最後の年末年始③【先生のアノニマ 2(中)〜30】
中国に、相談役に並ぶ女帝がいる事は既に書いた。彼の国のIT大手【美灯】の会長にして、武則天と畏れられる富豪【武丁香】。その名の通り【Ms.Lilac】の二つ名で君臨するその御大尽には、【安美鈴】という中国現首相を父に持つ孫がおり、その可憐な天才少女と我らが姫君が、米中を代表して秘密外交を展開している今年。国内に限らず海外の行く先々で、それを阻止せんとする抵抗勢力に幾度となく襲撃され、今を思えばその攻防は紙一重の連続だった。特に中国側の手先は、香港が誇る世界的人材派遣会社【万来】グループの闇の中核【軍団】であり、その容赦ない実力行使は紗生子がいなければ防ぎ切れなかっただろう。その悪党の親玉であるグループCEOの【来勇】とは、ミズライラックの実の長男にして、今や美灯創業家一族の汚点の象徴。【Damon Rye】のイングリッシュネームから【Demon Rye】とも称される非道の鬼は、グループのカリスマだった双壁の片割れ【万軍】とその会社を一から立ち上げ、瞬く間に世界企業にまでのし上げた天才だ。その片割れの万軍が、俺のネタを発端に社内の権力争いに巻き込まれて失脚。そのどさくさで暗殺された、とはあくまでも噂でしかなかったが、事実として世の表舞台から姿を消して十数年。
その正体を──
まさかこの場で、紗生子の口から聞く事になろうとは。
「明さんって、あの美鈴さんの護衛の──?」
「君と私が知るその名の男で、身近に存在するヤツが他にいるか?」
「いや──」
今を思えば、見るからに勇壮で立派な体躯を持つその男の顔には、明らかに何かの傷痕を思わせるあざやケロイドのようなものがあった。それが、
「──修羅場の痕という訳で?」
と、思いきや、
「あれは特殊メイクだ。目眩し用のな」
「──CCが保護したと?」
「そういう事だ」
経緯はよく分からないが、それなら変装など御手の物だろう。その技術の粋は、俺自身が今夏の潜入作戦でアンに変装させられた事で、身をもって思い知らされている。俺の記憶の万軍は、野生味と紳士風情が混ざった渋い男だった。確かにそのイメージと明は無理なく重なる。
「元はと言えば、万軍はライラックの懐刀だった。長男の来勇すら知らない手管の一つだったのさ」
「は、はあ」
日本の女帝同様、その手管は多いのだろう。通りで明は、ライラックの心情を理解している訳だ。
「バカ息子の素行を気にした過保護の母親から、直々に御目付役を仰せつかる程の男だ。殺すには惜しい」
それでCCが秘密裏に保護し、頃合いを見てライラックの下へ返した。
「いずれは万来に復帰するだろう」
「万来って、生き残れるんですか?」
表向きの情報では、粛正の嵐の中でグループ運営は完成停止している。水面下の動きは報じられておらず、どうなっているのかさっぱりだ。が、彼の国の事であれば、その水面下の動きは驚く程早い。
「政府や党主導で動いているから、負け組には容赦ないだろうが、来勇は逃走中だ」
確かに大人しく捕まるとは思えないが、そう簡単に逃げおおせるとも
「──思えないんですが?」
「どうだろうなあ」
他方、停止しているグループ内は分裂しており、美灯が創業家一族の責任で資金を投じ、収拾をつけるらしい。それがすぐに出来る程の金を
「──持ってるんですね、やっぱり」
「今や中国の富豪は、日本のそれより金持ちだからな。それに──」
混乱のどさくさで、万来グループの規模は縮小の一途だ。現実に日本法人は、早速高坂が買収した事でもある。後に残るは、
「香港本社と、途上国の現地法人といったトコだろう」
それらは美灯の一部となるか、別法人として新生させるか。その着地点を見定めている段階であれば、
「何れにせよ、万来の名は残らん」
「敗者は全てを失う訳ですね」
「もし結果が逆なら、我らなど真っ先に抹殺されているんだ。敵を憐れんでいては首がいくらあっても足らんぞ」
確かにその通りだ。
「明さんは、どうなるんですか?」
万来をまとめるにせよ、それは万軍としてなのか、それとも明なのか。はたまた別人格として新生するのか。
「どうだろうなあ」
「今のままって事はないと思うんですが──」
「いや、分からんぞ」
意外にも、美鈴が相当お気に召しているらしい。
「物心ついた時からの護衛だ。明は殆ど父親代わり──いや、あるいは──」
「──まさか」
「ん? 何だ?」
「いや──」
