最後の年末年始①【先生のアノニマ 2(中)〜28】
年末、二学期終業式後の夕方。
理事長室に呼び出された俺が顔を覗かせると、その部屋の主は当然の事、議長席に紗生子と上座に教頭が、それぞれ定位置に座って待っていた。
「毎度わざわざ呼び出してスマンな。ま、座ってくれ」
最早自分の部屋と勘違いしている機嫌の良さそうな教頭に急かされ、下座のソファーに座るや否や開口一番で、
「もう耳に入っているとは思うが、一応警察の正規ルートからの情報を伝えた方が、より実感が湧くと思ってな──」
という前置きの後、高千穂警視総監の引責辞任が伝えられた。警視総監任免の根拠は警察法にあり、国家公安委員会が東京都公安委員会の同意を得、その上更に内閣総理大臣の承認を得て決められる。ここまでややこしい手続きを要する訳は、首都警察の長であるという理由に尽きるのだが、師走も佳境の繁忙期に、それらの根回しが執り行われた結果のこの決定は、先日来米中国内を賑わしている陰謀論に取り憑かれた不届き者共に対する処分に、日本としても遅れをとらないがためだ。
「──要するところ、事実上の更迭人事だ」
「何もやってないヤツが得意気に言うな。人の苦労も知らず、恥知らずはいい気なモンだな全く」
と、相変わらず容赦ない紗生子の突っ込みの中にも、その人事を否定する文言はない。米中両国に比べ、事前の予想通り表向きには調査が遅々として進まない格好を見せる日本が、最低限のスタンスを示しておきたいがための、この年末の土壇場処分という訳だ。その実裏ではCC主導で粛々と調べと粛正が続いているらしく、その深いところは俺の知り得るところではない。が、俺に関する部分としては、
「同日付けで、件の襲撃事件の嶌令は時効送致された。広島の捜査本部は近々解散するそうだ」
それも既に耳にしていた事ではあるが、確かに警察関係者から直に聞くと、より実感が湧く。
「犯人が密出国して国外逃亡したという事実は、実は一部被害者の根も歯もない独りよがりの供述を支えにしていた根拠のない事実である事が判明し──」
改めて補充捜査した結果、出国の事実は掴めなかったものであり、
「──よって時効完成と判断し、捜査を終結するものである」
とは、どうやら捜査報告書の一文だろう。高千穂兄の供述が根本から覆され、嶌令のブローカー説も、
「大ウソ八百だという結論で送致したんだと」
という内容のそれは、嶌令に対するせめてもの罪滅ぼしのような意味合いもあるのだとか。
「警視総監が辞める前に、その供述をウソと断じて送致したんだ。現場の下々には、これが精一杯の抵抗さ」
「悪が消える寸前になって、ようやく鉄槌を下す正義とは、何とも体たらくな事だな」
確かにここは紗生子に倣いたい。傍若無人にへつらい、失脚すれば反旗を翻すような風見鶏が、どの面下げて正義を語るのか。
「例え嶌令が犯行を自供したとしても、それに合わせて恐らく供述するであろう犯行の動機を聞かされたところで、刑事連中はそれを録取出来ない。したところで上に揉み消されるのは分かってるし、調書にした刑事や事実を知った連中なんかは、下手すりゃ消され兼ねんからな」
そうやって下々が畏怖し、忖度している間に、それこそ高千穂兄が絡んだ人身売買を目的とした略取誘拐事件や人身売買事件の時効が完成していったのだ。これらの罪の時効は、身代金目的の事件を除けば長くても一〇年。そもそもが時効を語る前に親告罪だ。告訴期間が定められている。犯人を知った日から六か月以内に告訴しなくては公訴出来ない、つまりは事実上の時効だ。
親告罪とは、被害者の意思や意向を尊重し、犯罪が明るみになることで被害者自身が不利益を受ける場合等に配慮する意味合いで設けられているのだが、それがたったの半年とは。被害の度合いに比べてその意思決定期間が短いと感じるのは俺だけなのか。捜査機関の都合や犯人の心情ばかりが優先され、被害者が置き去りにされているとしか思えないそれは正法と言えるのか。高千穂兄とレジオンが結託した結果の、現代日本にあるまじき人攫いビジネスの蛮行は、それにつけこむように時効が完成したものばかりだというのに。
「警察は刑事だけ語ってりゃ用が済むから、全く気楽な事だ」
と、紗生子が匂わすのは民事だ。やはり時効が存在する訳で、犯人を知っている場合の損害賠償請求権は五年。小学校低学年の子なら、中学になるかならないか。それまでに損害賠償を請求しなくてはならない。これで被害者に寄り添う法と言えるのか。法律の専門家からすれば、精々知恵足らずの若造が分かった事を抜かしているように見えるのだろうが、俺に言わせれば、とかく日本の法は全てこれだ。
──悪に甘い。
