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バカンス③【先生のアノニマ 2(中)〜27】

 警視庁出頭日の夕方。

 俺は高坂宗家にいた。取調べは終わっていたとはいえ、結局警視庁から逃走(・・)という型となった俺達は、紗生子の指示でそのまま高坂宗家へ向かい、そのまま訳もなく留め置かれていたためだ。急に押しかけたにも関わらず昼メシをご馳走になり、部屋を宛てがわれ、三時のおやつまで。

「たまにはこういうのもいいな」

 三〇畳程度と思われる大部屋は、恐らく一般的な応接間ではない。テレビ、ソファー、テーブル、書棚まではありがちなものだが、大仰なベッドまであるのだ。紗生子はそこで大の字になっている。

「どうだ? こっちに来ないか?」

「ご、ご冗談を」

 かくいう俺は、テーブルとセットになっているソファーを死守だ。そこから離れない言い訳がましく、おやつ時に出たよく分からない飲み物をちまちま啜っている。これが実に美味い。

「ホントつれないヤツだな君は」

「昼寝したらどうです? 最近は特にお忙しいかったんでしょう?」

 俺が大使館で暇を持て余していたのだから、その分だけ紗生子の負担は増えている。もっとも俺の分だけなら大した事はないだろうが、この女のやっている事は、表裏の顔を器用に使い分けつつも遺漏なくその顔通りの働きをし、かつ結果を叩き出し続けているという凄さだ。その上で俺の尻拭いをしているとあらば、小憎らしい女ではあるが流石に悪い気がしてならない。

「何だか身体のお加減がお悪いようですし」

「ほう、気づいたか? 人の心に疎い分、フィジカルには敏感だな」

「ホントに何処かお悪いんですか!?」

「だから一緒に寝ないかと言ってるんだが?」

 そうはいっても、やはり色々と忙しかったらしい。

「睡眠の意味ですかそれ?」

「それこそ『寝言は寝て言え』だな。大の男と女が昼日中に部屋を宛てがわれれば、する事は一つだろうが」

「百歩譲ってそうだとしても、人様のお屋敷でそういう事をする気になれないんですよ俺は!」

「妙な事を気にするなぁ君は」

「しますよ普通!」

「折角の好意を無駄にしていると思うがな」

「有り難く受けとってますよ!」

 高坂家ともなると、応接間の出入りはそれなりに頻繁だろう。つまり、人目につかないところで一休み出来るよう計らわれての現状だ。が、

 いつまで──

 一休みさせられるのか。

「常識など、辿ればウソで塗り固めた偏見でしかない。そんなモンに縛られてもアホ臭いだけだぞ」

「何の話ですか」

「好意を無駄にしている話だ。例えば──」

 この部屋は、元々は兄嫁(真琴氏)の部屋らしい。

「二人が婚約後、スイスへ渡る前に愛を育んだ部屋さ」

「ぶは」

 その意味ありげな言い回しに、つい(なまめ)かしい想像が働き、思わずむせた。

「あ、兄が登場し過ぎてませんかね最近!?」

「まぁ、似たような経路をなぞらされているからなぁ」

「はあ?」

「──にしても、もう少し人様の好意について考えた方がいいな君は。いま噴き出した分で何万円分だそれ」

「何がです?」

「その茶が何か知っているのか?」

「いえ──」

 烏龍茶に似た色味と透明感だが、ほんのり花の香りのような深みと甘味が残るそれは、

「甜茶ですか?」

 俺が知るのはそのレベルだ。

大紅袍(だいこうほう)だ」

「えほ!?」

 啜っていたそれを、また噴き出しそうになった。世界一の高級茶と呼ばれる、恐ろしく高いお茶だ。

「聞いた事はあったようだな」

「ま、まぁ一応、これでも台湾に住んでた事があるモンですから」

「あーそうだったな」

 コントだか漫才は置いておくとして、日本円なら一〇〇グラム数百万という信じられないような高級品を、果たして俺は何万円分噴き出しただろうか。通りで美味い訳だ。

「真っ昼間から酔わす訳にもいかんし、後の会談にも差し支える。が、細やかながらも祝賀を評したい。そうしたお心遣いだぞそれは」

 会談、祝賀、お心遣い、などとまた俺の知らないところで何かが動いているようだが、

「更に言えば、つき合わせの菓子は──」

 橙色のスライムのようなそれは、目鼻をつけると何かのゆるキャラに見えそうなものだが、実はそんな軟弱な物ではない。

「──三不粘(サンプーチャン)ですよね」

「何だ、食った事あるのか?」

「ありませんが、台湾暮らしの経験がありますから名前だけなら」

「あーそうだったな」

 茶に見合う高級菓子という事なら、色味といい食感といい、中華料理の達人でさえ失敗を恐れて作りたがらないという、幻の菓子だ。

「何なんですか、この手放し感は?」

 結論、そういう事になる。

「何って、喜ばしいから喜んでおられるのさ」

「相談役が、ですか?」

「分かってるじゃないか」

 などと言っていると、タイミングよく耳目に相談役の御尊顔と玉声が届いた。

「噂はするものだな。お呼びだ。行くぞ」

 

 呼ばれて招かれた部屋は、今度こそ応接間だった。が、窓もない手狭な会議室のようなそこは、普段何の部屋として使われているのか。そうした違和感は、部屋の中にある各パーツ(・・・・)の配置のせいだろう。中央に単座の簡素な木製椅子が証言台の如く据えられ、その後方以外を囲む配置で三方にエグゼクティブチェアと机が一組ずつ置かれている。そう、

