修学旅行(前)①【先生のアノニマ 2(中)〜19】
文化祭での伊豆七島警察施設襲撃事件から二週間が過ぎた。事件報道は、各施設に予め仕掛けられた爆弾が同時多発的に爆発した、という、発生直後の内容と殆ど大差ない内容で連日各種媒体を賑わせており、恐ろしい事にまるで進展がない。
こういうのを──
世間では、嵐の前の静けさと言うのだろう。
──いやいや。
嵐はもう起きたのだ。にも関わらず、爆撃の可能性すら報じられる事のない違和感が、逆に強い報道統制を思わせる状況下で、俺の周辺は、また新たなイベントで俄かに不穏な空気を纏い始めていた。高校生活のハイライトともいうべきビッグイベント。修学旅行だ。
一一月中旬の週末。例年の如く、世間は早くもクリスマスムードでデコレートされつつあるというのに、俺ときたら朝っぱらから色気のないハンガーでヘルメットを抱えて出撃待機中というナンセンス振り。目の前では、暖機中のF-22が、早る気持ちを抑えるかのように、静かに唸っている。
一方でコンタクトの中では、クリスマス色満載のだだっ広い清潔な空間が展開しているそれは、紗生子の目が見ているものであり、羽田空港の国際線ターミナルだ。学園高等部の修学旅行は、例年二年の生徒達が何か所かの候補地の中から好きな所を選び、同時に行われているらしい。今年は国内・海外とも二か所ずつ、計四か所に分かれており、羽田はその内の一つの集合場所だった。
"準備はいいか、ゴロー?"
「いつでも飛べます」
"よし、予定通り頼む"
「ラジャー」
引率の紗生子は、目の前の生徒や見送りに来た保護者の手前、メッセージを送ってくるが、こっちは整備も終わった出撃前の戦闘機がいるだけだ。遠慮はない。
何という──
これも一つの社会的格差とでもいうべきか。紗生子の目に映る生徒達の、何と希望に満ち溢れた輝きというか、手前の景色の殺伐感というか。
「ふあ」
少なからずのやり切れない気持ちを溜息でごまかしていると、コンタクトの中では快活に手を挙げる娘が俺のコードネームを白々しく連呼していた。
『シーマ先生がいません!』
ワラビーだ。事情を知っているくせに、俺の溜息を耳にした腹いせのつもりらしい。
『先生は急遽別便だ。心配ない』
という紗生子の返答は、打ち合わせ通りだ。予定された別行動に備え、学園へ忘れ物を取りに帰った呈をさり気なく周知しておく。只それは、引率予定だった俺の不在に気づいた者がいればの話だ。
「わざわざ名前を出すな! 黙っときゃ誰も気づかんだろーが!」
"そんな事ないって。センセー結構目立ってるしさぁ"
銀世界で略奪愛の告白を狙ってる女子がいるかもよ、などと、
「わざわざ衛星通信で同時通話モードにしてる時に言う事か!?」
"だって、ホントなんだってば! ねぇ?"
"そうそう、噂あるよねー"
"意外に人気あるよ? ゆるキャラみたいな感じで?"
