教育実習①【先生のアノニマ 2(中)〜7】
六月初旬。
学園は、教育実習生の受け入れ時期を迎えた。去年も同時期に行われたそうだが、時期的には中旬に赴任した俺にそのイベントの記憶は残っていない。去年は、思いがけない自分の身分の変化に戸惑っている間に終わっていたようだ。
始業前の職員会議で教頭先生から説明があったところによると、中等部は三週間、高等部は二週間の実習になるらしい。それにしても、警視庁から出向でやってきたいぶし銀の刑事でも、月日を重ねればそれなりに見えてくるのだから、人はポストに育てられるとはよく言ったものだ。などと上の空で聞いていると会議が終わって、先生方が各々準備を始める雑然とした中で、その教頭先生の皮を被った刑事さんに、
「シーマ先生、ちょっと──」
と、呼び出された。
「何です?」
「一限は授業か?」
「いえ」
「ちょうどいい」
と、そのままの勢いで、また理事長室だ。
──また何だ?
理事長室に入る時は、良くも悪くも決まって何事か動き出す。俺にとってすっかりそこは、鬼門になりつつあった。個人的に理事長は好きなのだが、そこへ行くと驚かされる事ばかりなのだから仕方ない。
で、中に入ると
──やっぱし。
応接の議長席に紗生子がどっかり腰掛けており、その下座にはその部屋の主が。例によって甲斐甲斐しくも、湯飲みの世話をしていた。
「毎度すみませんね理事長先生。他に落ち着いて話せる所がないものですから」
「いえ、ご遠慮なさらずに。さぁどうぞお掛けになってくださいまし。気楽に参りましょう」
と、この人が言う時は、大抵気楽な話ではない。内心、気構えながらも案内された下座の議長席直近に座ると、その対面に案内された教頭先生に、例の如く喧嘩腰の紗生子が、
「で、朝っぱらから何だ?」
と、いきなりタメ口だ。
「俺もすっかり嫌われたモンだな。まぁ今日この瞬間まで、敵か味方かはっきりとした態度を示していなかったから仕方ないか」
「警察はあれ程の組織力があるのに、トロ臭い上に厄介事を押しつけてくれるから元々好きになれん」
「そりゃアンタ達と違って、こっちは一応法の手先だからな。裁量でその枠外の活動も辞さない必殺集団にしてみりゃごもっともな事だ」
「──で?」
と、一見して親子程も離れた教頭先生に対して、役職的にも一つ下の主幹があからさまな溜息を吐き出しながら先を促すと、
「ちょっと独り言を聞いてもらおうと思ってな──」
と、教頭先生が話し始めたのは、思いっ切り俺の古傷の事だった。
話は一四年前の春に遡る。
広島で一大勢力を誇った、とある暴力団が一夜にして壊滅した。それだけでも中々ショッキングな事件だったが、加えてその場に居合わせたという、時の広島県警察本部の警務部長までもが半殺しの目に遭ったというから穏やかではない。更に驚くべきは、この事件は単独犯によって行われたという事だ。その前に、何故警察のお偉方が暴力団と一緒にいたのか。警務部長と言えば、本部長、総務部長に次いで、県警では上から三番目の要職だ。その御大尽が、とある雑居ビルのバーで飲んでいたと言うが、その相手は壊滅した暴力団の組長だったとか、そのビルの地下には同暴力団の賭場があっただとか。芳しからぬ状況でそれを見事に打ち消したのが、犯人の意外な素性だった。その事件の数日前に、定期人事異動で辞職したばかりの元警察官だったのだ。
「犯人は嶌令。当時二〇歳、と言っても誕生日は四月一日だそうだから、もう数日で二一だったようだが。──アンタも確か四月一日だったよな、誕生日?」
と、わざとらしくも絡めてくれるので、
「え?──ええ、まあ」
と、平生を装ったつもりで答えたのだが、右斜め前に座っている紗生子がイラついている。
「──の、元警視庁警察官。高卒ながら語学でスペシャリスト採用されたようだ。中国語で。もう事件から一四年か。俺は何処で何をしてたかなぁ。こんなヤツは知らんが。──それはそうと、アンタも確か使えたよな、中国語?」