 まるで──

 刑事法廷をあしらうかのような配置だ。先に入室した紗生子が、迷う事なく被告人席の左側へ座った。一般的には検事がよく座るサイドだ。俺は何を言われた訳でもないが、

「ここ、でいいんでしょうか?」

 と、その対面に座ると、

「ああ」

 と検事(・・)が短く答えた。俺は弁護人役らしい。溜息を吐く間もなく、続けて入って来た相談役が、やはりど真ん中の席にふわりと座る。

「ご機嫌宜しくてご両人?」

 稀代のフィクサーは裁判官。相変わらずの重厚な存在感だが、機嫌が良さそうに見えるのは気のせいだろうか。随行で立ったまま近侍している佐川執事は、差し詰め書記官といったところだろう。この人も思えばタフな人だ。これまで幾度も紗生子の荒事に巻き込まれてきただろうに、本来業務では実に紳士であり、今も相談役の斜め後で薄く笑みを浮かべている。その主従に向け、紗生子が小さく頷いたところで、従者の方の顔色が真顔になった。最後に入室して来たのは、

 な──

 何と、警視総監(高千穂兄)殿だ。その牙城は、今も尚ミサイルの着弾で動乱の真っ只中の筈だが、四つ星を双肩につけた制服姿のまま、どう見ても勤務中に途中抜けして来たような形といい、こちらは従者の一人もつけていない心許(こころもと)なさといい、これまたどうした事か。

「私は被告人という訳ですか」

 今春の学園の入学式以来の肉声が少し弱々しく感じるのは、これは気のせいではないだろう。顔はやつれ、精気も萎えているように見える。

「そこ以外に貴様が腰を下ろせる席がこの部屋の何処にあるというんだ! さっさと座れ!」

 最早、どの部分が逆鱗だったのか分からない程の瞬間沸騰を見せた紗生子が、容赦なく噛みついた。というか、獰猛に食いちぎらんばかりの勢いだ。それにしても、いつもにもまして喧嘩腰の検事(紗生子)は、この被告人に対してもやはりタメ口で、この女の口撃力はとどまるところを知らない。

「役者は揃いました。紗生子さん、お始めなさい」

「──はい」

 裁判官(相談役)が静かに場を仕切り始めると、紗生子の返事と同時に部屋が薄暗くなり、後方天井からスクリーンが降りて来た。唯一、身を捩らなくてはそれを見る事が出来ない被告人に、配慮の余地なしと言わんばかりのそれへ、早速映像が映る。四月の学園入学式で高千穂兄が祝辞を述べているところから始まったかと思うと、学園内を視察する場面に変わり、何人かのいけ好かない随行者との会話らしき音声が合わせて流れ始めた。

「──どうだ?」

「各所に防犯カメラやレーダーが仕込まれています」

「ターゲットは女子寮最上階で間違いありません」

「噂通りの武装のようです。屋上の給水棟は水を引いていませんでした」

 黒い背広にサングラスをかけるようなSPなど、警視庁には存在しない。明らかに子飼いのレジオンだろう。その最後に、もう一度口を開いた高千穂兄の声は決定的な内容だった。

(さら)うのは難しそうだな。校内外はCCが固めていれば、下手な要塞より手強そうだ。──よく見ておけよ」

 次に出てきたのは盗聴記録らしく、声紋分析で高千穂兄だという表示と共に、オーディオスペクトラムが録音音声の再生に同調して激しく上下している。その声が、ゴールデンウイークの研修旅行スケジュールを確認しただの、盗んだだの、万来(ワンライ)の香港本社レジオンに渡しただのと、中々ズケズケ吐いたものだ。更に、教育実習でエージェントを紛れ込ませるとか、安美鈴(アンメイリン)の護衛を裏切らせたとか、アンが米国大使館へ向かう道中で拉致するとか。レジオンによる襲撃事件の裏づけの数々が、首謀者を前に開示されていく。

 驚くべきは、文化祭での伊豆の事件記録だ。レジオンの巣窟と化していた伊豆諸島の警察拠点を攻撃したあの日。初めてお目にかかった極超音速巡航ミサイル(  H C M  )によって、危うく撃墜されかけたあの裏切りは、何とドロシー艦長所以のものだった。正確には、今春の海外出張(ウクライナ派遣)の折に思いがけずお近づきになる機会を得、二度と会う事はないだろう、次にすれ違う時は己の職分を顧みず再起不能にするかも知れないと思っていた、伊国大使館のクソ駐在武官殿による脅迫だ。イーグル一族のあの鼻摘まみ者は、いつの間にか本省勤務(ペンタゴン)に戻っていたらしく、捕まらないと高を括ったものか。大胆不敵にも平文のメールによる脅迫文が、本省にある当たり前のアドレスから艦長宛てに送信されていた。本国(米国)サイドはこの男がまさに癌だったようだ。修学旅行のあの騒ぎ(・・・・)も、全てはこの癌由来のもので、その動きを紗生子なり佐藤先生(FBI)が察知していなかったらどうなっていた事か。形勢は逆どころか終わっていた可能性すらある訳で、想像するだに嫌な汗が出る。仮にそうなっていれば、俺や紗生子は真っ先に粛清されていて今の現実はない訳で、返す返すも際どい任務だ。

 勝手に汗ばむ俺をよそに次々に開示される資料の顛末は、何と中国の対米強硬派と結託して、双方の国内現政権の打倒を目論んでいたという内容であり、

「これは、何とも──」

 思わず、声が漏れた。つまりは世に言う、最近流行りの陰謀論者だったようだ。表面的にはお互い敵対しているにも関わらず結託とは、権力や政治の世界は何とも分かりにくい。要するに、まずは自国内で地盤を築き上げ、その後世界を目指すための戦略だったのだろう。日米中の不届き者達にとって俺達は敵な訳で、敵の敵は味方という典型的なヤツだ。

 副大統領に報告されていたアンにまつわる極秘情報の全ては、彼の鼻摘まみ者によって盗まれており、これはイーグル家の不始末という事になるだろう。アンの秘書として来日した副大統領補佐官クレアの娘エリカから発した情報が、その母娘(ホットライン)を介してアイリス(副大統領)に渡る過程で、それをまんまとあの男に抜き取られていた訳だ。鼻摘まみ者にそれが出来る立場を与えていたそれは、単にイーグル一族の甘さであり、身内に対する緩みが政権の瓦解を招く例は、説明するまでもなく古今東西枚挙に暇がない。それが中国の対米強硬派に渡り、穏健派の(アン)首相以下その一族郎党に危機をもたらしていたとあらば、その罪は世界に波及していると言っても過言ではなく、これを罪作りと言わずして何なのか。その上更に悪い事に、彼の鼻摘まみ者と高千穂兄は、何と若かりし頃の高千穂兄が米国留学した折の悪友だったという解説には、最早呆れを通り越した出来過ぎ感だ。これにより、日米中三国の不届きな輩共による同盟関係が生まれた挙句が、今年の度重なる襲撃事件という訳だった。