そこから先は、件のかし○し三人娘がゴチャゴチャメッセージを送りつけてきて煩わしくなったのでスルーだ。大体が、いいおっさんを捕まえてゆるキャラがどうとか、
──大概しろ全く。
男を弄ぶ小賢しい小娘共の言いそうな事に、腹が立って頭が痛くなる。
「まだです? 少佐?」
そこへ、整備兵の一人が声をかけてきた。実世界に身体を置きながらのARの扱いにも随分と慣れたものだが、基本的にそれは知られてはならない諜報機関の近未来技術だけに、その気遣いだけが未だに難しい。独り言も大概にしておこう。
「排気音が気になるんだ。もうちょい聞かせてくれ」
と、それっぽい事でごまかす俺の表向きの用務は、独ラムシュタイン空軍基地までの実機輸送だった。が、
"ゴロー、そろそろ頼む。先行で近辺を警戒してくれ"
「ラジャー」
と、降ってくる天の声の中にこそ、当然本業がある。
とりあえず──
周囲の雑念はさておき、手順は踏んでおくとしたものだろう。昨夏のハイジャック事件の折のスクランブルで、無茶苦茶な離陸をした俺は横田の管制に目をつけられている。正確には、当時の運転手の無茶振りのせいであって、俺は濡れ衣なのだが、
──今回は急ぐ旅でもねぇし。
数分後。きっちり管制通りに飛び立った俺は、早速太平洋上を目指しつつも、無線の一つを民間周波数に合わせた。羽田の管制保安部だ。日本一混雑する空港だけに、まるで無線が途切れない中で、目当ての呼出符号が上がって来るまで沿岸をのらくらと飛ぶ俺は、横田からしてみれば不審極まりないだろう。が、それを我慢して待ち続ける事やはり数分。すっかり聞き慣れた声を捉えた。几帳面な交信は、近頃すっかりイーグルのチャーター機を操縦する事が定着してしまったインテリだ。
更に数分後。今度はその機影を捉えると、俺はその上から操縦席にだけ影を落とした。今回も副操縦士はテックという二人なら、十分過ぎる合図だろう。その後ろの客席に乗り合わせた、学園生徒とその引率教職員合計約一〇〇名の中で、それに気づいたのは流石の紗生子を含め誰一人としていない筈だ。俺が護衛に入った事は、インテリかテックが隠語を含めたアナウンスで紗生子に伝えてくれる。俺の別行動は、先日伊豆沖で正体不明の潜水艦から撃たれたミサイル対策を始めとした、上空での不測全般に対する直掩だ。
まずは──
このまま経由地のアンカレッジを目指す。それは七泊九日の、仏シャモニースキー旅行の始まりだった。
同日、東京時間午後三時。
約七時間をかけてやって来た米アラスカ州アンカレッジは、前日の夜九時だった。アラスカ冬時間と東京の時差は、前者の一八時間遅れだ。西に向かう太陽に逆行しての東回りで、半日程度の旅程でまた夜を迎えるとあっては、時差に慣れない生徒達にはキツいだろう。機外で背伸びの一つもしたいだろうが、そこは只の給油立ち寄りのトランジットだ。三〇分にも満たない再離陸とあってはそれも叶わない。
仏シャモニーが目的地なら、着陸先はスイスのジュネーブ空港だ。その最短ルートはロシア上空を飛ぶものだが、今春その国がウクライナに侵攻した事により航路は時代を遡上した。約三〇年前までの、所謂冷戦時代のそれだ。当時の欧州航路は、北極圏を飛ぶ北回りと、南アジアを回る南回りに分かれていたが、今は中国上空を飛ぶ中央アジアルートもある事でもある。今回もそこを飛べば直行が可能だったが、春先からの万来絡みのいざこざの、挙句の果ての極超音速ミサイル事件のせいで、それすら叶わず現状のザマだ。俺の直掩はその副産物に外ならず。何とも迷惑な事だ。
それはインテリやテックでもいいが、それではどちらかの穴埋めを俺がしなくてはならなくなる。米空軍からの出向である事は公然の秘密と化している俺の身であっても、秘密は秘密だ。流石に生徒達の前でパイロットになれる訳もなく、苦肉の策が俺の別行動なのだった。お陰で今は、アンカレッジ空港に近侍するエルメンドルフ基地で、こちらも仲良く給油立ち寄り中だ。それもこれも、全てはアンの護衛に万全を期すためであり、信頼のおける航空機メーカーとパイロットで固めたい紗生子の意向ならば、
まあ──
やむを得ないだろう。これまでの様々な経緯を思えば、それに理解を示さない訳にもいかない。本来なら、のんびり機内で呆けているところが、文字通りのファーストフードを頬張り、再離陸に備える始末だ。
──機内食は何だったんだろーねぇ。
と思っていると、その機内食の事でコンタクトの中がざわついていた。東京時間的に、とっくに食い終わっている筈のそれが、何故未だに紗生子の目の前にあるのか。それも、違うメニューの物が三食分だ。かと思うと、それを給油の時間を使って乗り込んで来た清掃スタッフが回収して行く。それに比例して目の中に増大するCCのコールサインだ。
「何事ですか、主幹」
と、呼びかけたところで、別のメッセージが被った。
"そちらの食事は大丈夫ですか? シーマ先生?"
