古傷【先生のアノニマ 2(中)〜プロローグ】
四月。日本、東京某所。
米国空軍少佐の俺は、相変わらず都中北部の学校にいた。
実は以前、日本に住んでいた経歴を持つ俺だが、東京は初めてで土地に馴染みもない。だからこそ、現在の居所を【都中北部】などと正確に表現しようとする田舎者なのだが、約一年暮らしてみて分かった事は、東京に住む人々は地元の西半分を【多摩地域】と呼んでいるという事だ。その中でも更に細分化された今の俺の拠り所は【北多摩西部】に位置しており、普通東京に在住する米空軍人なら【西多摩地域】に所在する米空軍の一大拠点【横田基地】に住んでいて当然としたものが、俺の場合だとそこがご近所さんの位置づけになるのだから面白い。在日米空軍司令部や第五空軍司令部があるそこに寄りつかない空軍将校など、
——間抜けもいいとこだよなぁ。
と、精々溜息を吐く事ぐらいしか能がない、文字通りの能無しの役立たずだ。
そんな今から遡る事約一年前。昨年六月の梅雨時に、現在の学校へ電撃移籍させられる直前までの俺の名は【Yi C】だった。台湾出身の台湾系米国人、独身、身寄りなし。年齢は、つい先日一つ増えて三五になった。それまでの俺は、正規パイロット達にはとても任せられない程の危なっかしさで忌み嫌われた、新型機開発のためのテストパイロットという名の傭兵であり生贄だった。が、いよいよ身が持たなくなってきた頃合いで、新たな名前を与えられて現任地に転属された訳だ。
都内有数の進学校【太史学園太史中学高等学校】は、北多摩西部に根城を構える世界企業【高坂財閥】の企業城下町に所在し、その一族が法人経営に携わる由緒正しき私立の権門なのだが、そこがお間抜け米空軍将校の任地というから、我ながらますます分からない。それもこれも、本国が世界に誇る英雄【ミスターABC】こと【Arthur Bradley Clark】元米国副大統領の愛娘【アン】が、同学園に極秘留学中のせいだ。
父親が父親なら娘も娘としたもので、ハイティーンながら既にハーバード大学院の博士課程に属している新進気鋭の日本研究者は、はっきりいって今更日本の高校に留学する必要性を認めない。のだが、それは父親同様に加熱する人気の熱冷ましだったり、本人のサブカル趣味を満たすためだったりする。それにつき合わされる小官としては、その明晰な頭脳を包む面の皮がアイドル張り、その下のスタイルがベ○ィちゃん張りのダイナマイトボディーとあってはやり切れない限りだ。
潜入警護員として前任地の経歴を伏せられた今の俺の身分は、表向きには日本の内閣府に出向中の職員。と言うからには、裏があるのが世の常だ。そんな俺の裏の身分は、米空軍少佐兼在日米国大使館駐在武官室付特別補佐官。要するところ、日本滞在中のアン御令嬢の最側衛の護衛にして、米国側の現場調整官【Rey C'ma】だ。あえて米国側というからには、日本側の人間もいる訳で、その女は折りしも季節柄通りの入学式が挙行されている今、俺の隣で相変わらずの不敵さと癇気を纏いつつも凛然と立っている。
その女が不意に、厳粛にして静謐な空気の中で小さく失笑した。
——うわ。
また、何かが気にでも障ったか。恐る恐る横目で表情を窺うと、窺うまでもなくその豊かにして形の良い胸の前で、腕を組んで不機嫌面だ。
——げ。
これは間違いなく、何かに立腹している。女の周囲に居合わせる教職員や生徒、はたまた来賓までがその異様に気づいており、堪らず俺は
"主幹、みんな見てますよ"
と、メッセージを送った。講堂の端に居並ぶ学園職員は、新入生やその保護者などが着席している中で、唯一立位の存在だ。端に並んでいて服装も正装とはいえ、個人差があって目につきやすいというのに。しかも女は主幹教諭という、教職員の中では校長、教頭に次ぐ序列第三位の要職者だ。校長は来賓席の一角で燕尾服を着込んで座っているため、居並ぶ教職員の中で女より上位なのは教頭しかいない。が、この教頭は変わってきたばかりの新任だ。いきなり苦言は吐けないだろう。
"構わん。減るモンじゃないだろう"
予想通りの返答が、俺の目の中に返ってきた。
実は俺の視野には、裸眼で見えている物以外に半透明の別画面が写っている。従来のシリコーンゲル素材を遥かに超える【ハイパーシリコーンハイドロゲル】という、ハイテク過ぎてよく分からないような素材のコンタクトレンズが生み出すホログラフィックディスプレイだ。単なる視力矯正用途で使おうものならば、信じられないレベルでの連続使用が可能といわれるその秀逸品の正体は、電装機器というから恐れ入る。単純な遮光調整、望遠、顕微機能は言うに及ばず。やはり特殊なOSを備えたスマートフォンとリンクさせれば、メールやSNSを始めとする様々なデータをAR上で展開可能であり、現に視認している状況をそのまま録画する事も出来てしまうという諜報用品だ。
パイロットになれる程の裸眼視力を持つ俺は、当然多用途なそれらの機能を使うためにつけているのだが、それもこれもアン御令嬢の護衛のためであって、
"そういう事ではなくて"
"じゃあどういう事だ?"