 彼の元伊大使館駐在武官殿は、既にスパイ罪で拘束されているようだ。あくまでもそれは、手取り早い事実で拘束するための所謂取っ掛かりの事件であり、あれでも一応俺と同族の軍人の事ならば、末は軍事裁判所(所謂軍法会議)送りだろう。反逆罪で起訴されても何らおかしくない所業だが、それをイーグル一族が認めるかどうか。水面下の争点は、結局そこだろう。何せ老舗の軍需産品大手の創業家だ。下手な対応をすれば倒産すらあり得る。因みに艦長も利敵行為で既にお縄にかかっているようであり、体調を崩して退艦したとはこの事だったようだ。恐らくは脅迫に負けただけではなく、何かしらの弱みを握られていたのだろう。極秘艦船の艦長に就くような高官に、裏切りの末路が想像出来ない訳がないのだ。これら本国(米国)関連の報告は、佐藤先生から引き継がれたFBIのものであり、その調査力は流石の一言に尽きる。

 米国側で上がった狼煙にすぐ様反応するのは、日中のうち間違いなく中国だ。法体系が極めて国体の維持に偏っている彼の国では、この手の犯罪は情け容赦ない。国内の謀略はそれこそ権力でどうにでもなるだろうが、対岸から上がった火の手をどう消すか。そうこうしている間に暗躍した対米強硬派も追い詰められるのではないか、と思っていると、スクリーンにニュース速報が現れた。【全人代常務委員会委員長】逮捕の報だ。党の中央政治局常務委員会を構成する七人は、一般的に【チャイナセブン】と呼ばれる事実上の中国最高指導部であり、そのトップが国家主席。次点が国務院総理(所謂首相)であり、つまり美鈴(メイリン)の父だ。逮捕された御大尽は、その次の第三席に当たる。

「序列三位が呆気なく──」

「流石に早いな。これで当座の米中関係は快方に向かうんだろうが、まずは戦後処理(・・・・)だろう」

 つまりは関係性の修復と、損なわれた利益の確認と、その補填についての話し合いだ。何処までオープンになるのか知る由もないが、表沙汰に出来ない事が多かった双方の事ならば、恐らく殆ど水面下で行われてそのまま終わる。スクリーンはそこで終わった。

「さて、米中は動き出した」

 入れ替わりで紗生子が、高吟するが如く論説を始める。

「各国間で合同捜査が展開されての事だが、司法制度にそれなりの隔たりがある三国の事だ。各国が捕まえた悪党の後処理は、各国に委ねられている」

 日本は何処が──?

 やると言うのか。

「──何処だと思う?」

 俺の心理を読んだ紗生子が、惚けてみせた。

「何処も出来ないですよ、こんなの」

「即答だな」

 俺が断言出来るようなレベルの事だ。この女が分からない訳がない。

 高千穂兄(警視総監)の罪は、日本国内法では最高刑に類される【外患誘致】だ。オラが被害にかかる人身売買すら霞んでしまうような、稀に見るその重罪は、内乱罪と並ぶ極刑の双璧であり、未だ適用事例のない大罪だ。それを、権力におもねる警察や、所帯の小さい検察特捜が最後まで捜査し尽くせるとはとても思えない。

「アメリカ側は説明不要の天下のFBI、中国側は特定の組織云々言う前に、政権・政党中枢の鶴の一言でどうとでもなる。それらと見比べると──」

 日本は巨悪を野放しと言われても当然の軟弱さ。

「──故に、我が国ではCCがやる」

 ──やっぱり。

 だからこその、法廷を模したようなこの場の配置なのだ。しかし秘密裁判とは、何とも古臭い。

「法整備が追いついていない事をよい事に、世に蔓延る悪を見逃す訳にもいかん。既存の捜査機関が頼れないというのは何とも情けない話だが、米中を納得させるためにはやむを得んだろう」

「──耳が痛いです」

 そこは体たらくにも、俺の過去の勤め先でもある。

「何故君が謝る。国家の統治機構に問題があるだけの事だ。確かに警察は組織力を有し、それなりに捜査力もあるが──」

 虎の威を借る狐が如く政治権力を隠れ蓑にする、どうしようにもない寄生虫に対し腰砕けになりがちだ。大多数を占める法知識に乏しい国民(素人)に対し圧倒的優位な立場を独占する一方で、強者、特に政治的権力を有する者には頗る弱い。組織内で圧倒的少数派の筈の警察官僚キャリアが政治的であるためだ。只でさえ単純明快な階級社会の事でもあり、上の言う事は絶対。その上役が権力の犬では、メスを持たせてもらえる訳もない。こうした病巣が拡大の一途を辿るのは、

「──内科的と言うより、終末医療的な組織体質故だろうな。他力本願のお手上げ状態で、匙を投げている」

 紗生子の警察に対する不信感は、何処までも痛烈な批判を伴っている。

「一方で、権利の中枢に切り込むといえば検察特捜だが──」

 組織力という点では脆弱と言わざるを得ない。しかも(国家)をまたぐ捜査ともなると、過去の事例(ロッキード事件など)を見ても明らかだが、最終的には治外法権の壁を乗り越えられず、それどころか既にCCが構築しているような協力すらまともに得られない。結局は警察と同じだ。やはり癌を切るには及ばない。

「もっとも、治外法権という点においては、立場を今回の米中に変えたところで同じだが──」

 双方が日本と異なるのは、政治・外交・軍事・経済に代表される圧倒的な国家力でそれを乗り越える力を有する事だ。つまり、別の事でしっかり元を取る力を有し、それを確実に要求し、実行する。それをあからさまに発信し、押し通す強さがあるという事だ。結局のところ、既存の司法警察権を有する組織は行き詰まっている。

