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体育祭の使役リターンズ③【先生のアノニマ 2(中)〜15】

 俺をアンと勘違いした連中の乗るヘリ(AW109)は、高坂総合病院を飛び立った後、南に向けて飛び続けていた。乗った直後に目隠しをされたが、俺の感覚が向かっている方角を確信させる。左腕は偽装のギプス、右腕は敵が用意していた車椅子に手錠だ。当然自由はない。が、大体の現在地は分かる。相模湾に出た辺りだろう。

 目隠しをされる直前の景色と方角を、体感(重力)で修正するだけの事だ。それと合わせて、飛行する機体が受ける風の感覚。今朝のニュースの天気図では、残暑だというのに依然太平洋高気圧が日本列島に張り出しており、等圧線は緩やかだった。それは単純に考えて、季節柄確実に海風が吹く条件だ。陸地の気温上昇と共に上昇気流が発生して気圧が下がり、そこへ南からの海風が吹きつける。サーファーが嫌がる典型的なオンショアだ。その風が、時間経過と共に強くなっている。追加で鼻には潮の香り、耳は周辺気圧の上昇に伴う鼓膜の圧迫感。

 目指すは──

 伊豆諸島の何処か、といったところだろう。このヘリの航続距離だと、小笠原まで足を伸ばすには少し不安だ。伊豆諸島に何があるのか知った事ではないが、そこがゴールなのか、続きがあるのか。

 ──とりあえず。

 今は、流れに身を任せるだけだ。何れにせよ、今の俺にこの状況を誰かに伝える術は全くない。病院を飛び立つ時に乗っていた車椅子なら何らかの仕掛けがあったのかも知れないが、それは当然ヘリに乗る時に放棄させられており、連中が用意していた何の変哲もない車椅子に乗り換えさせられている。CCの装備品という装備品は、外せる物は全て外しており、つけているといえば指サック(ガジェットキー)だけだ。もっともそれは簡単に外せないだけの事であって、それだけでは何もならない。実際に連中が、ヘリに乗った直後の俺に対して念入りにかけていた金探(金属探知機)でも無反応だった。周辺のアイテムがなければ、

 ──ただの指サックとは。

 何とも都合のよい物だ。しかもそれは、他人からすると見た目に見えず、触れてもそれと気づかない、恐ろしいまでの一体感とくる。加えて、指紋の紋様を意図的に変える事が出来るという、呆れた性能を有していれば、紗生子がそれを俺の全指につけさせた理由が分かろうものだ。

 それにしても──

 全ては紗生子様々だ。アンの身代わりを承った事は予想外だったが、それすらも今のところバレた様子はなく、それどころか黙っていれば本気で敵の中枢まで入り込めそうな気がしてくる。素朴な中年を、あれ程の美少女に変身させる紗生子の変装術には脱帽だが、何にも勝るのは紗生子の仕事の確かさだ。

 ──要するに。

 紗生子なら何とかする。その圧倒的な信頼。それに尽きた。

 赴任当初は、その心境に達するなど想像出来たものではなかったが、何だかんだで今や一年を超える相棒(バディ)だ。詳細など聞かずとも、紗生子なら必ず最後で帳尻を合わせてくる。そう信じて疑わない俺が、俺の中にいる。

 それに──

 天涯孤独の俺だ。普段から、この世に未練などないに等しい。そういう淡白な生き方をしてきたお陰で、こういう時も慌てずに済む。勿論、ただで死ぬ気はない。最後の最期まで生にしがみつく覚悟はあるが、あっさり死んだとしても、それならそれで結構だ。だからこそ、敵の喉元まで食い込めたなら、その時は、

 ──食い破ってやる。

 少年期の因縁は、俺の中では若かりし頃の仇討ち(国際手配中の襲撃事件)で、けり(・・)をつけたつもりだった。が、敵にしてみればそれは、組織の極々微細な一片の擦り傷に過ぎず、その規模からすればダメージなどないに等しい。教頭(警察)サイドは、その事件を端緒に人身売買カルテルの一角を解体させたとかで得意気だったが、

 そんなもの──

 今の万来やレジオンの隆盛を見れば、まるで取るに足らない、過去の極些細な汚点に過ぎない筈だ。

 ──筈だろうに。

 敵は何年経とうが執念深く、表裏の力(正邪の組織力)を交えて俺を追い続けている。その執拗さは、俺を殺すまで終わらない。

 そもそもが、悪いのはそうした闇の組織であり、その組織に恨みを抱かせる原因を作った戸籍上の父だ。それに加えて、正義は精々その一角を解体(・・・・・)する程度の力しかない体たらく。それで被害者の無念が晴らせる訳もなければ、弱いなりに乾坤一擲を繰り出すのみ。生憎と短絡的な俺には、それ以外に己の怒りを鎮める術を知らなかった。更に突っ込んで言えば、悪の不正を罰せない司法がクソなのだ。それを改めない国に、希望など見出せる訳がない。だからこそ俺は、母国を捨てた。守ってくれないのなら、気に食わなければ、

 ──捨てるまで。

 それだけの話だ。

 ──が。

 気がつけば、被害者の俺はいつまで経っても追われ続けて心休まる事はなく、敵は栄え続けるという矛盾。何処の誰が言ったものだか知らないが、

 何が──

 この世に悪が栄えた試しなし、だ。少なくとも、俺が今までこの目でこの世を見てきた限り、栄えているのは悪ばかりだ。大なり小なり悪事に手を染める輩共が善良なものを食い潰す、そんな世だ。

 ──そんなモン、許せるか。

 どうせ独り身だ。今のこの身(アンの格好)は、見方を変えれば、これは思わぬ僥倖だ。最期に何処に辿り着けるのか知った事ではないが、その時は精々、

 ──盛大に暴れてやる。

 その時まで気を保ち、練り続ける事だ。

 悶々とそんな復讐心をたぎらせていると、ヘリが降下し始めた。飛行時間からして、やはり伊豆諸島の何処かへ降りるようだ。そこがゴールか、あるいは続きがあるのか。敵が本当に万来でレジオンなら、日本の伊豆諸島にアンを匿って終わりという事はないだろう。中国政府の対米強硬派の依頼を受けての動きなのだ。米の同盟国たる日本国内で誘拐を完結させて安心する筈がない。中国国内か、その影響力が強い他国を目指す筈だ。