「え?──ええ、まあ」
「経歴は、っと──」
と、いつの間にか自然な流れで手帳を出しているところが如何にも刑事らしい。その口から語られる犯人像もまた芳しからぬというか、ぱっとしない男で、
「とりあえず真面目だけが取り柄の、並以下のレベルの警察官だったそうだ」
中国語が使えた以外はな、とわざわざ強調してくれる。そんな男が一夜にして暴力団を壊滅、
「──出来るモンかね?」
「さあ?」
「目撃者の話だと、徒手だったらしいが」
それが、バーで歓談中の組長外数名と、地下で開帳されていた賭場にいた十数名、更には近くの小規模ビルを丸ごと拠点化した組事務所につめていた二十数名。合計約五〇名を、物の一〇分前後で全員見事にのしたというから、
「これこそまさに一撃必殺の仕事人のやる事だろう? 驚きだこりゃ」
という滝川の反応はもっともだ。もっとも武器は現地調達だったようだが、拳銃や日本刀に木刀などの典型的な物から、椅子や机、灰皿などの用法上の凶器に至るまで。あらゆる物を自由自在に使い熟し、最も驚くべきはその乱戦の中で、後遺症こそ残す人間は出たものの、誰一人として死人を出さなかった事だろう。
「あれだ。中国拳法じゃなくて、ええーっと、そうそうあちょーってヤツだ。年をとると言葉が出てこんなぁ──」
「あちょー?」
「ああ、あれだ、あれ! カンフーだ! カンフー使いだったんだと。──アンタもそうだろ?」
「我流ですが、まぁカンフーと言えばそうでしょうか」
「警視庁にいた頃は、柔道も逮捕術も、どちらかと言えばからっきしの部類だったようだから──猫を被っていたんだろうなぁ」
「ぶ」
と、そこで何故か紗生子が、脈絡なくも一人で勝手に噴き出した。
「何でもない。いや、私の近くにも、猫を被った柴犬みたいなヤツがいるモンでな」
「そりゃあ変わった御仁だな」
と、俺の前に居並ぶ二人が、わざとらしくも俺をチラ見する。
「思い出し笑いだ。続けてくれ」
「ん。──とまぁ、計画的犯行だったようだ。いつから何処からそのとんでもない事件を計画していたのか。これは本人に聞いてみんと分からんが、恐らくは警視庁に入るのもその一貫だったんだろう。あっさり辞めてるしな」
そのまま逃走した犯人は未だ捕まっておらず、指名手配中らしい。暴力行為等の処罰に関する法律の第一条の二と傷害罪での手配であり、その公訴時効は何れも一〇年。本来ならとっくの昔に時効がきているのだが、
「国外逃亡中なモンで、未だに国際手配中だ。空路や海路の正規ルートでの出国記録は皆無なんだがな。果たしてどうやって逃げたんだか、または逃げた事にしたんだか」
と言う通り、犯人が国外逃亡した場合は、刑事訴訟法を根拠に時効は止まる事になっている。よって、未だ時効未成立の未解決事件という訳だ。
「それも只の殴り込み事件じゃない。何せ、高千穂元首相の長男が狙われた事件だ。ちょっとしたテロ扱いなのさ」
有りがちな暴力団同士の抗争なら分かるが、これをテロ扱いとは。何とも大風呂敷を広げたものだ。
「それに犯人は、人身売買のブローカーだったようだからな」
とは要するに、
──表向きは反社同士の抗争だけどなぁ。
仲間割れの構図で落ち着きそうな事件なのだが。そこに、当時四〇にも満たない史上稀に見る若さで県警警務部長を務めていた現警視総監高千穂隆嗣が、被害者として顔を出す事こそがおかしいのだ。それにしても、
人身売買って──
言いがかりにも程がある。
という事は──
その容疑でも手配されているのだろう。その罪における一番重い態様での法定刑による公訴時効は、傷害罪のそれと同じく、
──一〇年か。
と、密かにコンタクト上にネット検索結果を展開させる。こういう時のCC七つ道具は本当に便利だ。
「当時の広島の警務部長殿が偶然被害に遭った事で、大規模な人身売買組織発覚の端緒になって──」
その暴力団はおろか、国内の人身売買カルテルの一角が解体されるに至ったという、
「まぁ警察にとっては大変意義深い事件なんだが──」