"分かって言ってますよね?"
などと、聞かん坊の拗らせ屋を宥めるためではないのだが。
"どうせ何をやっても目立つんだ。知った事か"
と、居直る女に欠けているといえば、節度ぐらいのものだろう。背丈こそ一七〇半ばの俺より低いが、均整にして美しさが際立ち妖しさすら帯びるその妖艶は、女傑の具現にして魔女だ。その正体は、表向きには内閣府に出向中の海自キャリアという事なのだが、裏向きには【Cabinet Clerk(通称CC)】という、聞きなれない役を兼務していたりする。その実態は、単刀直入に日本政府が抱える非公開組織の諜報機関、つまりはスパイだった。
"学園の体裁ってモンがあるでしょう?"
と立て続けにメッセージを送る俺は、決して式典の最中に堂々と特殊なOSを内蔵したスマートフォンを突いている訳ではない。実は両中指に透明な指サックをつけているのだが、これも秀逸なスパイグッズの一つで、身体中につけている七つ道具のガジェットキーの役を担っている。こっそり指サックに触れば、いつでも何処でもメッセージを打てる訳で、約一年も使い続けていれば、すっかり指に馴染んだものだった。
"ますます知った事ではないな。我らは外様もいいとこのよそ者だ"
と言われた俺も、女同様に【内閣の事務員】を兼任していたりする。
"理事長や相談役の耳に入っても知りませんよ"
"呆れを通り越して嘆息するぐらいさ"
という理事長や相談役は、高坂創業宗家の現当主の御令孫にして御令室であり、やはり上座の来賓席だ。
"数少ないお味方でしょう?"
"昨日の友は今日の仇だな"
とそこへ、
『いー事聞いちゃった!』
などと、やはり特殊な耳に横槍が入った。わざとらしい甘ったるい声が、外耳道の奥に取りつけたスパイ仕様のイヤホン経由で脳内に響く。警護対象のアンだ。在校生は昨日始業式があったばかりなのだが、入学式には出席しないためいきなり休みな訳で、在寮生であるその御大は、校内の西の端にある寮にいる。
"一々割り込んでくるんじゃない。あくまでも備えだという事を忘れるな"
と女がいう備えとは、有事対策だ。事実、昨年度もアンの身を狙った襲撃が何度かあった。それを日本にはあるまじき、信じ難い手口で撃退し続けてくれた女は、常に嗜みとして銃を携えている。温暖期に入った今は、式典仕様でフォーマルワンピースこそ着込んでいるが、その太腿には野蛮な火器を隠匿している事だろう。
『何よ、自分達だってくっちゃべってるだけじゃん!』
"通信状態の確認のついでだ"
『物は言いようね。口先三寸で渡り歩いてきただけの事はあるわ。そうやって利用出来るものは、骨の髄までしゃぶって捨ててきた訳ね』
そこまで聞こえたかと思うと、急に大人しくなった。女が一方的に通信をぶった切ったのだろう。アンの警護において、日本側の現場責任者にして日本滞在中の現地責任者でもある女にとって、アクセス権の調整もまた嗜みの一つだ。女はアンの警護に携わる者の機器に問答無用でアクセス出来るが、部下の位置づけである俺は、悪く言えば盗聴盗撮されまくりの状態。そんな俺が女とアンの会話を聞けたのも、女が有事に備えて周辺にいる他のエージェント達と情報共有を図るべく、その回線を同時通話通信モードにしていたからだ。
"切っちゃって大丈夫なんですか?"