その言い淀んたところを、紗生子がいとも簡単に口にする。
「夫婦になるかもな」
「ウソでしょ!?」
「年こそ離れてはいるが、あれらはあれらでそれなりの人間だからな。数年経ったところで明は然程変わらぬ男振りだろうし──」
美鈴の方はそれなりの美形になるだろう、とは紗生子レベルの視点であって、一般的には既に国色天香の片鱗を見せつけている美少女だ。
「美鈴の一族で、明を頼みにする者はいても嫌う者はいないし、後は当人同士の問題だ。これはこれで、将来の展開が楽しみな案件だろう?」
「そんなモンですか」
「ああ、そんなモンだ」
紗生子の病気は置いておくとして、今更ながらによく分かった事は、若かりし頃の俺の無謀な一石は、三竦みとまではいかないまでも、誰しもが躊躇していたところへ投じられた予想外の石だった、という事実。それを投げた当の本人は事の重大さを理解しておらず、静観していた者達からすれば、負う必要のない業を負ったように見えた事だろう。それを侠客だのと褒めそやしてくれたものだが、改めて自分なりに考えたところで行き着く答えは、只の知恵足らずが引き起こした無鉄砲でしかない。全くもって若気の至りとは、こういう時に用いる言葉である事の実感というヤツだ。
それでも──
その無謀にして小さな石の波紋がなかったならば、俺を始め、その周囲を取り巻く環境はまるで違うものになっていたという、これもまた一つの事実。
──俺自身。
今の自分でなかったならば、果たして今頃何をしているものか。
「人生は、不思議の連続ですね」
「だから楽しんだモン勝ちなのさ」
人も自然の生業の範疇の生き物だ。十人十色の世の事ならば、争い事もまた必定。
「──深く考えるな。人として生きている以上、大なり小なり争い事からは免れん。特に我らのように、人の分まで争っているような人種はな」
「とは言え明さん、いや万軍にも相当恨まれてると思うんですが」
「何故だ?」
「だって、相当掻き乱しちゃいましたし──」
ライラックの命で来勇に張りついていたのであれば、失脚前の万来グループを放置するとは思えない。何か策を講じる寸前で俺が横槍をぶち込んで、台無しにしてしまったのではないか。
「──ないな」
それを紗生子が即断してくれた。
「万軍では来勇を止める事が出来なかった。グループ内でのレジオンの拡大がその証左だ。増大する闇ビジネスを、ライラックの懐刀をしても潰せなかったのさ」
「言い切りますね」
「こんな事は本人に聞かずとも分かる。来勇は悪党だがバカじゃない」
行き詰まった明は、思いがけぬ俺の一手で難を逃れた、とか。
「良くも悪くもあの事件を恨んでいるのは、直接的に君の鉄槌を受けた高千穂と、その取り巻きの小悪党。合わせて、その事件を延々捜査させられた捜査本部の連中ぐらいのモンだろう。来勇にとってはグループで独裁体制を築く奇貨となった。一方で万軍はと言えば──」
『目障りだった俺は、消される寸前だったからな』
後の句を継いだのは、他ならぬ本人だった。イヤホンに届く声の主が、コンタクトの中に表示されているが、それを確かめるまでもなく明だ。
「堪え性のないヤツだ」
『これ以上放置していたら何を言われたものか知れんしな』
発信元は米国のケンブリッジになっている。相変わらず、留学中の美鈴につき添っているようだ。
「全部聞かれてたんですかこれ!? 今の今まで!?」
『夜明け前に突然の電話で叩き起こされてな』
いきなり「クリスマスプレゼントをくれてやるから起きとけ」と言われて待たされていたらしい。
「それは、何とも──」
ご苦労な事だが、
「これってまさか──!?」
美鈴とも繋がっているのか、と思いきや。
『お嬢様はまだお休み中だ』
大人顔負けの英才だが、身体はまだ子供とあらば、
『下々の与太話につき合わせて安眠を削る事もない』
という声に、ストレスはなさそうであり、留学生活は滞りないのだろう。
『まぁ俺も眠いんでな。もう一眠りさせてもらうぞ』
プレゼントは確かに受け取った、と言い残した明は、さっさと退場してしまった。
「──何だったんです? 今の?」
「何って、明だろう?」
「事前に教えといてくださいよ」
「それじゃあサプライズにならんだろうが」
この手の事をこの女に言及したところで無駄というものだ。
「実は美鈴さんも聞いてたんじゃ?」
「どうだろうなあ」
「さっきからそれ多くないですか?」
「人生は楽しんだモン勝ちだからな」
真偽は不明だが、紗生子の目口の端は得意気に歪んでいる。