その主犯と言ってもよい恐るべき単独犯が、未だに捕まっていない。
結局、捜査が思わぬ方向に拡大展開した事で当時の高千穂の疑惑はうやむやになり、それどころかその捜査を指揮した事でその功すら称えられ、
「警視総監だってのに、未だに執念深く捜査の進捗に睨みを利かせているんだと」
とは、広島県警のボヤきらしい。
「小官としては大いに疑惑も気になるところだが、その火種を起こさないためにも未だに陣頭指揮をとってるって事なんだろうなぁ。まぁ足の敵もとりたいんだろう」
とのんびり語る滝川によると、警視総監はこの時の負傷で膝が完治せず、軽度の歩行障害が残ったとか。
──そういえば。
入学式での祝辞の折、演台を登り降りするその歩き方がぎこちなかった事を、今更ながらに思い出す。
「罰が当たっただけの事だろうが」
そこまで黙って聞いていた紗生子が、突然割って入った。
「まんまと襲撃犯にブローカーをなすりつけ、当時の組織は壊滅したのに自分だけちゃっかり生き残ったんだ。そのくらいは当然の報いだろ。殆ど無罰だそんなモン」
「流石はCCだな。それが分かっていながら何故放置した?」
「CCは長きに渡る地道な活動で、ようやくここまで精強な組織に育ったんだ」
「その手が出せなかったツケが、ここへ出たって事のようだぞ?」
「──何が言いたい?」
と、紗生子に凄まれた滝川が、一枚の紙を卓上に置く。何かの映像をプリントアウトした物のようだが、遠望とその拡大にコマ割りされているそれに映っているのは、
──あちゃあ。
と、我ながら情けないばかりの盗み撮りをされた、外ならぬ俺だった。見覚えのあるアーケード商店街は、一目で尾道のものである事が分かる。
「大方、去年の夏休みの研修旅行中の映像でもプリントアウトしたんだろ?」
それを紗生子が確かめもせず、そっぽを向いたまま吐き捨てるように代弁してくれた。
「え? 見てないのに何で──」
「嶌令とされる人物の映像だ」
と、構わず進める滝川によると、
「おっしゃる通り去年の八月、ここの商店街にある銭湯の近くで、一般人が三人組の筋者に絡まれているっていう通報があったそうでな──」
それに臨場した交番の警察官によるお手柄映像らしい。
「コテンパンにやられた三人組を見つけたものの、輩共はどう見ても被害者のくせに、全く事情を話さなかった」
──そりゃそうだ。
三対一でボコられたとあらば、連中にとっては恥以外の何物でもない。
「──で、一応その時の警察官が最寄りの防犯カメラを確認したら、偶然にもこの絵を見つけたって訳だ」
何でもその警察官は、細々ながらも未だに襲撃事件の捜査本部が開設されている広島市の某警察署から転勤してきたばかりであり、転勤直前までその捜査本部の専従捜査員だったとか。
「それまで散々拝まされた犯人の風体が、目に焼きついてたんだと」
なんちゅ──
見事な偶然だ。地道な捜査が結実した一つの典型とも言えるそれはひとえに、紗生子がつい先程否定したばかりの警察の組織力の勝利だろう。
「元々この事件では、嶌の証拠は各所に設置された防犯カメラの映像しかなかった。モンはおろか、現場が滅茶苦茶でろくにゲソもとれなかったらしくてな」
敵ながらやるモンだ、と一旦茶を啜った滝川が、また続ける。
「──で、それはそれは丹念にあちらこちらの防犯カメラをしらみ潰しに確かめて、ようやく辿り着いたホシなのさ。そんなところへ去年の夏に、捜査本部へこの絵がもたらされた時には、それはそれは沸き立ったらしい」
その後、その映像を鑑定に出して解析してもらった結果、
「歩容鑑定で九九.八%の照合率だ。合致と言っていいだろう」
それを受けての追跡捜査で、この学園まで辿ってきた訳だ。果たしていつ頃ここに到達したのか。俺には知る由もないその他方で、思い知らせたのは水面下で迫る国家権力の不気味さだ。
「回りくどいな。それならさっさと括ればいいだろう?」
「よく言うな全く」