"【Joey 】や【Chemiko】がフリーで控えているから問題ない。校外組もいる事だしな"
エージェント達は、それぞれコールサインを持っている。前者はアンの同級生に扮した、本当は二〇代という女エージェント。後者は非常勤職員たる校務員に扮した、元技術官僚の老紳士エンジニア。校内組のエージェントは俺が知る限りでは、先の二人に加えて後一人と俺達二人を加えた五人でやり繰りしている。が、実際には、それ以外のコールサインがコンタクト内で乱立気味に展開しているそれは、校外組のエージェント達だ。
"本来なら入学式なんぞ出なくてもいいんだが、そうは言っても我らの表向きは内閣府からやってきた学園職員だ。無視する訳にもいかんだろう"
と言う女は要するに、
——素直じゃねーなぁ。
という一言に尽きる捻くれ者なのだが、無茶苦茶ながらも帳尻を合わす手堅さ故か、高坂一族からの信頼は厚く、女もそれに応えている節が散見されたりする。
アンにベッタリくっついて用が足りるのであれば、本国が誇るシークレットサービスや日本警察のSPを使えばよい話だが、それでは余りにも暑苦しいしアンはあくまでも私人だ。警護費用をあからさまに公費で賄う事を見せびらかす向きのそれらには、反感も多いだろう。その辺りの微妙な匙加減が求められるこの警護任務は、アンの影響力、ひいてはその先にいる御大尽の父親が近い将来大統領になった時の影響力の大きさを鑑みての、日本側の密かな先行投資という事でもあり。その奮発振りが、都市伝説レベルを脱しないような、実態すら怪しい諜報機関を使った潜入潜伏警護とくれば、学園行事を無視する訳にはいかない、という事情があったりする。
"それなら俺は、もう少し下座の方に立っときたいんですが"
女は主幹教諭という上級管理職であるからして、全職員の上座に位置した所にいても誰も文句など言わないだろう。が、俺は一般的なALTで潜り込んでいる身であり、非常勤講師の位置づけだ。そんなヤツが主幹の隣にちゃっかり並んでいては、他のベテラン職員が面白かろう筈がない。潜入警護員とは名ばかりで、米軍人である事がバレている身とあっては、野蛮人が聖職者を踏みにじるような格好だ。
"相変わらず君はつまらん事を気にするな"
"あなたにはつまらない事でも、他の職員さん達にはそんな事が矜持だったりするんですよ"
"君は私の裁量で傍に置いているんだぞ? そんな男を僻むようなヤツがいるとは思えんがな"
ALTの筈なのに、机は女の根城にある俺は、名実共に主幹教諭付の職員であり、ALTはおまけと化している。誰もが恐るる魔女の子飼いに因縁をつけるような職員など今や誰もおらず、
"あのぅ、今はリンク中って知ってますよね? お二人さん?"
と、はっきり口にするのは同僚ぐらいのものだ。コールサインをみると【Wasanbon】とあるそれは、俺達の遥か下座に列しているだろう英語教諭に扮したエージェントで、これが校内組の残る一人。
"君がぐずるから、私まで苦情を受けただろうが全く"
結局、最後は俺のせいだ。まぁ確かに、女に比べると何かと据わっていないのは俺の方なのだから、ぐうの音も出ないのだが。
気がつくと、はぐらかされて何の解決にもなっていない。これもいつもの事だ。が、傍若無人は意外に計算ずくだったりする女の機微を思うと、あからさまな腕組みでそれこそ何かの矜持をなぶるような攻撃的姿勢は、あえて女にそれをさせる根源こそが問題、という事なのだろう。その視線を窺ってみると、改めて確かめるまでもなく舞台上の講演台でくっちゃべっている男に向けられている。
——やっぱりアレかぁ。
思わず鼻から溜息だ。
教職員の上座に居並ぶ来賓の肩書きは、然程そうした人種に興味を覚えない俺であっても何かと見聞きする顔触れならば、流石は高坂一族の学校という事だ。高坂グループのお偉方は言うまでもなく、経済団体の代表や国会議員の名代、はたまた政界の重鎮まで。雁首揃えて圧迫感が凄いというか、それこそ上下の席の順番で揉めそうというか。
そんな政財官を賑わす面々の中で、官の代表はまさに今、演台で溌剌と祝辞を垂れている男だった。
高千穂隆嗣。警察官僚。今春早々、五一歳という若さにして警視庁警視総監に任じられた、二一世紀最年少の首都警察の親玉だ。戦後、現行の警察法が施行されて以降、つまり現行の民主警察機構に改編後、官僚体制が未成熟だった黎明期を含めて尚、指折りという異例の早さで日本警察のナンバー2に登りつめたこの男は、聞き覚えがあるその名の通り、前外相高千穂隆介の実兄にして元首相高千穂隆一郎の長男だったりする。というデータが、コンタクトの中で淡々と展開するまでもなく、俺にとっては
"とんだ腐れ縁だな"
という吐露を、横の絶美が先回りしてくれた。
"どの面下げて来たモンですかね?"