「そういや君にはまだプレゼントをやってなかったな」
と、得意の流れに任せて勢いづく紗生子が立ち上がると、卓の向こう側から覆い被さって来た。後はメシを食って寝るだけの部屋着姿の美女が、しかも俄かに酒気を帯びていて何処かしら怪しくも艶かしく見えるのは気のせいではない。もっとも酒に酔うような女ではないし、こちらも酒など飲んでいない訳で、つまりはこれも聖夜マジックなのだろうか。
「ちょ、ちょっと待った待った──」
危うくその雰囲気に飲み込まれて口を吸われそうになる寸前で、その双肩を押しとどめたその肩の肉感が嫌に丸く柔らかい。更に、得も言われぬ良い匂いが鼻に畳みかけて、気を緩めるとあっという間に怪しい世界に踏み込みそうだ。
「相変わらず米軍人らしからぬ奥手振りだな。遠慮はいらんぞ?」
「い、いや、それで全部うやむやにしようと──」
いう魂胆見え見えなのだが、
「事が丸く収まったとはいえ、いつも紙一重の我らは常に備えておかんといかんだろう。──定期接種だ」
どさくさ紛れにそれを持ち出されると、確かに前回の接種からは時が過ぎているような気もしないではない。
「定期ってどのくらいで──」
「そんなモン、多いに越した事はない」
前のがいつの事だったか、芳香で脳がやられて思い出せないのに、身体の何処かでその高揚感ははっきりと覚えている。
「ううぅ──」
大体が、相手はそんじょそこらの女ではないのだ。煩悩塗れの俺如きが抗える筈もない。俺達を挟む卓の幅は、あって精々一m。それが結界代わりになる訳もなく、対面する紗生子が俺に向かって身を乗り出して求めて来る。そのプレッシャーといったらないが、背丈は一七〇半ばの俺より一〇cm程度低い紗生子の事だ。俺からすれば然程の上背ではないその女の背伸びなど、少し身体を反らすだけで拒否出来る。が、蛇に睨まれた蛙の気持ちが、これ程分かった瞬間もない。
──か、身体が、動かん。
それどころか、迎えに行かないと悪い気にさせられてしまっている。恐るべきはテンプテーションだ。そんな俺を上から見下ろす紗生子が、失笑ついでに小さく漏らした。
「──そう固くなるな。いつも通り任しておけ」
アンから押しつけられた何かの少女漫画に、こんなシチュエーションがあったような気がするが、それは強引だったり、悪戯っぽかったりするイケメンによるものだった筈だ。ときめくお嬢様方の気持ちを、
思い知らされるっつーか──
それをおっさんの身で体感させられる事の、何というか弱さだ。困惑しながらも何処かでそれを求める葛藤が、高鳴る鼓動と作用して身体を焦がす。
「は、はあ」
辛うじて返事をした後、みっともないくらいの音を立てて唾を飲み込んだ。口を吸われるのはこれが初めてではないというのに、これもまた聖夜マジックという事だろうか。震えそうな程の緊張の中で、ゆっくり、じっくりと口を吸われ始めると、緊張感と入れ替わりで途端に何処からともなく獣性が湧き立ち始めた。
こ、これは──
ヤバい。勢いに任せて何をしでかしそうになるそれとの戦いは、まるで何かの修行か拷問のようだ。あっという間に限界点を迎えそうになったところで、不意に良い匂いの塊が俺の鼻先から離れた。
「ふふ、これ以上やったら今にも死にそうだな」
「ぶ、ぶはっ」
と、息を吐き出したところでまた失笑されると、
「免疫はついてきてるんだろうが、まだまだだな。確かに私クラスの女は世界広しといえどもそういないが、もし敵として出くわしたらその様子じゃ一溜りもないぞ」
ハニートラップにかかる可能性は未だ高確率の俺の事。これがそのトレーニングだというのであれば、紗生子のレベルは余りにも
「ハイレベル過ぎて俺には──」
成長の実感などあったものではない。
「とりあえずメシを食ってしまうか」
「そ、そうですね」
「しかし毎度の事だが、君はホント可愛い過ぎてついいじりたくなるな。個人的な感覚としては、殆どモフモフ動物と変わらん」
「モ、モフモフ、ですか?」
紗生子の口からそんな可愛らしさを思わせる文言が出てくる事が甚だ意外だが、言われている事は安定的に失敬だ。
その日はとりあえず、聖夜である事に免じて、それ以上のトレーニングは容赦してもらったが、二人だけの年末は、まだまだ先が長い。
昼間は学園職員と生徒がやっては来るが、夕方になると皆綺麗にいなくなる。日没後には二人切りになる日々が、一日、二日と過ぎていく中で、気がつくと
──意外にも?
