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南海のリゾート(前)①【先生のアノニマ 2(中)〜31】

 年が明けて元日。

 紗生子はやはり、朝から出て行った。耐G練成だ。

 昨日の大晦日は、怪しくなりそうな雰囲気の中で、思いがけず本業方向にシリアスな展開となったはいいが、それを開示する肝心要の紗生子が轟沈。結局、正月一番メシのネタの如く聞かされた作戦概略は、一言で、

「何か、尻拭いというか──」

 そんな内容だった。いつもは秘密主義の紗生子の説明によると、それは逃走中の犯人、つまりは万来(ワンライ)グループCEO来勇(ライヨン)一派の確保という、あくまでも漠然とした概略であって、その手段や方法の詳細は不明だ。

 ──が。

 紗生子の耐G練成(やっている事)が、自ずとそれを物語るというもので、また身体を張った際どい作戦になるのだろう。紗生子をして、命ずる事をためらい、悩む。それ程の、

「──中々のしわ寄せというか」

 紗生子は紗生子で、悩みは尽きないといったところだ。

「──それだ」

「はあ?」

「作戦コードさ。ジーザス(クソッタレ)作戦いくぞ」

 悪態の一つも吐かないとやってられない。その心境は理解出来るが、

「そんなんでいいんですか?」

 作戦コードにそれをぶつけてもいいものか。

「どうせ極秘作戦だ」

 誰の耳目にも触れないのであれば関係ない、という論法は、それをさせる何処かの誰かへの当てつけだ。紗生子のネーミングの辛辣さは、今に始まった事ではない。

「それは、そうですが」

 それに向けて、紗生子は冒頭の通り出掛け、俺は一人学園に残って留守番がてら、日々のトレーニングに勤しむ。

 日米中の政権を揺るがした陰謀論者の企ては、法体系の違いこそあるものの各国で極刑の類いの罪である事に変わりはなく、米中の調査や処罰が先行する中で日本側が遅れ気味なのは、煮え切らない御国柄としたものだ。が、いくら各国の犯人の処罰が各国に委ねられているとて、内乱とか外患誘致などで論ぜられる陰謀の罰が遅々として進まないなど、恥も外聞もあったものではない。その実裏ではCC主導で進んでいるのだが、各国の政権中枢は裏取引で納得していても外野は当然それを知らない訳で、旧年末まで各種メディアがこぞって一連の大事件の謎めいた収束に盛大なる疑念を盛り込んで報じたものだ。「尻拭い」とはまさにその延長線上の事であり、今思えば日本という国家は、表向きではぐずぐずしているその裏で、今回のような裏取引によってしたたかに生き残り、成長し、国益を得てきたのだろう。

 恐らくは──

 過去の先人達の中にも、今の俺や紗生子のような思いをしてきた人々が、

 ──いたんだろうなぁ。

 そんな事をボヤボヤと考えながら、淡々と休業期間を過ごす中で、夕方になると帰って来る紗生子は、やはり家事を忘れない。

「おせちを貰って来たぞ」

「貰ってばかりで、何かすいません」

 三段重ねの重箱が二つ。高級な漆塗りを思わせるそれに、何れも太陽を象ったような丸が連なる金色の紋様が入っている。

「何か、立派な御紋のようですが」

「高坂からの差し入れだからな。今時家紋入りのおせちだ」

 九曜(くよう)紋、というらしい。

「舌が肥えそうで怖いです」

 つい本音が出てしまうと、紗生子がケタケタ笑い出した。

「君といると、世の中捨てたモンじゃないと思えてくるな」

「はあ?」

「気にするな。どうせ余り物だ」

 食い物など、俺にとっては殆ど栄養補給の役割でしかない。単純に食えて、それなりに栄養があって、身体の健康を損なわなければそれていいのだ。

「私でもいざとなれば虫でも食らう。要するに、その心構えさえ出来ていれば大丈夫だ。少々美味いモンを食いつけても、節食が忘れられないうちは問題ない」

 確かに、陣中食もそれなりに食ってきているだろう紗生子なら、説得力を帯びる。

「学園に来てからというもの、食事に困らなくなったので、何というか──」

 自堕落になりそうで不安というか。

「不安も使い様だ」

 大抵の場合のそれは、身に迫る危機がもたらす損害・損失を起因とするもので、考え方によっては、それに立ち向かうための緊張感や、経験値・能力の維持にも繋がる。と、言われても。