送り主を見ると、ワサンボンとある。
「さ、佐藤先生!?」
"パイロットのお二方と主幹先生の食事に混ぜ物をされたようでして"
何でも、眠剤や下剤が混入していたらしい。
「──って」
簡単に分かるものではないのだが。そこは諜報機関の為せる技という事のようだ。
"主要ターゲットにダメージを与えてトランジットを延長させ、予定外の降機のどさくさでアンをからめとるつもりだったんだろう"
と言う紗生子の目が、空港の旅客エリアで蠢く人影の中の佐藤先生を捉えた。その周囲にはCCなのか、それとも佐藤先生の母体のFBIなのか、あるいは両方か。如才ない動きで何処かへ向かう者達の中に、おぼつかない足取りの者共がチラホラしているのは、捕まった連中のようだ。見ると、道中で紗生子の目にも映っていたCAもいる。
"予想通り、まんまと尻尾を出してくれたモンだ"
「予想通り?」
"追い詰められて何でもありになってるんでしょ? 気をつけないと"
"分かっている。それよりそっちは頼んだぞ、ワサンボン"
何が何だか分からないが、
「お三方は何も食べてないんですか? 何ならこっちから何か持って行きますよ?」
それが出来る二つの空港の距離感にして、今の俺の身軽さだ。
"大丈夫だ。ワサンボンが持って来てくれたからな"
"そのついでに、赤ら顔の方にナンパされちゃいましたよ"
どういう神経してるんですかあの人、とテックも大概だが、佐藤先生も中々容赦ない。でもまあ、
「あの人なら、少々の物食ったところで平気なんですけどねぇ」
佐藤先生の容姿なら、当然テックの守備範囲だろう。
"世の中は暖冬でもシャモニーは大雪です。お気をつけて"
「お仕事にすいませんでした。先生もお気をつけて」
と、社交辞令的に労うと、紗生子の目の中の佐藤先生が、返信の代わりにウインクをしてくれた。相変わらず何とも熟れたものだが、それにしても二重スパイをやりながらの事であり、何とも小器用な立ち回りだ。
"イーグルのチャーター機でさえこのザマだ。そっちが狙われる事は考えにくいが、一応気をつけてくれ"
「ラジャー」
そのトラブルも何のそので、旅は定刻通りに進行する。それにしても、暖冬の雪不足かと思いきや大雪とは。これは予想外にスキーを楽しめそうだ。
いやいや──
今の不穏な状況で、
──そんな訳ねぇか。
そう。まさにそんな訳はない修学旅行の、これはまだ序章も序章だった。
更に一一時間後。スイス・ローザンヌ空港。
スイス冬時間で午後六時は、東京時間では翌午前二時だ。夜通しの北回りやって来た欧州で再びようやく捕まえた太陽は、日没後の残光という素気なさだった。手近なベンチに座って目を閉じていると、ついうたた寝しそうになる。経由地では早速事件が起きたものの、上空は平穏無事だったせいだろう。刺激の少ない長距離飛行のせいで、少し眠かった。
修学旅行の学園生徒達を乗せたチャーター機は、予定通りスイス・ジュネーブ空港に着陸。その少し前、チャーター機が仏領内に入った事を確認した俺は、予定通り直掩任務を打ち切り独ラムシュタイン基地へ転進した。そこからは、紗生子が手配していた米軍のヘリに乗せてもらい、一時間と少し。やって来たローザンヌ空港は、民間機の定期便が就航していないためか静かだった。が、そこには【レガ】と呼ばれる、スイスが世界に誇るエアレスキューの方面基地がある。赤十字発祥の国だけに、遠目に見える赤地に白のドクターヘリがこれ程似合う国もない。
一一月のスイスは、概ね日本の北海道と季節感が似ているが、それにしても暖冬の影響とやらは何処へいったのか。辺りは一面真っ白で、既にソリ遊びが出来る程度の積雪があった。この分だと、ジュネーブから車で俺を迎えに来る予定の紗生子も、流石に少しは遅くなるだろう。通常なら六〇kmの道のり、約一時間の行程だが、
──ちょっと居眠り出来るか。
と思っていると、イヤホンからその女の声だ。もう着いたらしい。
『お疲れのところ悪いが、先方を待たせている事でもあるしな』
「只今参ります」
