南海のリゾート(前)②【先生のアノニマ 2(中)〜32】
普通は高速経由でも最低一時間はかかる道のりを、その半分もかからず辿り着いた先は、例によって米国大使館だった。まずはそこで、アンとマイクが途中下車。事情の詳細はおろか、概略の説明も何もないまま投げたというのに、何処か心得ている二人に見送られ、息をつく間もなくその足で【赤坂プレスセンター】へ飛び込むと、勢いそのままヘリポートに駐機中の定期便ヘリへ乗り込んだ。日頃近辺の米国関連拠点を飛んで回っているヤツが、当然のようにそのまま横田へ直行する。
「──聞きたい事があれば聞くぞ?」
ようやく僅かに気配を緩めた紗生子が、ヘリの騒音に紛れるようにインカム経由で声を寄越した。
「大丈夫です」
秘密主義の紗生子だが、肝心な時には必ず説明してくれる。車に乗った時には、急展開の勢いに任せてつい余計な事を尋ねてしまったが、
「いつと言わず、今の俺はあなたの指揮下ですから」
大体が日頃の護衛任務にしても、紗生子に預けっ放しなのだ。
「──あ、一つだけ」
「何だ?」
明日は土曜日で、私立の進学校の事なら学校は当たり前にあるのだが、
「休みの届けは千鶴に任せてある」
「それならもう──」
他に何かを尋ねるような資格など、俺にはない。大事に至って我が身可愛さで物を尋ねるなど、
「──虫が良過ぎるというものでしょう?」
思えば今まで、随分ズケズケと質問をぶつけていたものだ。今更ながらに自らの体たらくを恥じる。
「それは責任重大だな」
「その責任は、半分こですよ」
秘密主義は、つまりいざとなれば紗生子が全部被るという事だ。もうそれをさせる気にはとてもなれない。
「バディですから」
「こんな所でリップサービスしたところで何も出んぞ?」
「こんな所だからですよ」
最近の紗生子は、隙あらばセクシャルな向きに傾くのだから、下手な盛り上げ方でもしようものなら、
「襲われ兼ねませんので」
「まるで人を色魔のように言ってくれるな」
「いや、俺自身の問題であって──」
紗生子を落とす意味ではない。
「──苦行というか」
「今度は随分と大仰だな」
俺の中で紗生子の色仕掛けに耐える事は、最早そういうレベルと同意という事だ。涼やかで自信に満ち溢れた堂々たる見映えの魔女は、文字通りの美魔女な訳で、それが豊富な手練手管で艶っぽくもすり寄ってくる事の破壊力。分かりやすくは、大物女優のラブシーンのそれだ。それを苦行を積んだ僧が耐え得るだろうか。
「──という話というか」
ハニートラップ対策の建前であれば、あくまでもトレーニングという事なのだが、紗生子の最近のそれは、とっくにその建前が失われている。
「大物女優は良かったな」
評価としては頗る正しい、などと紗生子は何処までも紗生子だ。
「じゃあ帰ったら弾んでやるか」
「いや、ですから──」
と言ったところで、一つ思いついた。何かしら貰えるというのであれば、拒否するのではなく、
「──俺が決めてもいいですか?」
それならば少なくとも、俺が戸惑うような性的報酬は避けられる。
「それじゃあハニトラ対策にならんだろうが」
「ハニトラ対策という名のセクハラじゃないですか!?」
と、紗生子を落とすような言い方をすれば、
「寝込みの女の口を吸うヤツが言う事か」
「ぐ」
そこを突かれる訳だ。今更ながらに年末の気の迷いを悔いる。
「──あ」
と、そこでまた、一つ思いついた。
「その帳消しが報酬って事で」
「もうその手は食わんぞ」
そんな事を言い合っていると、あっという間に横田上空だ。そのままハンガー横づけで降ろされると、待ち構えていたのは空軍所管の【C-37B(ガルフストリームG550)】だった。