何事も進展しないまま俺達は仕事納めを迎え、学園は休業期間に突入。それと同時に昨年同様、完全に二人切りの学園生活が始まった。別にやましい期待感を持っていた訳ではないが、夜を迎える度に妙な緊張感が増す日々を送る中で、本来任務の情勢は本当に落ち着いている。こんな平穏は、軍人としてだけではなく、人生においても経験がない。
──何の前触れなんだか。
逆にその反動が怖くなる、そんな穏やかな日々。学園に籠り切りの俺は、日課のトレーニングに勤しみつつも、アンに押しつけられている漫画本やアニメなどを見てのんびり過ごす一方で、妻の方はというと、毎日何処かへ出掛けていた。いつも決まって朝出て行って、夕方帰って来る。大抵の事はインカムで済ます事が出来るCCの通信システムだというのに、
──て事は?
直に会わないと出来ない事という訳なのか。更に突っ込んだ言い方をすれば、只会うだけで事が足りる訳もないのだろう。
──何なんだろ?
夜の緊張感のせいか、俺の頭は煩悩が渦巻いている。
──不倫か?
そもそもが偽装婚だ。その言い方は偽装身分向きの事であって、プライベートなら好きにすればいいとは思うのだが、それならそれで、紗生子程の女を落とすような男が
どんなモンだか──
気になる。
俺がそちら側に傾けば、妻の方は逆に淡白になったもので、夕方帰って来ては食事も何処かの惣菜だとかケータリングものが並び、晩メシを食った後は予想に反してお互いの部屋で寝る日々で、気がつけば大晦日になっていた。
今や紗生子とアンの部屋の鍵を預かる程に信用されている俺は、妻の言いつけ通り、夕方までにトレーニングを終えると風呂を沸かして待っておく。紗生子が決まって日没前に帰って来ると同時に校内全域にセキュリティーをかけ、交代で風呂に入って夕食。
「折角の年末だというのに、何だかバタついて悪いな」
「いえ。お気になさらず」
俺の方こそ、何だか何の力にもなり得ず、改めて申し訳なく思うここ数日だ。今日の卓上は、年越し蕎麦をメインに天ぷらと煮物、後はお通しのような小鉢がチラホラ。紗生子にしてみれば大した事はない膳が並んでいる。その手性の良さを知っているだけに、
余程、忙しいのか──?
疲労感が漂っているのは気のせいではない。まさに師走とはよく言ったものだが、他人の機微に鈍い俺が、珍しくも一つ気づいた事がある。
「これ、高坂のお膳ですよね?」
一般家庭でも当たり前に食える、極普通の膳の中に、味音痴の俺でも分かる程の品の良さや旨味が込められた、いつぞやに食わせてもらった極みの和膳だ。
「──バレたか」
紗生子がいつになく、可愛げに舌を出した。
「流石は単純な物しか食わない舌だ。味音痴じゃないとは思っていたがな」
「主幹の品でなければ、そうだと思っただけで──」
つまり、ここ何日かのお相手は、恐らくは相談役という事なのだろう。その語尾にうっかり、
「──よかった」
と吐いてしまうと、殆ど反射で紗生子が怪訝な声を寄越した。
「何がだ?」
「い、いや、こっちの話で」
「──って、どっちの話だ?」
こうなると、もうボロが出るばかりだ。
「いや、その──」
この土壇場のどさくさで、
「お、お見合いでもしてらっしゃるのかと──」
以前、それを聞き及んだ事を思い出し、偶然にも存念の半分程度の吐露で済んだと内心安心していると、対面の女にそれこそ反射で切られてしまった。
「一〇八人目はないな」
煩悩の数程見合ってきた紗生子だ。
「強いて言えば、君で打ち止めだ」
とはっきり言い切ってくれたところで、珍しくも勝手に萎れたように見える。
「最後といえば【十纏覆】だな。思いがけず痛いところを突いてくれる」
「罪隠しの煩悩が、何か?」
一〇八番目の、最後の煩悩のそれだ。
「私などは、あの世で閻魔大王に舌を引っこ抜かれる筆頭だからな」
「はあ、まあ」
「いや、そこは否定しろ」
「二人の時に持ち上げても。妙な下心を疑われても何ですし」
「それもそうか」
と漏らすように吐いたかと思うと、小さな自嘲と共に、また萎んだ。
「──どうしました?」
珍しいにも程があるというものだが、
「ん? いや、な」
歯切れが悪い時は、紗生子に限らず重い何かが潜んでいるものだ。
「流石は最後の刺客だと思ってな」
「何の事で?」
「まぁ夜は長い。追々だ」
というと、まずは蕎麦好きの紗生子が、早速それを啜り始めた。ところが食い始めると、口数が減るどころか会話がなくなり、またしても何となしにつけられたテレビの音が、嫌に耳につく始末だ。
「歌合戦も高齢化が進んでいるな。公共放送だけに、世相を反映したモンか」