慌てて表に出て行くと、真紅の如何にも高そうな車が止まっていた。アルベール・フェレールのスーパースポーツSUVだ。
流石は──
美女に目がないそのグループ会長に、尻をロックオンされている事はある。紗生子の車か、それともレンタカーなのか知った事ではないが、何れにしても用立てたのはフェレールだろう。それも創業家か、限りなくそこに近い人間だ。
「これなら、早い訳ですね」
そんなお高い車の傍に立っているのが、一流女優のような途轍もない見映えの美女とくれば、物静かな所であっても俄かに視線が集まるのを感じる。灰色系のロングコートにブーツを履いているだけの、相変わらずスッキリとした出立ちのシンプルなコーデだが、その存在感は何処にいようが何を着ようが飛び抜けるのが紗生子だ。そんな女が、まさか俺のような地味男を迎えに来たと誰が思うだろうか。
「──どうした?」
「え? いや、凄い車だなぁと」
「何が起こるか分からんから、足回りの強い車をジローに用意させておいたんだ」
「そうでしたか」
フェレール家の次期当主を使い走りに使うとは、その辺りも流石の紗生子だ。
「まぁ行こうか」
「はい」
車体の華麗さ通りに主張するエンジンが、辺りに轟音を撒き散らしながらきびきびと雪道を駆け出すと、別に天気が悪い訳でもないのに薄闇の遥か遠くに見えてくる山々の色の鈍さが目についた。そんな俺の目に気づいた紗生子が早速、
「ヨーロッパでも、降っている所とそうでない所に分かれているそうだ」
と、先回りだ。欧州アルプス一帯は、冬季を待ちきれず襲来した一発目の寒波でしっかり雪が積もり、ウインターリゾートは早々と賑わっているらしい。
「生徒達は嬉しいでしょうね」
「君の兄上は大変だろうがな」
今は不破具衛と名乗る異母兄が、レガのパイロットに再就職するためスイスに移住した事は既に書いたが、その赴任先はまさにここ、ローザンヌ基地だった。先程まで目に入っていたドクターヘリこそが、まさに兄の今の職場だ。
「世界の救急ヘリの常識が通用しない組織ですからね」
雪が降ろうが夜だろうが、何だろうが要請があれば出動する。それが基本的なレガのスタンスだ。その無茶振りに裏打ちされた技術と経験値の高さはその業界では世界屈指であり、それがNPOというから更に驚かされる。その危険度の大部分を背負わされるパイロット業務の過酷さは、説明するまでもない。が、
「活躍しているそうだぞ」
「──で、しょうね」
いつも締まらない俺が言うのも何だが、何処かぼんやりして緩そうな、人の良さそうな兄にしてみれば、人助けに崇高な使命感とプライドを持って臨む組織は水を得た魚のようなものだ。その根底にある技量とクソ度胸に幾度もつき合わされた身なれば、その仕事振りなどそれこそあえて聞くまでもない。
「──と言っても、ヘリの操縦は一昔前振りなんだろう? 車の運転でも、それだけ離れていれば多少は腰がひけるモンだがな」
「イメージが頭から離れてなければ大丈夫ですよ」
外人部隊での兄の飛行業務は苛烈そのものだった。が、それでも心の何処かに飛ぶ楽しさを持ち続けていたのだろう。だからこその即戦力にして活躍だ。あの兄なら、然程驚く事でもない。
「様々な技術の粋は、良くも悪くも幸福を追求する人間の本性の表れだ」
「良くも悪くも、ですか」
「君の兄上はどっちだと思う?」
「少なくとも、悪い方じゃないと思いますが」
その技術は軍務で磨かれたものだ。手放しで良いために使うと言える訳がない。が、
「だろうな。でないと真琴のヤツがあれ程懐く訳もない」
この六月に晴れて夫婦になった兄夫妻のその奥方は、高坂宗家の御令嬢にして学園相談役の実娘である事は折々から触れているが、今早春時のシージャック事件の折に本の少し俺と接点があったその人は、確かに紗生子に負けず劣らずの美人だったものの、只ならぬ暗さを帯びた人だった。それが、
「懐いてらっしゃるんで?」
「もうメロメロの骨抜きにされている」
「メ、メロメロですか?」
「私が思いがけず、君にそうなったようにな」
「な、何ですかそりゃ?」
「何もクソも、そのまんまだがな」
