修学旅行(前)②【先生のアノニマ 2(中)〜20】
仏が誇る一大リゾート地シャモニーは、正しくは【シャモニー=モン=ブラン】という、仏で言うところの【コミューン】だ。日本では市町村に当たるそれは、大都市だろうと小集落だろうと行政区分上の単位は変わらない。要するに街の大小に関わらず、コミューンはコミューンだ。が、日本で紹介される時には、その規模によって勝手に市町村に分類されている。シャモニーは大抵【市】として取り上げられているようだ。
人口一万弱のその小都市は、言わずと知れた国際的なウインターリゾートの一つであり、第一回の冬季五輪が開催された事から、冬季五輪発祥の地としても歴史に名を残す。最近では冬に限らず観光客が押し寄せ、この山間に年間一五〇万人も訪れるというから驚きだ。標高は約一〇〇〇mであり、一八世紀末にモンブランが初登頂されて以来、登山の聖地としても名を馳せ、今日も尚その山頂を目指す登山家の拠点となっている。モンは仏語で山、ブランは白を意味し、単純に白い山と言うその山は、その美しさから【白い婦人】の異名でも知られるが、俺から言わせれば魔の山の印象が根強い。
慣れた登山家にとって、今日のモンブランはそれ程難しい山ではない。が、未だに登山事故が絶えず、年間でそれなりの死傷者を出し続けている食わせものだ。過去には飛行機の墜落事故やトンネル火災など、中々曰くつきのリゾートでもあるのだが、学園の聡明な生徒達はその歴史的災厄を知っているだろうか。
──いかんな。
想定され得る災厄を考える癖は、最早職業病だ。そんなシャモニーの初日。天候にも恵まれた学園の修学旅行生達は、それぞれのレベルに応じて早速スキー合宿に入っていた。初級から上級の三段階にざっくりとクラス分けされた生徒達の中で、警護対象のアンは中級レベルに属している。本当は上級レベルでも問題ない腕前なのだそうだが、そこは要するに警護上の都合だ。上級ともなると生徒や引率の教職員までもが初日から最終日まで自由に滑りまくるため、四六時中ベタベタくっついて滑る大義に乏しい。生徒と先生の関係で、それは避けなければならない醜聞だ。
という事で、必然的に俺は中級クラス付きのお守りと、インストラクターの通訳も兼ねていた。秀才共ともなれば仏語を嗜む者もそれなりに多いのだが、そうは言っても日頃は日本語で不自由しない生活を送っている東洋の島国の青年達だ。やはりそれなりにアジアンコンプレックスのようなものを感じていると見え、俺はそんな気後れ気味の生徒達を和ませる位置づけでもある。
中級クラスに属する生徒達は約五〇人。それがどういう分け方で班編成されたものだか知らないが、一個班一〇人の五班に分けられ、俺がお守りをしている班の中にアンとワラビーとエリカの三人娘が紛れ込んでいるいつもの展開だ。その班を仕切るインストラクターは、フランス男を絵に描いたような三〇もつれの陽気な色男なのだが、例によってこれがまたCCのエージェントだというから毎度の事ながら驚かされる。インストラクターからしてこの調子なのだから、恐らく俺の知らない隠れキャラがまだまだ沢山いるのだろう。と、一人で勝手に呆れていると、不意に目があったそのインストラクターにウインクされた。
──おえ。
別に通訳が必要な場面でも何でもなかったが、何年か前まで仏国人をやっていたにも関わらず、この乗りにはどうも慣れない俺だ。あからさまに顔をしかめると、それに気づいた生徒達から失笑が漏れた。
──やれやれ。
それはよいとして、気になるのはやはり降雪量だ。シーズンが始まったばかりだというのに、雪量は豊富を通り越して多過ぎるという認識は、俺も地元民も同じらしく、あちらこちらのエリアでは立入が制限されていた。中でも目につくのは、モンブラン山頂を目指す人々にとっては欠かせないロープウェイの最高到達点、【エギーユ・デュ・ミディ】エリアのクローズだ。正午に太陽がこの頂上に座ったように見える事から【正午の時計の針】という意味を持つそこに、ちょうど太陽がかかり始めている。とんがった頂から【ミディ針峰】とも称されるそこは、ロープウェイでたったの二〇分の距離感だ。麓までの目測は、
──五kmってとこか。
それ程近い剣峰に、大量の新雪がびっちり張りついているのが遠目に見ても分かる。
『──どう見る?』
やはり俺の目を覗いていたらしい紗生子から天の声だ。
「近辺ではダントツの脅威ですね、あれは。素人でも目につきますよ」