"そんなモン、表向きは尻尾振りだろ"
実弟の隆介は、当学園相談役高坂美也子の実娘の前夫であり、相談役はその父の元秘書で両家は繋がりが強い。そんな実弟が相談役の実娘との復縁を企むついでに、高坂グループの権財奪取を目論見掻き回した挙句、名もなき俺の兄の一石でその野望が瓦解した事を発端として、その罪を負わされ尻尾を切られた秘書が文字通りの窮鼠嚙猫となり高坂の御曹司を拉致した事件は、まだつい二か月前の事だ。その事件を端緒に高千穂隆介が前外相となり、高坂グループ内の反創業宗家派の粛清が進む現状において、元首相の父親共々来賓として招かれるのは、確かに高坂に花を持たせる意味合いもあるだろう。
"そりゃそうですが"
面の皮が厚いというか、何というか。
"まぁ、普通の神経なら面前を憚るモンだろうが"
"普通じゃないのは分かりますが"
"厚顔無恥は野心家必須のステータスって事さ。父親の方は流石に一度は辞退したそうだが、相談役に許してもらえなかったらしい。そう言う意味では父君は人心が残ってるって事かもな"
今も尚、国政与党内でそれなりの影響力を持ち続ける【自由共和党】の重鎮にして元首相が、長年知恵袋として現当学園相談役を抱え続けた事で稀代の女フィクサーを創造させた事は、その道に詳しい者なら最早常識だ。
——お気の毒に。
来賓席には相談役の夫たる高坂グループ会長の姿も見受けられるが、確かに言われてみればそれなりの箔は感じるが、知らない人が見れば人の良さそうな爺さんに見えなくもない。要するに、年月をかけて女フィクサーが操りやすいように仕立てた、という事なのだろう。
"が、長男の方は、高千穂一族にしては一応油断は禁物だな"
と、女に言わしめるのだから、相当な曲者だ。
"頂点まで登りたいそうだぞ? 満を持して政界に殴り込む前に"
"長官ですか? それは流石に"
有り得ない。警察庁長官と警視総監は日本警察の二大巨頭であり、警察内部の出世街道としてはゴールなのだ。普通、警視総監を務めた者はそこで上がりであり、次はない。
"本庁の次長の次はどっちかで終わりの筈でしょ?"
"詳しいじゃないか"
"まぁ、何となく"
で、知っているような内容ではないのだが。余りにも苦しい言い逃れで、我ながら情けなくなる。
"まぁ、今はそういう事にしておこうか"
実は、因縁がある相手だったりする訳で、その美しい鼻梁で失笑する様子からして、
"やっぱし、ご存じな訳で?"
"さぁなぁ"
と、いう事らしい。
"それはさておき、これまでじっくり足固めをしてきたあのクソ兄貴も、君の前には心を乱されたようだぞ?"
"ウソでしょ!?"
"私がそういう事でウソを言った事があるか?"
ない。
それにしても、みんな聞いてる
——ってえのに。
ずけずけと人の過去に立ち入ってくれるものだ。
"心配するな。こちら側のリンクは切っている。毎度言うが、そんな迂闊は踏まんぞ私は"
"そうですね"
スパイだけあって情報収集が趣味、つまりは知りたがり中毒のようなこの女は、そうした嗜みに長けている事も確かなのだが、
——毎度毎度、なぶられるというか。
慰み者にされているというか。
"それにしてもバカな男だ。大人しくパパの威光を傘に長官にでもなった後で、細々と議員暮らしをしていればよかったものを"
と、いう事は、何かを踏み外した、という事らしい。
"それこそ君じゃないが、いつまでもつまらん事をぐずぐず引きずったところで、今後のためにならんがなぁ"
"何ですか、それ?"