悪に時効の逃げ道がある一方で、被害者の受けた屈辱や恥辱はいつまでも変わらない。死ぬまで心身に刻み込まれ、記憶が薄まる事はあってもなくなる事は決してない。大抵の場合はフラッシュバックを伴い終生不変だ。俺の過去の無謀な復讐劇は、こうした感情が抑え切れず爆発した若気の至りによるものだが、それでも復讐を果たしただけまだマシであり、現実は泣いている被害者ばかりだ。悪を助ける法などクソくらえだと、いつぞやの相談役も吠えていたが、それこそが民主主義制度下の法治国家の裏の顔だ。
それを──
出向先で学校の教頭になれる程の年まで刑事一筋だと抜かすベテラン刑事は、どう思っているものか。若造の俺に分かるのは、過激だが法家に変わりない紗生子の口振りが俺サイドという事だけだ。
「警視総監は去った。広島の捜査本部もようやく解放される。シーマ先生の濡れ衣も晴れて万々歳だ」
「一々白々しいな。他に何か言わなきゃならんだろうが貴様は」
「ああ。アンタらには全く世話になった。お陰で俺の首も繋がったまま、また近いうちに我が田に戻れる」
「生産性のない底なし沼だろうが。何が我が田だ」
「その沼で定年目指して頑張らにゃ、退職金も年金も貰えんからな」
礼のような、人事の見込みのような、将来の展望のような内容を手短に独り言ちた教頭は、
「さて、俺はこれから刑事連中と忘年会なんでな」
と、勝手に理事長室を出て行った。
「何なんだあの言い種は。結局最後の最後まで何もせず、言いたい放題の挙句が忘年会だと?」
「まあまあ、よろしいじゃありませんか。平和の証ですよ」
紗生子の言い分ももっともだが、理事長のいう通りだ。俺の過去の清算にも目処がついたように、今春から続いていた万来・レジオン絡みの心労から解放された学園内は、俺が赴任以来経験した事もない穏やかさを醸し出していた。アンの近習は昨年以上にフケが早く、その姫様が午後の定期便で帰国の途についたのを皮切りに、続々出校し現場離脱。外周組も定時(定時の概念がある事に驚いたのだが)を待たず、時間休を出して早々に散ったらしい。終業式の日の夕方ともなれば、残っているのは俺と紗生子だけだ。
「今年はどうするんだ君は?」
「留守番でいいです」
「安定的に根暗だな。たまにはパァーっと旅行にでも行って来んか」
「ですから──」
俺達は表向きには夫婦な訳で、片割れを放置して旅行とは不自然極まりない
「──と思う訳ですよ」
それに、別に行きたい所もなければ帰る所もない。強いて挙げれば、
「今いる所が里のようなモンですから」
と何となしに漏らすと、他二人が一瞬固まったように見えた。
「──何か変な事言いましたかね?」
「い、いえ。この学園が故郷だなんて、関係者としてこれ程嬉しい事はございませんので──」
「──そうだ。無い知恵を絞って中々小憎らしい事を言うようになったじゃないか」
ハハハホホホ、と、これまた教頭以上に、如何にも白々しい。
結局、今年も昨年同様の展開となった。冬休みモードに入り、在校者が学園職員に絞られ始めると同時に続々と寮生が帰郷。
「センセーちょっと早いんですが良いお年を」
「おう、って今年は何処に行くんだ?」
「じいちゃん家に呼ばれたんで、仕方なく帰ろうかと。邪魔者はさっさと出ますんで、正月ぐらい夫婦水入らずしてください」
と、最後に寮の主を見送ると、寮内はもぬけの殻となった。まだクリスマス前だというのに、何ともつれないものだ。
『自慢の息子二人が不甲斐ないせいで、流石に孫の顔を確かめたくなったんだろう』
天の声が耳に届くところは相変わらずだが、まさにそういう事だろう。元首相にとっては、鎧を剥ぎ取られる感覚に違いない。しかもそれが、自らが頼みの綱としていた腹心という名の裏のドン高坂美也子の審判とあらば、その息のかかった学園に身をおく孫が恋しくなるのも自然としたものだ。
寮の舎監室から見送るその大きな背中が、少しずつ遠ざかり、小さくなるせいか。
「ヤツのとーちゃんは、どうなるモンですかね」
何となく、それが気になった。
『あれこそまさに民主主義制度下の法治国家の寵児だな。そろそろ弁当持って出て来るだろう』
「逮捕報道が先行するばかりで、結局中身は盛り上がりませんでしたしね」
それこそその兄同様、過去の悪事は時効や証拠散逸でお目溢し。それに比べれば、立件された罪の罰など二束三文だ。
『共犯者こそ多かったからな。捜査終結までに時間がかかっただけの事で──』
「初回公判で保釈が認められて、出て来るんでしょうね」
『相談役の目が光っているうちは、つまらん否認もしないしな。その分娑婆に出るのも早い』
本人達からすれば、司直の言いなりは面白からずとしたものだろうが、その分自由になるのが早まる訳で、