「そんなモンですかね」

 凡俗の俺などは、すぐ易きに流されそうなものだ。

「大体君がこれまでに体得してきた記憶や感覚は、こんな平穏で簡単に消えるような柔なモンじゃないだろう?」

「──まあ」

 硝煙と血の臭い、野晒しの死体、泣き叫ぶ子供、見て見ぬ振りをする大人、野卑た笑みを浮かべる下衆。人生の何分の一かを、俺はそんな最低の環境下で食って生きてきた。食う物など、己の生命維持以上の価値など見出せない程に荒んだものだ。後の人生は、食うにも困り、助けばかりを求めていじけていた軟弱な生活。性根を叩き直され、自然の恵を自ら調達し、最低限の調理で単純に食す修行僧のような精錬な生活。延々続く緊張感の中で、レーションを掻き込む生活。思い返すまでもなく、温かい物を穏やかに食うなど今でしかない経験だ。

「──そうかも知れません」

 そんな境遇を、昔はどうあれ、今となっては得難い経験だと思っている。別に怨念も、自負も、誇張もない。幸運も不運も織り交ざった振り幅の大きい人生の中で、人間社会における容赦ない理不尽を身をもって思い知らされた。それらは良くも悪くも、俺の懐をより深く、肉厚に、屈強に、それでいてしなやかにせしめた貴重な経験だ。それらは今の穏やかな日常の中で、より先鋭化した記憶として、俺の何処かで渦巻いている。確かに身体が忘れる事はないだろう。

「逆に君は、緊張感をほぐした方がいいぐらいだぞ」

 そうだ、とまた独り言ちた紗生子が、

「寝る前に少しつき合え」

 と言った。

「何ですまた?」

「別に変な事じゃないさ」

 最近の紗生子の思いつきは、その言に相反する。風呂メシの後に待っていたのはマッサージだった。

「さあ」

「いや、さあって──」

 居間に敷かれた何かのマットの上に、部屋着でうつ伏せになった紗生子と、それを上から眺める俺。

「──俺に揉めと?」

 それで俺がほぐれるという論法に、今一つ理解が追いつかない。

「流石に身体がバキバキに凝っていて敵わん。私は身体を揉みほぐしてもらって楽になりたい──」

 で、俺はその女体を揉みほぐす事で心がほぐれるという、

「どうしていつもセクシャルな方向に!?」

 訳の分からない解釈だ。

「別に妙なところを揉めと言ってる訳じゃない。本当に疲れてるんだ。ぶつくさ言わずに揉んでくれ」

「いや、しかし──」

 流石に夏場のネグリジェではないが、それでも質感の良さそうなパジャマはシルクだろう。それが嫌に身体にまとわりついて、紗生子の全体の輪郭を強調してくれている。この女の前面の美しさは最早俺が語るまでもないが、背面は背面で改めて何とそそる艶っぽさだ。