「行くぞ」
「定期便って──?」
どうやらこっちの事だったらしいそれは、政府高官仕様だ。一軍人風情が乗れる代物ではないのだが、
「移動ぐらい楽させてもらったところで罰は当たらん」
という事で、アイリスに手配させたらしい。
「手配って──」
「誰だか知らんが、これで来日していたヤツがいるようでな。ちょうどよかった」
「ヤツって──」
紗生子にかかれば米国政府要人もそんな扱いで、どうやらそれを無理矢理押し退けた力業にして横車のようだ。
「そんな無茶が──」
通るのが紗生子なのだが、
「クソッタレ作戦の責任を負わされるんだ。当然としたモンだろう」
という論法は、確かに分からないでもない。何の保証もない極秘作戦は、成功して当たり前。失敗すれば即死。下手に敵の手に落ちたならば捕虜扱いされる訳もなく、どんな拷問が待ち受けたものか知れない。男の俺ならまだしも、紗生子の如き美女エージェントともなれば、捕まるぐらいなら木端微塵にされた方が余程マシだろう。
「──そう、ですね」
「分かるようになってきたじゃないか」
極秘作戦とは、表向きの国事のツケなのだ。表舞台でどうにもならないから、裏で誰かに代わって誰かが手を汚す。その上で、
「踏ん反り返ってろくな仕事をせん、面の皮の厚い御大尽なんぞ──」
知った事ではない。
息巻く紗生子に続いてさっさと乗り継ぐと、本当に貸切らしかった。
「それにしても──」
紗生子といい俺といい、私服のままだ。
「着替えは用意させている」
その後で何か食うつもりらしい。俺は晩メシを済ませていたが、やはり紗生子はまだだったようだ。
「その後は本土まで一休みだ。何ならハニトラ対策でもするか?」
「またそれですか!?」
「アテンダントなら気遣い無用だ」
言ったそばから出て来たのが、副大統領補佐官のクレアだった。
「ご無沙汰致しております、少佐」
目線が俺より僅かに高い白人のスレンダー美女は、昨年同時期の海外出張に引き続き、作戦開始のメッセンジャーらしい。紗生子の一言に応じるようにスーツケースを持って現れたクールビューティーが、何処かしら節目がちなのは気のせいではないだろう。親子で母国の中枢を陰ながら支えるその娘からのホットラインが、俺達現場サイドを窮地に陥らせた失態を、この母は必要以上に憂いているようだった。
それを紗生子が、
「アイリスのヤツ、人選ミスだな。上官を差し置いて先に部下に挨拶するようなたわけを寄越すとは──」
などと、開口一番で情け容赦なく徹底的にこき下ろす。
「──つくづく気の利かんヤツだ」
「しゅ、主幹──」
「一休みしたら、二人でマ○ル・ハイに洒落込むつもりだったのになあ!」
「ぶっ!」
窘めようとする入れ替わりの、その思いがけない破廉恥発言が、瞬間で俺をむせさせた。一般的な日本人には馴染みの薄いそれはスラングで、機内セッ○スを表す。
「な、何言ってんですか!?」
「数々の浮名を馳せてきた不肖の身ではあるが、日常的に命を狙われている事でもある。空で惚けるぐらい、許されて然るべきだろうが」
ハハハ、と取りつく島もない。洋の東西の美女の一例ともいうべきクールビューティーの共演だというのに、一般的イメージとして気さくである洋美人が慎ましく、そうある筈の和美人が明け透けにはっちゃけるとは。既に機内中央部の、一見して最もゆとりのある上座へどっかり踏ん反り返っている紗生子は、確かにいつも通りではある。が、どうも言葉尻が、いつになく刺々しい。
「──お戯れが過ぎるのでは?」