『事実上の司法取引さ』
という構図。
「初回公判はまだでしたっけ?」
『二月だ。その前に、孫の帰巣本能をくすぐっておきたいんだろう』
「身元引受は元首相という訳ですか」
保釈された二男と孫を何年か振りに対面させるつもりらしい。
『果たして仲直り出来るモンかな、あの親子が』
家庭を顧みない父親のために、幼少期から自らの身の振り方を自らで選択し、自らの責任で歩んで来た壮士だ。
俺なら──
いい加減、絶縁するだろう。愛想が尽きてもいい頃だ。世間的には許す選択肢もあるのだろうが、まさに散々お目溢しにされ、甘やかされてきた挙句のザマなのだ。その見て見ぬ振りの分だけ不利益を被っている者がいるのだ。それを思うと、許してはならないと思うのは俺だけだろうか。
「世が世なら、切って捨てるんじゃないですかね。アイツなら」
「違いない」
と、天の声が傍から降ってきた。出かけるつもりなのか、コートを羽織っている。
「何やってらっしゃるんで?」
「ヤツが最後だったからな。一応寮内を見回りしてたのさ」
「それは俺の役目ですよ」
「今年の年越しこそ、心安らかに迎えたいからな。まずは差し詰め明日のイブだ。隆太のヤツの気遣いを無駄にしないためにも、警備は万全を期さんといかん」
「何ですかそりゃ?」
「私はこれから出掛ける。留守は頼んだぞ」
返事を透かしてくれた紗生子は、そのまま玄関から出て行った。
翌、クリスマスイブ。
夕方になると、職員も学生もすっかり消え失せ、二点を除いて人感センサーが無反応になった。一つは俺自身で、既に寮の最上階の特別室内にいる。普段は入る事のない、姫様の秘密の花園だ。もう一つは紗生子のそれで、やはり俺の点の直近にある。が、目の中の端に追いやっているマップが律儀にも、その微妙な位置のズレを拾っているそこは秘密の花園中の花園、浴室だ。
『一緒に入っても問題ないぞ?』
「賊が来ないとも限りませんよ」
『じゃあ来ない事を証明出来れば一緒に入ってくれる訳か』
「そういう問題じゃありませんよ!」
『相変わらずつれないヤツだな』
「心安らかに送るんじゃなかったんですか!?」
『今宵は前夜祭だ。一緒に禊いで何が悪い』
「禊ぎって言えるんですかそれは!?」
それに二四日の日没後の事ならば、教会暦では既に聖夜であって、不純な禊ぎなどしていたらそれこそ罰が当たるだろう。それは
──ともかく。
紗生子の言う通り、昨年末のようなミサイル騒ぎはないかも知れない。いや、現実的に相当困難だろう。
先日の警視庁での爆発騒動で、空自が各所に高射部隊を展開させたのを始め、レーダーサイトも警戒体制を上げられ目を皿にしていると聞く。表向きには報じられない米軍の反応も、当然同様だ。日本の中心部へ巡航弾の侵入を許したなどと、然しもの米軍も驚いたに違いない。たまたま狙いが俺達だったというだけの話であって、もしそれがアンだったらどうなっていたか。学園の給水塔だけではどうにもならなかった筈だ。勿論CCの防衛システムはそれだけではないだろうし、俺の知らない隠し球もあるのだろう。その一つであるレールガンを備えたドロシーが、HCMに備え、相模沖をウロついているらしい。情勢はとりあえず、
『──我らが優位だ』
HCM以外ならファランクスで大丈夫だし、賊が押し寄せれば要塞と化す学園だ。よって紗生子の証明は満足される訳だが、
「だからって一緒に禊げる訳ないでしょーが!」
当然、交代で風呂を済ませると、心安らかな晩餐となった。今年も紗生子の手による食卓だが、毎度痛感させられるのはその手性の良さだ。
これで性格が捩れてなけりゃあ──
完璧だと思うのだが。世の中上手くバランスがとれている。均衡を保つための、壮絶な捩れという訳だ。が、
「不思議とこの時期は落ち着くな」
などと、たまにまともな事を吐くと、急にムーディーな気分にさせられる。
「──そうですね」
密かに動揺を鎮めて、一息ズラして答えた。夜が長い時期の、信仰的なイベントがそうさせるのだろうそれを、俗っぽくも一言で言うなれば、
「クリスマスマジックか」
「──でしょうね」
という事だろう。世界的にもこの時期は、砲火を自粛するものだ。紗生子のような血の気の多い女でさえ、墓参りをする事でもある。今年も、昨日の外出の折に行って来たらしい。少し上機嫌なのはそれもあるのか。既に酒が勢いづいている。
そのどさくさで──
普段なら聞けない話も、許されるかも知れない。
「ご先祖様は千葉でしたね」
と、しれ顔で、突っ込んだ事を聞いてみた。が、
「近頃の平穏だったせいか」
「はあ?」
「トレーニングに精が出過ぎだな。オーバーワークだろう。でなけりゃお茶で酔う癖でもあったか君は?」