 こ、こんなの──

 見るだけでも垂涎ものなのに、間違って少しでも邪気を持って触れてしまったら。たが(・・)が外れるどころか瞬間でぶっ壊れて、どうにかなってしまうのではないか。

「マッサージが不満なら、私はそれ以上(・・・・)でも一向に構わんが?」

「ご、ご冗談を」

「君は良くも悪くも能動的に人生を切り開いてきた筈だ。本当にぐずなヤツを、私が傍に置くとでも思ったか?」

「ぐむぅ」

「何も力む事はないだろう。遠慮はいらんぞ」

 仕方なく、最も怪しくなりそうにない足の裏を、拳でグリグリ突き始めると、

「お、いいな。中々上手いじゃないか」

「昔、養父にやらされましたから」

(シー)さん直伝か。もっと早くに頼めばよかったな」

 などと、俺の神経をことごとく逆撫でするというか、なぶってくれたのも束の間。物の数分で大人しくなった。寝落ちしたらしい。

 や──

 やれやれだ。やはり疲れているのは本当なのだろう。本気でまた、俺の後ろ(機体)に乗ろうとしているようだ。

 大人しくしてりゃあ──

 今夜の魔女も、実に可愛らしい寝顔をしている。大晦日同様、また抱えて紗生子の部屋に連れて行き、ベッドの上に仰向けに寝かせてやると、やはり金縛りにかかって動けなくなった。

 ク、クソ──

 何の術だ。生唾が込み上げてきて離れ難い。術でも何でもない。単に脳を惑わす芳香と、身体の丸さと柔らかさにやられているせいだ。

 ──ううぅ。

 寝込みの女をどうこうするなど、最低の男のやる事ではないか。これを堪えるのは本当に何かの修行のようだ。それでもどうにか堪えていると、女の鼻息が小さく揺れた。

「──ん? 何だ、寝ていたか」

「は、はい」

 いつもは重厚な凛々しさを伴う迷いのない声の持ち主が、聞いた事もないような

 まどろんだ声を出すとか──

 反則にも程がある。

「気持ち良くて、つい、な」

 それだけの疲労は本当なのだろう。せめて、

「ゆっくりお休みください」

 その本心を一言添え、罪を重ねる前にさっさと逃げようとしたところで、力なく手を取られた。

「今夜はないのか?」

「は?」

「お休みのチューだ」

「げ」

 バレていた。やはりその辺りは紗生子だという前に、大体がこの女は百戦錬磨のスパイだ。隙があるようでない、何かの名人と同じだ。が、

「そんなに驚く事はないだろう。君の前だからこそ、このザマを晒すんだぞ」

 その言葉に嘘は、

 ないようにしか──

 見えない。まどろみが我慢出来なくなったのか、いつになく穏やかな目が力なく閉じてしまうと、後に薄笑みを浮かべる玉顔だけが残る。

 ──ダ、ダメだ。

 こうやって世のバカな男共は、女の魔力の前に落ちるのだろう。仮にその女が敵だとしたら、俺は次の瞬間にも死ぬのだろう。が、これはこれで死んでも悔いはないのかも知れない。ぐずぐずとそんな事を考えていると、目を閉じたままの紗生子が失笑した。

「疑られるのは私の不徳の致すところだな。まさに身から出た錆だ」

 一抹の寂しさのようなものと共に、女が顔を背けるのを、俺は慌てて追いすがった。不格好だが、その機を失うより余程マシだ。その紅唇にどうにか吸いつくと、あっという間に息をするのが煩わしい程の耽美に溺れそうになる。

 ここで──

 どちらかが息継ぎに喘いで、怪しい声の一つでも漏らしてしまったら。一気に高まる肉弾戦の気配に、慌てた俺は音を立てて紗生子から離れた。傍目から見れば、何とも忙しい腰抜けだ。それでも紗生子はまどろんだままで、

「──今夜もいい夢が見られそうだ」

 と、最後に満足気な溜息を吐いたかと思うと、一定のリズムでその胸元を上下させ始めた。今度こそ、本当に寝る体勢に入ったらしい。

 お、女は──

 恐ろしい。まるで自制が利かなくなるそれは、何か悪い薬のようだ。気がついたら目を瞬かせていた俺は、しばらくの間、目の前で熟睡する紗生子を見ながら動けなかった。今度のそれも初めて経験する事だが、どうやら本当に腰が抜けたらしい。


 こんなただれた日々を過ごす事数日。生徒達は冬休み期間中だが、教職員は仕事始めから仕事だ。その日を迎え、朝から主幹教諭室(CC学園司令部)でせかせかと始業前の小仕事に勤しんでいると、いきなり重大な変化が待ち受けていた。文字通りの重役出勤の紗生子に連れられて入室して来たのは、