「これは異な事を言うな。未だに国際手配しているのは貴様らだろうが。それなら大事に更新している逮捕状を、本人に突きつけて執行すればいいだけの話だ。違うか?」
紗生子の言う通りだ。警察は明らかに俺を疑っている。たが、その先に進みたくても進めない。
「今この部屋にいるのは、理事長先生以外その道に通じた人間ばかりだ。あえて言わせるな。理事長先生には主幹から説明してくれ」
「独り言と言っておきながら、結局他人を頼むか。その依存体質を改めないから貴様らはダメなんだ」
「──アンタの嫁さんは、ホント手厳しいな」
「はあ」
つまり警察は、俺と嶌令を結びつけたいが、ここまできてそれが出来ていない。正攻法でそれをやるには、米仏台日の順番か、或いはその逆でもいいが、とにかく俺の身分を辿って繋ぎ合わせる必要がある。無理を承知で、今まで更新し続けた逮捕状で逮捕出来ないこともないが、それは大博打だ。
「犯人は元警察官なんだろう? それなら指紋データが警察のホストコンピューターに保管されているんじゃないのか?」
滝川が言い淀むのを良い事に、白々しくも紗生子がまた代弁してくれる。
「昔は職人による手作業で照合作業をしていたそうだが、今は自動識別端末であっという間に鑑定出来る筈だ。それなら──」
俺を逮捕した後で、俺の指紋と嶌令の指紋を照合すればよい。警察の指紋照合は【一二特徴点指紋鑑定法】だ。読んで字の如く一二点以上の特徴合致による指紋鑑定方式で、その特定確率は約一兆分の一。普通に鑑定出来れば誤認する事はない。特定作業が終了したならば、後は粛々と証拠を積み上げられるのみだ。が、それは俺が、普通の米国人である事を前提とした話。
「──何か問題でもあるのか?」
「手厳しい上に嫌味ったらしい」
「それは私にとって最上の褒め言葉だ」
ははは、とますます調子づく紗生子が空笑いする前で滝川が、
「日米地位協定なら何とかなるんだが──」
と歯噛みしている。
「いいじゃないか。外交特権がある駐在武官だろうと、同一人物の立証が出来れば何とかなるかも知れんぞ?」
「ホントよく言うな全く」
こんな事を──
想定した上で、紗生子は俺を雇ったのだ。俺の身分の複雑さと危うさを、俺自身よりも他人が理解している事の情けなさを改めて痛感させられる。現状の様子からして、駐在武官のポストは紗生子の入れ知恵で本国が用意したに違いない。つくづく紗生子のやる事は、普段の横柄さの裏側で実に緻密だ。
「国際問題になるかも知れんがそんなモン、正義の前にはクソっくらえだろう。崇高な使命の前に茨の道はつきものだ。その信念に向かって突き進むがいい!」
と、俺と警察の微妙な背景をネタにご満悦の紗生子は、
何とまあ──
嫌味も極まったもので、人の褌で相撲をとるのは得意技としたものならば、相変わらず容赦ない。
「とても弁護士とは思えん言い種だな。まぁアンタの警察嫌いはよく分かったよ」
「嫌われるような事をしているそっちが悪い」
「それを言われると、確かに多少は痛いところもあるんだが──」
と言った滝川が、
「──本当の独り言はここからだ」
と、少し改まって見せた。
ここに至るまでの諸々の事情を知っているらしい滝川が、それを想定内と受け止めている紗生子に対して改めて状況を明かすという事は、現状の確認作業と見る事が出来る訳で、つまりはこちら側という事のようだ。
どうやら──
その理由を、これから教えてくれるらしい。
「警察としては、何が何でもシーマ先生の生体データが欲しいところだろうなぁ」
その矢先で、紗生子が割り込んだ。
「その嶌令とやらが、警察にいた頃の職員生体データと言えば、精々指紋ぐらいか。一昔前の警察は、職員のDNAまでは集めちゃなかったんだろう?」
と、そのまま俺に答えを求めてくれる。
「え? いや、その──」
それを言ったら元も子もないのだが。
「大丈夫だ。今まで話を聞いて分かっただろう。この男は一応味方だ。心配するな。もし敵だったなら今頃は私の罠にハマって、それこそ日米間で大揉めしている」