「今更いい子振ってもな」
と、身体を起こしたかと思うと、今度は矢庭にその傍若無人女が、傍にいる俺の手を無遠慮に引っ張る。そうした間合いを知り抜いている武辺者の紗生子だ。呆気なく体幹を崩された間抜けな俺は、そのまま別の意味で、この上ない玉座ともいうべきその膝上に座らされてしまった。
「な、何を──」
「暴れるんじゃない。いつもの事だろう。苦しゅうないぞ」
傍にいるだけでも只ならぬフェロモンの塊だというのに、くっついてしまってはもうどうしようにもない。匂いと肉感で気が動転する一方で、紗生子は片腕を回していとも簡単に、年甲斐もなくジタバタするウブな男の身体を極めてしまう。この辺りも流石の女丈夫としたものだ。
「今回も何処かの誰かさんの手落ちで危うく死にそうになったが、ようやく最後の締めの前に一息つけると思ったら、辛気臭い事この上なしだ」
「主幹!」
「──申し訳ございませんでした!」
一見して、まさに悪代官が権力を傘に町娘と戯れる構図の前で、完璧なまでのブロンド美人が、日本人さながらにその腰を直角に折り曲げた。その所作もそうなら、先程来の日本語も完璧な発音で、こうなってくると人種も文化もごちゃまぜで訳が分からない。
「気にするな。最初から期待していない」
「またそんな事を!」
「現場は身を削って結果を出し続けたんだ。その足を引っ張るデスクワーカーなんぞ配慮に値するものか」
「ほ、本気で言ってるんですか!?」
「本気も何も、君は私を何だと思ってるんだ?」
「お、俺はもう少し──!」
話の分かる、ややもすると尊敬に値する女上司と思うようになっていたのだが、急転直下とはこの事だ。そんな嫌味ったらしさ全開の刺々しさの中で、腰を折ったままのスーパーモデルのその傷口に、紗生子が容赦なく塩を塗るが如く辛辣な舌鋒を突き立てる。
「空っぽの頭では、その下げ時も分からんか。そこで案山子になったところで何かが動くとでも言うのか?」
そうだ。これではいつまで経っても離陸出来ない。紗生子がおかしくなっているのであれば、
「そ、そうですね。クレアさん、コックピットに離陸の連絡を──」
させる体裁で、クレアを下がらせた方が懸命だ。が、紗生子は更に容赦ない。
「さっさと下がれ」
「な──」
一体全体、どうしたというのか。言葉の稚拙な俺に、上司の思いがけぬ変節のようなものを問いただす力などない。そのジレンマに身体が震え、行き場のない怒気が勝手に、絡みつく紗生子の手を剥がそうとする。
「見損ないましたよ!」
俺が理解しつつあるこの女は、これで周囲の人々の心を掴んでいた筈だ。天邪鬼が過ぎる事もしばしばだが、その根底には何かしらの情のようなものを携えていた筈だ。それが、
「言い方ってモンがあるでしょう!?」
「だからそうしたんだが」
「はあ!?」
急転直下していく感情が、俄かに着地点を見失う。
「あなたはそんな──!」
分からず屋だったのか、とぶつけようとしたところへ、
「エリカを何故帰したか分かるか?」
と、突然その名を被せられ、俺が驚く以上に外ならぬ目の前のその母親が、一瞬身体を大きく痙攣させる程の反応を見せた。
「それとこの有様の何が──!?」
「関係あるのさ。何故急遽帰国させたか──」
「そ、それは──」
ホットラインの不始末の責任もあるのだろうが、表向きには佐藤先生の復帰で、
「──代役は終了したからでは?」
という事だろう。が、
「逆だ」
エリカを帰したから、
「佐藤の復帰が早まったんだ」
「え!?」
それを決めたのは、外ならぬ紗生子のようだ。