「お久し振りです」

「佐藤先生!?」

 の変わらぬ美相で、つまりはその人の原隊復帰だ。

別用務(二重スパイ)が一息ついたんでな。今日からまた合流(・・)する事になった」

 と、紗生子が言う佐藤先生の合流とは、我らが姫君(アン)の護衛にして、その現地責任者である紗生子の監視。その被対象者が自ら説明する事の皮肉というか、自虐というか、だ。昨年春、表向きには病気療養で突如休職したこの気さくな英語教諭は、その実FBIの公安部員という、怖い人でもある。

「お元気そうで何より──」

 と返そうとして、不意に気がついた。

「──どうしました?」

「いや、佐藤先生って、表向きには病気療養でしたよね」

 その病名は何なのか。まさか俺の仮病のように、

「いんきんたむしとかしらみとかじゃないですよね?」

 あたかも名誉を害しやすい、それらではないだろう。

「一々根に持つヤツだな。そもそもそれは、君を守る意味合いもある事を理解──」

「してますよ、そりゃ」

 俺を好むという、一部のマニアックな女生徒達からその気を削ぐための、故意の醜聞である事は承知済みだ。そんな配慮を要しない佐藤先生の病名はどうするのか。

「話を合わせといた方がいいと思うんですが」

「どうします?」

「そうだな」

「考えてなかったんですか!?」

「君のように隙がない佐藤には、考える必要がなかったって事だ」

 とは、甚だ失礼だが、まあ事実だ。

「期間も長かった事ですし──」

「面会謝絶を要する治療だと報告していたからな」

「え? まさか──」

 今の今まで学園上層部に詳細を報告していない、という事らしい。

「私が窓口になれば、そんなモンだ」

「それは何とも──」

 珍しく適当というか、杜撰というかだが、よくよく考えれば、学園には理事長もいれば校長や教頭もいる中で、揃いも揃って何れも主幹の紗生子に殆どの権限を移譲している。加えて、事実上の学園支配者は相談役だ。当然事情は先刻承知な訳で、放置で全く問題ないという事になる。

「──まぁ、そんなモンですね」

 最後の俺がようやく納得した前で、二人の女が本格的に悩み始めた。

「うーむ、どうしたモンかな」

「あ、私も少し男性目線が煩わしかったりするんですよねぇ」

「それなら腫れ物(・・・)にしてしまうか」

 ──おいおい。

 今頃という呆れ具合だが、一々詮索されるのも面倒だという事で、デリケートな「心の風邪」に決まったのは、年頭の職員会議の寸前とは、

 ──誰も思いもしねぇだろうなぁ。

 何はともあれ。昨年中、思いがけない所で見かけてはいたが、しばらく振りの再会だというのに、短いやり取りの中でも確かな安定感を思わせる佐藤先生は、流石と言わざるを得ない。


 そんなこんなで、再会があれば別れがあるのも世の常としたものか。冬休みが明けて、生徒達に紛れてアンやその警護体制が完全に戻った中で、一人帰って来なかった者がいる。

「いつもすいません」

「いやいや。皆さんのお陰様で、最近は出番も殆どないですし」

 と、課外の校務員室で佐川先生のコーヒーと共に一息入れている中で、

「こうして頂けるコーヒーが、平和の証ですねぇ」

「そうですねぇ」

 と、白々しく大人の男の真似をするJRC部の面子が二人になっている。いないのはエリカだ。

「二人になっても部って言えんのかよ?」

「同好会だってば。副顧問のくせにそこを間違える?」

「やかましい」

 改めて、いつもながら一見してギャルにしか見えないワラビーだが、実は二〇代というアンの最側衛エージェントが、幽霊船(ドロシー)のインテリとねんごろだとか、外務省CTU(国テロ情報ユニット)員だとか。