 果たして俺の予想通り、着陸後すぐに別のヘリに乗り換えさせられると、今度は風を背に受けながらの飛行となった。まさかまた来た道を戻る訳もないだろうし、近年の西太平洋地域はラニーニャ現象続きで、貿易風が強まっている事でもある。その強い恒常風を利用しての西行で間違いない。しかも、乗り換えたヘリは、明らかに馬力と安定感を増している。とくれば、太平洋岸を中国本土へ向けて飛んでいるという事なのだろう。最初に乗ったヘリのグレードアップ版と仮定するなら、

【AW139】あたり──

 の中型ヘリとみて間違いなさそうだ。

 ──それでも。

 航続距離は一〇〇〇kmそこそこであり、中国本土には程遠い。仮に万来本社のある香港を目指すのであれば、行程はその倍以上だ。また何処かを中継するつもりなのか。実にまどろっこしいやり方だが、つまりは国際港を使わず確実に密航出来るルートを選択したという事だ。万来ぐらいの組織ならヘリは自前だろうし、飛行許可などは眼中にないだろう。

 ギリギリ引っ張れるだけ飛んで──

 後、三時間。ちょうど日没を迎える頃、沖縄本島の少し手前辺りが限界とみた。が、そんな推理を働かせたところで今の俺は俎上の魚だ。何が出来る訳でもない。

 結局──

 紗生子頼みだ。

 ──情けねぇ。

 その紗生子は「早まるな」と言っていた。重ね重ねも、俺のような凡俗をよく理解してくれたものだ。

 俺と関わりのある大抵の人々の俺のイメージとは、平和主義の奥手だろう。前所属の次世代機プロジェクトチームの面々でさえ、恐らくそう思っている筈だ。そこでの俺は、無茶な任務の連続だったとはいえ、チームの面々に助けられもしていた。何かと理不尽な世でありながら、それに一人で晒された記憶がない。それはNATOでも仏軍でもそうだった。確かにやらされてきた事は無茶苦茶だったが、何処の馬の骨とも分からぬ極東の若造を、思えばそれなりに抱えてくれたものだ。

 それに俺の周囲には、何の因果か知らないが、際立って優れた同僚がいた。俺の兄や、インテリやテックがそうだ。その面々のお陰で、俺は本性を剥き出しにする事なく、淡々と生きる事が出来たのだ。

 だからこそ──

 俺の本性を知る者はいなかった、とも言える。俺は見た目程のんきでもなければ、穏やかでもない。その皮を剥げば、自分でも驚く程の血気と狂気が潜んでいたりする。普通の人間なら、数十人規模の反社を襲ったりはしないだろう。その一事こそが、俺の本性だ。あれは若気の至りでも何でもない。未だに国際手配されているあの事件こそが、俺という人間の本質であり全てだ。

 以前紗生子に、自分を柴犬と揶揄した事があり、紗生子もそれをお気に召しているようだが、その心はその特性にある。柴犬は日本の固有種から誕生した犬種と言われているが、その実DNA的には狼に近い。きちんと躾なくては、何かと問題の多い犬だったりする。飼い主には従順で、それ以外には馴れず懐かず。賢く勇敢で番犬に向くとも言われるが、それはあくまでも躾に成功した場合の話。その本質は大胆にして独立心が強く頑固。警戒心と攻撃性が強く、個体によっては獰猛。猟犬として使われてきた歴史もあって、捕食本能が極めて強く興奮しやすい、等々。全体的なイメージとして、俺の中での柴犬とは、やたら喧嘩っ早いヤンチャものだ。

 何故、これ程詳しいのかと言うと、実は台湾時代、養父がそれを飼っていた。その飼い犬に見下されていた俺は、その悪い部分に随分辛酸を舐めさせられた黒歴史を持つからこその、これまた半分恨み節だ。

 まさに──

 俺もそんな、恨み節で語る柴犬のようなものだ。大胆、独立、頑固、警戒心、攻撃性、獰猛、捕食本能、興奮、等々のネガティブワードは、どれもこれも我ながら素朴な外見の、その化けの皮の下に潜む俺の本性だ。

 因みに柴犬は、その見た目の素朴なルックスも魅力の一つだが、現世に今の柴犬を送り出した人々が言う「素朴」とは、「飾り気のない地味な気品と風格」を意味するらしい。それは何かの拍子に偶然知った事だが、「気品と風格」はともかく、「飾り気なく地味」などと。それこそ因縁の犬達は、そんな見た目まで、まさに俺と酷似している。柴犬が似ているのか、俺が似ているのか。その因縁と知名度を思うと、きっと後者なのだろう。

 何にしても──

 その素朴さの内側に秘める厄介な本質は、主人から離れた時にこそ本能的に現れやすいものだ。そんな事を悶々とたぎらせている今がまさに、

 ──その時。

 一人になると、そんな禍々しさが、凶暴さを伴って俺の中で怪しくざわめき出す。

 ──ん?

 禍々しいとか、凶暴とか。これは、俺が抱いていた紗生子のイメージそのものだ。夫婦は似てくるというが、まさにそんなところなのだろうか。

 ──いやいやいやいや。

 あんな魔女と俺が似るなどと。冗談でも御免被りたいものだ。が、もし紗生子が今の俺の立場だったなら、どうするだろうか。先に潜む何かを睨んで自重するか、それとも怒りに任せて最期に大暴れするか。今まで確かな勝ちを拾い続けてきただろうその女の事ならば、答えは考えるまでもなく前者に決まっている。そんな()()は、やはりどう転んだところで、

 ──似てねぇよなぁ。

 やはり、行ける所まで行ったら、後は最期の一花を咲かせる勢いで大乱闘だ。一矢でも二矢でも報いた後は、盛大な散り花だ。そんな俺は、やはり短絡的な、ネガティブイメージの柴犬だ。と、それはよいとして。気がつけば、紗生子の事を思い浮かべている。それだけ一緒にいる故なのか。

 実母と台湾時代の養父、最近になって兄である事が分かった仏軍当時のバディ以外で、まともに人と連んだ経験を持たない俺にとって、紗生子は異性初の知己だ。そう思った瞬間、身体の何処かが疼いた。ウソだと言っているのだろう。控え目に見ても、紗生子との関係は知己では収められないところまできている。少なくとも俺の中では、好意を通り越して信頼の境地だ。それは認めざるを得ない。現に今この瞬間も、この窮地を紗生子が必ず何とかすると信じて疑わない俺がいる。その紗生子は、本当のところ、こんな俺の事をどう思っているのか。