「はあ?」
「アンタの駐在武官の身分は、裏向きのモンだろう? 表向きは米空軍から日本の内閣府に出向しているだけの事だ。その表向きを鵜呑みして逮捕していたらと思うとゾっとするよ全く」
確かに外交特権を有する駐在武官を逮捕したとなれば、知らなかったでは済まないだろう。それは国際的な信用をそれなりに落とすだけではなく、それなりに日米の傷となる。それは現状に当てはめれば、
「国を挙げてミスターABCの娘さんを接待している時に、よりによってそのお気に入りの護衛を誤認逮捕するんだ。ちゃぶ台返しもいいところだぞそんなモン。俺みたいなモンの首が何個あっても足らん」
という事だ。
「一応言っておくが、罠はこれだけじゃないぞ? 試してみるならそれも一興だが」
「俺はこれでも義理には厚い方だぞ? 高坂家には恩もあるし、少なくともそれを返すまでは、表向きは中立だ」
「中立か。まぁ高千穂みたいな小物に睨まれて大変な事だな。警察内部での身の振り方ぐらいは自分で何とかしろ」
「やれやれ、ホントひどい役回りだ。ノンキャリは辛いよ全く」
「真純さんの事件の折には、お婆様も大変お世話になったとおっしゃっていた事ですしね」
と、それまで黙って聞いていた理事長が、いつも通り朗らかに語尾を添えた。
「理事長先生も人が悪い」
真純の事件における警察は、相談役を前に散々失態をさらけ出しただけの事だ。と、一様に失笑が漏れたところで話が本線に戻る。
「俺が在籍していた頃は──」
職員のDNA資料については、携わった事件などで犯人のそれと選別する必要がある場合に限って都度提出していた。俺は警視庁在職中にそれをしていない。
「って事は、指紋一択だな」
と紗生子が断定した後に、
「それも含めて、あらゆる資料の収集を目論んでスパイが送り込まれるようだ」
と、滝川がつけ加えた。
──って事は。
とりあえず、今啜っている湯飲みの指紋を、手で擦って消しておく。
「まぁその心がけだな。気をつける事だ」
と言う滝川によると、この度の教育実習中に、警視総監が何者かを紛れ込ませるつもりらしい。
「取るに足らんな」
と紗生子が吐き捨てるのを、
「そうやって総監もバカにしていた」
と、すかさず滝川が追随した。
「ふぅん。そうか──」
──うわ。
毒を吐かない紗生子の、こういう時こそ恐ろしいものだ。
「『茶漬け風情が取るに足らん』とな」
「茶漬け、ですか?」
「昔はそんな風にバカにされたモンだ」
その歴史を知る紗生子によると、
「CCのエージェントは、基本的に内閣府付の身分である事は知っての通りだが──」
黎明期のある時、内閣府の職員名簿にその名が掲載される際、所属を表すその付の文字が薄かったのだとか。
「偶然か、それとも誰かの悪ふざけか。恐らく後者だろうが──」
その薄墨の付の字が茶色に濁って見えたとかで、
「めでたくもしばらくは【茶漬け】などと揶揄されたモンでな」
とは、まるでその時代にでもいたような物言いだ。
「紙の名簿があったんですか?」
「遥か昔はな。今時は当然デジタルだからそんなモンはないが。──という事はやはり、くだらん事を考えているようだなあの男は?」
「そういう事だ」
「はあ?」
「そうやって君はいつもいつも──」
と、紗生子がまた盛大に嘆息した。
「だってまた妙な陰謀めいた話のようだし、俺に分かる訳がないじゃないですか?」
「ウソをつけ。知らん振りをしていれば、何でも教えてもらえると思っていたら大間違いだぞ? 少なくとも当時の君も、だからこそあの男を狙ったんだろうが?」
「え!? いや、その──」
高千穂弟が、元首相である実父の地盤を継いで官僚から国会議員に転身した頃、その兄は警察キャリア組の出世頭とはいえ、地道に経験を積み上げている一官僚でしかなかった。その当時の俺といえば、奇しくも警視庁に奉職していた頃であり、警察情報を駆使してその身辺を調べ上げていたものだ。