「年末年始は何処行ってたんだ?」

「教えたげなーい」

「まさかお前、またインテリさんと──」

「さぁねぇ」

 今を思えばこのギャルは、

 ひょっとすると──

 ドロシー元艦長にも触手が伸びていた陰謀論者の動きを探るために、インテリに近づいたのではないか。

 そうでも思わねぇと──

 精悍な体躯を誇る頭脳派と、見てくれのよいピチピチギャルとはいえ、一見年端もいかぬワラビーがくっつくとか、

 ──ありえねえ。

 今更ながらに、生真面目なインテリにどんな色仕掛けをしたものだかだが、考えただけでうっかり鼻血が出そうになる。そんな色々と有り得ない事だらけの、何とも散らかった女の隣にいるのは、

「何にせよ一仕事(・・・)終わった事だし。三年では何やろーか」

 と、早速不穏な事を呟くアンだけだ。

 この約一年間、【J()oint R()angers of C()aretakers】、つまり【用務員の共同隊員】という意味合いの、聞き慣れない同好会を結成・活動した三人娘。表向きのそれは、学園地下の校務員室に入り浸る大義名分を得るための隠れ蓑にして、その実態は日米中三つ巴の秘密外交を担うプロジェクトだった。

 佐藤先生の原隊復帰と入れ替わりで国へ帰った三人娘の一人であるエリカは、アンの極秘留学にかこつけて本国を害せんとする、または実権を掌握せんとする陰謀論者達の追跡のため、一時的に二重スパイとなった佐藤先生の代わりだった訳だ。

 学園での身分は交換留学生だったその娘の事でもある。何かと取り残され気味のお飾り副顧問とはいえ、

「エリカの留学中止の理由はどうした?」

 その表向きの情報は、触れておかなくてはならないだろう。

「つまんなくなったから帰ったって事で」

「そんなんでいいのかよ」

「いいのよぅ。どうせ取ってつけたような交換留学だったんだしぃ」

 軽々しく言い放つワラビーによると、現実に当学園と交換した生徒は居なかったらしい。

「──それもそうか」

 大体が、小中学生年代(ローティーン)の少女だというのに、本来はMITの学生という秀才だ。プロスポーツのトレードではないが、あくまでも一対一の交換留学というのであれば、それに値する生徒など。学力だけならまだしも、既に国益を預かるような任務を持つ生徒など。日本では考えられない事だ。現副大統領の補佐官が母だとぬかす、何処か宿命染みた使命を既に帯びたスペシャルパーソン故のピンチヒッターは、その終盤には敵方への情報流出騒動こそあったが、よく務めたといっていい。そうはいっても、まだ子供に類される年齢だったのだ。事もあろうに、伯父である現学園正門守衛のマイクを、任務上の(ボス)であるアンと取り合うという恋のライバル? でもあったのだが、それはご愛嬌だったと言ってもよいのではないか。勝手にそんな事を思う俺の目線の先で、

「──あんなんでも、いないと寂しいモンねぇ」

 と、その元ボスが漏らした一言は、憎まれ口の裏側に親密さが透けて見えたものだ。MITに戻った後のその聡明な美少女が、隣のハーバードに留学中の元交渉相手安美鈴(アンメイリン)と仲良くやっているとは、後日風の便りで耳にした話。

 陰謀論者を駆逐しつつある一方で、日米中三か国の穏健(ハト)派、今となっては現政権主流と言う事になるだろう者達よる建設的な外交交渉は、子供達の身体を張った努力の甲斐あって、ここへ至りようやくその道の大人達へと移行した。俺などは護衛に勤しんでいただけで、子供達による下地の内容など全く知る由もない訳だが、せめて無事に交渉の引継ぎを迎える事が出来たという安堵感から、