話向きが怪しくなりかかったところで、程近い山林の中に小さなログハウスが見えて来た。
「あれですか?」
「もう少しなぶるつもりが、もう着いてしまった。つくづく君の兄御は、住む所に心得があるな」
小屋の中は、明るい色調でこざっぱりとした、如何にも別荘と言わんばかりの空間だった。兄の勤め先の上司から借りているらしく、今いる暖炉のある居間の他は、外から見た感じの造りでは必要最低限の設備しかなさそうだ。辛うじて、風呂とトイレと寝室がある、
──ってとこか。
目に入る範囲では家財道具めいた物は殆ど見当たらず、暖炉の傍に置かれたベビーベッドについ視線がいってしまう。食卓兼用の応接テーブルからは少し離れており、ベッドの格子が絶妙に邪魔をして、中で大人しく寝ている赤子を拝む事が出来ない。
「後にしないか」
「はあ?」
「さっきからチラチラと」
「だって──」
外ならぬ、この夫妻の子だ。どうしても気になってしまう。
「──じゃあるか、子供じゃあるまいし」
「いや──」
「それもだ。一々言い訳がましいぞ」
「別に言い訳するつもりは──」
「じゃあ何だ? 屁理屈か?」
「な──」
やり込められて絶句したところで、前に掛けている兄夫妻から失笑が漏れ始めた。
「仲がよろしくて」
「まさか夫婦だったとはなあ」
などと、口々に傷口のようなところに塩らしき物を塗ってくれる。それを、
「連れが至らず申し訳こざいません。改めまして、内閣府の真耶と申します。早速ですが失礼して──」
と、いつになく慇懃な紗生子が制して、傍に置いていた手持ちのアタッシュケースを、いきなり俺の膝上に置いてきた。
「いて」
反射で反感が出そうになったところで、紗生子が目の前の兄夫妻から見えないように開けたその中身は、ガンケース入りの【グロック19】だ。いつもは肌身離さず携帯している筈が、これもこっそり他国へ持ち込むための手立ての一つとしたものか。恐らく空港の保安検査でX線をたぶらかすための仕様が、アタッシュかガンケースのどちらかにあるのだろう。まさにスパイらしい携行品のそれへ紗生子の手が躊躇なく伸びるのを、反感代わりに繰り出した手で慌てて制した。
「──どうした? こんな所で欲情したか?」
「な訳ないでしょ!?」
「何を勘違いしているのか知らんが、隣の箱に用があったんだがな」
「隣?──ですか?」
見ると確かに、如何にも何かしらの貴重品らしき物が収納されていそうな小箱が一緒に収められている。
「──あ」
「予め用向きは伝えていた筈だぞ?」
「紛らわしいんですよ!」
「私はいつまで経っても信用がないな」
──当然だ。
数々の無茶を、毎度土壇場で俺にオーダーし続けてくれれば、アホな俺でも警戒する。そんな懐疑的な俺の横で、珍しくも不手際に対する謝意を口にする紗生子が、今度は徐に白手袋をはめている。その清めた手先で卓上に置いた小箱の蓋を開けると、中からメダルが出てきた。正確には褒章だ。
「去る一一月三日付でご主人、不破具衛様に授与された紅綬褒章です」
人命救助に功績のあった人に授与されるそれは、内閣の助言と承認により天皇が行う国事行為として実施されており、その事務は内閣府賞勲局が行っている。中々日本に帰国する機会がない兄に代わり、同じ内閣府の職員である俺達が兄の現住居を訪ねた理由は、外ならぬこの褒章の受け渡しのためだった。受賞理由はあえて詳述するまでもなく、今春のシージャック事件解決の功労だ。国際クルーズ船に乗り合わせた民間人の呈で、その実は輸送機からの夜間降下で単身乗り込み、あっさり犯人を制圧し人質を救出した手際は流石としたものだったが、逆の見方をすれば、公権力で解決出来なかった国家の不手際でもある。つまり、国にして見れば汚点だ。名誉を与える代わりの口封じ、と言ってしまえば身も蓋もないが、要するにそういう事だった。
「──作戦詳細を明らかに出来ない代わりの、国からの罪滅ぼしの一つという事のようです。色々と複雑な思いをお持ちの事は承知の上で、更に厚かましお願いが許されるのであれば、是非にもご笑納いただけますと、お届けの任を仰せつかった小官としては非常に助かります」