などと、たまに独り言ちては、何かを摘み、酒をあおる。その回数が徐々に酒に傾くのはいつもの事だが、今夜は特に量が嵩んでいる。
「余り飲まれると、流石にお身体に障るのでは?」
すると紗生子が、思いがけない事を漏らした。
「今夜は酔いたいからいいんだ」
何故──
と聞く程、俺は野暮ではない。酔って隙を作り、俺をその気にさせようなどという見え透いた駆け引きではない事ぐらい、煩悩塗れの俺でも分かろうものだ。
「いくら飲んでも酔えない自分が、これ程疎ましいと思った事もないがな」
と、またあおろうとするその手を、テーブル越しに思わず掴んでしまった。その掴んだ手が僅かに揺れて、遅ればせながら互いの目線が絡む。
うわ──
確かに酔ってはいないのだろう。が、頬の辺りに仄かな朱が乗っていて、何という色っぽさだ。その雰囲気に一飲みされそうになったところで、紗生子がまた自嘲する。
「これ程飲んでも、君の手の方が温いとはな」
「あ、すいません!」
と、その御手を離した入れ替わりで、引こうとした手を逆に掴まれてしまった。この辺りは、流石の素早さだ。酔っていないのは本当なのだろう。
「いつも温いこの手に、どれ程ときめいたか」
「やっぱり、酔ってません?」
「飄然としているようで、君はいつも真っ向勝負だ。そのバカ正直さが後ろ暗い女には眩いばかりで──」
その独り語りは、完全に俺を置き去りにしているようで、それを紡ぐ口元、俺の手を握る手、その手を見つめる目元から滲む慈愛のようなものが只ならない。
──ヤバい。
今までにも何度か見たが、本来はこんな表情をする清楚な女なのだ。それを世のバカ共に合わせて、野卑な振舞で突っ張っている。周囲の悪意が勝手に作った、そんなレッテルを剥がそうと思えば簡単に剥がせる筈なのに、何故それをしないのか。
「──柄にもなくこの手にすがりついてしまうと、手放せなくなってしまった」
何処か噛み合わないと思いきや、
「汚れ切った私は、突っ張る事でしか存在意義がないというのにな」
などと、まるで俺の存念を覗き見たかのような事を口にする。
何かを──
言い淀んでいる。紗生子程の者が、酔いに任せないと言い出せないそれは何事か。
「私もこれでいい加減な年だからな。前にも少し言ったが、それなりに見送ってきた身だ──」
その最後にまろび出た一言は、聞き間違いを疑うような、紗生子の弱音だった。
「──少し、疲れたな」
──あ。
その初めての台詞が、最後のキーワードだった。俺の脳内で、ここしばらくの数々の点同士が繋がり、線になっていく。
分かって──
しまった。
「──主命とあらば何なりと」
とは、如何にも格好がいいが、現実はやはり人間なのだ。当然、受命の時に色々と思う事もある。
だが──
今回は初めて、その命令で死んでもよいと納得出来たような気がした。
「外ならぬあなたの命なら、勇んで死地に行きます」
「歴戦の強者なら、それを聞く将の辛さも分かっているだろう」
と、紗生子が更にボヤく。
「上命下服は統率の基本です」
「この手の事は流石に知恵が回るな」
将がいなくては軍が機能しない、なんて事はない。のだが、最終的に士卒を死地に赴かせるのは、やはり将の命令だ。紗生子などは実際に、今春の海外出張でそれを実行させた口の筈なのに、
「何を今更ですよ」
「まぁそうなんだが──」
今回も極秘作戦だからな、と末尾に一抹のやり切れなさが滲む。という事は、今回は、
「この場がデッドラインですね」
「──ああ」
嘆息気味に、紗生子が短く答えた。
「従軍までは志願制だ。受ければその後はまた、私の指揮下という事になる。──どうする?」
「もう言いましたよ。らしくないですね」
「そうか──そうだったな──」
毎度の事ながら、肝心の内容は後出しという理不尽さだ。
「中身を聞いたら後戻りは出来んぞ?」
「大丈夫です」
「簡単に言うんじゃない。少しは自分を労われと言っただろう」
その言葉と共に、俺の手を握るその手の力が俄かに強くなる。
「駄犬駄馬でも狗馬之心は持ち合わせていますよ」
「それを受ける主の、愛故の苦悩というヤツだ」
「何か──」
「サ○ザーみたいだとか言うんじゃないだろうな?」
「いつ漫画を読む暇があるんです?」
「生憎要領はいい方なんでな」
「悩む事は悪い事ではないと、いつぞやにどなた様かが──」
「ここで揚げ足をとるか」
「いえ、金言です」
「この土壇場でブーメランが返ってきたか」
紗生子が諦めたように、俺の手を離した。それに合わせてようやく俺は、また座る事を許される。
「君と過ごす年末年始は、恐らく今年が最後だというのに、こんな話をしないといけないとはな──」