 最初はいけ好かない女でしかなかった。それが、何処か冷たく突き放した中に配慮のようなものを感じ始めると、途端にツンデレのようなものが見え隠れし始め、気づいたらいきなり偽装夫婦だ。それからは、訳も分からぬ押しの一手に晒され出して、只々驚かされるばかり。今となっては、あの手この手でこっちの操が危うい有様だ。

 ここで──

 最期を迎えると分かっていたら。確かに紗生子やインテリやワラビーではないが、素直な感情に身を任せていればよかったのかも知れない。最初で最期だが、至極の女体美を堪能しておけばよかった。今となっては、それが唯一の心残りだ。所詮この世は男と女などと、使い古された言葉が今になって俺の煩悩をくすぐってくれる。多様な価値観が渦巻く現代で、そうは言ってもこの世の性別の大半は男と女の構図だ。そして幸か不幸か、俺は女の中で至極の部類に入るような絶美に、控え目に見ても一定程度の好意を抱かれている。

 もし──

 俺がそれを受け入れたなら。それを思うだけで、日頃は血流を感じるような事などない妙な所が脈打ち、身体が熱くなる。この作戦に入る前、散々舐め回された口の中は唾液で溢れ、前貼りを施された股間は固くなる。

 ──ヤベ。

 と、思った時には遅かった。音もなく、またしても一物に訪れる解放感。

 ──やっちまった。

 が、今は静かに目を瞑り、音を立てずゆっくり深呼吸だ。幸いにも、股間以外の偽装は紗生子のお陰でほぼ完璧で、気づかれた様子は全く見られない。

 コックピットの様子は分からないが、恐らく二人。キャビンには三人。伊豆諸島での乗り継ぎの際の足音から、同行している連中は全員男だ。それも無愛想なヤツらばかりで、相変わらず一言もない。が、漂ってくる臭いには明確な変化があり、タバコと薬品様の臭いを感じ始めた。中国本土のエージェントなのだろう。

 と、なると──

 やはり目的地は香港だ。問題は、もう一人の女生徒がどうなっているか。今は、その一点のみだ。少なくとも雰囲気的に、ヘリには同乗していない。まだ何処かで、切り札代わりに拘束されたままと見るのが自然だろう。重ね重ねも、前貼りを破ってしまった煩悩が我ながら腹立たしいが、今更悔いたところで取り替えしようもない。

 もう一人の生徒の行方さえ

 ──分かれば。

 俺の事など、後は野となれ山となれ、だ。


 感覚として、乗り継いで三時間程度が経過した頃。潮の香の中に、僅かに(すす)の臭いが混ざり始めた。

 ──船か。

 どうやらそれへ目がけて降りるつもりらしい。俄かに減速し始めると、物の二、三分のうちに着陸した。それなりに風が吹いていたというのに、中々の腕を持つパイロットだ。降機直前に猿ぐつわをされると、粛々と車椅子で何処かへ連行され、ドアが締まる音がした後でようやく目隠しを外してもらえた。

 まず目の中に飛び込んできたのは、広くて立派な室内だ。一〇〇平方m前後はありそうなその広さといい、部屋の調度品といい、バルコニーといい、スイートクラスの部屋である事は間違いない。合わせて立派な窓には、水平線に沈みゆく西日が(まばゆ)いばかりに差し込んでおり、景色が右に流れている。右舷が西を向いている事から行先は南。それも南西だ。左舷側は、出入口と窓のない壁という構造上何とも言えないが、少なくとも西窓からは島一つ見えず、大海原が展開している。沖縄近郊の東シナ海を航行中とみてよいだろうが、それをもって目的地は断定出来ない。が、状況的に、経由地か目的地の中に香港は入ってくるだろう。

 室内に時計はないが、体感の時刻とほぼ合致だ。午後六時前後。九月下旬の今なら、後三〇分程度で日没を迎える。で、ついでに、蝶ネクタイをした正装のスチュワードが二人。出入口の前で立ち塞がるように立っている。少なくとも客をもてなすクルーのような笑顔はなく、合わせて室内には両隅に一つずつの監視カメラだ。どう考えても普通の部屋ではない。あくまでも人質であって、万来の息のかかった船という事だ。

 にしても──

 どうやらかなりの大型船らしい。西窓から見える景色は相当な高さだ。水平線と海と空だけの構図に感覚が騙されそうだが、この部屋の位置でも四、五〇mはあるのではないか。

 そんな観察を巡らせていると、いきなりピンチに陥った。入室後、落ち着く間もなく、追加で入って来た二人のうちの一人が、スチュワーデスだったのだ。

 ──ヤバい。

 今までの周囲は男だけだったと見え、身体の詳細な検分はなかった。人質とは言え、米国の重鎮の娘だ。最低限以上の丁重さをもって扱っている事が窺える。が、流石にここまで来ると、多少はやる(・・)らしい。

 ──そりゃそうだよなぁ。

 そのための、紗生子の念入りな偽装工作だったというのに。まさか俺の煩悩がそれを打ち砕いたなどと、どの面下げて言えようか。ならば、出来得る限りの事をするしかない。

 ──四対一。

 しかもカメラつきだ。到着直後で監視の目がよく利いている事を思うと、応援が駆けつけてくるのに

 ──早くて二、三〇秒。

 と、思いたい。もし、隣の部屋などに敵の拠点や控室があれば、次々加勢がやって来て乱戦状態に陥るだろう。そうなると流石に勝率は下がる。

 果たしてスチュワーデスに股を広げられると、覗き込まれた瞬間でその首に蟹挟みをかけてやった。ギプスつきの固い足で、車椅子ごとひっくり返して、まず一人。続いて、すぐ傍にいた追加の男が上から被さって来たその顎を、やはりギプスの右足で下から蹴り上げ、二人目。残る門番二人組は、車椅子毎タックルしてやって、やはり左腕のギプスパンチを二連打でまとめて沈めた。計四人。締めて七秒。反則技や用法上の凶器を連発したのは、非合法を重ねる敵に対してのご愛嬌だ。

 続け様に、外せるようにあつらえられていたギプスを取り外し、右足のそれに忍ばせていたピンで手錠を外すと、諸々の負傷偽装セットを放棄。そこまで一七秒。部屋を出るのに二〇秒かからなかった。まずまずだろう。