「他方、調査力を有する準諜報組織(公調や内調など)は──」

 調べる事は出来ても訴追能力がない。結果として最終的にそれを検察に頼まざるを得ない段階で、顛末は見えている。

「より直接的、包括的に、民意を問う(選挙で決する)という手法もあるが、それは議員に限った事だ」

 それにすがる構図の周辺者、今回の例では元首相にして政権与党重鎮の長男という高千穂兄に見合う罰など用意出来る訳もない。更に言えば、議員連中も落選したとて党の力を傘に罰を逃れる事がザラで、そうこうしている間に世間の目から溢れ、忘れ去られた事をよい事にちゃっかり元の木阿弥という光景は最早定番だ。いくらマスコミが正義のペンを振りかざそうが、オンブズマンが立とうが、辿り着くのはやはり訴追権限を有する検察、またはそれをお膳立てする警察な訳で、それこそ結局元の木阿弥。結論として、何も解決出来ない。

「要するに、だ──」

 日本という国は、権力の横暴を食い止める術を持たず、

「──決定的にそれらに甘い!」

 と、延々続く紗生子のご高説は、差し詰め論告求刑の前振りのようなものだろうか。

「今の日本においてこうした輩を罰する事が出来るのは、これまで羅列した問題点を全てクリア出来る我らだけだ。誰かさん風に言えば、箸休めの茶漬け(CCの蔑称)といったモンだがな」

 ここへきてそれは、更に痛烈な皮肉だ。その茶漬けに処断される事を待つばかりの高千穂兄の、過去の言をあげつらう紗生子のそれは、明らかに往年の鬱憤ばらしだろう。だが一点、

 ──司法警察権はないんでは?

 それに組織力も乏しいのではないか。

「確かに我が組織は司法警察権を有せず、警察程の組織力を持たないが──」

 各組織に浸潤し、目的を達成する能力を有する。それは俺の周囲に存在する紗生子を筆頭とするCCの面々のステータスを見るだけでも明らかだ。更に言えば、検察特捜程の少数派でもないらしい。

「これまでの守勢は、悪を一網打尽にするための忍受だった。それが新たな被害を生み出す温床となったと言われれば、確かにそうだ。言い訳はしないし猛省を要する点でもある。よって──」

 CCならではのやり方で、司直に委ねる以上の苛烈さと、世に意義を見出すための罰を用意する。

「──ムショにぶち込むのは簡単だが、それだけでは無駄に国民の血税を食い潰すだけだ」

 刑務所は税金で運営されている。それ以上の苛烈さと、

 ──世に意義を見出す?

 この極悪人に対してCCがそれを見出せるのであれば、その一事だけでCCの存在意義は大きい。思いがけないところで、

「CCに、そんな側面が──?」

 それどころか、深奥の一部のようなものを覗く事になろうとは。

「平たくは義侠の徒です。以前にも言った通り」

「君はCCをドンパチだけの野蛮な集団だと思い込んでいるようだがな」

 相談役から向けられた柔らかい笑みと、紗生子の鋭い突っ込みが妙に染みたかと思うと、目の前がボヤけた。

「──な」

 やはり身体の何処かで、過去を引きずって生きていたようだ。長年気張っていたものが、まさかこんなところで解放されようとは露知らず、その不意打ちが余計に目を潤わす。

「我々は、自らを顧みず巨悪を討とうとしたあなたの義侠心に、いつか必ず報いたいと思っておりました。それが今日この日までズレ込んだ事は、大変申し訳なく思っているのです」

おやつ(・・・)はその心ばかりの謝意だと言って聞かせたろうが。今頃だらしないぞ」

「す、すいません」

 途端に鼻がむず痒くなり、啜っていないと鼻水が垂れてしまいそうだ。

「まあいい。次は被害者の陳述だ」

「──は?」

 日本の刑事法廷における被害者参加制度のようなものらしいが、それを俺がやらされるらしい。

「何か勘違いをしているようだが、そこは遺族席だぞ。弁護人などこの法廷にはいない。そもそもがこんなヤツに弁護は不要だ。今まで散々守られてきたんだからな」

 何とも野蛮な法廷だが、感情に流されるなら確かにそうだ。

「イスラム刑法にいう【キサース(同害報復)刑】方式だ。どうする?」

 それは裁判官の監視下において、被害者が蒙った被害同様の苦痛を加害者に与える刑罰の事だ。基本的に殺人と傷害に適用される訳で、必ずしも高千穂兄の所業とは合わないのだが、この際拡大解釈すれば似たようなものだろう。因みに法解釈における拡大解釈は、大いに違法性を孕んでいるものだが、それこそもうこの際どうでもいい。

ディヤ(血の代償金)の相場は?」

「ベソをかいたかと思うとこれだ。子供扱いするつもりはないが、それを語る君はやはり、国際感覚に優れたマイノリティーだとあえて言っておく」

 この世において、本当の意味での民主主義制度で統治されている国家・地域は、それこそマイノリティーだ。その極少数派の一つと言ってもよい日本では、あたかもそれが当たり前のような節が国民感情として蔓延しており、それこそが所謂平和ボケの主因ではないか、とは俺の密かな分析だが、紗生子ならより高尚な事を仰るに違いない。

 キサース刑において、例えば殺人事件の場合。犯人に対し、遺族が裁判官の前で、死刑か賠償金(ディヤ)のいずれかを望む事が出来る。後者の場合、犯人はディヤで死を免れる事が出来る訳だ。が、一般的には相場が決まっていたりする訳で、同刑を採用する国によっては経済格差や人種差別により、軽い罰になり得たりする。が、紗生子によると、

「相場は君次第だ。好きな額を言え」

 それは余りにも野放図だが、高千穂兄の所業を思うと、それもそうだとも思う。この男の罪は、俺が知るだけでも相当なものだ。人身売買に留まらず、血縁由来の地位や現在の役職の力を余す事なく悪用し、悪の限りを尽くしている。その成れの果てが、CCの二番煎じを企んでの国家転覆の陰謀という事だ。それを、