ミディ針峰の傍には【ボゾン氷河】という欧州アルプス有数の大氷河がある。今でこそ温暖化の影響で後退しているが、昔はシャモニーまで到達していたとかで、集落を飲み込んだという記録がある程の暴れ川だ。雪崩に巻き込まれた記録など、探せばいくらでも出てくるだろう。
『あの一帯が丸ごと雪崩れたら、麓まで到達するか?』
「既に軽く三m超えてません? あのエリアの新雪」
植生限界を超えた、角度の鋭い岩山が連なるエリアだ。今でこそ天気もよく、肉眼ではっきりと正面に聳えるミディやシャモニー剣峰群がよく見えるが、これが一度牙を剥けば何が起こるか。
『温暖化が聞いて呆れるな全く』
近年の気象は世界的に気まぐれ感が強い。これもその一例だろう。圧雪されていない新雪が、一部でも滑り出したら周囲を巻き込んで大規模な雪崩になる。丸ごと崩れたら、麓も只では済まないだろう。その雪崩が氷河へ流れ、氷塊や岩塊を押すような事にでもなれば、歴史的な惨事を招く可能性すらある。
「──考え出したら切りがありませんが」
紗生子によると、当然エージェントが張りついているらしい。雪を質に取る悪事は、それこそ素人でも思いつくだろう。一般的なリスクマネジメントとしては、俺達の懸念は殆ど杞憂レベルだ。が、一度事が起きてしまえば、それを想定して行動を起こしていなかった責任追及が待っている。まともな責任のとり方など期待出来ない存在の事ならば、末路は想像するまでもない。
『これを利用しない手はない』
「少し荒っぽくないですか?」
『連中も後がないからな』
日本では、未だに文化祭の時の警察施設襲撃事件で持ち切りだ。メディアが報じる内容では、捜査に目ぼしい進展は見られず、それに代わる話題に移行し始めている。警察内部の異常、つまりはレジオンに与する連中と、それを仕切る高千穂兄の存在だ。中にはこれまでの度重なる襲撃事件を匂わすメディアもあり、紗生子は何も言わないが、これは恐らくCC側が意図的に流したコントロールされたネタだろう。
今春来、組織力を傘に強気の攻勢で迫り続けてきた万来にしてレジオン、更にはそれらを操る中国国権の深奥にいるであろう一部の対米強硬派だが、そのやり口は徐々に何でもありの展開になりつつある。その裏で、こちら側はその攻勢を凌ぎつつ、世論を操作し外堀を埋めながらじわじわと包囲網を狭めている。その戦略は、恐らく紗生子によるものだろう。全てがそうとは言わないが、大抵の事象は紗生子を通過して裁可されている事は、多岐に及ぶその人脈を見れば明らかだ。局所的には無茶振りが目立つ魔女だが、この辺りの戦略は、
──実に手堅い。
胆大心小の女傑極まれり、といったところだろう。
『窮鼠が何を仕出かすか。厄介な時に修学旅行を組んでくれたモンだ』
今日の紗生子はいつも通りだ。ややご機嫌斜めで、周囲に溜め息を振りまきながらもやるべき事はやっている。昨夜の拗らせ振りを引きずらないところは、これも紗生子らしい。それを意図的に使い分ける、その天邪鬼振りには振り回されっ放しだが、何となく慣れてきたから恐ろしい。慣れてくれば、それを上回ってくるのもまた紗生子としたものなのだろうが。
全くもって何もかもが、
──厄介だな。
その厄介には、ついでがつき纏いがちなのも世の常で、俺の程近くには班から着かず離れずの、一際小さい可憐な少女がいる。中国の現首相の実娘【安美鈴】だ。ハーバードの何の大学院だかに留学中の、紗生子やアンに負けず劣らずの末恐ろしいローティーンが、何故ここにいるのかと言えば、秋休みを利用しての渡仏なのだとか。つまりはまた、例によって米中穏健派の秘密外交だ。
その厄介娘が先程来、不機嫌面で俺をガン見してくれている。紗生子大好き好きのこの娘に嫌われて約半年。この場に及んでも相互の立ち位置に変化はなく、安定的に俺は忌み嫌われていた。それは別によいのだが、教育実習時同様、修学旅行を視察する学園経営上の出資者の呈のお嬢様だ。当然、それに見合う振舞もさる事ながら、お付きの者がいる家柄の筈が、これまた先程来一向にそれが見当たらないのはどうしたものか。
──まさか。
何処かの林にでも突っ込んで、遭難したのかも知れない。ミディ針峰を正面に見据えるシャモニーの街を挟んだ北側の斜面は、ブレヴァンと呼ばれる総じて中級レベルのゲレンデだ。上級レベルが半数を占める近辺のゲレンデと比べると、優しいゲレンデなのだが初級も初級の、
──今日初めて滑るんじゃあなぁ。
それは一般的に無茶という。それも、ろくに教わる暇もなく、いきなり板を履いたような有様だ。つまりお嬢様の鋭い眼光が、
──迎えに行きなさいよ!