 敵の身の回り品を押さえたかったが、その間に応援が来ても面倒だ。とりあえずセキュリティーカードだけぶんだくって、まずは逃走。身支度を整えて出直す。何せ今の俺は、アンの患者衣のままだ。目立って仕方ない。

 とりあえず、エグゼクティブフロアのコンシェルジュを驚かせた勢いで非常階段の入口を開けさせると、階下へ逃れた。今の時代は何処もかしこも、セキュリティーカードなくして扉の一つも開けない。侵入する側にしてみれば、実に小面倒臭い事だ。

 一気にショッピングモールのブティックまで行くと、紗生子ではないが、速攻で適当なワンピースとパンプスを買って着替えた。道中のショーウインドーに映る俺は、どう見ても女。それもアン程の美女だったものだから仕方なかったのだ。俺に女装の趣味はないし、股がスースーするのが落ち着かないが、着替えが楽だし早い。それに男より美女の方が、色香の分だけ潜入しやすいというものだ。因みに購入時は、「船内の医院で、健康診断中に服を盗まれたクルー」という事で、せしめていたセキュリティーカードを身分証代わりにした。誰に請求がいくのか知った事ではないが、これもご愛嬌だ。

 それにしても、一応マスクをしているのだが、野郎達の目が一々障る。確かに俺の四肢は、今や白く嫋やかで、男ならつい目をやってしまいそうな程の豊乳だ。その目を快感とするような女なら至福としたものなのだろうが、嫌がる向きならこれ程煩わしいものはない。俺は圧倒的に後者だ。

 人の気も知らずに──

 鼻の下を伸ばして目の保養をする輩共に、女陰のリアルペイントが施された前貼りから除く男根を見せつけてやったら、さぞ痛快だろう。そんな悪戯心が芽生える中で、状況は深刻だ。仮に人質に取られた女生徒がまだ何処かに監禁されているとすれば、報復をされる前に乗船する敵を殲滅しなくてはならない。アンは武家故実を嗜み、周囲ではそれなりの体術を使う事が認知されている。それは当然敵も、

 ──知ってる筈だよな。

 その評価の高さを、ここは信じたい。実際には、いくら不意打ちの事だったとはいえ、闇社会に塗れる連中四人を瞬殺出来る程のアンのレベルではない筈だ。それを既に、敵方に見極められていたとしたら。悪名高い闇組織の事だ。人質が高校生だろうが、早速容赦なく報復を講じるだろう。が、俺自身、見入ってしまいそうな程の変装レベルの高さだ。ごちゃごちゃ考える前に、敵はとりあえず(アン)を捕まえて、真偽を確かめたいと思うのではないか。見極めと報復はいつでも出来るし、過ぎたる手口は本国(米国)を過剰に怒らせる事に繋がる。手に入れた玉は丁重に扱ってこそ、玉の価値を見出すものだ。

 こんな調子で──

 大なり小なり、敵方も混乱していると見てよいだろう。それなら、その混乱に乗じてとにかく速やかな殲滅だ。

 それは分かるんだが──

 何にしてもデカい船だ。逃走劇からここまで物の一〇分程度で、まだ日没前だろう。本当は、やがて訪れる夜陰に乗じてじっくり片づけて(・・・・)いきたいところだが、そんな猶予は当然ない。

 ──ってのに。

 流石に一度使った逃走ルートは使いにくい。が、別ルートで再び敵の懐を目指すにしては、余りにも広過ぎる船内だ。方向感覚は敏感な方だが、泣き事を漏らしそうになる。悪い癖だ。

 このどさくさの中で仕入れた情報によると、この立派な船は【朱雀(すざく)(洋名スカーレットフェニックス)】号というらしい。総トン数二〇万弱というアジア有数の大型クルーズ船は、事もあろうに中国籍だ。それはそのまま、中国政界における対米強硬派に繋がるとみていい。そんな輩共にアンが捕まるのはもっての外だが、それが(米軍人)だとしても、我ながらそれなりにややこしい話になるのだから余計でも悩ましい。何せ、万来・レジオンにとっては過去の仇であり、中国にとっては米軍の機密に迫る事がそれなりに期待出来る米軍人だ。

 その懸念は、行きずりで出会(でくわ)した敵を何人か沈めたところで、有無を言わさず突きつけられる事になった。

「余り無茶をされると、こちらも切り札(・・・)を切らざるを得なくなります。手荒な真似はしたくありません。どうか心安らかに、ご同行願います」

 何とか上層階まで戻ったところで、突如として目の前に現れた執事風の老人は、流暢な英語を使う正装の紳士だ。とても何らかの手業を有しているようには見えなかったが、立居振舞の隙のなさは雑魚の比ではない。その一言で、従う以外の選択肢を奪われた俺が、案内されるままに大人しくその後をついて行く事数分。終点は、日没間際のパノラマが広がる絶景だった。

「見た目の麗しさに比例しない豪勇は、流石はミスターABCの御息女と言いたいところだが、それにしては少し強過ぎたようだね、シーマ少佐。いや、嶌令(しまれい)君だったかな?」

 やはり、俺の歩容データはレジオンに抜けていたらしい。何処の誰だか知らないが、いきなり流暢な日本語で話しかけてくれるその男を中心に、敵方がズラリと居並ぶど真ん中で、物の見事に言い当ててくれたものだ。が、何はともあれ、

「何の事かしら(・・・)?」

 ここは意地でもアンで貫き通さなければ、目の前で緊縛の上猿ぐつわの女生徒が浮かばれない。使い勝手のよい手持ちの札は、やはり最後まで温存していたようだ。

 ──こんなトコまで連れてきやがって。

 さぞ、驚いている事だろう。その生徒さえ、助ける事が出来れば。俺の身などどうなってもよい。が、この状況で、どうすれば助ける事が出来るか。

 立派なプールまであるフロアだというのに、レーダー塔を除いてここより高い所は見当たらない屋上。一般客の姿はなく、代わりにいるのは見事に黒服の正装で固めた剣呑たる立位の男共と、片や安穏とデッキチェアに踏ん反り返り、涼しげに色の濃い南国系のドリンクを啜っている軽装の中年男。その、如何にも鼻につく男の給仕をする、何人かのやはり軽装の美女。他の空間との隔絶感は、全体を見渡す事が出来る高さ故だろう。ここだけ何かのドラマのような、そんなプライベートフロアだ。