「いや、ちょっと聞いてみただけで」
そんな俺の魂胆は見え見えだ。
「冗談だよ。酒の勢いでちょっといじっただけだ。君に聞かれるのはウエルカムさ」
相変わらず歯切れのよい三段論法は、酒の酔いなど感じさせないどころか、むしろいつも以上に舌が回る。そのよく回る舌が、
「──先祖と言うより母だな」
と、語り始めた。彼の母御は、日本人の祖父とユダヤ系独人の祖母の間に生まれたハーフだとかで、時代に翻弄され中々苦労したそうだ。見た目はアラサーにしか見えないこの女だが、実年齢は兄嫁より上だろう事は間違いなく、となれば最低でも四〇半ば。その女の祖父母なら戦前の帝国主義世代、その子なら戦後激動期に程近い生まれだろう。当時からすれば洋の東西の血が混ざるという、圧倒的少数派の珍しい容姿だ。恐らくは多分に、前時代的な差別というものに直面したに違いない。というかこの女は、
「ドイツの血が入ってらっしゃるとは」
という事だ。
「国籍だけで言うなれば日独クォーターだ。それを言うなら君もそうだろう?」
「いや俺のは極東の、モンゴロイドの中だけの話ですから」
「人種的にはそうかも知れんが、だから何だ?」
「何だって、見た目が──」
それなら今の欧州人と東洋人の容姿の違いはなんだというのか。
通りで──
日本人離れした外見な訳だ。均整のとれた四肢といい、引き締まった肉体といい、妖艶たる容貌といい。純日本人には得難い何かを携えていると思ってはいたが、言われてみれば納得だ。特に透明感のある肌の色艶は、北・東欧系のそれを彷彿させる。鮮やかな赤髪も、恐らくはそれ由来なのだろう。
「母は一度も日本から出る事なく死んだ。見た目こそ確かに今でいうハーフだったが、中身は純日本人だったぞ。それも戦前後を色濃く残す、しぶとい女だった」
が、病には勝てず、鬼籍に入って随分になるとか。
「お父上は?」
「知らん」
急転直下、口にするのも煩わしいらしい。ここは路線変更だ。
「他にお身内は?」
「戸籍上はずっと一人だな。もう何年になるか」
という事は、
「婚歴もない。何せ煩悩の数程見合いをした口だ」
ハハハ、と俺が聞きたい微妙なところを自ら口にした。これはまだまだ聞き出せそうだ。と、思いきや。
「君もいい加減、台湾の郷里が気になるだろう?」
と、突然話を振られる。
「いや──」
今は俺の事など、どうでもいいのだが。
「軍に戻ったら中々帰れんぞ。ここらで帰って来たらどうだ?」
「──ご存じでしょう?」
紗生子の事だ。恐らく大抵の事は掴んでいる。が、
「事実は知っているが、事情は知らんのでな。今宵はその辺りの事を聞きたいと思っていた」
その代わりが、先立って一部開示した紗生子の情報、それも出生に関する類は、実は物凄い価値だとかで、
「──その暴露に免じろ」
と言われると、最早言い返す術を俺は知らない。こんな女の事だ。確かにそうなのだろう。が、その秘密に触れる事が出来た僥倖の対価が、俺の生い立ちにあるとでもいうのか。
「亡くなった史洋さんを、アフリカの砂漠で鳥葬したんだろう?」
「──先生がそれを望んでらしたので」
「あの人らしい」
やっぱし──
言うなれば、
──俺オタク。
と言ったら、どんな反応が返ってくるものだが全く予想が出来ないので、当然口にはしない。大体が、既に俺の出自や戸籍・国籍の変遷の津々浦々を知る紗生子だ。俺の事情で真新しい話などない訳で、要するに当の本人から中身を全て吐き出させないと気が済まない、という事なのだろう。
「──で?」
「はあ」
催促されて躱せる程、器用な口を持ち合わせない俺だ。駄々を捏ねられても困るので、とりあえず続ける。
鳥葬とは文字通りの儀式で、鳥を頼んだ葬儀だ。チベット仏教やゾロアスター教に伝わる風習で、何れも大抵の場合、ハゲワシに遺体を食わせる。その理由は、風土や思想を説く必要がある訳だが、
「先生は──」
難しい事は置いておいて、人間として散々食らってきた分、死んだ時ぐらい肉を提供してやらんと欲が過ぎる。と、
「節葬に近い考え方でして」
「墨者のか? 確かに如何にも言いそうだ」
葬儀でさえそんな考え方を持つ人だったのだ。生前の暮らし振りからして万事そんな具合で、俺の身の回りが常に簡素なのもその影響による。
「すっかり身にこびりついちゃいまして」
「最早呪いだな。三つ子の魂百までとはよく言ったモンだ」
よって台湾の郷里も、きれいさっぱり何一つ残した物はない。その上で俺達師弟は、死地となったアフリカの紛争地帯へ旅立った。医師だった養父が、いつ巻き添えを食うとも限らぬ難民キャンプへ、医療ボランティアとして参加するためだ。憂いを断つというか、この時既にいい加減な年だった養父は、生きて郷里に帰るつもりはなかった。何せ、あちらこちらで終わりの見えない争い事が延々続いている世界有数の危険地帯だ。死にに行ったとしか思えない。約二〇年前の話だ。