と言っている。
──って言われても。
俺は俺で、離れる訳にはいかないのも分かり切っているだろうに、困ったものだ。そろそろ昼メシ時で、いい加減待ちくたびれている中腹へ、文字通りの雪だるまが現れたのは更に数分後の事だった。
「あっ!? 来た来た!」
教育実習の時にも存在感を振りまいていた主従だ。生徒達も当然、そのいぶし銀の執事を覚えている。姿が見えてから、待っている所まで更に数分。明は、板を片方なくしていた。
「ミ、明さん、片足どうされました?」
「いやぁ、中々聞き分けのないヤツでな。どっかの谷へ逃げちまった。ハハ」
美鈴はやはり上級レベルだそうだが、従僕がド素人とくれば、中級レベルが落とし所だったようだ。
「痛み入ります」
「おう、構うな構うな。俺は何とかするから、とりあえずお嬢様を頼んでいいか?」
「じゃあ、板を変えましょう」
「悪いな、助かる」
俺より一回りは大きい、立派な体躯の男なら、俺の履いている板は軽くてバタつくだろうが、そうも言っていられない。
「明さんの履いていた板よりビンディングは軽いですから、外れやすいんで気をつけてください」
「何だそりゃ?──って、おい待てこら!」
その広東語から逃れるように、呆れたインストラクターが生徒達を連れて麓へ降りて行く。例え仏語でも聞いてもらえそうにないが、ここは仕方なく明を置き去りにして降りて行くしかない。
「すいません! 先に降ります!」
「──って、お前は片足で大丈夫なのかよ!?」
その声に手で答えた俺は、僭越ながらそういうレベルだった。
その日の夜。
ホテルの一室で、秘密外交と言う名の親睦を深めるいつもの面々に混ざる訳にもいかず、それをいい事に俺はロビーで待機していた。先生の立場で生徒の、それも女子部屋へ入り浸れないのは当然の心理だ。
「いや、流石に疲れたな」
それは明も同じで、お互いの労を労いつつもソファーで一休みしている。
「雪は初めてですか?」
「安家の護衛に雇われる時になって、ようやく香港を出たような人間だからな。スキー場に行った事はあるが、滑った事はない」
美鈴がスキーをする時は、部下に任せていたらしい。今はその部下もおらず、マンツーマンの主従だ。明が現場に出るしかない状況故の失態というか、苦労というか、試練だろう。
「お前は流石だな。この辺りの山は懐かしいんじゃないか?」
「いや、そうでも」
「外人部隊の時に来た事があるんだろう?」
「こんなリゾートなんて無縁でしたよ」
「そんなモンか」
あっさり語ってくれたものだが、やはり俺の素性は、安定的に周囲に抜けている。それも影響のない範囲とレベルで調整されている事が伺えるそれは、紗生子の手回しだろう。お陰で変な探り合いをしなくてよい分、仕事はやりやすい。
「それにしては上手いじゃないか。まさか史さんが教えてくれたとも思えんが?」
「な──」
モロに驚きが顔に出てしまった事だろう。
「出向中の俄か仕込みとはいえ、とてもスパイとは思えんな。お前は素直過ぎる」
「何処で、それを?」
「お嬢様は【Ms.Lilac】の孫だぞ? 知らない事は少ないさ」
ここでも、それだ。
「──そうでした」
「物知りは紗生子だけじゃない」
俺の周囲にいる人々は、何故こうも事情通が多いのか。これも何かの縁なのか何なのか。何れにせよ、よく知らない相手に自分の裏の顔を覗かれるのは、いつだろうと心臓に悪い。
中国IT大手【美灯】の会長にして武則天と畏れられる富豪【武丁香】が、中国版相談役である事は以前にも触れたが、その娘は美鈴の実母であり、ついでに言えば美鈴の伯父が万来グループ現CEOの【来勇】だ。これでは確かに、俺の詳細を知らない方がおかしい。身分不相応に来勇に楯突いた間抜けだ。その一族の者なら、良くも悪くもそれなりの興味を持って、大抵の事は調べている事だろう。
「お嬢様はあんなだが、少なくとも武丁香はお前の事を悪く思ってはいない。むしろ色々と申し訳なく思っているさ」
「何故、そんな事が──?」
「何となくな」
明が口にした【史さん】とは、俺の台湾時代の養父だった。俺が以前、日本人で嶌姓を名乗っていた事は前にも触れたが、台湾時代の養父は、そんな俺を引き受けてくれた恩人だ。
阪神大震災で母を亡くし、不破を名乗る男に認知された俺が、すぐ人買いに売られたところまでの話は、今夏兄の恩人である武智氏の邸宅でも話した通りであり、その後俺は人身売買のブローカーによって香港へ連れ去られた。そこで更に、何処かへ売られる寸前、運良く逃げおおせた俺は、台湾へ向かう貨物船に潜り込み台湾へ上陸する。当然、密入国だ。そんな、路頭に迷う俺を拾ってくれたのが【史洋】と名乗る養父だった。自分で言うのも何だが、それまでの薄幸人生を思うと、養父との出会いは人生最大の僥倖と言えるだろう。
この世に生を受ける事以外の事は、全てこの養父ありきの俺の人生だった。今の俺という人間を作ってくれたのは、紛れもなく当時台湾の山奥で医者をやっていたこの養父であり、俺が今生きているのはこの人のお陰だ。俺を認知した、法律的には日本の父の、その鬼畜の所業を褒めたいぐらいだ。養父から習わなかった事と言えば、スキーもそうだが数える事が出来る程度で、後は全て養父に教わった事だ。決して甘い事を言う人ではなかったが、それ程きっちり育ててもらった。