「確かにその見た目には驚いたよ。何とも見事に化けたものだ。本当に君が女性なら、是非にもお相手願いたいくらいさ」

 と冷笑する男は船尾側、俺は船首側。南西に向かっている船のお陰で、俺は殆ど順光のメリットを独り占めにしている。そうした事に気を遣うまでもない、頭数の違いという事だろう。何せ数十対一の構図だ。誰がどう見ても、俺に勝ち目はない。

「だが生憎と、私はノーマルだからね」

「あら、私もよ?」

「君も中々頑固だね。それに敬意を評するといっては何だが、この子(・・・)の身柄は君に免じて解放してあげるよ」

 初見の男だが、ダメだ。一々鼻につく物言いで、今にも口を割ってしまいそうになる。バレバレなのは分かっているが、それでも最後の最期まで間抜けを晒しては、人質の生徒に合わせる顔がない。が、

「私がわざわざここまで出向いたんだ。本当ならアン御令嬢の身柄を押さえたかったんだが、そこは流石にCCだね。潔く、まんまと騙されたと言っておこう。それにしてもつまらないのは日本支社だ。最近の高千穂は、どうも目利きが悪い。相手の力を過小評価する癖は、改めさせなければならないな」

 ズケズケと、俺の深いところにある葛藤を、まるで見透かすようにくすぐってくれるこのスカした男のせいで、俺の最期の踏ん張りは脆くも崩れ去る。

「お前、まさかっ──!」

「つい地声が出たね」

 声はアンのものだが、俺の心情を拾ったとみえるこの男は、中々聡いという事だろう。その忌々しい切れ者振りは、俺の記憶とも合致する。

「まぁ、そんな君の身柄は、私の愛すべき二人の相方(・・・・・)長年の仇(・・・・)でもあるからね。今回はこれで収めるとしよう」

 この場で言う相方とは、高千穂兄(警視総監)であり、辿れば万来グループの黎明期から発展期にかけて名を馳せた二大巨頭の片割れ【(ワン)】をおいて外にない。その二人の相方を名乗るこの男は、俺の記憶が正しければ、一代にして世界的な巨大人材サービス会社を築き上げた、

 コイツが──!?

 巨悪創始者の片割れ、Demon Rye(鬼のライ)だ。それは、この男のイングリッシュネーム【Damon(デーモン) Rye】からきている通称であり、それ程裏社会で恐れられている証左でもある。本名は【来勇(ライヨン)】。武后を未だ悩ませるその二男にして、安美鈴(アンメイリン)の伯父だ。直接見るのは初めてだが、よく考えてみれば、そもそもその顔を気にした事がなかった。普通に生きていれば、俺のような下層の人間が関わる事など有り得ない相手なのだから当然だ。

 ──が。

 こっちに用がなくとも、向こうはアリアリだろう。是が非でも引きずり出して、八つ裂きにしたい筈だ。

 子供の頃のあの理不尽(トラフィッキング)を、それを成す輩が罰を受けず蔓延る悪を、どうしても許せなかった若かりし頃の俺の無謀(復讐)が、思いがけなくも高千穂兄に生涯癒える事のない傷をつけ、そのプライドを砕いた。合わせて、メディアを利用した俺の拙い糾弾が、予想を覆して巨悪の片翼を失脚させ、死に至らしめた。大した力を持たない、名もなき俺にそれを許したとあっては、確かに巨悪が復讐に動くのも、無理からぬ事なのかも知れない。

 ──だがなぁ。

 元を正せば、悪いのは悪事を働く輩共であって、被害を受けた俺ではない。その悪が正されないのなら、それをしない世が悪い。頼れる者が他にないのであれば、被害者自身が仇を討って何が悪い。とは、いつぞやの相談役も口にしていた事だが、実は俺も頗る同感だったりする。敵にとって長年の因縁の相手である俺は、裏を返せば俺にも言える事だ。最早この期に及んでは、どっちが表でどっちが裏か、判別がつきにくい程の泥試合だが、

 何にしても──

 目の前に、忌々しい敵の親玉がいる事の僥倖が、分不相応の復讐心を駆り立てる。どうせ周りは敵だらけで、しかも既に下手を打って正体がバレてしまった俺だ。それなら、

 最期に──

 大暴れしてやる。結局、そんな短絡に至ってしまう。折りしも時は日没目前。まるで俺の命運を反映しているかのようだ。

 ──上等だ。

 俄かに構えようとしたその刹那。俺の目線の遥か先にある、北東方の低い雲間の極一部が、

 ──光った?

 ように見えた。

 いや──

 間違いない。人を見る目はないが、物を見る目はある俺だ。そこは一路南西に向かっている船の船足からすれば、三、四〇分前に通り過ぎた海上だった。時間経過的に、俺がこの船に連行されて来た頃の地点だろう。この大海原の低空に光るような物といえば、それこそヘリぐらいだろうが、俺を連行して来たそれは船に留まったままだ。突然光った経緯からも、空に留まっていた物でもない。となると、

 ──新たな飛来物。

 しかも気づいているのは、それに唯一正対している俺だけだ。

 考えられるケースは三パターン。敵か味方か、無関係の通過交通だ。が、無関係の者にしては、進路が綺麗に重なり過ぎている。

 ──二択だ。

 敵か味方か。俺の前に居並ぶ敵方に目線を悟られないよう、白々しく注視していると、すぐに答えが出た。正体不明の発光媒体が、モールス符号のBとTを繰り返しているのだ。

 ──クソ。

 不覚にも、一気に何かが溢れそうになった。光源が何なのか知った事ではないが、【送信開始】を意味するその符号を、この状況下で俺に向かって打つヤツなら考えるまでもない。向こうからは、こっちの様子が見えているのだろう。だからこそ、俺にしか見えない位置(・・・・・・・・・・)から発光信号を送っている。

「一応言っておくけど、安心していい。あっさり殺すつもりはないからね。もっとも死んだ方がマシかも知れないけど」

 徐々に凶暴さを増す来勇の遥か向こう側で、見る見るうちに近づいてくる飛来物の欧文モールスが、【MA(任務完了)】と【RTB(基地への帰還)】を二回ずつ繰り返した。それを繰り出すのが、固定翼モードの【V-22(オスプレイ)】とくれば、大方また横田を頼ったのだろう。