「そもそも佐藤の代役が、何故この母親の小娘でなくてはならん? そもそも小娘を頼る事自体がおかしいと思わんか?」
「それは──」
と言われて、すぐに返せるようなら日常的に言いくるめられる事はないだろう。つまり、
「──優秀だから、では?」
「とはいえあれは、年齢的には日本でいうところのまだ小学校六年生だぞ? まだ家族に守られて当然の年だろう?」
それが泣き事も言い訳の一つも許されず、秘密外交の手助けとはどうした事か、と言われれば、確かにそうだ。
「別の代役などいくらでも用意出来るものを、身内の使い勝手の良さだけで派遣しおって。アンだけでも学園内で浮いているというのに、あんな年端も行かん娘を現場に押しつけた──」
その雑な人選も実に気に食わん、と何やら愚痴を言い出したかと思うと、
「──それに責任を負わせる親とは、大人とは、畜生以下だと思わんか?」
と痛烈な批判が向けられる。言葉のセレクトとしてはひどいと言わざるを得ないが、それもまた確かにそうだ。弱肉強食の分かりやすい世界で生きる大抵の動物でさえ、親なら子を死地から遠避けようとする。エリカは大人と呼ぶには余りにも幼い年齢だ。それを大人でも戸惑う重責を突きつけられ、それでも懸命に向き合い続けた少女を見兼ねた紗生子が、無理矢理に帰国させたというのが、事の顛末だったようだ。
「美鈴にも言える事だが、要するに全ては能無しの大人達のせいだろうが」
年端もいかぬ少女達に国の命運を負わす事の批判の矛先は、確かに単純な対立軸として、真っ直ぐ大人に向けられて然るべきだ。優秀さに目が曇り、それが当たり前だと思った時点で、俺もその批判から逃れられない愚か者だった訳だ。
「それを母親たるモンが。如何に国の命だとて、愛する我が子の事ならまずそれを守ってやるのが、我が胎を痛めた子の母としたモンだろう」
国の大事の前にまず家族だという紗生子の声色は、相変わらず辛辣だが、今の語音は何処か暖かい。
「二一世紀にもなって、極めて旧世代的だと思わんか? 人あっての国だろう。未来ある子供達を守ってこそ、大人の意義としたモンだろう。それを先進的な民主主義国家が退行させてどうする」
大人が手詰まりであれば、子供の自由な発想を拠り所にしてみるのも面白いだろう。が、それを全て押しつけるのは、先を生きる者の怠惰だ。
「良くも悪くも我らは皆先生だぞ。実際に今は先生宜しくではないが、子供は教育するモンだ。文字通り、教え育てるんだよ。それを逆に搾取してどうする」
と、紗生子が俺の背中にある豊胸の辺り、正確には例によってル○ンのジャケットの如き派手な色のコートの胸ポケットだが、そこから何かを取り出した。その突き出した片腕の手先にあるのは航空券だ。
「羽田発ホノルル行きの深夜便だ。本当ならこの機で連れて行ってやればいいんだろうが、明らかに行き先が違うからな──」
その航空券をヒラヒラ動かす紗生子の手に、腰を上げたクレアの目が移ったかと思うと、その目から紅涙が溢れ始めた。が、察しが悪い俺には、
「ホノルルって? 何です?」
何がなんだか分からない。
「MITは冬休み中だ」
本当は自己研鑽プログラム期間中だとかで、完全に休みという訳ではないそうだが、
「まぁアイツなら何とかするんだろう」
とか何とかで、エリカをハワイに呼びつけているらしい。それが分かっているクレアは、我が子の所在だけは追い続けていたという事だ。涙する母親がそれをする理由として、母性以外に何があるだろうか。
「どうせバカンスに入るなら、暖かい所の方がいいと思ってな」
分かったら早く行け、と何処までも憎まれ口だが、やれやれだ。
「うぅ──」