「それにしても、シャーさんが内閣府の職員だったとは。米軍将校だったり高校の先生だったり、何か大変そうだと思っていたらこんな美人と結婚まで。おまけに何だか、俺達ホントの兄弟らしいし──」
何処からどう兄に抜けたのか知らないが、諸々の事情はやはり筒抜けのようだ。
「噂には聞いてたけど、ホントにいたんだねぇCCのエージェントって。それにしても真琴さんと真耶さんて、似てる気がするんだけど──」
紗生子の本性を知らない兄が、社交辞令の紗生子をよい事にズケズケ痛し痒し三昧のところを、
「いい加減にしとかないとどやされるわよ」
と、今度は真琴氏が制した。
「こちらの方こそ、至らない連れで申し訳ございません。その節は、本当にお世話になりました」
と、その首が俺に向かって下げられる。
「いえ──それよりも遅ればせながら、ご結婚ご出産、本当におめでとうございます」
「ご丁寧に、どうもありがとうございます」
真琴氏とは、件の作戦の折の移動中で知り合った切りだった。相変わらずの仄暗さというか、こう言っては兄には悪いが辛気臭さを感じる。が、今はそれ以上に滲み出る聡明さと母性のようなものが只ならない。要するに、新婚生活は順調という事らしかった。
それに──
兄ではないが、確かに二人の妻はよく似ている。背丈も顔つきも、髪の色や型も
──双子?
と言っても過言ではない程の酷似振りだ。二人の性格の違いの分だけ、顔つきが違うような。その程度の違いでしかない。春先に真琴氏を見た時にはまるで気づかなかった事を思うと、それ程印象が変化した、それも良い方に変わった真琴氏のそれは、兄の甲斐性という事なのだろう。
紗生子の話では、真琴氏もフェレール会長から尻をロックオンされた口だ。元々の素地の良さは疑いようもない。それも紗生子と似ているような美貌の君とあらば、俺が思っている以上に、兄の男としての価値は大きかったのだろう。
「流石は君の兄上様だな。鷹揚そうに見えて人を食ったようなところは教頭そっくりだ」
「──ですよね」
「何であろうと栄えある名誉の伝達だ。一応節度を保とうと思っていたんだが、慣れない口上を垂れると口が凝って敵わないな」
堅苦しいのはここまでにしよう、と紗生子が引き下がるのは、何も名誉の受賞を受けた兄を慮っての事だけではなさそうだった。兄は随分と人柄が太くなったようだ。結婚前後だけでも色々あったという事なのだろう。
褒章を渡し終えると、後は久し振りの再会を祝しての夕食となった。俺と兄同様、紗生子と真琴氏の間にもそれなりの縁があるようで、再会の感慨深さでは俺達と引けを取らないようだ。夕食は気取らない兄らしく、飾り気のない質素な物で、様々な燻製料理もそうだが、手作り豆腐を使った料理のレパートリーの多さには驚かされた。
「まさかスイスで豆腐料理が食えるとは思いませんでしたよ」
「簡単に作れるよ。おからも食えるから、捨てるところがないのがいい」
レシピはネット頼みらしい。確かにそういう時代だ。
「穀類や豆類は、フィチン酸とのつき合い方が大事ですよ」
「そういうの、シャーさん昔から詳しいよね」
外人部隊での記憶は今も尚色褪せないと見え、相変わらずのコールサインが懐かしくもある。当時を思うと、よくぞお互いここまで生きたものだ。
「父が詳しかったもので」
「我が家は真琴さんだな。栄養士さんみたいでね」
食事時の解説が凄いのだとか。産前後の身体を労わるため、兄は働きながら家事の大半をやっているそうだが、調理だけは任せてもらえないと愚痴っぽい。
「俺が作ったら、スパルタメシになるから受けが悪くて」
「食い物に無頓着でしたモンね、タクさんは」
「赤ちゃん向けは特に難しいんよ」
燻製を食わせようとして、怒られたらしい。
「塩分は控え目なんだけどなぁ」
「歯が生えてないんですから無理でしょ?」
「まあねぇ」
兄夫妻によって【律】と名づけられた女児は、ようやく先程拝ませてもらった。実にキリッとしていて、既に美人の片鱗を見せつけていたから驚きだ。今は別室で授乳中で、紗生子もそれにつき添っている。