 ──ホントに日本の諜報部員かよ。

 足代わりで米軍を使うなど、政治上の立場関係を逆転させているその所業は、如何にも紗生子らしい。お陰で募らせていた毒や牙が、すっかり抜けてしまったではないか。

 ──仕方ない。

 命に従い、帰る事に知恵を働かせよう。

「折角、お互い初めて顔を合わせたってのに、つれなくありません?」

「これでも相当我慢した方なんだ。そこは理解して欲しいな」

「周りをイエスマンで固めちゃったから、ちょっと考え方が凝り固まってるんじゃないですか?」

 と言いつつ、指で頭を突く振りをしながら、モールスで【了解】の返信を打つ。するとすぐに、AとSの返信があった。【待機要求】だ。

 今度は──

 どんな手で驚かされるのか。事もあろうに、悪い期待感で高揚する俺がいる。その代わり、すっかり死ぬ気は消え失せていた。俺の中での、紗生子に対する信頼の高さの表れだ。

 任務完了って事は──

 目の前の生徒は偽物と言い切ってよい。その辺の事で紗生子に疎漏などないのだから、それこそ俺の変装ではないが、これまた敵もよく化けたものだ。

「言ってくれるじゃないか。ここまで我々を頑なにさせたのは君だろうに」

「どさくさ紛れにトップを取ったのはあなたの意志でしょう? 当時トップだった万氏は、暗殺説が最も有力視されてるし」

「まるで私がそれを望んだように聞こえるな」

「違うんですか?」

「分かったような口を叩いてくれる」

 と、鼻で失笑する来勇と、それを取り巻く剣呑な輩共のその背後では、ミサゴ(オスプレイ)がそれなりに目が利く者なら捉えられる位置まで肉薄している。敵方にいつ気づかれるとも知れない、中々スリリングな状況を、

 ──敵の目の前で眺めてろってか!?

 そんなサディスティックな作戦もまた、如何にも紗生子らしい。鬼が見ていない間に動くその様は、まさに命懸けの【だるまさんがころんだ】。それを、俺なんかのためにやっている紗生子はつくづく、

 ──バカがつく物好きだ。

 と言ったら、紗生子はどんな返し技を繰り出してくるだろうか。不意に噴きそうになったところで、ミサゴ(・・・)がカウントダウンを始めた。

 三、二、一──

 ゼロと共に、発光信号が白煙に変わる。

 ──げっ!?

 何だか知らないが、何かぶっ放したのは間違いない。

 ──マジかよっ!?

 思わず声が漏れそうになった。只でさえ、中国との防空識別圏間際だ。尖閣諸島やその先にある台湾海峡の緊張状態からして、中国側は間違いなく緊急発進(スクランブル)をかけている。まさかそれに向けて撃った訳じゃないだろうが、仮にそうだとしたら国際問題どころの話では済まない。最悪、米中戦争だ。

 そんな弾道の行方を確かめながらも、

「まぁあなたはそう言うしかないですよね。話にならない」

 などと演技をさせられるのは、【だるまさんがころんだ】とは比べものにならない程の、質の悪いチキンレース感。

「話を持ちかけたのは君の方だろうに、随分だな」

 そうこうしている間にも、白煙は導火線を這い上がる火花の如く迫り来る。その火は明らかに、

 ──音速超えてやがる!?

 矢のような航跡は、巡航ミサイルではない。短距離誘導弾だ。というのに、周辺にターゲットに成り得る物体が見当たらない、その絶望的な衝撃。

 何考えてんだ──

 あのじゃじゃ馬は。撃った時点で冗談では済まなくなるというのに、狙ったのが軍機ではなく客船(こっち)とあらば、それならそれでやはり常軌逸脱にも程がある。表向きには公海を異常なく巡航中の国際船舶だ。それに対して無警告でいきなり武器を使用するなど、どう考えてもオスプレイ側に大義はない。

 輸送機として開発されたオスプレイの武装は、基本的に後づけだ。簡単に持ち込めて、飛行中の機内からぶっ放せる短距離誘導弾と言えば、

 FIM-92(スティンガー)──?

 と言いたいところだが、それは明らかに射程が足らない。ミサゴの位置は、まだたっぷり一五kmはあった筈だ。

 ──ってのに?

 問題の弾頭は、着弾まで指折りの状況にして、一向に推進力が衰える気配を見せない。

 ──マ、マジでヤべぇなこりゃ。

 ついには、空を鋭利に切り裂く飛翔音が周囲に轟き始め、

「ん? 何だ?」

 などと、ようやく眼前の鬼達が、退っ引きならないその侵入者に気づいた。【だるまさんがころんだ】なら、それを見た瞬間で捕虜に出来るのだろうが、

 捕虜もクソも──

 この期に及んでは、そんな冗談が寒々しい。

 着弾すれば民間船舶だ。オスプレイから撃てる物なら一撃で撃沈される事はないだろうが、船内は混乱を極めるだろう。船籍の政府が黙っている訳もなく、それこそ対米強硬派を勢いづける格好の材料だ。自分達のやっている事を棚上げして、精々被害者ヅラで盛大に日米を吊し上げる事だろう。国家間のルールなど、未だにあってないような世の事ならば、最終的に大義を得たものが正義だ。この場面でのそれ(正義)は、中国籍の船に連行された時点で、自国法を振りかざせる対米強硬派の手に移ってしまっている。今更まともな相撲など取れる訳もない。

 ──それなら!