嗚咽を堪えるために口に当てた両手に止め処なく伝う珠涙が、それまでのクレアの葛藤の大きさを物語っていた。紗生子に引けを取らぬ美女にして、切れ味の鋭さが際立つ能吏だが、その内側に、
こんなにも──
人目を憚らず、熱を帯びた涙を溢れんばかりに流す程の母性を持っていたとは。本当に人とは見かけに寄らぬものだ。
「我らが乗って来たヘリを待たせてある」
赤坂経由で行けば、化粧を直す時間ぐらいはあるだろう。
「泣かしたままエリカに会わせたんでは、あの講釈垂れに何を言われるか分からんからな」
「ありがとう──」
その母親が、何か後の句をつけたかったようだが、嗚咽で喉が締まり語尾が掠れて出てこない。
──ヤバい。
うっかりすると、貰い泣きしそうだ。
「確かに貴様の仕事は、代役が難しい重責なのは分かる。が、人の親なら家族との向き合い方も考えろ。アイリスには先刻私から連絡済みだ」
学園が長期休暇に入る度にCCの面々を追い出す、いつもの紗生子のイメージと被った。これまでの全ては、どうやらこの伏線のための戯れだったものか。
素直じゃないというか──
相変わらずの天邪鬼振りで、全くたらし込んでくれるものだ。
「──これからも励め」
その高飛車な激励に大きく頷いたかと思うと、涙を振り払うクレアが小走りに駆け出し降機して行った。その入れ替わりで、
「──さて、アイリスのヤツに連絡するか」
「ええっ!?」
中々のちゃぶ台返しだ。
「ああでも言わんと休まんだろうが、あの仕事人間は」
休みどころか、家族とも離れ離れでろくに顔を合わさず、副大統領につきっ切りだった母親を、
「エリカのヤツが愚痴っていたからな──」
何気ない一言の中の底意を垣間見る事が出来る繊細さを、日頃尊大な魔女が持ち合わせている事の不思議だ。
「──拗らす母娘は何処にでもいるモンだ」
小さく嘆息したその横顔の優しさの中に、また母性のようなものを見せつけられてしまい、不覚にも心臓が跳ねた。
「いつまで座ってるんだ? 何ならそれこそこのままホントに──」
「あっ、わっ──」
慌ててその玉座から飛び降りると、
「だ、だって、反則過ぎでしょ!?」
後出しにまんまと騙された俺だ。とりあえず、照れ隠しで恨み節を吐いておく。
「それよりまずは離陸だな」
「は、はい」
今回のパイロットは、流石に紗生子御用達になりつつあるインテリとテックではなかったが、それでもVIP機のそれだ。紗生子も特に何も言わない。と思ったら、
「何かあれば、君が何とかしろ」
とか。本当にこの女は、人の心が読めるらしい。
「はあ」
「気のない返事をするヤツだ。これで私がその腕を頼る程のファイターだとか、世の中は本当に面白い」
パイロットは既に何らかの命を受けていたと見え、初顔の俺がインカムで連絡を入れただけで、VIP機はあっさり離陸した。
「我らでさえ、こうして番で活動しているというのに、エリカはあの年でずっと一人だったからな」
紗生子の一々思わせ振りな言い回しは置いておくとして、意外にもこの女はそれが気になっていたというから、
ホント──
意外だ。と口にすると、また何を言われたものだか知れないため、飲み込むのだが。
美鈴には親代わりともいうべき明が傍におり、紗生子の見立てでは何やら抜き差しならぬ関係性に近いらしい。またアンも、エリカより年こそ多いが、境遇としてはやはり先の二人と同等だ。が、こちらも密かに熱を上げるマイクが着かず離れず、然して傍にいる。
「エリカの横恋慕は、愛情渇望のサインだったのさ」