「俺の意見だけで断罪する事が適当とは思えません」

 だからといって、CCの理念のようなものの一部を垣間見た今、安直に死刑を望んでは、何らかの利益を捨ててしまうような気がしてならない。米中に限らず、この男の害が及んだ全ての関係者が完全に納得するような結末など、俺もそうだがCCでさえ引き出す事など出来ないだろう。それなら、少なくとも俺よりはマシな結論を出すだろう、

「──主幹にお任せします」

 という答えが、俺にとっての満点解答だ。知恵の回らない者が感情的に結論を出すより、この手の事で間違わない女に預けた方が良いだろう。

「分かった。その前に折角の機会だ。言いたい事があれば言え」

「はあ」

 と言われても、例えこの場がイスラム刑法方式とは言え、ここは日本だ。被告人席にいる男の所業は、前者であろうと後者であろうと許されるものではない。罪を償うべきである事は分かり切っている。が、それを言うなら俺もそうだ。今の日本において仇討ちは余りにも前時代的であり、今では世界的にも先進的な民主主義国家となっているこの国においては、やはり許されるものではない。それを思うと、完全なる被害関係者としての立ち位置から物を言う気にもなれない。

「今更何かを語る気には──。後事はCCに、主幹にお任せします」

「またつまらん思慮を巡らせたか。如何にも君らしいが、その席にいる者としての発言なれば、この場は尊重するとしよう」


 結局、高千穂警視総監殿は、彼の秘密裁判で何も語る機会を与えられず、紗生子の独演会が終わると同時に入室して来た数人の男達につき添われて退室した。コンタクトの中に見知らぬコールサインがチラついていた事から、確かめるまでもなくCCのエージェントだ。早速CCの監視下に入ったらしく、以後その男の動向に触れる度、俺はCCの存在意義を痛感させられる事になる。

 伊豆諸島と警視庁本部の爆破事件(・・・・)の捜査の進捗は、紆余曲折を経て思わぬ方向に発展。使用兵器の残留片を調べれば、最低でも関連国軍の介在ぐらいは漕ぎ着けるものと思われたそれ(捜査)は、それこそ忖度があったものか。結局のところ何故か、既に死亡している万来社員数名(・・・・・・)による爆弾テロ(・・・・)という事で終結した。被疑者死亡による送致(書類送検)というヤツだ。世界的人材派遣会社の万来(ワンライ)グループ社員が、あからさまな破壊工作で検挙された事例は世界初であり、この茶番により万来は、噂通りの闇部門を抱えているという疑惑が大々的に喧伝される事になる。

 高千穂兄の、裏の力の源泉だった万来日本支社は、この疑惑の直撃により一〇〇%子会社だった同日本法人の株価が暴落し、呆気なく経営破綻した事で日本市場から撤退。日本法人については、手を差し伸べた高坂グループの一企業に吸収合併され、消滅した。つまり高坂は、万来グループ有数の一大拠点の表裏(・・)を、殆ど労せず二束三文の値でそっくりそのまま手に入れたという訳だ。

 また二つの爆破事件のため、当時の警視総監だった高千穂兄は、捜査の結末を待たず引責辞任。政界への道は当然断たれ、後は先述した元万来日本法人の名ばかり顧問として天下った。要するに余生は、高坂とCCの二重監視下で飼い殺しの人生という事だ。外患誘致という前代未聞の罪状での立件を見送られ、生き長らえさせられたのは、ひとえに可能な限り損害賠償の責めを負わせるためであり、裏組織の立ち上げ資金として現職中に溜めていたという膨大な裏金は、そっくりそのまま、事後調査により判明した高千穂の悪事の被害者及び犠牲者の遺族への賠償金となった。財力こそ失ったが、政権与党重鎮という元首相の御曹司にして警察官僚OBという華麗なる外面(ステータス)は剥奪されず、高坂グループ及びCC管理下で、その手管の一つとして活用される事となる。裏切れば即刻、外患誘致で告発する手筈が整っているとかで、その公訴時効は二五年。法定刑は絶対的法定刑(裁量的選択の余地がない刑罰)が採用される数少ない罪であり、死刑のみだ。つまり、裏切りは死あるのみ。この先の四半世紀をその重圧に直面させられ、その上で監視されるそれは、事実上の死刑囚と言っても過言ではない。傍若無人の我儘人生を謳歌してきた男にしてみれば、そのストレスを拷問と呼ばずして何なのか。それに苛まれる余生とあっては、時効が完成する頃には地獄に落ちているか、廃人になっている事だろう。高千穂にしてみれば、こうなる前にさっさと死んでいた方が楽だったに違いない。

 何にせよ、悪の勝手知ったる悪党だ。それを吸収する懐の深さとその積み重ねの妙が、今の相談役にしてCCという組織の精強さの根幹なのだろう。その手口はまさに、FBIを秘密警察に変えた初代長官フーバーの如きであり、それだけをとれば世にも恐ろしい不吉な組織だが、世界を見渡せばこうした例こそがスタンダードだ。逆にCCのような防諜機関が、義侠を尊び運営されている事こそ奇跡と言っていい。マンパワーの組織は、それを構成する個々の為人(ひととなり)が組織の相を決定づける。その見事さは、創設者として未だ君臨する相談役や、その右腕と言っていい紗生子を始めとする重鎮の、徳の賜物と言い切ってよいだろう。秘密組織は決して褒められたものではない。が、フーバーと相談役(高坂美也子)が決定的に違う点は、権力乱用のための秘密警察ではなく、あくまでも民草のためという一事に尽きる。若かりし頃の相談役が、人のよい事で知られる現高坂グループ会長の妻となり公私を支えたのも、篤志家として名を馳せた元首相高千穂隆一郎の秘書になったのも、全ては為世為人(いせいいじん)を貫くためだったのだろう。とは、俺の勝手な想像だが、そう的外れでもないのではないか。