「──色々と思い出させたようだ。スマン」
「え?」
気がつくと、目の前がぼやけていた。
「あ、そんなんじゃないんですよ。つい──」
ここ数年は常に何事かゴタゴタしていて、思いを馳せる事がなくなっていた。
「先生と過ごした一〇年程は、いい思い出ばかりで──」
「先生、か」
「ええ」
俺を保護した養父が、俺の事情の特殊性を何処まで汲み取ってくれたものか、未だ俺には分からない。が、養父は、そんな何者だか分からない俺を法的に台湾人にしてくれた。俺を拾ってしばらく後、養父は「何年か前に亡くなった親戚の娘が産んだ子が、出生届を出されず無戸籍のまま大きくなっていた」呈で俺を役所に届け出て、台湾での戸籍を作ったのだ。その過程で俺は養父の親戚となった訳だが、単に日本から来た密入国者だと届け出れば済むところを、何がそこまで養父を突き動かしたものか。それを聞き出す前に養父は亡くなってしまった。当然、受けた恩も返せずじまいだ。
養父には本当に感謝しかなかったが、最後の最期まで俺と養父の関係性は「親を失った親戚の子と、それを育てる親戚の老人」だった。養父という言い方は、俺が勝手に一人で言っているだけで、表向きには「先生」と呼んでいた。医者をしていたから自然とそう呼んでいた訳で、実際に養父は俺からしてみれば知識と教養の塊のような、本当の意味での「先生」だった。
心残りと言えば、最後の最期までこの人を「父」と呼べなかった事だ。が、養父はそれを許さない雰囲気を醸し出していた事でもあり、結局呼ばせてもらえなかったのではないか、とも思う。台湾での俺の戸籍にしても「日常が面倒臭くないようにしただけの事だ」と口にした事があり、ひょっとすると何処かのタイミングで、その関係性を解消するつもりだったのかも知れない。結局養父が、俺のその後を何処まで考えていたのか、今となってはやはり分からないが、万事都合よく、然してなるべく縛らないようにしてくれていたのだと考えるようにしている。結果的に、そうなったからだ。
俺の台湾名は【史一】と言う。先生の苗字と、名前は日本名を参考に、やはり先生からつけられた。「れい」の次は「いち」という単純な理屈だが、文字通り一つ進んで先の将来に希望が湧くようで嬉しかった事を未だに覚えている。その後仏国籍を得た時も、現在の米国籍でも、名前は台湾名を引き継いだ。米国籍の【Yi C】という名前がそれだ。
CCでの俺のコードネームは、実は俺の中でどうしても拭い去れないわだかまりが表面化した、母国日本に対する嫌味だった。養父と死別後、失踪者として死亡扱いになっていた日本の戸籍を、家庭裁判所に取消請求して【嶌令】に戻った俺は、その後人身売買の復讐を果たすため警視庁に潜り込んだ訳だが、一方で台湾籍は残したままにしておいた。人身売買の被害により中国で奴隷のような生活から逃れて来た格好で、そのまま日本人に復籍した。二重国籍とストックのための別人格を得るためだ。日本名で過去を清算した後は、台湾人として生きるつもりだった。と言えば聞こえはいいが、要するに台湾籍は国際逃亡用のスペアにした訳だ。養父から与えてもらった有難い籍を利用した、不徳なヤツだと言われても反論しようもない。
それ以後の事は、梅雨時の教育実習の折に、理事長室で警視庁から出向中の教頭にネチネチ詳らかにされた通りだ。要するに、警察内部の巨悪を放置していながら、その被害者を捕まえられるものなら捕まえてみろ、という世の不条理に対する無謀な挑発だった。養父と死別後の俺は、そんなつまらない復讐心に駆られた余り精神が荒み、その場凌ぎの行き当たりばったり人生に舵を切った訳で、結果、地獄に程近いところでの任務を負わされる現状を招いた。その元凶たる世の悪や、俺自身に対する嫌味というか自暴自棄が表面化したものの一つが、【Rey C'ma】というわざとらしいコードネームだった訳だ。
「──ライラックは、来勇の所業を死んでも許さないだろうな。お前のような目に遭う人間の事を、あの御大尽は意外にも高みから気に止めているものなのさ」
「そんなモンですかね?」
「そんなモンだ。ほら、捨てる神あれば拾う神ありって言うだろう?」
「詳しいですね」
「夏に日本で厄介になった時にな。如何にも八百万の神を信仰する、日本人らしい諺だ」
「──そうですね」
何故この時、明が俺の過去を持ち出したのか。この時の俺は、周りは情報通の連中ばかりである事をよい事に、悪い癖でそれ以上の思考を止めていた。思えば我ながらよくぞこんなスタンスで、地獄の淵をここまで生き延びてこられたものだ。それこそまさに俺の周囲で、俺が知っていようが知っていまいが、捨てる神と拾う神がいたという事なのだろう。
『ご歓談中のところ悪いが、そろそろ寝ていいぞ』
現状では、その代表格と言っていい女が、やはりイヤホンに声を寄越した。後は徹夜組に任せていいらしい。
翌日。