両親はそれぞれ国の大事を担う者の側仕えだ。が、その愛情が必要な時の大半で、代役がいない仕事に勤しむ母親のその母性に、特に飢えていた。伯父のマイクに対する求愛行動は、寂しさの表れであり嫉妬でもあった。
「人が持つ愛情とは、性愛だけではないという事の一例だ」
「またそんな事を──」
「それにしてもクレアのヤツ、ホント気働きの出来んヤツだな。夜食の一つも用意出来んのか」
と、文句を言いながらも、足を組んで堂々と上座に鎮座し踏ん反り返っている紗生子が、何処からともなく持ち出した瓶詰めのミネラルウオーターを、手酌でグラスに注いでは啜っている。
「勝手に飲んでもいいんですか?」
「今の我らは客分だ」
安定飛行に入り、着替えも済んだその女が着込んでいるのは、俺と同じ米空軍の繋ぎだ。全くこの女は、何を着ても卒がない。
「それにしてもVIP専用機とは名ばかりだな。ワインの一つもないとは」
「まさか飲むつもりだったんで!?」
「次はいつ飲めるモンだか知れんしな」
賑やかな言動の裏側で、周囲の場面は万事流れるが如く変わり、着々と死地へ近づいて行く。
流石は空軍仕様のVIP機としたものか。経由地なしでやって来たのはホーミー空港だった。
「休めたか?」
「ええ」
着いた先の時刻は、横田を発った時より五時間前という、毎度の事ながら訳が分からぬ展開で、
「殆ど目を瞑ってただけだったな」
という、紗生子の愚痴は分からないでもない。俺は何処でも寝られるし、図太い神経の紗生子もそうだろうが、この女は何役もこなす多忙の女だ。俺がいびきをかく横で、きっと仕事をしていたのだろう。
「こんな事なら本気でイチャついていた方がマシだったというものだ」
「また訳の分からない事を──」
別に何かを主張するつもりもないのだが、締め切られたハンガーの中で俺達の足音が嫌に耳につく。陽が落ちたばかりで昼間の喧騒がそれなりに残っていてもいい筈なのに、始めからそんなものなどなかったかのような静寂の中で、紗生子の無遠慮な戯言が反響する事の違和感。しかもそれが日本語という場違いさの中で、ライトを当てられた二つの見慣れた機体を眺める数人の人影の一つが、振り向き様に言った。
「相変わらず無節操な事で何よりだ」
時と場所を変えまたしても、紗生子に負けず劣らずの、典型的なブロンド美人が淀みない日本語を発する。その場違い感は俺達以上かも知れないその主は、外ならぬアイリスだ。
「You again?(また貴様か?)」
以下、英語になると、他の面子がやはり振り返り、一様に目で笑って見せた。インテリとテックを見間違う事はないが、その隣にいる二人は見覚えがない。一人は八〇前後の短身痩躯の老人だが、一見して矍鑠たる元気印。もう一人は中肉中背の、温厚が看板を背負って歩いているような五〇過ぎの男だ。その優しげな男を見た一瞬後、俺の脳が記憶の片隅にあった思いがけない人物の名を拾い上げた。
「セカンドジェントルマン!?」
和訳では【副大統領夫君】と呼ばれるその人は、その名を冠せられる前は倒産したばかりのイーグル社で最高技術責任者だった人で、嫁さんの仕事を支える今は、半分公人である事を鑑み休職中だった筈だ。
「ここでその名はご勘弁ください、少佐」
外見の印象通りの、実に物腰柔らかなその人の挨拶に、続け様で隣の老人が反応する。
「アンタみたいな優男が、あのじゃじゃ馬に跨っておったとは!?」
話には聞いていたが、と声を失うその人を、
「あ、父です。元会長でして」
と、やはり夫君が気を利かせて説明をしてくれる。そこから俄かに何かが始まり始めたその時。
「自己紹介は後でいくらでもしろ。今は移動と、その前に契約だ」
"契約?"