 米中の捜査が先行する中で、日本側のそれが遅々として進まず、大した盛り上がりを見せる事なくいつの間にか終わってしまった事は、CCが良い意味で表裏の全て取り仕切りっていた事の証左であり、その詳細に俺が関与する事もなければ、また別の話だ。こうして今春から続いたレジオンの襲撃事件は、一応の終結を迎える事となった。


 その日の夕方。

 こういっては厚かましいが、てっきり晩メシも高坂宗家でそれなりの物を食べさせて貰えるものと思っていた俺は、そのまま紗生子と一緒に学園へ帰校する事になった。俺を取り巻く悪い噂の解消に目処がついたため、早くも学園業務の復帰が許されたのだ。それはひとえに、警察と学園の、マスコミ対応の早さのお加減だった。

 疑惑の学園ALTに対する警視庁本部での取調べ結果は、白黒に関わらず近々広島県警の捜査本部がマスコミに流す予定だ、とは担当していた刑事が言っていた事だ。それは俺に対する取調べの内容からも、現場サイドが潰しの(ふるい落とし)捜査である事を認めたようなもので、警察としてもこの騒動から早く解放されたいというスタンスが透けて見える。

 それより早いのが学園側の対応だった。警察発表を待たず、何と既に記者会見を行っている最中らしい。例によって、佐川執事運転の高坂の送迎車の道中で、俺の横で踏ん反り返る紗生子が徐に車内テレビをつけると、その画面にいきなり理事長が映った。映像はどうやら録画らしく、日頃柔和な雰囲気を帯びるあの理事長が、毅然たる面持ちで淡々と語っている。警察側からまだ結果がもたらされていないというのに、当然犯人ではなかった事を断言する内容のそれは、完全なるフライングだ。

「千鶴のヤツも、中々やるじゃないか」

 理事長は当然、状況の推移をリアルタイムで把握していた訳で、要するに待ち切れなかったのだろう。そのフライングは単純に、ここのところしばらくの間、思う様興味本位のマスコミ報道に叩かれ続けた事に対する立腹の意思表示だ。件のALTと学園の名誉が貶められた事に対し、学園として行き過ぎた報道を行った媒体には名誉毀損で訴訟を起こす事の意思が表明された、と、民放の情報番組が報じていた。

「俺は別にそこまでは──」

「何を言うか」

 犯人でないなら、つまりは有りもしない虚構で名誉を害された事実しか残らないのだ。例え俺がそれでよくとも、学園が辱められた事実は当然消えない。それこそ、

「ごめんで済めば警察はいらんだろうが」

 という事だ。

「それはそうですが──」

「報道のプロたるモンが、ガセネタ(・・・・)に踊らされて好き放題やってくれたんだ。その責任はきっちりとらさんとな」

 リアクションを躊躇しては逆に何かを勘繰(かんぐ)られる、とは、如何にも他人の褌で相撲大好きの紗生子らしい。が、確かに紗生子の言う通りだろう。それが紗生子のやり方だと、

「千鶴がぐずぐずするようなら、ひどかった連中を夜毎闇討ちしてやろうと思ってたんだがな」

 などと、これは最早賠償請求ではなく報復だ。それこそ紗生子なら、間違いなくやっただろう。

「そんなだから、早速理事長が動かれたのでは?」

「かも知れんな」

 楽しみを奪われたか、と嘯く魔女が鼻で笑って吐き捨てたその裏で、やはり収まりがつかなかったのか。後に週刊誌や情報誌、業界誌などの諸雑誌を発刊するいくつかの出版社が倒産し、同時に今日日のネットメディアを席巻する運営サイトのいくつかが突然消えて大騒動になったのは、間違いなく紗生子の闇討ち(・・・)だろう。何をやったものか俺の知るところではないが、何れにしても紗生子の事なら、力ずくか金ずくだった事は想像に無理がない。

 一方でその後、大手メディアは揃って謝罪報道に転じた。それがいつになく後を引いたような具合だったそれは、相談役が動いたのか。またはその人を意識したメディア側の、それこそ忖度だったのだろう。マスコミに対する高坂の存在の大きさは、紗生子が白昼堂々学園を襲撃したヘリを撃墜した時にも感じた事(上巻5話参照)だが、どうやら今回も最終的に、そうした力学が働いたようだ。そんな力を常々疎ましく思っていたメディアが、ここぞとばかりにやり返そうとして見事に返り討ちに合った。そんな具合に収まった一連のメディア対応もまた、俺などには直接関わりもない別の話だ。

 結果はどうあれ、俺が関係各所に重大な危機を招いた事に変わりはない。この際、自己の迂闊を呪ったところで、一連の騒動が起きた事実はそれこそ消えないのだ。

「今更ですが、只々申し訳ないのは──」

 学園関係者や、相談役を始めとする高坂宗家の方々、更にはアンや本国中枢。最早言い出せば切りがないが、要するに日頃俺の何かを支えてくれている人々には、本当に合わせる顔がないとはこの事だ。が、それを紗生子に、

「気にするような事じゃないな」

 と、バッサリ切り捨てられた。

「毎度の事だ。今に始まった事じゃない。吐いて捨てる程の事だ」

 小物の気にする事じゃない、などと、矢継ぎ早の容赦ない追撃は、一見すると相変わらずの高飛車な憎まれ口のようなものだが、今となってはそれが染みてしまうから不思議だ。端的で短いフレーズを重ねるそれは、また泥沼に沈み込もうとする俺を、次々に繰り出す手で引き上げてくれるようで。悔しいが、少し鼻先に力を入れないと、瞬間で何かが溢れそうになる。

「──ですか」

「目に余る梟雄にゲンコツを食らわせたヤツが悪党扱いされるなど、この国の正義中毒も大概としたモンだろう」

 中枢神経系に存在する神経伝達物質ドーパミンが、時として依存症をもたらす事が語られるようになって幾年月。脳内の快楽中枢と呼ばれる領域が刺激され放出されるそれが、他人の歪みに対して正義の制裁を加える事で過剰に出るようになると、その快楽に溺れるようになる。矛盾塗れの世において大なり小なり存在する、ありとあらゆる歪みが許せなくなるという厄介な依存症だ。これは薬物使用や性行動で得られるエクスタシーと何ら変わらない。

