人にこれまでの生き様を覗かれるというのは、何とも居心地が悪いものだ。紗生子は事ある毎にそれを匂わせてくれたもので、毎度喉の奥の方から苦い物が込み上げてくる。
「果たして何処で学び得たのか知らないが、無学の筈の君の方が、世の大衆を凌駕して何かの深淵に程近いところにいるという皮肉。これが痛快と言わずして何なんだ?」
と、今度は何を小バカにしたものか知らないが、晩飯前の俺がトレーニング後の補給で摘んでいる鶏のささみの干物を、紗生子が何の断りもせず当たり前のようにその紅唇に運んだ。それは家政士のベルさんが、トレーニング後に腹を空かせている俺を見兼ねて作ってくれるようになった物だ。日頃、俺の朝晩飯まで作ってくれるその人は、元を正せば紗生子やアンのための家政士であって、つまりはここでも、俺が紗生子に口を挟む余地は全くない。
「それでいてその高い社会性は、人格形成上いい出会いを繰り返してきた事の賜物だろう。勿論、私もその内の一人という訳だが」
「はあ」
「相変わらず気働きの出来んヤツだ。こういう時はリップサービスの一つもするモンだぞ」
と、今度は紗生子が自分で用意していたバナナを口に持っていったかと思うと、最後にペットボトルの水をあおった。
「あ、それ——」
は、俺が飲んでいたヤツなのだが。紗生子は全く構わない。
「どうした?」
「——いえ」
その流し目と口端が、得意気に笑んでいる。わざとだ。
「魔女が側仕えを許す人間だぞ? 能無しを雇う筈がないだろう。私は愛玩代わりで男を囲うような愚か者じゃない」
と、また俺の水をあおったその魔女が、
「血塗れの聖者か、はたまた法衣を纏った鬼か。見方によっては超然的な混沌にも見える。何にしても君の存在そのものは、口先ばかりの胡散臭い学者共より余程能弁だ」
と言いながら立ち上がった。まだ泳ぐらしい。
うぅ——
こちらはトレーニング後の風呂上がりに加えて、先刻来のドギマギで喉が渇いたというのに。用意していたペットボトルは、不用意にも紗生子に飲まれた物だけだ。
——水飲みてぇ。
あいにくと、紗生子が口にした物を共有出来る程、俺の偽装夫振りは据わってはいない。
「戦功を汚れと言って吐き捨てるような軟弱者が、野心に塗れて人命を弄ぶ大多数の畜生共に鉄槌を食らわす。まるで正義の味方のようじゃないか」
「そんな出来た人間じゃありませんよ俺は。血塗れだけで結構です」
「他人の面前ではそれで通しても構わんが、私の前で強がる事はないぞ。どんな人間でも息抜きは必要だ」
「そんなつもりでは——」
と俄かに反発する俺の前で、例に違わず美しい後ろ姿を見せつけてくれている紗生子が、今度はその美しい御手で、形の良い尻に食い込む水着の際を堂々と直しているではないか。マットに座っている俺の目線の高さのそれに、
——あ、あざとい!
という恨み節も虚しく、目が釘づけになるのは男の性だ。本能に負けて目を遊ばせた代償は当然、僅かな時間差でやってくる。
——ヤベ!
例に違わずの、のぼせの前兆だ。鼻の奥が緩んで俄かに慌てる俺を、紗生子は当然横目の端で悟っている。すると、その隙を突いて緩やかに肉薄して来たその紅唇が、俺の耳元を弄び始めた。止めだ。
「簡単にひっかかるなぁ君は」
「俺は坊さんじゃありませんから」
「素直なのはいいが、相変わらず色仕掛けに弱い」
「俺は生来、落ちこぼれなんですよ」
「何を言う。君もマイクも、私に言わせれば似た者同士の出来る部下だ。だが君はマイクより血を被っている分、すり減っている」
と今度は腕を回され、その鼻が俺の髪を嗅ぎ始める。
「大丈夫です! 先日の健診でも全く問題ありませんでしたから!」
と、離れようと腕をその双肩に押し当てようとしたが、あっさりすり抜けられてしまい。深々と懐を許してしまった。まるで猫のようなしなやかさだ。こうなってしまっては、何処を触って抵抗したものか。図々しいまでの、紗生子の確信犯振りだ。
「あれ程の極秘作戦の後だというのに、そのタフさは流石だな。コールサインは伊達じゃない」
前任地でのそれは、文字通り俺のその丈夫さが評価されたものだったのだが、
「今じゃ只のタメゴローですよ」
「ここぞで使ってくれるとは、命名者の誉れだな」
と嘯く猫が、熟れた手業で絡みついて離れない。
「うぅ——」
——ダ、ダメだぁ。
意思に反して身体は正直だ。骨抜きにされてしまう。
「——ふっ」
と、それを鼻で笑ってくれる紗生子は、相変わらずの意地の悪さだ。
「そうはいっても、正式な検査結果は受けてないだろう?」
「ま、まぁそうですが」