目だけで挨拶をしたばかりの、俺を含めたパイロット三人の声が見事に被った。
「何も負けた時の保証をしろと言っている訳じゃない。どうせ負ければ全責任を負わされる戦犯だ。それは理解している」
「勝った時の褒美の催促という訳か」
早くも理解を示したアイリスが、周囲に先行して答えを引き出す。
「──が、それは少し都合が良過ぎやしないか? 日本側はこの作戦で帳尻を合わせる話だった筈だ」
とは、一連の騒動における、日本側の処分の著しい遅れと軽さを言っているのだろう。確かに日米中がそれぞれの国で後始末が任されているとは言え、大々的にその捜査が報じられている米中に引き換え、日本のそれはゼロ回答に近い。互いの国益に只ならぬ悪影響を及ぼした悪党の処罰の事だ。にも関わらず、日本側の処分の甘さは際立つどころか殆ど無罰。表沙汰で処理していないのだから当然なのだが、その帳尻合わせのための裏取引の結果がこの現状という事であって、日本側を代表する紗生子が米側に褒美を求める事は、
「珍しく筋の通らん事を言うじゃないか」
と言うアイリスは正しい。
「私がそんな間抜けを口にする訳がなかろうが。大体貴様、議会はどうした? 副大統領がこんな所で油を売れるとは流石はアメリカだな」
「一言言えばこれだ」
と言うアイリスの言い分も正しければ、今度のそれは紗生子もまた頗る正しい。何と風邪で議会を休んだとかで、つまり、ここへ来るための詐病だ。
「何かあっても下院議長がどうにかするだろう。やれやれだ全く」
昨秋本国で行われた中間選挙で、アイリスが属する現与党協和党は下院を守る事が出来なかった。その議席を奪ったのは、外ならぬ実兄アーサーが党の顔になっている盟主党だ。その流れで下院は、年初の議長選でアーサーを選出。大統領権限継承順位で、副大統領兼上院議長に次ぐ第二の要職だ。協和党はお約束通りの上下捩れに持ち込まれ、難しい政権運営を強いられる事になった。それが分からない者などいない状況下で、
「こんな所で戯れている貴様のせいだろうが」
などと、わざわざ傷口に塩を塗るような紗生子の口の悪さは、もうどうしようにもない。
「それとも何か? 本当に旦那だけを見送りに来たとかぬかすんじゃなかろうな?」
「相変わらずせっかちなヤツだ」
「下働きの下々は常に時間に追われるんだよ!」
皆まで言わせるな、と言いたい放題の紗生子がようやく口を閉じたところで、アイリスが真顔になった。
「諸君にはまたしても過酷な任務を負わせる事となり申し訳ない。せめてもの償いとして──」
激励を伝えるために顔を見に来たのだとか。
「作戦に携わる米国人の褒美は私が責任を持つ。日本側は知らんぞ」
「相変わらずケチなヤツだ」
「筋の話だ」
「分かってるさ。日本人は私がその役だ。その代わり米国人の褒美は貴様が保証しろ。無惨に死ぬかも知れん連中だ。精々期待させてやれ」
要するにこの場は、紗生子以外の俺達の褒美の保証を取りつけるがためのやりとりだったらしい。
相変わらず──
分かりにくいというか素直じゃないというか。全くもって天邪鬼だが、そういう事を気にする紗生子は嫌いじゃない。
「──という事なんだが、誰からでもいい。何でも言え」
とアイリスが誰にともなく口にすると、残りの男達が一様に顔を見合わせ始めた。
「何でもって事なら──」
口火を切ったのは、やはりテックだ。が、やはりとんでもない事を口にする。
「どっちかを一夜妻ってのは──」
"ごほっ"
それを口にした本人以外のその場の男共全員が噴き出すが、女二人が顔色を変える前に、
「──まぁ冗談として」
と、さっさと畳む。思いがけなくも最初にまともな事を口にしたのは、旦那さんだった。
「僕は出来れば、この先もずっと君と共に人生を歩んでいきたい。それだけだな」
一つの不祥事で会社を倒産させた創業家を出自とする夫が、果たして夫君のままで居続けられるのか。世間の答えはまだ出ていない。が、
「ボブ──」
急転直下で湿っぽい声を漏らしたアイリスの中では、個人的な答えは出ているらしい。
それにしても──
一見して素朴で、如何にも機械ヲタクを絵に描いたような、地味なおっさんがアイリスの旦那だとか。色々と世の中分からないものだ。