「当時の俺は、まだ十代半ばの青二才で──」
精々目の前の狼藉を阻止する能しか持ち合わせておらず。
「もう少しマシな弟子だったらと、未だに後悔しています」
養父は難民キャンプを襲ったミサイルで、俺の目の前で死んだ。傭兵の真似事をしていた半端者の俺は、その死を目前に只泣くだけの能無しだった。
「弟子とか助手なんてとても名乗れない体たらくで──」
幼少期の日本で何一つ能を身につける事なく、どうしようにもない家庭環境の悪さにいじけて生きていたせいだ。運良く養父に拾われた時点で、母国語の読み書きすらおぼつかなかった俺は、俗に言う文盲というヤツだった。そんな人の形をした何だか分からないヤツが、普通の台湾人になるのに何年かかった事か。かといって親子でもなく。表向きには最後の最期まで、辛うじて縁故のある爺さんと子供の関係でしかなかった。
「自ら立つ者は、自らを整えているものだ──」
とは養父の口癖で、整ってない俺に医学は難し過ぎた訳で、いつまで経っても身の回りの手伝いしか出来ず。結論、
「何も出来なかった恩知らずで──」
「勝手に喋らせてたら尽きる事のない、今墨者の思いがけない吐露だな」
「その呼び方は、それこそ畏れ多いです」
俺のやっていた事は、史上のその強者達とは似ても似つかぬ、ままごとのようなものだ。
「大体が、現状のアフリカの紛争地帯なんてのは──」
何処だろうと、殆ど野盗上がりのリーダーが束ねる組織が跋扈する、世界有数の危険地帯。そのど真ん中へ我が子を連れて行く時点で普通ではない。それを、
「年齢的にはまだ若輩の君を、それでも頼もしい戦力になるからこそ、史洋さんも連れ立って行ったんだろう」
紛争地を支配する共通理念は弱肉強食。人畜関係なく、勝者が敗者の肉を食らう。争い事の解決手段はシンプルに暴力頼み。だからこそ泥沼化している訳で、如何なる理由でそこへ踏み込もうとも護身は必須のスキルだ。が、人に得手不得手はつきもので、中には護身がおぼつかないスタッフもいる。俺が頼みとされたのは、そうした面子のための護衛だ。
「野蛮人のやる事で──」
養父を始め、周囲から見た目を裏切る喧嘩屋だとよく笑われたそれは、何とかして自ら立つための、七転八倒の青少年期で身につけたものだったのだが、強いて挙げれば本当にそれしかなかった。
「──褒められたモンじゃありません」
思えば俺の将来は、この頃既に確定していたのだろう。もう少し頭を使う術を覚えていれば、とはまさに後悔先に立たずだ。
「使い方を誤らなければ、それはやはりこの上ない救済の味方だ。医は仁術と言うが、仁術は何も医に限らん」
横暴に立ち向かう術、最低でもそれらから身を守る術、一般的には護身の法に類されるだろう俺のそれは、決して品のよいものではなく、それは今も昔も変わらない。台湾で覚えたからカンフーだと言っているだけの事で、その道の者が見聞きすれば憤慨ものの大出鱈目だ。
「君はそれで整えただけの事であって、中身は変わらん」
自らを整える法は、何も一つに限らない。それこそが養父の教えの真髄だった。で、頑健さだけが取り柄のバカな俺は、手っ取り早く喧嘩殺法を修めた訳だ。
「人を壊すだけの乱暴者ですよ」
「その人の法を使って他人に施すのであれば、それもまた仁術さ。台湾の新出○定は、君にそう諭した筈だ」
「先生が聞いたら喜びます」
養父は【赤○げ診療譚】のその人が好きで、まさにそんな人でもあった。
「弱肉強食の原始的な世界で、いきなり法を説くバカもいない。ゲンコツありきは当然だ。当時既に墨者のままごとが出来た君は、さぞ重宝がられた事だろう。只惜しむらくは──」
もう少し養父が生きていれば、という紗生子に全く同意だ。もう少し傍にいれば、もう少しマシな手伝いが出来たのかも知れないのに。
「もう少しと言い出すと切りがないんですが──」
養父の享年は八四だった。
「そこまで現役だったんで──」
余り無茶な事を言っては悪いし、望み過ぎては罰が当たる。
「あの仙骨だ。殺されなければ軽く一〇〇まで生きたろう?」
「全くです」
「ならば君も、彼の仁術を修めたろうにな」
「いや無理だったと思います」
養父は無骨な昔気質の人で、所謂スパルタだった。俺などは恐らくそれに耐えられず、根を上げた事だろう。身体で覚える事は得意だが、頭で覚えるのはさっぱりな俺だ。
そのバカの一つ覚えの腕力をしても、その矍鑠たる仙骨は大変頑強で、砕くのに一苦労だった骨は全て海にまいた。それでいつかは故郷に戻れるだろうという、やはり養父の遺言だ。