「分かりやすい正義を上っ面で騙る輩など、マ○かきを覚えた猿のようなモンだ」

 ハハハ、と笑い飛ばす紗生子のそれは、例によって親父臭さ満点で、聞いて呆れる口汚さだ。が、

「そんな社会風潮は、日頃安っぽい正義を標榜して世論をあおるマスコミの責任だ」

 自らは痛みを伴わない立ち位置で、物事の良し悪しや背景を掘り下げる事なく、絵空事を奉っては一方的に痛烈な批判を浴びせる。それこそ紗生子ではないが、人の褌で好き放題相撲をとっている構図だ。が、紗生子がそんな質の悪い正義中毒者達と決定的に違うのは、最後は自分の責任でけりをつけるところだろう。その最後の部分こそが、まさに決定的なのだ。

「文句ばかり言って何でも反対で悦に浸っている野党みたいな感じですか?」

「いざ政権を担えばボロボロだった事が何度あったモンだかな」

 要するに、分かりやすくは実際にやってみてから文句を言えという事だ。普段の紗生子は確かに態度がデカくて横暴で、言い出せば切りがないが、最後には必ず責任をとるというその一事において、俺はどんな状況でも絶対的に紗生子を支持するだろう。

「──快楽主義に走り、物事の本質を見極めぬ無節操なペン(・・)に正義を語る資格などない」

 俺の周囲は幸いにも、そんなところをすぐに言語化出来る秀才ばかりだ。

「私を筆頭に、君の側についている我らは、それが分からない程間抜けじゃないぞ」

 と、急にそれっぽい事を語られると、そのギャップの大きさの分だけ、また染みる。

「──はい」

「ヤツらの正義なんぞ空天秤だ。悪戯に世相を惑わす剣でしかない」

 それは神話に登場する正義を司る神の事で、紗生子が警察の脆弱性を痛烈に指摘した先日の米国大使館での話に繋がる。

「──確かに」

 法を司る施設などで目隠しされた女神像を見かけるものだが、その両手に携えられたる剣と天秤は、有史以来の人類がようやく到達した、今のところの正義の在り方の具現だ。天秤は正邪を測る正義、剣は力を含意し、タロットカードにおいても「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」を黙して語る。

「我こそが【Lady(正義) Justice (の女神)】だ」

 何も心配いらんぞ、と得意気な魔女のこれは、以前の俺なら反感でしかなかっただろう。が、言われてみれば、

「全く、その通りだと思います」

「分かるようになってきたじゃないか」

「そのようです」

 日本人を捨てる前の俺は、幼少期は自らの生活環境で、青年期は自らの職域(末端の司法官憲)で、法治国家を標榜する日本国民の無法振りに絶望する人生を生きた。俺でさえそう思うのだ。表裏を知り抜いた紗生子など、世人の幼稚さに呆れ果てている事だろう。仮に俺が紗生子程優れていたとして、紗生子程働く気になれるだろうか。

 多分──

 俺ならアホらしさに呆れ、この世の雑事などには向き合わず、一人で好き放題生きていただろう。それを思うと、

「ホントに──」

 紗生子という存在は、天が地上の有様を嘆いて遣わされた女神様と思えなくもない。神話の世界の神様とは、当然優しいばかりではないのだ。それこそ正義の女神とは、意外に紗生子のような感じの神様なのではないか。そう思うと、

「何が?」

「いえ。もう大丈夫です」

 不意に心持ちが軽くなった。崇拝する事はないにせよ、

「入信させていただきましたので」

「正義の女神教にか?」

「はい」

「一年半も仕えておいて今頃か」

 と呆れる紗生子の、俺は最新の信者としたものだろう。恐らくは紗生子は、こんな具合で数多の信者を抱えているように思えてならない。それは意外なまでの人望や、顔の広さだけでも分かろうものだ。

 俺の過去の罪は現行法では確かに罪で、テクニックを用いてそれから免れる事は盗人猛々しいと言わざるを得ないだろう。だがそれならそれで、その原因を作った連中の罪はどうなのだ。その分かりやすい悪辣を放置する法治国家とは何だ。これが無法でなくて何だというのか。

「この前バディになったかと思えば今度は入信か。次は何だろうな?」

「さ、さあ」

 それはさて置き、信仰を寄せるのであれば、整わない法の壁を越え、より義侠的に生きる時がきたという事だろう。これまでの人生でも、一人で勝手にそれなりの清濁をごちゃ混ぜのちゃんぽんで飲み続けてきたものだが、この分だと早々に腹を壊す時がくるかも知れない。その時は、そのまま地獄へ行けばいいだけの話だ。

「まあいい。そういう事ならとりあえず、だ」

 そんな俺の心理を如才なく察した紗生子が、

「この辺りでいい加減、過去とは決別だ」

 と、核心に触れ始めた。

「今後二度と、疑惑を蒸し返されないためにもな」

 俺の別人格(元警視庁警察官嶌令)が広島で起こした、一四年と何か月か前の暴力団組事務所襲撃事件は、それに拘っていた現警視総監の引責辞任を待って、時効送致される事になったらしい。

「もう、そんな事まで分かってるんですか?」

「ああ」

 教頭からの情報らしく、既に鑑定結果も出ているとかで、問題なかったそうだ。

「──何から何まで早いですね」

「情報戦で我らに敵うところはないだろうな」

「全く、その通りで」

「急に聞き分けがよくなったな」

「ま、まあ入信したてですし」

 それもさて置き、あの事件の事実は、暴力行為(所謂持凶器に)一条の二(よる傷害条項)と傷害の二本立てだ。となれば、公訴時効は両罪とも一〇年。本来なら、とっくの昔に時効が成立している事件だが、継続捜査を可能とさせていたのは、国外逃亡犯につき時効停止事由に該当するというこじつけが原因だ。要するに、国外逃亡していないか、または既に死亡した事にすればよい。何にせよ、犯人である事に変わりはないため、俺は嶌令には戻れなくなったという訳だ。