「勿論、君が構わなければの話だけどね」
「そんな事──」
アイリスの後の句は声にならず、いきなり熱い抱擁を始めた二人が、周りを放置して喘ぐようにお互いの口を吸い始めたではないか。
「うわ──」
つられて思わず声を漏らす俺の目の前で、
「これって、俺が言った事とあんまり変わらねーんじゃねぇか?」
「やってくれるなぁ」
テックとインテリが口々に勝手な感想を漏らすのだが、そもそもが夫君が褒美を口にするという事は、この人も作戦に加わるという事のようだ。
「ちっ」
そんな俺の横では、紗生子があからさまな悪態をつく。
「見ちゃおれんな」
という事は、
「まさか会長も、ですか?」
「会社が潰れて暇してるからなコイツらは」
俺の独り言のようなものを如才なく拾う紗生子の口は、何処までも辛辣だ。
「イーグルの倒産でメカニックは不足している」
プロジェクト遂行中の現有機体のメンテナンスも、イーグルとしてはこれが最後だったとかで、現場の人手不足を経営首脳たるこの二人が担ったらしい。
「元来、経営者などと向かん職人肌だ」
戦闘機開発にかかる部分を、唯一まともにデスクワークが出来る社長をして倒産前に分社化させ、辛うじてプロジェクトの継続が決定。が、旧イーグル社は事実上そのプロジェクトを担うだけの会社となり、人手不足と同時に現場の混乱は否めず、その収拾のために旧社長を除く二人のドロシー乗艦が決まったという。
「軍人が乗り込む分は、まぁ仕方がない。それが仕事だ。が──」
技術屋の二人はあくまでも民間人だ。そうした人々が戦地に帯同しない例がないではないが、今回のような裏ミッションにそれは余りにも酷というもので、
「それを強いる国家とは、ろくでもないな全く」
だからせめて、褒美の要求なのだとか。
「勝った時の事しか保証出来ないのが申し訳ないんだがな」
「それは仕方ありませんよ」
何はともあれ、
「長いぞ貴様ら!」
放っておいたら延々抱擁が続きそうな、思いがけなくもアツアツの夫妻だ。確かに今回も際どいミッションになる訳で、それに夫を差し出す妻の気持ちは理解出来る
──んだが。
一応何人かの人目もあるというのに、明らかにチグハグな容姿のデコボコカップルの、その情熱の凄まじさをまざまざと見せつけてくれる。
「これでよくぞ節操を語ってくれたものだな」
隣の女のよく回る毒舌が、
「場を弁えろクソ!」
と、単調な悪態に変わるや否や、突然香気の塊が切迫した。言うまでもなく紗生子だ。
「な、何やってんですか!?」
「しれた事だ!」
見せつけられて、何かを抑え切れなくなったらしい。その玉顔の花唇が俺の拙劣なる口を奪おうとするのを、すんでのところで紅頬を挟んで食い止める。
「主か──提督! お、落ち着いて!」
詐称しているとはいえ、今の紗生子の立場は海自の提督だ。が、目の前で副大統領が熱烈に口を吸っていては、説得力も何もあったものではない。
「売られた喧嘩だ! 買わなくてどうする!」
「何でこれが喧嘩になるんです!?」
「いいから手を放せ!」
「そう言われて放す間抜けがいる訳ないでしょ!?」
「目の前にいるだろうが!」
「じょ、冗談じゃありませんよ!」
手の力もいるが、その誘惑に負けない気力の方こそ肝要だ。何せお互いの息がかかる程の至近距離で、つい目が泳ぐ。グググ、ギギギと無様な擬音のようなものが漏れ始めると、あぶれた男達のうち、卑猥な口火を切った当の本人が嘆息してみせた。
「まぁアンタ方がお熱いのも分かったんだが、面子も揃って日も落ちた事だし──」
そろそろ移動しませんかね、と呆れた風のテックの視線が、二機の向こうの薄闇に向けられる。
「あっ──」
ハンガーの奥となるそこに機影があるのは分かっていたが、よく見ると既存のどれにも当てはまらない、然して見慣れた機体がもう一機。ついそれに目を奪われた瞬間、思いがけない再会に気が緩んだせいで同時に口も奪われ、状況処理が追いつかない。
「ヒ──」
──XF-39!
約一年前の海外出張で失われた筈のそのじゃじゃ馬の名を叫びかけたところで、眼前のじゃじゃ馬に口を塞がれ、言葉が掻き消されてしまった。