健診当日の最後の診察では、無所見と言われてはいたが。
「正式な最終所見は、私に委ねられているからな」
などと、実に立場を悪用した悪ふざけをしてくれる。
「ウソでしょ!?」
「健診は大抵、何人かの医師で所見を出すモンだろうが。総合判定医は他ならぬ私だ。文句あるか?」
「そ、そうだったんですか?」
「よくもあっさり否定してくれたな。ん? 脈が速いようだが、やはり情緒不安定か」
いけしゃあしゃあと——
実に白々しいものだ。美女にすり寄られたウブな男の反応として、これ程顕著なものはないだろうに。
「今の任務に耐えられないと判断されれば潔く辞めますよ! あんなセレブ検査なんて初めてでしたから、それこそ俺のダニやシラミで病院に迷惑をかけたんじゃないですか!?」
「そういきり立つな。可愛い部下の進退に関わるような事を、私が他の検査医に言わせる訳がないだろう。単純なヤツだな全く」
「大体があんな所、もう御免です!」
「まぁそう言うな。相談役の温情だぞ?」
先月までの極秘作戦から帰国後。俺は航空身体検査名目で日常業務を一日休み、病院で検査を受けさせられた。紗生子からの業務命令だったのだが、行った先の高坂の企業立病院で、それが俺の健康状態を気にした相談役の鶴の一声だった事が判明すると状況が一転。至れりつくせりは言うまでもなく、まるで高級ラウンジの如き質感とそれを当然と利用するセレブ達の中で、一際田舎者の場違い感をさらけ出したような俺の検査だったのだ。庶民では聞いた事もないような、訳の分からぬ症病の一つや二つ。出てもおかしくない、そんな精緻で豪華な空間だったそこでの俺は、間違いなく異物だった。が、
「フィジカルについては所見なし、だな?」
などと、何を診て言ったものだか知らないが、そんな俺の背中をその玉手が艶かしく撫でる。
他方、異常所見はつかないものの、毎度検査をする者達の目を引いてきたのが、
「メンタルだよなぁ、君の場合は」
と、今度はその紅唇が耳元で怪しくも、それを説いてくれた。
一見分かりにくい心の状態を数値化するという、検査なりテストというものを種々様々受けさせられてきた俺だが、毎度の如く、
「真面目過ぎるな」
と、心配されるのだ。
「良くも悪くもメリハリと言うだろう? 数値にも諦念が表れている」
「それはよく言われますが——」
俺はこれで、別に躁うつでもなければ狂人でもない、
「——タダの変人ですよ」
「特殊と言うんだ」
いい意味でな、と言い出した張本人に救われる。
「マイノリティーってのは、いつの世もネガティブな扱いだ。だから身近な理解者が欠かせない」
その理解にかこつけて、俺の身体のあちこちを飽きもせず、撫でて嗅いで。
「我らのような突出した存在は、常を生きる者達にとって一種の脅威にして異端者だ。普通のまともな環境下では絶対に生まれない、忌むべき突然変異のようなものだからな」
「あなたはそうでしょうが——」
俺は違う。只の凡俗だ。が、
「——同じだ。猫を被るな。この学園の生徒達を蔑んでいる事など、とっくの昔にお見通しだ」
それを容赦なくピンポイントで指摘する紗生子に、引きずり込まれてしまう。
「こんな無菌室のような環境で生まれた才など高が知れている。精々クローンが代を重ねるうちに劣化が進んで廃れるだけだ」
「それは時代の変化に乗らなければの話でしょう?」
「学ってのは、新しいものを切り開いてナンボのモンだ。時代もクソも、ここの箱入り共にその気概が備わるとは到底思えん」
「ですが——」
それをここの学園の教職員が語るとは何かの裏切りのようだが、紗生子は止まらない。
「——君も各地で見てきた筈だ」
荒涼たる瓦礫の山。未だ火が燻り行く筋もの細い煙が鼻をつく無情の戦禍で、廃材を紙筆代わりに敬教勧学苦学力行する名もなき師弟の数々を。
「必ずしも苦境とは限らんが、少なくのも史上の偉人達は等しく苦学だった。天賦の才とは得てして逆境の中で育まれるものだ」
「ず、随分と泥臭い事を仰いますね」
「まぁ我が事であり、我らの事だからな。多少の感情移入は大目に見ろ」
いや——
それは紗生子の事であって、断じて俺の事ではない。それにしても、いつも何処か冷めている魔女が、思いがけなくも熱気のようなものを吐いたものだ。
こっちは風呂上がりだってのに——
お陰で嫌な汗をかかされてしまったではないか。
「共に異類異形な者同士、固定概念に取り憑かれた正統派を打ち砕こうではないか」
それは紗生子一人ならともかく。
何で俺まで——