「何がどうなるモンですかね?」

 などと、年長者のプライドもクソもあったものではない知識のなさだ。

「その年まで何考えて生きてきたのよぅ」

「先生ってひょっとして、エリカの代わりに帰った方が良くない?」

 その容赦ない返事はもっともで、彼らの一世代上の人間が体たらくにも、

「ぐげ」

 と、訳の分からぬ擬音のようなものを漏らすのみ。せめて、

「相変わらず手厳しいですなぁ」

 と苦笑いする佐川先生のゆとりのようなものは、若輩の俺にはまだ備わっていない。

「ウソウソ」

「そ、ジョークジョーク」

 すかさずそんなフォローを入れられるのが更に情けなさをあおるが、

「私もよく分からないんだけど──」

 ここ何年かの仲違いを是正するんじゃないの? と、嘆息したアンが、その最後に呟くようにつけ加えた一言が、直近の俺に訪れる重大な変化に繋がる事を、この時の俺は当然知らない。

「──失ったものも大きいんだけどねぇ」

 そんな中で佐川先生は、鳥の模型をいじくり回している。俺の目に気づいたその人が、

「あ、最近時間があるんで、ちょっと工作をですね──」

 と、柔らかな笑みを浮かべたその裏側で、やはり重大な使命を負っていた事を、やはりこの時の俺は知らない。


 正月に紗生子から聞かされた極秘作戦はいつの事になるのか。概略こそ聞いたものの詳細はまだ分からない中で、紗生子の耐G練成は続いていた。俺やマイクと同様、普段から課外になるとトレーニングをしていた紗生子だ。ランニング派の俺に対して水泳派の紗生子のそれが、G耐性を高めるために絶対的に必要な心肺機能を育てている事は言うまでもなく、

 筋肉のつき方も──

 プールサイドから無理矢理見学させられているついでに見る限り、

 ──申し分ない。

 と思う。大体が外見不相応の怪力を誇る紗生子だ。腹筋も大腿筋も、それに見合うものを備えている事だろう。後はひたすら、実戦に近い環境下での経験値を積み上げるだけだ。

 冬休みから続いている紗生子の外出癖(・・・)は、三学期が始まっても相変わらずで、流石に朝から出掛ける事はないが、課外になると真っ先に出て行き、日没後しばらくして帰って来る。その足で軽食を摘みながら俺を引き連れ、水泳部員達がとっくに帰宅した後の夜のプールへ向かい、一人黙々と泳ぐ。そんな日々で、俺が出来る事はマッサージくらいだった。トレーニングの後に風呂と晩メシを手早く済ませ、人心地着いた後で寝る前の紗生子が、こっそり俺のいる舎監室にやって来る。