今度は盛大に嘆息しながら、踏ん反り返った紗生子が天を仰いだ。いつになく、くずついている。
「来年の今頃はもう──?」
「アンは交換留学生じゃないからな」
一応、普通入学の体裁で一般的な日本人生徒と同様に三年間の高校生活を送っている我らが姫君は、その実母国では新進気鋭の日本研究者だ。その研究がてら、実年齢に準えて日本の高校に通っている訳だが、それが只の秀才であれば、まあ有り得る話なのかも知れない。が、本人は元副大統領の実娘で既に抜群の知名度を誇り、縁戚となる日本の高坂家が絡む学校法人の高校に通う事は、果たして自然の流れなのかはたまた出来過ぎなのか。そもそもが、アンは既にハーバードの院生だ。それをわざわざ休学し、サブカルに塗れる目的だけで若かりし貴重な三年間を投げ打つものなのか。
「一一月初めの文化祭が最後ですか」
「あの後から三年は受験モードで、授業らしい授業も殆どなくなるしな」
「ではこの任務はそれまでと──?」
「──いう事だ」
少しの沈黙後、紗生子が静かに言った。
「だからこんなにゆっくりしていられるのは、今が最後なのさ」
「春休みや夏休みがあるじゃないですか」
「まぁそうなんだが──」
情勢次第では、確かにそれどころではないかも知れない。とかく俺達の仕事は、先の事など分かったものではないのだ。
「──どうだろうな」
と、紗生子が座り直したかと思うと、その流れで両手をテーブルについて前転で俺を飛び越し、背後から絡みついて来たではないか。
「確実に言える事は、こういう事が出来るチャンスは、もうないかも知れんという事だ」
「以前は笑われましたが、ホントくノ一みたいですね」
「そんな事もあったな」
卓上の物を乱すどころか物音一つ立てず、まさに猫のようなしなやかさに呆気にとられ、感心が先行してセクシャルが置き去りだ。が、
「──逞しい君の玉水は、間欠泉の如きだろうな」
「ぶ!」
瞬間で色欲のメーターが振り切れた。ケタケタ笑うその様は、俺の純情をなぶる意図に外ならず。
「め、女神様が何たる明け透けを──」
多くの二つ名を持つ女が、その神々しさの一方で、平然とスラングを吐く事のギャップも大概だ。
「──よ、よくぞそれで人の事を」
良くも悪くも、毎度ギャップを指摘される身としては、甚だ心外と言わずして何なのか。
「じゃあ神々の世界の血脈ってのは、どうやって継がれてるってんだ?」
「さ、さあ」
「大抵の神は、する事してるだろうが。そこに限れば神も人も変わらん」
何とも恐れ多い事をぬかすその口が、背後から執拗に耳元を攻め立てる。何を考えて種を欲しているのか。それは何処まで本気なのか。安定的にさっぱりだ。
「ク、クラークさんが帰国する前に産休に入るつもりですか!?」
いくらその制度が整ってきたとはいえ、現場の警護責任者が、それも部下の子を宿して産休などと。NG塗れにも程がある。
「センセーショナルだと思わんか?」
「暴挙ですよ!」
「それなら種はともかく、とりあえず開通式をやらんか?」
「──は?」
聞き間違えたようには思えないのだが、驚いた拍子に今は俺の頬をなぶるその口元の方を向くと、待ち受けていたその口に、また口をついばまれてしまった。
「お? やる気になってくれたか?」
「い、いや、そうではなく、か、かい──?」
これをギャップと言わずして何だというのか。突然の衝撃につい舌がもつれる俺を、俺の口元で堪り兼ねた紗生子が、
「ぶはっ!」
と、噴き出した。
「何をそんなに慌てる必要がある?」
「だ、だって──」
この女が未開通だとか、何処の誰が信じるというのか。
「──ウソでしょ!?」
「私はそう見られがちだ。本当の事を言ったところで誰も信じてくれん」
それを、俺なんかに吐露する紗生子の気が知れない。いや、分かろうとしない俺の度胸のなさだ。紗生子は何度となく俺に迫り続けている変わり者だが、それが愛であれ性的な意図であれ、少なくとも俺という男に興味を示している事に違いはない。紗生子程の女にそれをされる男がこの世にどれ程いるだろう事を思うと、これに向き合わない事は男として悪だろう。
「生きて帰って来てから考えませんか?」
「一歩前進だな。ついでに今、もう二、三歩踏み出さないか?」
「で、でも、死ぬかも知れない人間ですよ?」
「だからこそだ」
その声色が急に冷えて、切実さが増した、ように聞こえた。
「愛する者の証を求める事に、その者の近い将来の生死など関係ない」
「そんなに急ぐ程の──」
事なのが今回の作戦というそれは、今春の無謀を上回るという事なのだろう。