一足飛びに妖怪の仲間入りをさせられるのか。加えて、このどさくさで大それた野望のようなものに巻き込まれるのは、
——冗談じゃない。
俺はあくまでも地味な小市民だ。それ以上を求めていないのだ。が、そんな俺に構わず、魔手舌口が俄かに怪しさを増していく。
「しゅ、主幹、ちょっと——!?」
いい加減、ここらで離れないと限界だ。たがが外れて取り返しがつかなくなる。
「い、今は休業期間中じゃありませんし。こんなお戯れの中でするような話でもありません!」
とりあえず、意識をそこへ戻させないと始まらない。部活が終わり、生徒達が下校した後とはいえ、寮生がいる日常だ。何処で見られているか分かったものではない。
「相変わらず、乗りの悪いヤツだなぁ。密室のプール内で誰が見ているというんだ? それこそモニター越しにマイクが見ている程度だろう」
「だ、だからと言って——」
課外とはいえ、学びを提供する聖域だ。
「構うものか。ちちくりあってる訳でもなし、夫婦のスキンシップの範疇だろ」
仮にも見た目だけなら玲瓏の君が、ちちくりあうなどと。外見に騙される世のバカな男共が聞いたらどう思ったものか。
「さっきも言っただろう。息抜きは必要だ。出来る人間はその術を知っている」
「も、もう泳がないのなら帰りますよ」
と、離れようとするが、意外に怪力だったりする紗生子の腕力に、逆に抱き抱えられてしまう。そのせいで、嫌な汗の次は水攻めだ。紗生子の体表に滴る妖気を帯びた香水のような水滴で、ぐっしょりTシャツが濡れてしまった。加えて玉体の只ならぬ凹凸と芳烈に圧倒されてしまい、口の中はあっと言う間に生唾塗れだ。それを音を立てて飲み込むと、未だ俺の耳元を弄んでいる紗生子の鼻から、小さな失笑がまた漏れた。
「まだ泳ぐ。勝手に帰るな」
「じゃあせめて、冷水機で水を飲みたいんですが」
「生唾じゃ足りんか。ペットボトルがあるだろう?」
「あなたが口をつけたじゃないですか」
「元は君の物だろう。遠慮は無用だ」
「俺にそんな変態趣味はないですよ」
「ほう、私が口にした物は変態ときたか」
「わざとからかってますよね!?」
「過失で人をからかうような鈍さには縁がないからな」
そんな言葉遊びの最中にも、紗生子のセクハラは止まらない。
「泳いでいる時は無防備なんだ。そこを狙われたらどうする? だからわざわざペットボトルを用意していたんだろう? 流石は出来る部下だ」
「偶然です、偶然。勝手に持ち上げないでください。そもそも何故あなたは飲み物を用意していないんですか?」
「優秀な部下が用意してくれると思ってな」
——くぅ。
そもそもセキュリティーは万全だし、外部からプール内を狙えるようなポイントなどないのだ。年末年始の時のようなミサイル攻撃さえも、迎撃して撃ち漏らさない学園だというのに。
「私が口をつけた物だぞ? 世の男共なら泣いて喜ぶ逸品だ。それを事もあろうに変態呼ばわりとは。大方、間接キスだとぎゃあぎゃあ言いたいんだろうが、三〇半ばのいい大人が大概にしろ。仮にもスパイだぞ? そんなザマだから麗しい上司が身を挺して免疫トレーニングをしてやってるってのに、親の心子知らずとはよく言ったものだ」
くどくどと続く説教のようなものの最中でも、紗生子の密着は続いている。気がついたら首を軽く羽交い締めされており、遠退く意識の中のどさくさで、背中に押しつけられた柔らかい塊のような物の感覚が半端ない。
——これが愛玩でなくて何なんだ?
自分でそれを認めるのは余りにも情けないが、つまりは紗生子の慰み者だ。何故俺がそれをさせられるのか、甚だ謎なのだが。
「私の傍を許す者は私自身が決める。君を含めた他人の批評など知った事ではない。この私に選ばれた存在だぞ? 君が心配する事といえば、他人の妬みぐらいだろう」
分かったらそのペットボトルの水でも飲んで精々励め、と言い捨てくれたかと思うと、その一瞬後には稚拙な例えだが、水に親しんだ人魚のようなそのシルエットが、美しい弧を描いて水面に戻って行った。
マイクやエリカなど、アンの周りで新しい取り巻きが増える中、紗生子は自身の取り巻きを変えるつもりは
——ないんだろーかなぁ。
アンの最側衛にして米国側の現地責任者の俺は、気がついたら紗生子の取り巻きと化している。
こんな事で——
いいのか、と何度自問自答したか知れないが、本国も大概としたもので放置プレイだ。
それにしても全くもって、俺の何を気に入ったものか知らないが、最近不意をついては繰り出される上司の免疫トレーニングが、質といい量といい、やたら心臓に悪い。
ああ——
喉が渇いた。