その結果、当時の現警視総監は、既に万来グループの日本法人の裏の責任者だった。しかもレジオンまでも動かせる立場であり、そのスパイを相当数警察内部に送り込んでいるという、中々衝撃的な事実までもが明らかになる。その巨悪をどうしても許せなかった当時の俺は、一言で若さ故の無謀者だった。今思い返すに、よくも一人で刃向かったものだ。
「高千穂兄が何故弟に父親の地盤を引き継がせたのか。それは弟の国権を利用して、自らの組織の強化を図るためだ」
「自らの組織って──?」
「二番煎じがしたいのさ」
「二番煎じ?」
「だからそれだ。そうやっておうむ返しにしていれば、何でも教えてもらえると思っている」
それを滝川が、意外な一言で制した。
「総監はいずれ、CCを作ろうとしている」
「ええっ!?」
警察は官庁内の序列としては低い部類だ。が、その人的組織力は言うまでもなく、情報収集力にかけては国内で類を見ない力を持っている。
「そうした情報に触れつつ有能な人材を集め、自らの子飼いを増やし、何れは国権の中枢で非公式の諜報組織を作って国家を牛耳る」
「CCを作った相談役が使った手法だ。子供心にそういうのを見て育った口だからなあの男も」
「──あ」
相談役は長年元首相の秘書だった。そこに繋がるという事らしい。
「君は仇を討つために、一人であの襲撃をやって退けたんだろう?」
「え?──ええ、まあ」
「全く無茶をやるモンだが、偶然にもCCはそうした性格を有した組織だ。私利私欲を排して義侠を尊ぶ」
紗生子に義侠を語られるとは思いもよらなかったが、しばらく身を置いていれば、確かにそんな雰囲気は感じないでもない。
「法の網目を抜ける悪を見逃さない。それ故の汚れ役だ。その裏の組織をあの四つ星は、私利私欲のために使いたい。が、当然相談役がそんな事を許す訳がない」
「──で、自分で作ると?」
「それも既に、結構いい線いってやがる」
と、滝川が顔をしかめた。
「弟が予想外に早く退場したのには慌てたモンだろうが、もっとも使うだけ使って何れは取って代わるつもりだったんだ。そこへ向けての兄の暗躍振りは、ここ最近はもう無節操極まりなくてな。普段国民に向けて散々威張り散らしている警察だ。身内のサビぐらい落とせてナンボとしたモンだが、情けない事にもう自浄作用も期待出来ん」
「そこでまた他人に頼む訳だ」
と、紗生子が入れ替わりで嘆息する。
「俺は一介の刑事だぞ。アンタらとは違って庶民派なんだ。陰謀だの何だのと難しい事は分からんし嫌いなんだよ」
「おや? 君にとっては意見が合いそうな事を言う教頭だな」
「はあ」
「そうやって、さっきから溜息しかしとらんぞ?」
と言われたところで、今度は理事長が堪え切れずに失笑を漏らした。
「いや、ごめんなさい。何だか夫婦漫才みたいで」
「夫婦なんだ。何が悪い?」
「羨ましいなぁと思いましてね」
「自分も若い燕を捕まえているくせによく言うな。人の事を言う前に、そっちこそいんぐりもんぐり好き放題だろうが」
「ちょっと端ないですよ主幹!」
「自分の事を棚に上げて端ないとは何だ!? 大体が君がぼんやりしているせいだろうが!」
「それとこれは別でしょう!?」
「別なものか! 警察がここまで追ってこられたのは、そのコードネームのせいでもあるんだぞ!?」
「ええっ!?」
「『ええっ』じゃあるか! どう考えても似過ぎだろう。駐在武官にしてなかったら、今頃君は逮捕されていたんだぞ!?」
「そ、それは──」
そうなのだが。
「──まぁ、仲がよろしいようで結構な事だが、そろそろ話を戻してもいいか?」
「ちっ」
と舌打ちして、またそっぽを向いた紗生子を見た滝川が、また徐に独り言を再開したところによると、嶌令の潜伏先は奇遇にもアンが極秘留学中の学校であり、警視総監はこれを奇貨と捉えているのだとか。
「積年の恨みが晴らせた上に、米中政策上の人質を抑えるようなものだからな。当然だ」
「それって、俺が原因でクラークさんが危機に?」
「偶然が重なる時はこんなモンだ」