「私も人として生を受けた身だ。死ぬ前に一度ぐらい、他人の身体の重みを感じてみたいさ」
そこで突然、
「──そうだ」
と紗生子が声を弾ませた。
「君の参戦に限り、私との開通式を条件としよう」
「そんなバカな!」
恐らくは、俺以外にも存在するだろう他の参戦メンバーが、俺だけそんな特別扱いを受ける事を納得するとでもいうのか。
「──あ」
そこで俺も思いついた。
「余り無茶を言われるのなら、タンデムしませんよ?」
その一言に、
「なにっ!?」
と、予想通りの紗生子が殆ど反射で食いつく。特別扱いには特別扱いだ。やはり俺と一緒に出撃するつもりだったらしい。が、何であろうと
「今回は──」
後ろを気にしながら飛ぶのは御免だ。確かにバディとして認め合ったが、そうはいっても空の世界は素人には過酷過ぎる。
「──ヤバいんなら尚更です」
そんな俺の慣れない頓智など、
「ここ一か月の私の訓練を台無しにするつもりか!?」
そんな力づくの紗生子の一言で簡単にぶち破られるのも毎度の事だ。
「く、訓練──!?」
何と耐G練成に出掛けていたらしい。
と、通りで──
見た目こそ普段通りの紗生子だったが、触れた時に感じる身体のキレのなさは、やはり気のせいではなかった。
──そうだ。
あの玉体に触れるとか。それこそ今もそうだが、それが思いがけず増えている俺だ。無駄なところで自分の言葉に勝手に動揺する俺の一方で、纏わりつく紗生子からは甘さが消えている。
「君との約束を守るためだ」
文化祭の時の出撃を気にしていたと言われて気づく己の間抜け。この世はとかくバランスだ。何かを得る一方で、失うものがある。
──ってのに。
既に多くを得ているこの魔女が、新たな契約と引き換えに何を手放したのか。俺は同じ期間で、バディのために何をしたというのか。
それこそ──
慰みものにしかなれていない体たらく。バカな俺は、せめてその労を労うぐらいの能しかない。
「それはさぞ──」
申し訳なく思うと共に、疲れていて当然だ。しかも、技術的には操縦までも覚えたそうで、重ね重ねも無理を重ね過ぎている。が、
「流石にこの短期間でライセンスを取ろうにもな。何より君のレベルには程遠い」
とかで、結局徹底的な耐G練成ばかりやっていたそうだ。
「──そんな無理を」
怒るのも無理はない。いくら紗生子といえども、生身の身体で立ち向かう重力はキツいだろう。高坂の施設でやっていたらしく、ここ何日か持ち帰っていた惣菜などは、相談役の差し入れだったとか。
「因みに何Gまで──?」
練成したのか。普通じゃない女だけに、気になる。
「一一Gだ。十数秒なら我慢出来るようになった」
「有り得ないですよそれ!?」
それは殆ど墜落時レベルのものだ。元エアレーサーのテックが聞いても噴き出した事だろう。そのレベルはそれこそ、激しい動きに事欠かないエアレースでさえ禁じられるものであり、
「死にますよ!?」
女だてらに、出鱈目にも程がある。
「七、八Gレベルが当たり前ぐらいでなくては、君の足を引っ張るからな」
そこまで追い込んでいながら、帰宅後普通にメシ風呂が出来れば大したものだ。天才のくせに体力もあるとは、本当に何かの妖なのではないかと思いたくなる。が、
「今夜はなしですね」
「人の話を聞いていたか?」
「タフさは分かりましたよ」
その辛さを繕える事自体が信じられないのだが、
「それならそれで──」
俺の胸元に絡みついている腕を、部屋着の上から撫でてやると、頬の近くにある花の空気が僅かに揺れた。
「──頑張り過ぎです」
「何がだ?」
強がっている姿が微笑ましいと言ったら紗生子に悪いが、
「ちょっと失礼して──」
と、その袖を少しめくってやると、前腕でさえ内出血が出現している。この分だと、身体中がそんなザマだろう。それこそ痛みが引く暇がない筈だ。これでよく、
「帰って酒を飲もうなんて気になりますね」
「アイシングして帰るからな。何て事はない」
身体は痛いが、あざは残さないのだとか。
「まぁそこは、一応女の端くれだ」
「でも掌は赤いじゃないですか」
その手が俺より冷たかったのは、冷やして帰って来たせいだろう。それをまるで、自虐的に冷徹女であるかのように漏らす紗生子は白鳥だ。努力が必要な事は、陰ながら努力をしているという事だ。
それなのに──
これ程肉体をいじめ抜いても弱音を吐かない女が、将の気うつのようなもので僅かながらにそれを漏らした。それがどれ程の事か。その赤い掌が、静かに物語る。
「──強がりは禁物です。せめてしっかり休むべきですよ」
角が落ちれば素直で清楚な女だ。そんなスペシャリティーな紗生子は、
──俺だけ?