"警視総監が牙を剥いたって事だ"
"誰に?"
"君を端緒に、各方面にだ"
——うえ。
冗談ではない。
"心配するな。精々後悔させてやるさ"
"はあ"
"君はホント、溜息ばかり吐くヤツだな。メッセージの中で嘆息するヤツなんぞ見た事も聞いた事もないぞ?"
"いい加減、疲れたんですよ"
溜息の一つも吐いていないとやり切れないのだ。俺は生来、平和主義者だというのに、気がつけばいつも波乱含みで嵐に塗れている。
"だから心配するなと言ったろう。大船に乗ったつもりでいろ。【Tamegoro】"
"何ですかそれ?"
と切り返した瞬間、俺のコールサインがGengoroからそれに変わった。この任務に入る直前に自分でつけたコードネームは、女によって一方的に校内限定のものにされており、CCでは日系米国人【Goro Minamoto】として登録された事をいい事に命名されたコールサインだったのだが。
"溜息ばかり吐いてるからだ"
"まぁ何でもいいんですけどね、もう"
コールサインなど、仲間内で分かれば何だっていいのだ。ゲンゴローがタメゴローになったところで間違われる事もあるまい。
"そう拗ねるな。いい男が台無しだぞ?"
と言いながらも、表示は変わらず。
——タメゴローのまんまかよ。
そういう女のコールサインは【Lich】だ。一見して魔性を帯びるその禍々しさが転じた【不死の魔術師】の意味合いなのか。【真耶紗生子】というその御名から結びつきやすい、安直な略称が転じた魔性から命名されたものなのか。どちらにしても魔性は魔性な訳で、要するに不吉な魔女に違いはないのだが。そんな妖艶たる絶美が何と
"あえて言うが、君は私の夫だという事を忘れるな"
だったりするのだから、ますます
——やり切れねぇ。
それは勿論、
"任務上は、ですよ"
という偽装夫婦なのだが。
"それも何回言わすんだ。そんなところを敵につけ込まれるんだぞ?"
"敵って誰ですか?"
"敵は敵だ"
"何ですか、それ?"
"相変わらず、聞き分けのないヤツだな全く"
と呆れた風情の紗生子が、ようやく腕組みをやめたかと思うと、体側に降ろした手をそのまま俺の手に絡めてきたではないか。
——な!?
"誰も見ちゃいないさ。一々驚いてちゃ心臓に悪いぞ?"
そんな中でも、空いている手で指サックを触っては、早速メッセージを送ってくる紗生子の器用さは流石だ。
その紗生子と指サックと言えば、何を考えたものか。数日前に突如としてその魔女は、俺に対して全ての指先にキャップ型の指サックをつけるよう命じた。CC自慢の特装品のそれは、確かに見た目には全く見えない秀逸品だが、唯一簡単に外せないという欠点を持つ。
「どうせ辞める時は指を落とすんだ。一本つけようが一〇本つけようが変わらんだろう」
「いや、桁が違うでしょ桁が!?」
とは、命じられた時の一幕だが、人ごとのようにとんでもない事を言う紗生子によると、任侠の世界の習わしのようなその凶事は、取り外しに少し難がある事に対するあくまでも揶揄なのだそうだが。本当のところを知らない俺にしてみれば、
「冗談キツいですよそれ!」
と、細やかな抵抗を試みたが勝てる訳もなく。結局、殆ど問答無用でつけさせられたそれは、今では、
"すっかり馴染んだようじゃないか"
と、その張本人に言われる程度には使い熟せている。指サックをつけ始めて早一年弱。紗生子ではないが、それが指先に増えたからといって、実はどうとでもない。逆に更に使い勝手が良くなった程だ。
ガジェットキーは使用者の都合で入切可能だし、装用感も申し分ない。それはわざとらしく絡められる紗生子の艶めかしい手の感触が、俺を動揺させる程度によく伝わる極薄の電装人工皮膜のくせに、物理的に手指を守る手袋のような効果をも合わせ持つ近未来的素材だ。要するに、
"つけていて得はしても損はないからな。色々な意味で素人の君は、つけられるだけつけた方がいいと思っていたのさ"
と、紗生子が言う通り、ぶっちゃけ格好ばかり増す俺のスパイ感。
"じゃあ何でみんな積極的につけようとしないんで?"