アンの件とは、中国政府中枢の対米強硬派絡み。つまりは、万来の香港本社が請け負っている対外工作な訳で、分かりやすくはシンガポールのドンパチだ。
「──あちゃあ」
「『あちゃあ』じゃあるか。安直なコードネームをつけるからだ」
「だって考える時間が殆どなかったんですよ!」
「いっその事、名無しの方がマシだったぐらいだ!」
「それで通るのならそうしましたけどね!」
「ホント言うようになったな君は!」
またいつかコールサインを変えてやるからな、と悪態を吐く紗生子を見て理事長が笑っている。それを見た紗生子が、
「ちっ」
と、また舌打ちして顔をしかめたかと思うと、温くなった茶を喉を鳴らしながらあおった。
「こうなったらどっちもまとめて片づけてやる。全くぼんやりしている誰かさんのせいで、仕事は嵩張る一方だ」
「まぁそう言ってやりなさんな。おっかないアンタの傍で添い続けてくれる、数少ない部下にして夫だろう?」
「自分のケツもまともに拭けない体たらくに言われる筋合いはない」
「ホント、アンタのかみさんは。凄い美人だが、それ以上に怖いな」
と、今度はわざとらしくも本人の前でこそこそする滝川だ。それに対して盛大に顔をしかめ、また何事か口汚く罵る寸前の紗生子を
「──まぁ、かみさんの言ってる事は事実だがな」
と、如才なくも持ち上げるような事を上から被せるところなどは、流石は年の功としたものだろう。
「確かにどうせ偽名を名乗るんなら、もう少し違う名前にして欲しかったものだな。似過ぎなんだよ、今の名前と前の名前が」
「ほら──!」
と、吠える紗生子を、
「──それにしても、だ」
と、また滝川が制したために、溜めたものを溜息と一緒に盛大に吐き出す紗生子だ。
──うはぁ。
それはまさに噴火寸前の火山。それを尻目に続ける滝川が、
「長年の探偵稼業で少しは自信のようなものを持っていたんだが、アンタの事でまんまと足元を掬われたよ。これ程人定が辿れない事は初めてだ。昔の人間は、それはそれは直感を大事にしてきたモンだが──」
改めて科学捜査の凄まじさを見せつけられて、驚いているとか何とか。
「そんな頑固な事をやってるから旧態の刑事はダメな──」
「ご存じの通りと思うが──」
と、三度滝川が紗生子を被せたところによると、最近の歩容鑑定技術は殆ど完璧らしい。最新のAI技術が導入されたその解析は、すればする程学習を深める事もあって、他人になりすます事はほぼ不可能と言われる。つまりAIは、レイ・シーマを嶌令と断じた、という事だ。
「何せ事件当時の画質の悪い古い防犯カメラとの照合だ。鑑定結果が出るのに約一か月。ここまで辿り着くのに更に一か月。CCの護衛を掻い潜ってアンタの行確をするのにまた一か月」
──って事は?
遅くても昨年末には俺に迫っていた、という事になる。
「甘く見てもらっちゃ困る」
そこで今度こそ割り込んだ紗生子が、唐突に室内の壁面を使って、とある映像を転写した。どうやってそれをやっているのか知らないが、学園の遠目にあるビルの屋上から双眼鏡を覗き込んている男や、近くの部屋からそれをしている男。更には周辺を散歩する男に、付近の道路上で故障した車の応急処置をしている男等々。どうやらこれらの全てが、内偵中の捜査員という事らしい。
「あちゃー、こりゃ敵わんな」
「マークしているつもりが、されていたのさ警察さんは」
その内偵の間に、俺の人定を明らかにするつもりが出来なかった。そうこうしている間に年が明け、しばらくしたら当の本人は、長期出張でいなくなってしまった。
「──で、痺れを切らして、俺が送り込まれたって訳だ」
「中々大した度胸じゃないか。CCの巣に潜入するヤツなんぞ、そうはいない」
「俺も来たくはなかったが、選択権がなくてな。まぁ用が済めば消される運命だ。都市伝説レベルの公儀隠密と接触出来た事が、せめてもの冥土の土産としたモンさ」
「こちら側に鞍替えした事は懸命だったな。我らこそが勝ち馬だ。つまらん土産なんぞこさえる暇があったら、精々高千穂の動向を都度報告しろ」