のものなのか。
「流石にその道の人間はごまかせんな。強がりは捩れた性格故だ。もうどうにもならん」
「食べたら今夜も早く寝ましょう」
「そうだな。実は眠いんだ。それでも今夜は数少ないチャンスだし、頑張ろうと思ったんだが──」
「欲張り過ぎは身体に毒ですよ」
「まぁ確かに、流石に身体もあざが残るかも知れんし、とて、も、見られ、たモンじゃ──」
そこまで言うと、紗生子が電池切れのように首をもたげてきた。気を張っていた反動としたものか、絡みついていた腕が急に脱力し、
「あ、危ね!」
その玉体が床に崩れ落ちそうになる寸前で抱き止める。
「主幹!?」
相変わらず耳元に息がかかるそれが、寝息に変わっていた。薄っすら笑みを浮かべているような、その優しい気な顔こそが、この女の本質だ。
──く。
普段は気高さの中に大概な色っぽさがある女だが、今の無防備さに勝るものはない。
ま、全くもって──
どっちがギャップ萌えさせられたものか。いつもどの口が言ったものだか、本人に言ってやりたいものだが、その思いがけなくも不用意な女傑は、すっかり俺に預け切って寝落ちしてしまっている。
普段が普段だけに──
目の前の女の表情の柔らかさはどうだ。逆に言えば、普段はそれ程気を張っているというか、気うつで悩ましいという事なのだろう。湯上がりですっぴんという事もあるのだろうが、それにしてもまさかあの紗生子の事を、
──か、可愛い。
と思う時がくるとは。予想だにしなかった俺の動揺が、瞬間で心臓をバタつかせた。
──い、いかん。
俺も随分と信用されたものだが、これ以上の長居は無用だ。自制に自信がない。早速そのまま寝かせるべく抱えて立ち上がると、首と腕がだらしなく垂れた。それと入れ替わりで、胸の膨らみが強調されてしまい、
──げ!
つい目が釘づけになる。カップサイズの詳細など知った事ではないが、間違いなく豊胸の部類のそれが余りにも無防備に晒されていて、それこそこの機を逃すのは修行だか拷問の類いだ。
ク、クッソ──!
女なら、あざ塗れの身体を他人に晒したくはないだろうが、
──そんなモン関係ないわ!
正直なところ、紗生子に対する愛のありかは分かり兼ねるが、それが主従にしろ、偽装夫婦にしろ、もう知己では収まらない関係性を築いている俺達だ。何処にあろうと、その愛は確実に育ってしまっている。煩悩に負けそうになる中で、只の一〇mもない動線を経て紗生子をベッドに寝かせてやると、ようやく人心地だ。
あ、危ない──
ところだった。
何かを試されているのか、それとも罠なのか。このまま紗生子の好意を受け入れた先に何があるのか。何れにせよ、任務が終われば解消されるバディだ。
──そうか。
紗生子ではないが、二人切りの年の瀬はこれが最後だ。そういうからには、紗生子自身それを認識しているという事だ。
──最後か。
任務とはいえ、女とこれ程親密になるなど最初で最後だろう。それもこれ程の美女となど。
これって──
全くもって、世界的なスパイ映画の、ボ○ドガールのようだ。その歴代の女優達と比べても遜色ないどころか、俺の中では文句なしのナンバーワンガールが、前後不覚にも熟睡している。
──無茶し過ぎだよ全く。
短期間でGの耐性をつけたかったのは分かるが、基本的にそれは経験値と慣れで体得していくものだ。それを思うと、日頃の居丈高の憎さ余って可愛さ百倍としたものか。さっさとそのベッド際から離れてしまえばよかったものを、つい頭を撫でてしまうと、そのままでは離れ難くなってしまった。
あざが残れば──
俺が責任をとってやると言えたらいいのだが、仮に紗生子がそれを喜んだとしても、肝心の俺自身が、紗生子に見合う報酬である事を疑い、許せない。
この女の価値は──
俺などでは到底釣り合わない。
俺は吸い寄せられるように、文字通りの紅唇に吸いついた。