 捕まらないためにルーツを捨てざるを得なくなった真犯人の俺。執念の捜査で犯人を突き止めたが、結局は捕まえ切れず、時効送致で捜査終結という形をとらざるを得なくなった広島県警。全ての癌となっていたが、最終的に諸々の報いを受け、生ける屍の如き余生を歩み始めた高千穂警視総監。その高千穂を野放しにした報いで、最後の最後で消える事のない汚名を組織に刻まざるを得なくなった警視庁と警察庁と高千穂一族。紗生子に言わせると、落とし所としてはこんなところらしい。最後まで悩んだのは俺の処遇というから驚いたが、

「広島の捜査本部の体裁も少しは考えてやらんといかんし、こう見えて色々考えたんだが、君には台湾のルーツの方が相応しいと思う」

 という事で、これを持って俺は嶌の名を完全に捨てる事になる。他人が悩んでいたというのに、俺ときたら正直なところ、日本人の時の名に思い入れは全くなく、それどころかあるのは恨み辛みばかりでむしろ清々したぐらいだ。が、その一方で、いつか過去の所業の報いを受ける時のために、それを捨ててはならないとも思っていた。これが懺悔というのであれば、台湾のルーツはまだひどい。四半世紀の人生のその三分の二以上を、国籍を変えてまで硝煙と血なまぐさい只中の戦争屋として生きてきた。何人殺してきたのか分からない、それも殆どは砲で木っ端微塵にするという、それこそ人でなしの生業にして所業だ。最近は、少しそんな後ろ暗さから離れていた事もあって、久々にその罪深さに沈みかかったところで、また正義の女神が口を挟んだ。

「養父との思い出を大事に生きろという意味だ。君が自身の軍功を毛嫌いしている事ぐらいお見通しだぞ」

 この瞬間もそうだが、最近本当に、この女の配慮のようなものが一々染みて敵わない。


 高坂の送迎車で学園まで送ってもらうと、正門前で未だ賑やかなマスコミを尻目に、それらを一人で何なく制するマイクと目が合った。高坂の送迎車の後席窓ガラスと言えば、スモークは勿論の事、赤外線カメラをも遮断する特殊加工で車中は見えない筈だが、こっそりウインクしてくれたところを見ると、この男も常に(・・)エージェント(コンタクト装着状態)だ。俺が抜けた間、細やかな休憩時間すら奪われた、文字通りの常駐警備状態だった筈だが、立場が逆だったら俺にウインクが出来ただろうか。少なからず救われると同時に申し訳なく思うが、愛想を振りまく間もなく送迎車は地下駐車場へ滑り込む。衆人の目を気にする必要のないそこで降ろしてもらうと、礼を言う間もなくとんぼ返りで車が出て行ってしまった。紗生子が乗る車の運転といえば佐川執事だが、この人には何度世話になったものだか分からない。きっとこの先も、まだまだ世話をかけるのだろう。

 そのまま理事長室に向かうのかと思っていると、紗生子の足がまっすぐ寮へ向かった。

「あの──」

「こっちでいいんだ」

 言われるがまま後ろ髪を引かれるような思いでついて行くと、寮の玄関に答えがあった。理事長を始め、CCやアンの近習、隆太(寮の主)や剣道部の寮生など、学園内で俺に好意的な顔触れが揃っている。それどころか、日頃余り接点のない生徒や教職員まで。これは単なる野次馬的な連中もいるのだろうが、それにしてもこの人数は只事ではない。

「な、何の騒ぎですかこりゃあ?」

「ちょうど記者会見が終わったばかりで──みんな待ち切れなくて──」

 という理事長の目が、嬉しそうに潤んでいる。

「これなら一々『ただいま』を言わんでもよかろう?──大なり小なり、君を心配していた人間の集まりだ。挨拶の一つぐらいしろ」

「挨拶って──」

 不覚にも、急に喉が締まって声が詰まってしまった。

 ──ヤバい。

 既に紗生子に泣かされそうになったというのに、これは反則だ。この手の事に対する免疫の低さを、今更ながらに突きつけられる。

「パスポートは見つかったの?」

 また鼻が緩み始めたところで、人集りの真ん中にいるアンが、ニヤつきながらも助け舟のようなものを出してきた。そうだ。俺は修学旅行の帰途から、その理由で別行動のまま隔離されたのだ。気がつけば、もう師走も中旬に入っている。

「結局、見つからなくて。新しいのを発行してもらうのに時間がかかっちゃって。遅くなってしまって──」

 日本人が旅行先で旅券を紛失した場合、早く帰国出来るのは旅券再発行より【帰国のための渡航書】であり、米国人なら【臨時パスポート】がそれに相当する。そもそも本来の俺は、アンの行く所なら何処へ行こうが任務中の武官だ。事情を知る本国、それこそアンのホットラインへ連絡すれば何とでもなるが、話は旅券がどうこうという事ではない。学園の正門前に、俺を目当てとするメディアが押し寄せる中で、これこそまさに茶番だ。

「時間かかったようだけど、新しいパスポートが貰えたんならよかったね」

「はい、お陰様で」

 アンは、その本当の意味を知る数少ない一人だが、そこまで知らなくとも俺の窮地を心配する数が、いつの間にか

 ──こんなに。

 誰にも相手にされず淡々と生きてきたつもりが、気がつくと帰ってきたと思える所になってしまっている。

「色々とご心配をおかけしましたが、お陰様で無事に戻る事が出来ました」

 このドタバタ劇を休暇と呼ばなくてはならない面倒な身の上なのだ。正直、放っておいて欲しかったものを、俺の深奥に確実に存在する許されざる業を抱えつつも、少なからずの好意のようなものを受け止めなくてはならない事の、何という心苦しさだ。深々と頭を下げた瞬間で、目鼻から垂れそうになる物がうっとうしい事極まりない。

 やっぱり──

 学校の先生にしろスパイにしろ、俺には向いていないという事なのだろう。

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