シャモニースキー合宿の現地二日目は、修学旅行行程的には三日目だ。この日は昨日とは一転して、朝からいきなり天気が悪かった。地中海西部で発生した低気圧が、一夜にして急速発達したらしい。欧州に大雪をもたらす【ジェノバ湾低気圧】というヤツだ。この影響でシャモニーも昼前からは吹雪になり、ゲレンデというゲレンデは軒並みクローズとなった。今シーズンの開幕前にいきなり大雪をもたらしたのも、この手の天気図だろう。昔在仏していた頃に経験済みだ。この分だと、雪崩が懸念されるエリアは、小規模で雪崩を起こしながらも更に雪が上積みされる事だろう。ウインターシーズンが開けたばかりの、まだ外気温が高い状態で降る雪だ。湿気を多く含み、只でも雪崩が起きやすい。にも関わらず、更に同質のそれが降り積もるこの構図は、言うなれば豆腐の上に豆腐を重ねるようなものだ。非常に不安定で、いつ大規模な雪崩が発生してもおかしくない。
ゲレンデがクローズになる程の吹雪では、生徒達も代替の外出すらままならず、この日は昼前からホテルで缶詰となった。外で気を遣わなくてもいい分だけ、こうなると護衛は楽だ。が、学園でも中々自由が利かないアンだというのに、ここでも缶詰とは少し気の毒な気がしないでもない。
『残念だったな』
「はあ?」
生徒達同様に行く所もなく、ロビーでぼんやり外の様子を伺っていると、不意に紗生子の軽い声が届いた。
『銀世界で女子から略奪愛の告白を受ける予定が、これじゃどうにもならんだろう』
「ご冗談を」
どうやら紗生子も打てる手を打ち尽くしているようで、要するに暇らしい。
『天気はどうなりそうだ?』
「ご存じなんじゃないんですか?」
『過去に住んでいた者の意見を聞いておこうと思ってな』
そんな経験も何も、この様子では予報通り二、三日は大荒れだ。
『生徒達には気の毒だが、我らには助かる展開としたモンか』
「そうですね」
スキーどころではないのだから、アンと美鈴的には、秘密外交の素地を固めるこの上ない機会だろう。交通は遮断され、敵はおろか善良な観光客でさえ近場の街で足止めだ。それ以前に敵が潜入していれば脅威になり得るが、コンタクトの中は見た事もないコールサインで賑わっている。CCのエージェントだけでも相当数潜り込んでいるようであり、この分だと何処で何が起ころうとも、数で劣勢になる事はなさそうだ。
『天気が良くて暇なようなら、私も少しは滑りたかったんだがな』
滑れるんですか、とは聞かない。この女の事だ。根拠のない勝手なイメージだが、恐らく相当やるだろう。それが紗生子という女だ。因みに紗生子は、ホテルの一室を仮司令部にして陣取っており、警護全体を取り仕切っている。TPOは絶えず変化するが、紗生子に限らずやる事は皆同じだ。
『君は流石に上手いな』
「兄のバディをやらされたので──」
仏外人部隊で日本人は圧倒的少数派であり、良くも悪くも目立つ。そもそもアジア系が少ないのだ。評価はまちまちで、する方もされる方も人によりけりだった。そんな中で俺が入隊する前、遭難した仏大統領を救出するという飛び抜けた結果を出していた兄は異質異例の評価と出世を果たし、一軍兵として万能型の才能を見出され、司令部付の特殊支援要員となった。切り札と言えば聞こえがいいが、要するに命令で何処へでも行く捨て駒だ。そんな兄に似ているというだけで、俺は兄のバディにされた被害者な訳で、
「──全くもって苦い思い出でしかありませんよ」
ゆりかごから墓場まで、という例えが適切とは言わないが、大抵の作戦オーダーをこなせるように仕込まれた俺達は、実際に僅か二、三年の内に大抵の状況を経験させられた。その挙句、戦闘機乗りにされてしまった俺の末路こそが、その任務の破茶滅茶振りを証明している訳で、思い出すだに
「腹立たしいというか──」
要するに使い捨て要員だ。物になるようなら使い潰して賞味期限切れでポイ捨て。使えないようなら即切り捨てだ。いいように使われて、人を何だと思っているのか。
『まぁそう言うな。お陰で私という至上の女に仕える事が出来たんだ。悪い事ばかりじゃない。むしろ喜ばしいとは思わんか?』
「はあ」
『何だその気のない返事は? 相変わらず乗りの悪いヤツだな』
シャモニーに入ってからの紗生子の機嫌は、天候に反比例して右肩上がりだ。何の評価だか知らないが、五つ星ホテルに缶詰である事を良い事に、そのサービスを満喫しているらしく、たまに水を打つ音が声に混ざったりする。酒こそ飲んでないようだが、大方豪勢な室内風呂でぬくぬくしているのだろう。
──やれやれ。
ホテルの宿泊客は学園の生徒を始めとする修学旅行関係者が多数を占めており、他は美鈴と明と、客を装うCCのエージェントだ。状況的には確かに気も大きくなろうものだが、
こんな時に限って──
何かが起こると脆くも崩れ去るのが人の諸行というものだろう。こういう時、神はその隙を掻い潜って思わぬ盲点を突き、人間を驚かせてくれる。
「おーい、一局やらんか? 強いんだろう?」
そこへ明が、マグネット式の携帯チェスセットを持ってひょっこり顔を出した。やはり、暇を持て余しているらしい。
「チェス、やるんですか?」
「スキーよりはな」
と言う割には、早速駒を並べる手つきが、何処か板についている。因みに中国は、欧州に並ぶチェス大国だ。
「何か賭けるか?」
「生徒の手前、余り大仰な物は」
「上等だ。お嬢様を負かした強さに興味があるだけだからな」
シンガポールでの外交初めの時の事を言っているらしいが、
「余興のオセロですよ。本気を出されたらとてもとても」
あの天才娘になど適う訳がないというのに、意外にも主従で執念深い。