 その土俵から降りるまでだ。

 敵方の歴戦の強者共も、血が通わない問答無用の来訪者には流石に釘づけの、その間隙。時間にして一、二秒だろうか。俺は最寄りの柵を踏み台にして、躊躇なく海へ飛び込んだ。背後で耳をつんざく炸裂音がしたが、その時には既に宙を舞っている。着弾に巻き込まれる事はなかったが、大型クルーズ船の最上階からのダイブだ。五〇mはあるだろう。普通、助からない。

 こんな時は、誰であろうと必ずといってよい程出現する【タキサイキア現象】によって、俺はこんな事を考えていた。

 ──ワンピースがめくれ上がってハズい。


 一分後。

 俺は海面から、数百m先を西行するクルーズ船を見送っていた。

「や──」

 やれやれだった。つい、そんな愚痴を、海水と共に口から吐き出す。接着剤でくっつけていたカツラは相変わらず頭にあったが、つけ胸(・・・)は外れてなくなっていた。いい塩梅だ。

 めくれ上がったワンピースが、飛び込んだ衝撃で首や頭を締めると思ったが、意外にも都合よく顔を保護してくれて、意識を失わずにすんだ。海面突入のGは、戦闘機に比べれば大した事はなかった。四Gぐらいだろう。が、海水が鼻や顔に張りついて、意識が飛ぶと思っていたのだ。

「な、何が幸いするモンやらだな」

 と、また海水を吐きながら、今度は浮くために、助けられたワンピースを膨らませる。

 太陽が水平線に沈みかかっているその絶海に只一人。珍奇な格好で懸命に浮かんでいると、急速に深まる闇の中で俄かに不安になる。

 こんな格好で──

 サメにでも食われて死んだら。

 ──じょ、冗談じゃねぇ。

 そんなの、死んでも死に切れない。などとジタバタしていると、上空をオスプレイが通過して行った。上から薄暗い海面を捜すのは難しいだろう。日が暮れたのが運のつきだったようだ。こっちは迫る闇の中、上空を通過するコンマ何秒かで、はっきりと胴体にある国籍識別標(ホワイトスター)を確かめたというのに。

 こりゃあ──

 とりあえず、夜明けまで粘らない事にはオスプレイだろうと船だろうと、とても見つけてもらえそうにない。一晩中、浮かんでいなくてはならないとは。

 ──クソ。

 こんな事なら、大事につけ胸をつけておくんだった、などと後悔していると、今度は空からパラシュートが降りて来た。その先端(・・)に、如何にもスパイ仕様と言わんばかりのキャットスーツに身を包んだ美女がいる。

 ──ああ。

 不覚にも、また何かが込み上げてきそうになったその時、突然短水路程の高さから先端だけが自由落下で加速度的に落ちて来た。

「うわっ!?」

 それが物の見事に、俺の真上を狙い澄まして襲いかかる。直撃を避け、辛うじて躱したそこへ鋭利な影が落ちて来ると、その勢いで何処かを捕まれ、また海中に引きずり込まれてしまった。そのまま暗い海の中で向き合うと、怪力を誇る玉腕が首に絡まって来て、どちらともなく目を閉じる。後は息が続くまで、お互いの口を吸い続けた。

 しばらくして、自然に海面に戻って来ると、それでも絡まって離れない腕のせいで、頬ずりを堪能される。

「あ、危ないじゃないですか!」

 その一言が、精一杯の苦情だった。

「一刻も早く、海水を吐き出すのを手伝ってやろうと思ってな」

 と、訳の分からない事をまくし立てた紗生子の軽口が、飽きもせず再び俺の口に吸いつくと、呼吸も忘れる程にしばらくお互いの口を貪る。立ち泳ぎをしながらのそれで、流石に共に肩で息するようになってようやく口を離すと、

「早まるなと言い聞かせたってのに、仕方ないヤツだ」

 と、タフな紗生子が、それでも俺の耳元の何処かを吸いながら、悩ましい息遣いの中で柔らかく漏らした。

「また前貼りが破れちゃったんで、仕方なかったんです」

 その情けない言い訳に、今度は噴き出した紗生子が、

「本当にどうしようもないヤツだな」

 と、破顔した御尊顔を俺に見せながら、また口に吸いつく。

 どれ程そうやって、お互い口を吸い続けただろうか。気がつくと、真上にオスプレイが戻って来ていて、上からロープと浮き輪を垂らしてくれていた。


 もう一人の生徒は、八丈島で確保したらしい。俺と別れた後、紗生子はすぐさま横田へ向かい、体育祭を抜け出したワラビーと合流。米軍にオスプレイを出させると、海面スレスレの低空飛行で俺の乗ったヘリを追跡させた。巡航ミサイル同様のレーダー対策だ。

 八丈島へ向かう目星がつくと、オスプレイの機動力を活かして先回り。中継点を二人で急襲し、監禁されていた生徒を確保したと言うから、毎度ながらの早業と言うか荒技というか。それにしても、何故敵のアジトが分かったのか。紗生子は詳細を省いたが、そこはCCの所以だろう。予備情報があった事は間違いない。その敵の拠点の一つを、敵に察知される事なく陥落させるその手際の良さと行動力には、毎度驚かされるばかりだ。

 敵方は監禁していた生徒を、(アン)と一緒に香港まで連行するつもりだったらしい。アンの逃げる気を削ぐための(かせ)だろう。が、そのプランは、中継点を制圧していた紗生子とワラビーによって頓挫する。遅れてそこへ(中継点)やって来た俺の乗るヘリが、その末恐ろしい女スパイコンビから、

「生徒に隙を見て逃走された」

 という偽情報を追い討ちされると、ヘリ組は予定を変更。結局そのまま、(アン)一人だけをクルーズ船へ連行するに至った。目隠しをされていたとはいえ、ヘリの乗り継ぎの裏側でそんな電撃作戦の存在など露程も知らなかった俺は、そのまま囮として泳がされた訳だ。敵方の最後に誰が出て来るのか、それを見定めるための苦肉の策だったらしい。

 最後にオスプレイからぶっ放したのは、米軍が開発中の【AGM-179JAG(新型ヘルファイア)M】だったというから、これもまた驚きだ。

「ラスボスに挨拶がてらで──」

 その弾頭に花火玉を仕込んでいたらしい。俺が背中で感じた爆発音は、船の直上で花開いたそれだったのだ。乗客乗員は、何の前触れもなく突然炸裂した黄昏時のその花火(・・)に、驚く向きはあっても余興の範疇を逸脱する物と想像する者はおらず、苦情も出なかったらしい。

 その悪い冗談が通じたのか、中国の対米強硬派は色々と出鱈目だった日米側、つまりその全てを取り仕切っていた紗生子に対して、何一つ文句を言ってこなかった。そもそも事の発端は、その中国タカ(対米強硬)派なのだから、言えなかったと見るべきだろう。そもそも口喧嘩で紗生子に適う人間など、俺の知る限りこの世には存在しない。敵も少なからず、それを考慮したという事だ。