「まるで夜這いみたいだな」

「いいから早く入ってくださいよ」

「冗談の通じんヤツだ」

 俺が使っている煎餅布団に横たわらせると、後は一心不乱にその玉体に取りつくのみ。ぐずぐずしていると脳内が雑念で支配され、とても触れられなくなってしまうためだ。

「いつもスマンな」

「いえ。俺が出来る事はこれぐらいですから」

「しかし本当に上手いな」

 今まで施術を受けた事もあるそうだが、

「君は一番上手い」

「受けた回数が少ないだけでしょ?」

「これでも私は、客観的に人体が理解出来る身だからな」

 医学的見地として、トレーニング前後で計測するデータは言うまでもなく、体調的にも翌朝の身体の軽さが半端ないとか。

「肌ツヤもいい。コイツらは疲れに素直だからな」

 と、仰向けの紗生子の片手が、自らの頬を軽く叩くそれはすっぴんだ。確かに透き通るようなそれは、推定四十路半ばの実年齢を感じさせない瑞々しさに見える。

「そ、それは、マッサージ師冥利に尽きます」

「ちゃんと史さんの技を継いでいるじゃないか。いや、これはそれ以上だぞ」

「受けた事があるんですか?」

「遥か昔にな」

 男嫌いの紗生子が、マッサージとはいえ触れる事を許すとは。一体この女と養父は、

 どんな──

 関係だったのか。名医の類いだった養父と、同じく医者としての顔も持つ紗生子だ。それこそ師弟のような間柄だったのだろうか。

 ──いやいや。

 俺の記憶の養父は、大田舎の(さび)れた山村で隠棲する一介の医者だったのだ。それがハーバードで医者になったような華々しい紗生子と接点を持つなど。

 ──有り得ねえ。

 またしても、新たな謎が出来てしまう。年末に少し分かったと思えば、まるでそれを補充するかのようだ。心地良さそうにしている

 今なら──

 また少しは聞き出せるものか。と、思った矢先。

「君さえよければ、今後とも世話になりたいモンだが──」

 静か過ぎて気まずくならないよう、予めつけていた仮眠室のテレビに視線を移した紗生子が、

「──そうもいかんだろうな」

 と独り言ちた。その視線の先を追っかけると、夜のニュースが米軍需大手の一角であるイーグルコーポレーションの

「──倒産!?」

 を報じている。日米中とも、陰謀論者達絡みのニュースは落ち着いてきていたところへ、このビッグニュースだ。

「まぁ、当然だな」

 米国サイドの陰謀論者は、イーグル創業家一族の鼻摘まみ者だった、件の元伊国大使館駐在武官殿が主要メンバーの一人だったのだ。その出自はよりによって国防を左右する軍需大手で、しかも現副大統領の嫁ぎ先でもある。

「悪い条件が重なり過ぎましたね」

「身内に甘いとこうなる」

 冷たいようだが、まさに紗生子の言う通りだ。信用失墜どころの話ではない。一族に対する調査も当然進んでいるのだろうが、実際のところ鼻摘まみ者以外は無実だとしても、国家転覆に加担した者を輩出した一族に対する世間の評価という事だろう。

 彼の七光大佐は、まずはスパイ防止法で逮捕され、その後の調べで中国タカ派と蜜月だった事実が判明している。白人至上主義者でもあり、多くの人材を幅広く登用する現ハト派政権を嫌い抜いていたらしい。その政権に擦り寄る中国ハト派を叩くため、苦肉の策で結託したのが外ならぬ中国タカ派だった訳だ。

 ここで余談だが、ウクライナ派遣の折に紗生子の後釜でドロシーに乗り込んで来たこの大佐の、その個人的な嫌悪感が俺の身を危うくしたとは、その本人の調査で分かった別の話だ。台湾系パイロットである俺を忌み嫌った彼の大佐が、個人的に俺の素性を中国タカ派に調べさせた事で、それを下請けした万来(ワンライ)グループが俺の正体と所在を掴んだという構図。更にその調査は、その更に前となる尾道の研修旅行の折に、俺のミスで商店街の防カメに映り込んでしまった事を端に発する「嶌令(しまれい)追跡網」を取り仕切っていた高千穂兄により加速。万来と結託するその警視総監由来の捜査情報が、日台二重国籍のまま逃亡していた俺を突き止めるという、これもまた一つの執念の結実だった訳だったりする。

 とにかくしみじみ思うのは、世の中案外狭いという事だ。その狭い輪に拘り過ぎてしまうと、

「下手に庇えばアイリス(現副大統領)のヤツも引きずり込まれる。今は火消しで精一杯だろう」

 アンが言っていた損失とは、この事だったようだ。

「確かに──」

 この損失は大きい。恐らくイーグルは倒産だけでは済まない。地位も名誉も失い、二度と国を相手にするような商売など出来ないだろう。少なくとも、現在一族を構成する者達の存命中というものは、事ある毎に今回の醜聞がつき纏い、彼らの人生を蝕むに違いない。