「負けず嫌いの姫君が、あの手の勝負事で手を抜く訳がないのさ。負けたら【ビュー・ブローニュ】な」
それは仏が誇る、世界有数の臭気を放つクリームチーズだ。
「──と言っても、フランスに住んだ事がある人間なら平気か。じゃあお前が負けたら【シュールストレミング】な」
こちらは言わずと知れたニシンの塩漬けであり、人間の食べ物としてはある意味世界最凶だろう。真偽は分からないが、何せそれを生み出した国では屋内でその缶詰を開缶する事が法で禁じられているとか、空港での販売が禁止されているとか、機内持ち込みを禁止している航空会社があるとか、NGのオンパレードで言い出せば切りがない。
「レベルが違い過ぎません?」
臭気レベルでは、日本最強の納豆と比べても桁違いという強者だ。
「負けなきゃいい。何せお嬢様を負かす腕なんだ。ハンデだよ」
「大体あるんですか? シュールストレミング」
「厨房で聞いたらあったぞ」
「用意周到だなあ」
状況の巡らせ方は、流石は名家の護衛としたものか。二人で細々と打ち始めたというのに、ポツポツと暇を持て余した生徒達が集まり始め、
「こりゃ参ったな。今更後戻り出来んぞ」
「そっちは負けてもチーズで済むじゃないですか」
こっちは保存法や開缶法を誤れば爆発するとまで言われ、地獄の缶詰とも称される曰くつきだ。
『負けたら流石にしばらくは、その可愛い口を吸えなくなるな』
紗生子も暇らしい。その言動内容はともかく、
──平和だなあ。
と思った修学旅行はそこまでで、その夕方から事態は急変する。
仏シャモニーの一一月は、夜の訪れが早い。中旬ともなれば、午後五時には日が沈み、夜明けも午前七時半前後だ。満足に明るい時間は、九時間あるかないか。その長い闇と折からの悪天候を利用して、敵がいきなり喉元を突いてきた。雪崩が懸念されていた【エギーユ・デュ・ミディ】エリアの展望台が占拠されたのだ。ご丁寧にも、ホテルのFAXに要求文が届いたらしい。
早速ご機嫌斜めの天の声に、明と共にホテルの支配人室へ来るよう下命され慌てて向かう。フロントからバックヤードへ案内されるまま支配人室を訪ねると、既に紗生子と美鈴が応接ソファーにどっかり埋もれていた。その二才女を前に、下座の端正な老紳士が一人、渋面で座っている。言わずと知れた部屋の主だろう。が、俺達を見るなり慌てて挨拶をしようとするその人だ。苦々しい顔つきは、犯人に対してのものらしい。そのかしこまった挨拶を抜いてもらい、まずは卓上にある一枚の紙を立ったまま覗き込むと、アンと美鈴の身柄を要求する英文の字面が並んでいた。
「性懲りもなく──」
レジオンだ。その目当てとするもう一人の姿だけがない。修学旅行中の生徒らしく、大人しく部屋にいるようだ。
「ミディエリアは、エージェントが張りついていたんでは?」
「いたんだがな──」
何と、勝手に持ち場を離れていたらしい。
「寒かったんだと」
「何ですそりゃ?」
「そのまんまだ」
身内の体たらくの隙を突かれるとは、流石の紗生子も状況を読み切れなかったと見え、呆れ返って腐っている。
「日本人の勤勉さを、こっちの人間に求めちゃいけないな」
俺の隣で、口をもごもご動かしながら明が言った。それと合わせて、半端ないチーズ臭が拡散する。
「敵わんな。支配人、何か飲み物を頼めるか?」
堪らず顔をしかめた紗生子のタメ口に、当然とした支配人室が極小さく笑った。どうやら面識があるらしい。
「これでもこの男も仕事中だ。渋い緑茶がいいだろう」
「抹茶もご用意出来ますが?」
「任せる」
「かしこまりました」
落ち着き払っている中にも小気味よさのある、中々肝の据わった御仁のようだ。紗生子の好みとしたものか、この女に関わる人々は類友を強く思わせる。この支配人も、まるで洋顔の佐川執事だ。まさか親類縁者という事はないだろうが、その雰囲気が既視感を強くさせる。
「君は流石に、ニシンを食らわなかったか」
分かって言っている紗生子だが、それまで黙っていた美鈴が、
「嫌味な男らしく、手加減を知らないようね」
と、容赦なく噛みついてきた。紗生子の興味を独り占めにしたいこの小娘は、とにかく俺に厳しい。
「シュールストレミング塗れになればよかったのよ」
何番打ったか数えていないが、幸いにも俺はそれを開封せずに済んだ。もし一口でも食らっていれば、今頃は歯磨きで歯がちびていた事だろう。
数分後。明にだけマグカップにてんこ盛りの抹茶が出て来て、
「いや、これは有難い」
他は、コーヒーカップのそれを啜りながら状況の整理に入った。
「こういう飲み方もあるんですね」
「支配人は日本通だ」
日本語ペラペラなのだそうだが、今は香港育ちの明がいる手前、英語で話している。
「ミディエリアでは今も尚、雪が降り続いておりまして──」
一度雪崩が起これば最悪、
「三〇〇万立方mを超える大規模なものになる危険性があります」
「三〇〇万!?」
思わず声が出てしまった俺に合わせて、雪に関してはど素人の明が、抹茶の泡をつけた口を開いた。
「それ、大丈夫なのか?」
雪の重さは雪質によって変化する。
新雪は軽いとはいえ、重量換算でその三分の一を下る事はない。
「世界最大級のクルーズ船が五隻分か。数キロ先の山の上からそれが転がり始めたとして、ここまで──」
と、言い淀む明がすぐに、
「──只では済まんか」