「海にまいたか。──そうか」
紗生子にしては、いつになく確かめているような。気味が悪い程神妙なのが、
どうも──
気になる。そんな俺の気配を察したのか、稀有の日独クォーターに、
「いや、続けてくれ」
と先を促されたが、話は台湾の里に関する事だ。それこそ懐かしさから脱線が過ぎては、情けなかった昔の俺の暴露話に始終してしまいそうで怖い。
「いや、以上です」
俺が知る限り養父に縁故者はおらず、大した財も持たず。実に身の回りのさっぱりした人だった。後は形見分けだが、
「仕事道具は当時のお仲間に引き取ってもらいまして──」
唯一残された身内の俺が、数少ないアクセサリーを貰ったぐらいだ。
「──腕輪?」
「ええ。いつもつけていた物で──」
数色が混ざる煌びやかな紐のようなそれは、その持ち主にしては目立つ手回り品だった。
「今も持っているのかそれは?」
「ええ」
俺のズダ袋の中に収めている。
「そうか──」
「──あ」
「何だ?」
俺の暴露話ではないが、物のついでで長年の気がかりを相談したらどうなるだろうか。
「養父の事ではないんですが──」
とはいえ、この女は既に兼務塗れの双肩だ。
「──どうした?」
「いや。やっぱりいいです」
やはり、また別の機会にする事にした。流石にこれ以上甘えては、それこそ罰が当たる。
「失踪宣告の事か?」
「──すいません」
「事件が終結すれば、真犯人嶌令は死んだも同じだからな」
俺の考えそうな事など、やはりお見通しの紗生子なのだった。
刑事事件の犯人として指名手配されていた嶌令が時効送致されたという事は、国外に出国した事実もなければ死んでもいない。つまり、国内の何処かに存在する事を意味する。が、だからといって真犯人の俺が、晴れて嶌令に戻れる訳もない。時効完成はあくまでも、嶌令が国外逃亡していない事を前提としているからだ。
「もう戻る気なんてないんですが──」
それどころか、それは忌まわしい、苦い記憶でしかなく、仮に戻って大丈夫な状況だとしても戻りたいとは思わない。それでも仮に戻るならば、疑惑の米国籍ALTはやはり真犯人だった事を暴露するだけではなく、国外逃亡していた事実が発覚する、つまり時効停止状態のまま逃亡していた事を晒す訳で、間抜けにも自ら時効未完成を吹聴するザマとなる。
何より──
尽力してくれた紗生子の労が、その瞬間で水泡と化す訳だ。
「──いい加減、俺のような小物の事でご迷惑をかけられません」
「別にそんな事は問題じゃないが、教頭が騒ぎ出すのが煩わしいだろう」
それどころか、警察と検察がここぞとばかりに押し寄せる事となる。
時効完成で警察から事件を送致された検察官は、一般的に【不起訴】の決定をする。それは文字通り起訴しない事であり、要するに捜査終結だ。時効完成により検察官は公訴権を失うのだから当然なのだが、実はこれで一切、
「事件が終わった訳では──」
「──ないよなぁやっぱり」
何ともしつこく、くどいと言われれば、全くその通りだ。が、検察官は不起訴処分をした後であっても、やむを得ず不起訴にした事件で新証拠を発見した時や、事情を考慮し不起訴にしたにも関わらず、それを覆す事態が発生した場合などには、それを覆す事が出来る。
「【再起】されても困るしな」
「──はい」
紗生子が漏らしたそれこそが、最も俺が恐れる手続きだ。それをすると、事件を警察から通常送致された扱いとなる訳で、補充捜査の結果次第では当然起訴も可能となる。つまり、俺の日本復籍により、嶌令の時効が国外逃亡の事実で未完成となる彼の襲撃事件は、まさに時効送致を経た不起訴からの、数少ない再起事例の一つと成り得る訳だ。
よって、持ち主に見捨てられたも同然の俺の日本国籍は、いつまでも宙ぶらりんで、紗生子の言う通り死んだも同然となる訳だが、他方、この状態で困る人々が僅かながら存在したりする。
「民事的にもこのままでは──」
「刑事だけで物事が完結する連中には、見えそうで見えない事情というヤツだな」
民事上の相続権を有する、嶌令の戸籍に絡む【血族】だ。それは同じ祖先の血を引く者を意味し、相続に関しては俺のような【認知された非嫡出子】も血族に入る。つまり相続権を有する訳だが、これは死んでいない限り失われない。更に突っ込んだ言い方をすれば、俺が生きている限り、他の権利者の取り分が減る。でも何処にいるものか分からない。生きているのか死んでいるのかすら分からない。それならもう法律的に死んだ事にしてしまおう、というのが【失踪宣告】という制度だ。俺のような失踪ケースは普通失踪と呼ばれ、七年間の所在不明で要件を満たす。それを相続権を有するような【利害関係人】が請求すれば審判により失踪確定。それに基づき申立人が役所へ【失踪届】を提出すれば戸籍が除籍される。つまり、法律上死んだ事になる訳だ。