「これで攻撃権はこっちにきたって事だ」

「そうなんですか?」

「今まで攻められっ放しだったからな。精々目に物見せてくれる」

隣の部屋(・・・・)についてなくていいんですか?」

「女が二人、顔を突き合わせたところで口喧嘩になるばかりだ。それならこうして君を見舞うとしたモンだろう」

 結局、体育祭でのアンの吐血騒動は、胃潰瘍として収める事になった。一週間程の入院事実を作るため、高坂病院の特別病棟(・・・・)で入院中だ。となると、当然その側衛が必要であり、それは俺が担う事になった。

 それはいいんだが──

 紗生子に助けられた沖縄近海から、そのままアンの隣室へ直行となった俺は、

「見舞うって言われてもですね──」

 またしても、病名を告知されていない。

「そんな事より、間違ってもアンに手を出すなよ?」

「出す訳ないでしょ!?」

 頑健な紗生子は入院という形が難しく、また仮の姿(主幹教諭)での仕事も忙しい事から、通常モードで学園だ。偽装といえども夫婦だからこそ、毎日見舞う事が出来る体裁であって、アンの護衛には万全を期している。が、他方、

「マイクさんは気の毒ですね」

 アンを想うその人の仮の姿は、住み込みの学園警備員だ。学園から離れる体裁も難しければ、入院している美少女学生に、三〇も年が離れた屈強な警備員が見舞う格好となる訳で、そのハードルは余りにも高いと言わざるを得ない。

「ヤツなら、まだ(・・)大丈夫だろう。変わりはない」

 今はまだ(・・)親心に毛が生えた程度の情愛でしかないから問題ない、とか。

「障害を乗り越え、男女の性愛が芽生えた時こそ手に負えなくなるだろうがな」

 一方で、俺のインカムには隣室のアンの視聴覚データが送られてきており、『退屈だあ』とか『ちょっと先生聞いてる?』などと、延々と悩ましい独り言を聞かされる始末だ。

「──が、アンのヤツは寂しがりだ。手近な物(・・・・)気を紛らわす(・・・・・)。去年もそうだったろう?」

 言いながら紗生子は、自分で持って来た見舞いの品の中にあった梨を手に取ると、鮮やかなナイフ捌きでその皮を剥き始めた。まるで絵画の一部を切り取ったかのような、そんな情景だ。

「まさか、あの小娘に籠絡されるとは思わんが──」

 と、ベッドの上で座る俺に、早速切った梨を出してくれた手と共に近づく顔。が、

「見てくれの地味っぽさとは裏腹に、前貼りを破る程の暴れん坊だ」

 手はベッド上で止まったが、顔は止まらない。その威圧的な美しさに怯み、思わず目線をずらしながら仰反る小動物の俺を、

「──どうした?」

 その一言で固まらせる紗生子は、頂点の部類の捕食者だ。

「いや。何か、悪い癖になってるというか──」

「情報操作であらかた悪い虫は落としたが、アンのヤツは事実を知っているからな。大義名分(偽装夫婦の立場)を得ている間に、既成事実を固めておくとしたモンだろう」

 と、呆気なくまた口を吸われてしまうと、脳が痺れて動けなくなる。痺れているうちはまだいい。たがが外れて本能が剥き出しになるのが怖い。その時、それこそ想定外の暴れん坊がどうなるのか。しばらく後、口を離した代わりに額を合わせて来た紗生子に、

「──それが怖いんです」

 と漏らすと、紗生子が盛大に噴き出した。顔に唾をかけてくれたかと思うと、

「スマンスマン」

 と謝りながらも、腹を抱えて笑っている。

「君は本当に乙女だな!」

 ここに至っては乙女云々は構わないのだが、身体はとても収まりがつかない。熱を帯びた股間が、次なる行動を求めている。

「遠慮は無用だ。これ(キス)はDNAの保護と研究の治験を兼ねている事でもある。表向きの身分(夫婦)なら、それぐらいでとやかく言われる事もないし──」

 アンのインカムは一方通行だ。状況がなければ、こちらの様子とリンクする事はない。更に特別病棟は、事情持ちが世間から逃げるために入院する事もしばしばだ。それを加味した病院側が、食事時以外で顔を見せる事はない。しかもアンと俺は、面会謝絶になっている。つまり、

「──今は完全なる、二人切りの病室だ」

 と、思いっ切り強調されてしまうと、今はそれだけで生唾が溢れてむせてしまう。それをしたり顔で小さく笑う紗生子は、明らかに確信犯だ。

「とはいえ、流石に昼間の病院内だしな。ある程度の分別は必要だろう。が、堪能(・・)させてやる約束もあった事ではある」

 と、何やら言い訳がましい紗生子が、今度は俺の手を取ると、美しい曲線を描く自らの胸の膨らみに、それをくっつけたではないか。

「な──!?」

 慌ててその手を引っ込めた反動で、背後の調度品に思い切りぶつけ、悶絶させられる。

「大型客船の一番上から飛び降りて無傷のヤツが、その程度で大袈裟な事だ」

 と、相変わらずの憎まれ口だが、今度はぶつけた手を取り、摩ってくれるその手に懸想させられてしまう。また生唾を飲み込むと、いつぞやのような毒気の失せた優しさで微笑む紗生子に、別の意味で硬直させられた。

「余りやり過ぎて、本当に怪我をさせても本末転倒だ。いい機会だと思ったんだが、今回は服の上までだな」

 とまた、取られたままの手をその胸に当てられると、合わせて口を奪われる。息継ぎに喘ぐ程吸われながら、胸に当てられた手がグイグイ膨らみの中に押し込まれると、経験のないその丸さと柔らかさに指先の握力が暴走し始めた。

「ダ、ダメです。これ以上は──」

 押し倒してしまいそうだ。もっとも紗生子は簡単に押し倒せないだろうが。

「遠慮するな。名誉毀損の先払いだ」

「はあ?」

 我を忘れそうになる寸前で、思いがけないそのフレーズに脳が少し冷え、思考を取り戻した。

「──どういう意味で?」

「それは帰ってくるまでのお楽しみだ」

 運動会で二年連続ペンギンの着ぐるみを着せられた俺が、そのペンギンに寄生していたシラミのせいでシラミ症に陥り、全身脱毛の上念押しで隔離されたという俺自身の入院事由を知るのは、無事に退院して学園業務に復帰した初日の朝、職員室での事だ。股部白癬(いんきんたむし)と蒙古斑に続いて、その後しばらくその不名誉が存分に学園関係者の口を慰めた事は、あえて説明するまでもないだろう。

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