と、勝手に納得した。その僅かな時間で計算したのだろう。ミディ付近と麓の標高差は約三〇〇〇m。直線距離では目測五kmといったところだ。となるとその底辺、ここでは平面的な二点間の距離という事になるが、それは大雑把ながら約四kmと推定出来る。後はピタゴラスの定理だ。そこから導き出される麓からミディへ至るまでの傾斜の平均斜度は、ざっと三〇度超えという事になる。分かりやすくは、
「スキーのジャンプ台の上からそれが転がり落ちて来る事の衝撃だな」
香港育ちでもそんな事を知っていて、そんな計算がすぐに出来る明は、やはりそれなりに経験豊富な護衛という事のようだ。
「最悪、岩屑雪崩を誘発するレベルだな」
「岩屑雪崩?」
それでも山の事は余り知らないらしい明が、紗生子の声にも語尾を上げた。
「ヤバいのか? それ?」
「ヤバいなんてモンじゃありません」
山体の形を変える勢いの岩や土砂を含んだ、言わば地滑りの化け物のようなそれは、歴史的にも世界各地で多くの街や集落を飲み込み、多数の死者を出している。もしそれが発生すれば、被害想定は最低でも雪の雪崩の一〇倍以上、最悪だと一〇〇倍を見込んでおかなくてはならないだろう。人類の近代史上で発生している岩屑雪崩のレベルは、文字通りの桁違いだ。
「シャモニーは一飲みです」
「自然の脅威を武器に立て籠ったという訳か」
あくまでも最悪の被害想定だが、有り得ない話ではないから質が悪い。天候は悪くなる一方だ。そのタイミングを好機として、敵が決死隊を送り込んだ。片や守備側は寒さに負けて、無条件で城を明け渡したというお粗末振り。仏支部のエージェントだったようだが、CCといえども多種多様な人種が織りなす組織という事のようだ。
「二四時間以内だそうだ。どうする?」
そのついでで紗生子が、匙を投げたいと言わんばかりに舌打ちをして嘆息した。今や外は猛吹雪だ。コンタクトの中で天気予報を見てみると、やはり二、三日は大荒れらしい。何であれ、
「上に上がる事が出来れば──」
上がってしまえば、いくら名うての武装組織といえども、そこは所詮反社に毛が生えたようなもの、
ぐらいの──
心持ちで、本職なら何とかしなくてはならない。のだが、現状では、そのスタートラインにすら立てないザマだ。
ロープウェイを動かせば、敵に気づかれて終わり。歩いて登るにしても、スノーモービルにしても、天候と積雪量からとても無理。つまり地表ルートはダメだ。では空から、という事になるが、軍民問わずこの天気で上がってくれるヘリパイはいないだろう。悪天候の更に上空へ輸送機で上がる手があるが、そこから飛び降りる事は出来たとしても、地表が大荒れではとてもピンポイントで降下出来ない。よりによって目標地点は険しいミディエリアだ。少しでも流されれば、何処へへばりつかされるか分かったものではない。よって上空ルートもダメ。
「それか──」
許されるのであれば、後はミサイルによる完全破壊だ。
「──金はかかるかも知れませんが」
それが一番手っ取り早い。吹雪のどさくさ紛れにピンポイントで殲滅して、施設は後日直せばいい。
「お前も中々、可愛い顔して無茶を言うな」
チーズ臭さが少し収まった明が、鼻で噴いた。が、瞬間で自ら顔を歪める。残香で自滅した格好だ。それを紗生子がケタケタ笑いながらも、
「私が囲っている人間だぞ? 可愛いだけじゃないさ」
とつけ加えた。
「で、修繕費は誰が出すんだ?」
「高坂家の先払いで、後で国に請求ってのは──」
「ないな」
「内閣府って、やっぱりお金ないですか?」
「本府の予算が五〇〇〇億を超える事はない」
遊び金はないと言いたいのだろう。国家予算を引っ張り出すには、当然それなりに理由がいる。が、アンの留学は、表向きにはあくまでも極秘扱いだ。国を当てにして外国で無茶をすれば、当然国に切り捨てられる。裏向きの理由が開示出来ないのだから、後に残るのは表面的な結果だけだ。それを先程俺が言った内容で照らし合わせるならば、旅行中の日本人の女とアジア系の米国人だか何だか知らないバカな男が、トチ狂って出所怪しきミサイルをぶっ放した、という聞いた事もないような事実だけが残るという恐ろしさだ。それは金どころか、最終的に外交上の大きな汚点となるだろう。
ゴールデンウイークのシンガポールでは、盛大に火器を使用しての防衛戦だったが、あれは紗生子の根回しの賜物だ。恐らくは日米の国力を笠に、シンガポール側の協力を取りつけたのだろう。が、今回の舞台は仏だ。同じ西側陣営とはいえ、国内に数多くの法的執行機関を抱え、国際的にも強権国家として名を馳せる先進国の雄だ。それを差し置いてよそ者が秘密裏に事件を解決するなどと、自由民主主義陣営の強国の矜持が許す筈がない。そこを何とかするのがスパイの存在意義としたものならば、いくら百戦錬磨の紗生子といえども頭が痛いだろう。
「まぁ金はともかく、方法としては私好みでそれも悪くはないんだが──」
人質がいるらしい。
「先にそれを言ってくださいよ」
「雪の質だけで要求を突きつけてくるような──」
「──バカもいないですよね、そりゃあ」
「少なくとも山にはな」
「はあ?」
何かの謎々のような物言いは、別のものが見えているのだろう。視野の広さで俺が適う訳もないというのに、
──何で?