「──幸せそうで何よりです」
「シャーさんも」
「そこで『も』をつけますか」
「あんな美人と結婚して」
「いやいやいやいや。学校で一度見たでしょ? 怖いし凄いんですよ、とにかく」
「知ってる」
兄は春先のシージャック事件の前に、俺に会うためにわざわざ広島の山奥から出て来た事があり、その時偶然にも紗生子を見かけている。それも生徒達を追い回す猛々しい紗生子をだ。
"我らの事はあらかた伝えてあるが、陰口は感心出来んな"
と、そこへ早速、別部屋の紗生子から痛いメッセージが届いた。最近はとにかく盗聴されている俺に、安息はない。
「うえ」
「どったの?」
「いや、こっちの事で」
「ドラマの共演者がよく結婚するじゃん? シャーさん達も結婚するのかねえ?」
「──知ってんですか? 偽装婚」
「真琴さんは、有能な元外務官僚だから。俺らと違って知らない事は少ない部類だと思うよ」
「そういやぁ、新婚旅行はどうしたんです?」
「行くよ、明日から」
「明日!?」
急転直下のように聞こえるが、兄夫妻の間では当然そうではなく、準備をしていたらしい。レユニオンへ行くのだとか。
「懐かしいねぇ、レユニオン」
「は、はあ」
俺も外人部隊在隊時に行った事がある仏の海外県だが、それはともかく紗生子の話では、行き先は日本ではなかったか。兄夫妻の披露宴に参列する要人の来訪に備え、実査した広島の夏が無意味だとは思えない。
"披露宴は君の兄上には内緒なんだ。真琴のサプライズだからな。適当に話を合わせておけよ"
とそこへまた、タイミングよく紗生子がメッセージを送ってくれる。全く器用な事だ。
「は、はあ」
「ん?」
「いや、こっちの話で」
「何か、心ここにあらずだなぁ」
そして俺は、相変わらず間抜けだ。
「こ、この時期のレユニオンはいいですよね! 夏であったかいですよ」
どさくさ紛れに話を戻すと、思いがけないところでまた時と人を変え、同じ忠告を受けた。
「あったかいで思い出したけど、暖冬のくせにアルプス周辺は吹雪いてドカ雪になってるらしいよ」
折角の再会は、たったの二時間弱だった。
「出来れば泊まりたかったな」
「それ程真琴氏と親密とは知りませんでした」
「それもあるが、赤ん坊が可愛くてな」
それは分からないでもなかったが、
──意外にも?
子供好きなのか。夏休みの広島でも、子供達の間で意外過ぎる程の人気者振りだった事でもある。どうやら母性のようなものらしいそれは、再会マジックのせいなのだろう。が、そうは言っても、俺達の今の本業はアンの護衛だ。紗生子によると、この修学旅行ではCCを始め様々な人員を動員しているらしく、それ故の俺達の別行動が許されたのだが、
「いくら出向元からの依頼とはいえ、こんな使われ方はどうかと思うんですが」
確かに兄の家を訪問出来たのはよかった。が、公私の分別がつかない程俺はおめでたくはない。
「君は変なところで融通が利かないな。相談役からの依頼だったんだよ」
「──通りで」
紗生子がリスクを冒してまで旅程から離脱する訳だ。
「日頃アンと一緒に缶詰だからな。その細やかながらの配慮だ。有難く受け取っておけ」
でなくては、すく日本に行く予定の人間に、わざわざ物を届ける必要もないだろう。
「それなら──」
他の面々は、と言いかけて止めた。他の面々は、たまにまとめて休みを与えられては学園を離れている。春先の長期出張を除けば、学園缶詰率は当の本人のアンを除くと俺達二人が群を抜いているだろう。
「──どうした?」
「──いえ」
「我らも子を作れという、何かの示唆かなこれは」
「ぶ」
ケタケタとわざとらしく笑ってくれる紗生子は、今は助手席に座っている。シャモニーまでの道ならナビを使うまでもなく、それを買われた俺の運転だ。
「変に動揺させて道を外されでもしたら大変だ。まぁ気にするな」
「運転だけが取り柄の駄馬ですからね。何なりとどうぞ」
「分かった分かった。そう分かりやすく意固地になるな」
そんな分かりやすい冗談に動揺する俺を弄ぶ魔女の雰囲気が、不意に暗くなった。