俺の周りのエージェントは、やはりこれまでの俺同様、両中指につけている程度だ。
"私が言うのも何だが、要するに女心だ。一々全部説明してやらんと分からんとは、仕方ないヤツだな君も"
例え優れた素材とはいえ、肌のトラブルが全くない事はないらしい。
"とにかく男なら少々の事はないだろうが! 指サックは指紋も保護出来るんだ! これ程有り難いモンも中々なければ、つべこべ言うな!"
——理由を聞いただけなのに。
恐らく、男勝りの口が女を語った事に対する照れと煩わしさだ。見た目だけなら紗生子以上にそれが似合う女もいないだろうに、当の本人はそれを嫌がるという世の妙、とでも言うのだろうか。
"それは分かりましたが、TPOってモンがあります"
と、強引に話を畳んだ紗生子の、その勢いに乗じて静かにその手を離すと、また嘆息した紗生子がまた腕組みをした。
"君の母国じゃスキンシップのうちにも入らんというのに"
やれやれ、と呆れるその絶美とバディを組み始めて一年弱。その突飛な行動は、日本の世俗をそれなりに知っている、実のところ元日本人の俺の固定観念を、良くも悪くも毎度豪快にぶち壊してくれる。
"退屈凌ぎもさせてもらえないとはな。意外に小心な元撃墜王だ"
そう言う自分は、見た目を度外視する出鱈目な戦闘力と、その豪腕に見合う高い知能を誇るくせして
——精神は子供染みてんだよなぁ。
と言ったら、仕返しが怖いので口にはしない。
"少しはこの無謀な警視総監殿を見習ったらどうだ?"
と、言われても——
俺を端緒に、この男が何をしようとしているのか。紗生子が本当に褒めている訳もなく。逆にその無謀な男を眺める目口は、みるみるうちに怪しさをたぎらせているように見える。そんなシーマ少佐、二年目。
——俺は平和に生きたいだけなんだがなぁ。
そんな俺を、世の中は放っておいてはくれない。
演台で延々高吟の如く祝辞を述べ続ける高千穂家の長男は、弟に似て人の上に立ち慣れた感のある中々の偉丈夫だ。何れは国政に出るだろうこの者のこれまでの生業を見れば、俗世の上下を満遍なく見渡す警察という職務柄で、キャリア官僚として海千山千の経験値の高さを頼もしく思う向きが強いだろう。が、幸か不幸か、俺はこの男の裏の顔を遥か昔から知っていたりする。その因縁がまさか
——ここで絡んでくるとはなぁ。
やはり日本に帰って来た事が運の尽きだったのかも知れない。
"まぁ昔の君も、中々の無謀振りだったようだが"
紗生子の手にかかれば、そうした込み入った事情は当然全て織り込み済みのようだ。またつい、小さくも溜息が漏れ出てしまう。
"そんな事だからタメゴローになるんだ"
と、横目で笑った魔女が、
"それにしても、君も色々背負い込む質だな。いい加減、身の程を弁えんと身を滅ぼすぞ?"
と得意気だ。やはり、全部バレている。
"好きで背負い込んでるんじゃありませんよ"
"そういう開き直りは時として大事だ。偶然にも、私の側使えをしている時に往年の古傷を治療出来るからな"
"もう治りませんよ"
相手は未だにしつこくつき纏う事を辞さないスタンスなのだ。いい加減、ヤケになって根負けしそうなのだが。
"折角私が可愛い夫のために一肌脱いでやるんだ。無闇にヤケになるもんじゃない"
そういう紗生子の目つきが、明度を落とした薄暗い講堂の端で爛々と怪しさを増している。俺は手荒い事は嫌いだというのに、だ。
"君を苛む憂いは私の敵だ。任せておけ"
——と言われてもなぁ。
また掻き回されると思うと、新年度早々気が重い。
そんなこんなでごたごたやっていると、拍手が起こった。警視総監の祝辞が終わったらしい。その堂々たる余韻は、早くも永田町の風を纏っているかのようだ。が、唯一の欠点としたものか。足の運びが何やらおぼつかない。歩行障害を持っているのだろう。
どうやら——
これも、俺に繋がる因縁と考えて間違いなさそうだ。
——はぁ。
面倒臭い。