意見を募るようなスタンスを見せるのか。
「フランスでの君のキャリアを参考にしたかっただけさ」
「それを言うなら兄ですよ」
「確かに、君の兄上がいないのは痛かったがな」
新婚旅行に行っていなければ、あるいは兄ならこの嵐でもヘリで上がってくれたかも知れない。が、今はそれを言ったところでない物ねだりだ。
「これ以上、民間人になった兄御に頼っても悪い」
「まぁそうですが」
で、結局、振り出しに戻る。
「多くの意見を募っては?」
「もうした」
コンタクトの中で募ったが、皆似たり寄ったりの答えだったとか。大体が、圧倒的に犯人有利の状況だ。簡単に妙案が出てくるとは思えない。
「悪い時に悪い事は起こるものよ。そのためのあなた達じゃないの?」
と皮肉ってくれる美鈴は、あなた達と言ったところでその顔は俺に向いている。現場の事は下々が何とかするもの、と言いたいのだろう。しかも今回は、その下々の失態の尻拭いだ。美鈴の紗生子に罪はない。言わんとしたい事は分かる。上役とは、責任をとるために存在するものだ。が、下々の明らかな手落ちにまでその責が及ぶのは、
──気の毒ではあるなぁ。
実は、手はあったりする。凍死する危険が余りにも高いから黙っているだけだ。が、この状況下では、もうその手に賭けるしかないだろう。しかもそれをやらされるのは、この辺の山に詳しい俺だ。
「──パワーアッセンダーを使って乗り込むしかありません」
高所レスキューなどの現場で使われるロープ巻き上げ機の、それを使ってロープウェイのワイヤーを遡上する。
「ただし、ロープウェイのワイヤーが切られてなければの話ですが」
ロープウェイからの侵入を恐れた輩共にそれをされると、俺にはもう手が思いつかない。が、
「それはない」
と、紗生子が全否定した。シンガポールの損害を負った事で、何でもありの力業は控えているらしい。
「負けて弁償までさせられたんじゃ、一々敵わんだろう? そうでなくともレジオンは負け続きだしな」
そもそも私を敵に回した事が間違いだ、などと得意気だが、要するに戦績はそういう事だ。仕掛けておきながら敗戦続きで、紗生子の手の上で踊らされてしまっている。
「あの件って、結局万来側が賠償に応じたんですか?」
「日中両国の政府筋は、当然知らん顔するんだ。民間が責を負わされるのもまた当然だな」
「そんなモンですか」
「仕掛けておきながら負け戦だったんだ。勝てば官軍の典型さ」
泣きっ面に蜂とはこの事だ。そこへすかさず、
「仮にも将校風情が、そこまで説明してもらわないと分からないのアメリカさんは?」
派手や無茶は思いつくのに緻密が出来ないお国柄は人種問わずのようね、と美鈴の痛い突っ込みだ。この期に及んで、
こ、こんにゃろは──
一々的を得ているところが癪に障るが、今は言い争っている場合ではない。無視して話を戻す。
「一つではバッテリーが持たないし、本体自体が持たないので──」
予備の本体とバッテリーを背負えるだけ背負って上がれば、時間はかかるが何とか上がれはしないか。
「何時間かかるか知らんが、吹雪に晒されて凍死だな」
「行程の半分は、ロープウェイで上がれますから」
シャモニーの麓からミディ展望台までのロープウェイは直通ではない。途中【プラン・ド・レギュイユ】という中継エリアで乗り換えが必要だ。当然、ロープウェイのワイヤーも連結していないため、標高約二三〇〇mにあるこの中継駅まではそれを動かしてもミディにいる連中には気づかれない。そこから先の、約三kmの急勾配が勝負の登りだ。
「大体が、既製品は垂直運動用だろう? それこそ歩いて上がる方が早いんじゃないのか?」
一々痛いところを突いてくれる紗生子はやはり詳しい。事実だ。登高スピードが速くとも分速一〇から二〇mがやっとの既製品では、トラブルが起きなくとも三時間はかかる行程だろう。大体が、長時間長距離の連続使用に使えるような物ではないのだ。それを三kmもの急勾配に使うなどと、現実的な話でもなければ、暴風吹き荒ぶ中でロープウェイのワイヤーにかませられるアッセンダーなど、見た事も聞いた事もない。が、
「歩けるような積雪じゃありませんし、それなら行けるところまでアッセンダーで上がるしかないかと──」
いう事だ。
「やはり自殺行為にしか思えんな。この辺をよく知る君なら、それを一番理解していると思うんだが?」
「他に手はありません」
またそこで途切れる。考えても他に手はない。これぞ天然の要害だ。だからこそ、連中もこの猛吹雪を千載一遇のチャンスとして、決死の覚悟でミディを落とし立て籠った。それに尽きる。何であろうと人質交換は有り得ないのだ。かと言って、もう二番煎じも通用しないだろう。それならとにかく乗り込んで制圧する、その一択しかない筈なのだから、
今はとにかく──
時間がない。こっそりコンタクトの中でアッセンダーを検索していると、やはりそれを覗き見していたらしい紗生子が盛大な溜息を吐いた。
「仕方のないヤツだ。普段はぐずのくせに、いざとなると頑固で拗らせる」
──どっちが。
とは言える訳もなく、代わりに小さく嘆息すると、紗生子が何処かへ連絡を始めた。かと思うと、矢庭に立ち上がる。
「行くぞ」
「はあ?」
「じゃあるか。時間がない」
「そりゃそうですが──」
また唐突に、何処へ行こうというのか。まさかいきなり山を攻める事はないだろうが、それが否定出来ないのが紗生子だ。
「言う事を聞いてやればこれだ。何と気のない返事をする」
いつぞやのように後事を明に頼むと、俺達は紗生子がフェレール家に用意させた例の車で、早速嵐の街を出て行った。