「──轗軻不遇、ですか」
「君にしては察してくれるな」
雪面を物ともしない華麗なSUVは紗生子そのものだ。それでも物理的に乗り越えられない岩壁がある。そんな鬱憤が、つい口から戯言を吐かせたのか。世に出ればこれ程有能な女も中々いないだろうに、甘んじて国家の闇に埋もれている女傑だ。恐らくそれなりに、その身をすり減らしてきたであろうこの不遇の才媛に、かける言葉を見つけられる俺ではない。
急に──
重い。
ローザンヌからシャモニーまでは二時間弱の行程だ。それでも着くのは午後一〇時前になるだろう。今はとりあえず、風呂に入って寝たい。
「──前言撤回だ」
どうやらやはり俺の次の一言を待っていたらしい紗生子が、車窓に目を落としたまま恨み節のように吐いた。
「面目ありません」
「慰めてくれるのかと思えば、期待させておいてこれ程意地の悪いヤツも中々いない」
吐いて捨てる程男が寄って来そうな女の事だ。その上更に、相談役から散々見合いを持ちかけられているのであれば、何を愚痴る必要があるのか。それこそ心身に問題がなければ、種馬などはよりどり見どりではないか。
それを──
意地が悪いのはどっちだ。
わざわざ俺のような拙い男に、言葉を求める意味が分からない。男女事については、ほぼ経験値ゼロの俺の口先が、百戦錬磨の魔女を慰められる訳もない事ぐらい分かっている筈だ。
ごちゃごちゃ頭を巡らせていると、紗生子が一つ咳をした。それがわざとなのか本物なのか知った事ではないが、とりあえず気を遣っておく。
「──風邪、ですか?」
「気の利かない何処かのニブオのせいで、車内の空気が悪くなったせいだろう」
「窓、開けましょうか?」
「この車のエアコンは空気清浄機能もある」
それこそ余計だ、と吐き捨てる語感はやさぐれる一方だ。
「それは、どうも」
「それに私は、風邪など引いた事はない」
「前にしっ──」
と、揚げ足を拾いかけたところでそれを思い出し、慌てて後の句を切った。風邪は引かないのではなく、
多分──
引けなかったのだ。以前の口振りでは、引いたら生死を分ける程の病床を、かつての紗生子は間違いなく経験しているだろう。
体育祭の時の潜入作戦で、万来側にDNA情報を抜かれないために施術を受けた極秘技術【DC(=DNAチェンジャー)】のその起源は、真偽は確かからずも紗生子自身の過去の疾患だ。その副産物として得た他人のDNAの変異体がその極秘技術の獲得に繋がった一方で、過去に他人のDNAを取り入れるような治療経験を持っている事の非日常性。一般的にそうした医学的施術を要するような疾患とは、普通重病だ。
──まさに。
その事実こそが、身をすり減らしていると言わずして何なのか。
そのせいで──
子供を望めない身体になっている可能性は、想像に無理がない。その紗生子が、実は子供好きなのだとしたら。今でこそ、国家の闇で薄汚れた日常を送っているが、本来はそうした母性を持つ女なのだとしたら。
そういえば──
エプロン姿が板についていた事を、今更ながらに思い出す。普段の態度のデカさを見間違うばかりの料理の品々に驚いていたのは何処のどいつだ。俺は一体、この女の何を見ていたのか。認めたくはないが、世の大多数のバカな男共同様に、スケベな目で外見ばかり見ていたのだ。奥手だの経験値が低いだのは、己の中に潜むそんな獣性を認めたくないがための言い訳だ。これでは、その他多数のバカな男共と同類だと言われても仕方ない。
「──何か、いろいろとすいません」
思いがけない自己嫌悪の連鎖に、またつい癖で謝ってしまった。楽になりたいが故の上っ面だ。当然、それを見透かす紗生子は取り合いもしない。
いつになく──
重く、暗い。
不意に、日頃そうした暗さを微塵も感じさせない紗生子が、仄暗さを湛えていたかつての真琴氏と被って見えた。
紗生子は何も言わない。その代わりそれっきり、いつもにも増して不機嫌面のまま押し黙っている。
──急転直下だな。
何処にいようが紗生子は紗生子だ。安定的に気難しい。
数十分後、俺達はそのまま何事もなくシャモニーに到着した。