養父と死に別れ、日本に帰国した時、従前の日本国籍が失踪宣告により死亡状態だった事は以前にも少し触れたが、それはつまり、誰かがそれを請求した事の裏打ちであり、襲撃事件を起こす前の若かりし現職時代によくよく戸籍を見てみたところ、父方の縁者と思われる者が届出人となっていた。という事は、俺の父方の祖父あたりが、それなりの財持ちなのだろう。
「今回もとっくの昔に除籍されているものと思っていたのですが──」
俺を認知した父は、俺がアフリカから帰国する何年か前に死んでいた。その時点で俺に相続権が継承されたという事であり、それをご丁寧にも失踪により除籍させたという事は、不破の家は相続権を争うに値するお金持ちという事だ。
「戸籍謄本上では、今回は誰も手を挙げてはいない」
その資料に当然の如く触れていて、かつそれを覚えている紗生子の情報量の凄さには感服しかないが、それにしても父方の縁者達の、どういう心境の変化だろうか。因みに指名手配の逃亡犯だろうと、民事上の失踪宣告を中止するものではない。民事と刑事は別世界だ。さっさと申し立てればよいだけの話の筈だが。
「武智さんがな──」
許さなかった、のだとか。
「あの兄の──」
親代わりだった恩人が、
「何で俺のような者の──」
と、言い淀んだところで、半分気づいた。
俺が事件を起こした後、一族は大なり小なり警察の事情聴取に晒された事だろう。彼の辺境の大地主は、俺の戸籍上の父とは従兄弟の間柄な訳で、事情は嫌でも耳目に触れる。そこで半分。その一族の醜聞を知った上で、何故殆ど他人事に異を唱えたか。そのもう半分の疑問は分からないままだが、あの御大尽の事だ。想像はつく。
「──庇ってくださった、という事ですよね?」
今でこそ顔は分かるが、それまではお互い顔すら知らなかった筈の俺を、
「何で──?」
その人が庇ってくれたのか。
「君の、君らの父御は、それはそれはポンコツだった」
若くして一族の財を担保に、知り合いから借金をしては飲んだくれていたそうだ。典型的な穀潰しで、実家から疎んじられ、散財が過ぎる前に勘当されたらしい。
「──とは言え、相続権がなくなる訳じゃないしな」
確かに、養子に出された訳でもなし、完全なる絶縁など法律上不可能に近いのだ。
「一族が見放した、そんなポンコツがこさえた借金を、一人で全部返した変わり者がいてな」
「──兄、ですよね?」
当時同居していた祖母が亡くなり、同時にアルコール精神病で入院していた件の父も亡くなり、そのどうしようにもないアル中が死ぬまでにこさえた、負う必要ない借金を抱え込み、高校を中退してまで単身渡仏。外人部隊に入って死線を彷徨う事一〇年。その後帰国して警視庁で一〇年。それらで身を削るようにして稼いだ金で、バカ親父の借金を返済した、とは何処かで聞いた話。
「兄が兄なら弟も弟だと、金に目が眩むバカ親兄弟世代を一蹴したのさ。あの爺様も、あれで中々事情通でな」
その側面は、夏休みの広島の辺境で見せつけられたものだ。
「君の素性や事件の裏話は当然殆ど知っている。何せ高千穂一族が掴んで離さない金蔓だ」
その人の根城は高千穂一族の選挙区で、元首相時代の後援会長でもあり、それらを思い返すだに、裏事情に触れない訳がない事を思い知らされる。
「世が諦めた悪を誅した男を輩出した一族が、欲に眩んで義士を二度まで殺すとは何事かと」
武智氏が目の黒いうちは絶対に認めないと凄まれた不破家は、以後手足も首も引っ込めたらしい。
「義士って──」
「政治権力にすがりついて悪事を働く輩共に対する見せしめでもあったのさ。別に君の名誉を守るばかりじゃなかったんだから気にする事はない」
選挙区内には、陳情にかこつけた後ろ暗さで高千穂家に近づく者もいたのだろう。利用する事しか頭になく、誰も正そうとしなかったその御家の恥を選挙区民に代わって正した。
「そんな美談では──」
言いたい事は分からないでもないが、ロマンチストというか、感情的というか。多少なりとも紗生子の病気が盛ってあるようにも思われるその伝聞に乗るならば、
「──最近は忠臣蔵もテレビでやらなくなりましたし」
「昔は毎年末の風物詩みたいなモンだったがなぁ」
と、またしても年寄り臭い紗生子は置いておくとして、その義士を輩出した家柄のような持ち上げられ方は、不破一族には迷惑だろう。恨みに任せて好き放題やったその家の端くれとしては、気の毒な気がしてならない。