「副大統領がイーグルを出るという事は──?」

 政治に邁進するのであれば、離婚も有り得るのではないか。

「人の事を気にしている場合じゃないだろう? 例え自分の機体が既にないとはいえ、ドロシー(幽霊船)の連中が気にならんのか?」

「勿論、それもそうですが──」

 ドロシーの存在意義は、次世代戦闘機開発の一字に尽きる訳で、それを一手に引き受けていたイーグル社が抜けてしまえば、プロジェクトは当然瓦解する。

「思えばイーグルは、戦闘機開発で勝てた事がなかった。その最後が倒産とは、不運ここに極まれりだな」

 何度となく後一息のところで、最後の詰めの甘さというか不運によって負け続けた。それがイーグルの戦闘機開発の歴史だ。

「とはいえ、創業家に同情の余地はない。まさに身から出た錆とはこの事だからな。社員は気の毒という外ないが」

 商売気が薄いために売り込みに失敗するだけで、

「折角の技術力が水の泡だ」

 その技術を頼んだプロジェクトだったというのに。その技術を生み出す根幹だった社員達は、

「──どうなると?」

「散り散りバラバラだろうな、当然」

「勿体ないですね」

 せめて、再就職が上手くいく事を祈るのみだ。

「それはいいんだが、手が止まってるぞ?」

「あ、すいません」

 言われて慌ててマッサージを再開すると、早速紗生子が気持ち良さそうに溜息を吐き出しながら、

「まぁ、こうなる事は分かり切っていたからな。当然手は打っている」

 と言った。

「どんな()なんです?」

「それはまたのお楽しみだ。忙しくなるぞ」

 と言うからには、当然俺もそれに絡まれるのだろう。が、詳細を聞き出そうにも、既にウトウトしている紗生子だ。学園の日常業務に加え、本業(CC)は近い将来の国家を左右し兼ねないストレスフルな仕事。その上で、わざわざ好んで身体を痛めつけるが如く、する必要のない訓練に勤しんでいる。首の一つや二つ、もたげたくなって

 ──当然だよ。

 日頃は決して拝めない、その生真面目さのようなものに、何となく身体の芯が熱くなった。改めて俺は、この女の本質が見えていなかったようだ。

 いや──

 見ようとしていなかった、と言った方が正しいだろう。

 ──ホント今更だ。

 せめて今は、明朝の目覚めが軽い事を祈りつつ。俺は一人黙々と、妻の身体を揉みほぐしていく。


 数日後。冬休み明け早々の週末。

 夜になっても紗生子は寮に戻らず、主幹教諭室(CC学園分室)で何事かしていた。

 ──今日はマッサージなしか。

 それまで課外になると外出していたその魔女が、この日に限っては籠っている。

 まあそれならそれで──

 別にいいんだが、と思いつつも、その極上の肉感に馴染み始めた手が、一抹の寂しさを

 ──感じてるか。

 などと、怪しさを帯び始めた舎監室でぼんやりしている時に、得てして事は起こるものだ。甲高い断続音と視野がチカチカ点滅するそれはインカムの非常呼び出しで、発信者が外ならぬ紗生子の事なら、良くも悪くも何事か起きたという事らしい。呼ばれたのは俺の他に、アンとマイク。それぞれが学園内の別の場所で各々活動をしている中、コンタクトにメッセージが入ったその内容は、

"数日分の猿股を準備の上、五分以内に地下駐車場へ集合"

 とある。

 猿股って──

 要するに着替え持参という事なのだろうが、俺とマイクはともかく、アンに五分以内は無茶というものだ。

 ──元気にし過ぎたか。

 弾むような活字の色気のなさはいつも通り。俺の素人あんまをお気に召した紗生子は、それを証明するかの如く高い活動レベルを維持し続けている。

 俺の懸念をよそに、ワラビーに引っ張られながらもどうにか時間内にやって来たアンが、

「五分以内って──!?」

 一体何だとかいう開口一番の文句も何もあったものではなく、問答無用で紗生子の車の助手席に押し込められた。

「定期便に遅れたら面倒だからな!」

 それに合わせて俺とマイクがクソ狭い後席に身を屈めて乗り込むと、ワラビーが一人見送る中で、紗生子自慢のじゃじゃ馬(アルベール)が、小さなホイールスピンの音と共にきびきび走り始める。

「どちらへ!?」

 俺のすがるような声が疾走感につられて後ろへ飛んでいく中で、

「行けば分かる!」

 と手短かな返事は、いつも以上に律動的だ。

 俺と紗生子が同時に学園を出るケースで、合わせて今回はアンもついている。それが着替え携行で定期便とくれば、

 作戦が──

 動き出したという事だろう。

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