史上の義士達と俺の事件を比較するのは恐れ多い事ではあるが、あえて比べるとして明らかに違うのは、その端くれが切腹から逃げて行方不明になってしまった事だ。名誉は名誉、罰は罰。どうせならそこも、赤穂浪士と同じでなくては盛り上がらない。それに残された相続権者は何も悪くない訳で、昔と違って御家が取り潰される事もなければ、端くれには何を憂う事もなくきっちり最後まで罰を受けて欲しかった事だろう。
「感情的な良し悪しと権利は別物でしょう?」
継げるような財を持つ一族に生まれたのは確かに幸運であり、かと言ってむざむざ捨てる謂れもない。制度としてその財の取り分が増やせるのであれば、それをしたところで、
「何ら悪い訳では──」
ないのだ。が、
「そうだとしても、世の中精々感情豊かな人間の集まりで成り立ってるんだ。それこそが正義で、不文律で、つまり無法もいいとこさ。それこそ相続権は相続法で定まってるってのに、それで揉めない家など少数派もいいトコだろう?」
とも言える。
「世を整えるのは法じゃない。社会を形成する大多数の、名も知恵も力もない民草が、それでも善良であろうとする姿勢だ。あの爺さんはあれで、その辺をよく理解しているのさ」
確かに数多ある法は、それでも多くの悪を討ち漏らしており、完璧には程遠い。不完全なそれを補うのは、
「──節度ですか」
「その意味を知る者は多いが、それを実行出来る者は実に少ない」
それ故の、見るに見兼ねた武智氏の横槍だったのだろう。
「法を完璧に知る者など、それこそ少数派の世の中だ。それなら姿勢こそ美しくあらねば、この世はあっという間に──」
紛争地同然の、弱肉強食に成り下がる。
「それは、そうですね」
それ故に、後先も何もなければ法もクソもあったものではない、文字通りの蛮行が目につくのも、また世の常だ。
「要するにだ──」
穀潰しが世間様に迷惑をかけた、はっきりとした形が俺であり兄だとかで、
「他にどれ程御落胤があるモンだか知った事じゃないが──」
「御落胤って──?」
他にも兄弟がいるというのか。
「いてもおかしくないという事だ」
よってその相続権は、不破一族からのせめてもの償いとしたものなのだ。
「──という、ヒヒジジイの教導だ」
「話が進む程、呼び方がひどくなる一方じゃないですか」
「ジジイはジジイだからな」
悪態を吐く紗生子のグラスは、頻繁にその紅唇と卓上を行き来している。が、酒で悪酔いしたところなど見た事がない女の事だ。
「──今夜は機嫌がいいのさ」
「はあ」
「誰かさんに関わる大事な話でもある。口が悪いのは愛嬌だ」
「そうですか」
「相変わらず乗りが悪い」
「悪乗りされるのが怖いだけです」
「言うようになったな」
迂闊に喜ぶと、心身共にいつ仕掛けて来たものだか知れない。何せ二人切りだ。
「まぁそれは置いておくとしてだ──」
その置いた物を忘れさせる事こそ肝要なのだが、
「──折角、刑事的にはカタがついた事でもある。それに合わせて民事もカタをつけていいかもな」
要所で真面目になる、掴みどころの難しい女は、俺をよく知る理解者でもある。
「はい」
何より端くれの縁故は、意外にも大仰な家柄に繋がり、そういう事でまた妙ないざこざに巻き込まれるのももう御免だ。只でさえ、現任務で国家機密に触れるような状態であり、その上プライベートまで面倒なのではいい加減気が休まらない。俺は不特定多数の、それこそ名もなき民草でありたいのだ。
「君の戸籍は兄御を介して高坂に繋がるし、勿体ないと思ったんだが──」
重ね重ねも、その籍にはもう戻れない。
「これまでも、先生の、台湾のルーツを支えに生きて来たので、それを大事にしたいと思いまして」
それにそのルーツは、俺が好む平々凡々とくれば、ごちゃごちゃしている日本国籍など何の魅力も感じないし、無国籍でさえなければ身一つ、何処でだって身分を証明して生きていける。
「何より台湾で、俺は人間にしてもらえましたから」
「──そうだな」
と小さく嘆息した紗生子が、
「そういう事で進めるよう、武智さんには話しておく」
結果はまた教える、と言った後日。果たして俺の日本国籍は、希望通り除籍された。が、先の将来の俺がこの事を思い返せば、これもまた紗生子の遠謀だった事に気づくだろう。ようやく忌まわしい縁故の一つを捨て去る事が出来たのも束の間。今後俺は、再び複雑な縁故のしがらみにしがみつかれる事になる訳だが、それはまた少し先の話だ。
「その手間に免じて、また一つ聞きたいんだが?」
「何でしょう?」
「どうして一人で襲撃事件をしたのか。個人的に、その動機が知りたいと思ってな」
「事情の深いところ、という訳ですか」
「事実は知っているが、心の内はやはり直接聞いてみたいモンだろう?」
聖夜のせいか。思い出話は次第に、深奥に触れ始める。