「──その態度のデカさには感服するよホント。この妻にしてこの夫って事だな」
と、滝川が根負けしたように失笑した。
「俺はこの事件や陰謀より、一刑事としてレイ・シーマという人間に興味があるよ。果たしていくら名前を持っているんだろうな」
「警察風情に言える程、我らの身分は安っぽくはない」
「まぁ稀代のフィクサーが鍛えた精鋭揃いだからなぁ。俺みたいなモンが近づけただけでも驚きだ」
独り言は以上だ、と締めた滝川が両手で膝を打つ。
「捜査の過程で判明した事だが、嶌令こそ壊滅した組事務所によって人身売買の被害を受けた当事者だ。素人目に考えても、恨みはあってもそのブローカーになるとは到底思えん。総監の言ってる事がおかしい事ぐらい、間抜けな刑事連中でも気づいているさ」
と、さっさと立ち上がって、またいつぞやのように先に退室しかけたところで、今度はその足がふと止まる。と、また座り直した。まだ何か言い足りないらしい。
「折角の機会だ。晴れて事実上仲間入りした記念に、もう一つ土産話をしておくとな──」
と、立ち去り際だった筈の滝川のついでの口が、俺にとってはここ数十年来で最大級の驚くべきネタを、極あっさりと漏らしてくれた。
「不破具衛は嶌令の異母兄だ」
「ぶはっ!?」
その衝撃で、つい口に含んでいた茶を噴射する俺だ。それを見た紗生子が、
「余計な事を──」
と、今日一番の溜息を俺の目の前で吐き出している。
「俺は昔気質が染みついてて、最後はやっぱり勘働きに頼る癖が抜けなくてな。今ので確信したよ。似ていると思ったんだお前らは。俺の直感もまだまだ捨てたモンじゃないな」
と勝手にご満悦の滝川の前で、紗生子は呆れ、理事長は掃除に追われ、俺はむせて喘ぐのが役目だ。
「──心配するな。この事を知っているのは俺だけだ。たまたま事件の資料の中にある嶌令の戸籍謄本を見た時に気づいてな」
俺が一昔前に在籍していた仏外人部隊で、共に死線を潜り抜けてきた戦友に【武智次郎】という日本人がいた事は、真純の拉致事件の折にも触れた。が、その名は外人部隊特有の偽名であって本名ではない。
理事長の婚約者にして、高坂の御曹司でもある真純が拉致され、それが国際大型クルーズ船のシージャックにまで発展した、ここ数年来の日本では稀に見るこの早春のその大事件の折。治外法権で手が出せない日本警察に成り代わり、当時広島の片田舎で隠棲していたその戦友が、思いがけなくも担ぎ出されたその制圧作戦時。偶然にも再会を果たした俺達は、お互いに新たな名前を交換し合った。その時、兄と慕っていたその戦友の本名が、【不破具衛】という日本人である事を初めて知った俺だったのだが。
まさか──
本当の兄だったとは。俄かに疑いたくもなるが、俺の目の前で盛大に呆れている女は、俺の事を俺以上に知っている魔女だ。その反応こそが、滝川の方便ではない事を物語っている。
──いやいやいや!
滝川は「戸籍謄本を見て気づいた」と言っていた。それだけなのなら、到底異母兄などと断じれる訳がない。俺の実父、正しくは戸籍上の父とは、そういう人間なのだ。が、周りはそんな俺を置き去りにして、勝手に突っ走っており、
「それって多分ちが──」
と漏らしても、
「いやぁ、ようやく暴露出来てスッキリしたわ!」
などと、がなり声で被されて掻き消されてしまう。
──参った。
声が大きい者が勝つ、という定説を、まざまざと見せつけられた格好だ。
「アンタ達の前で特殊部隊を語るのも何だが、俺はこれでもSITに──」
「いい年寄りが一々武勇伝を語るなうっとうしい!」
紗生子のその鋭い突っ込みは置いておくとして、兄が外人部隊を除隊後、帰国して日本警察の特殊部隊指導員として警視庁に特別採用された事は、やはり真純の事件の折に触れた事だが。苦虫を潰したような滝川が、負けじと続ける。
「──既にご承知の事と思うが、俺達の組織は不破に不義理を働いた。そのくせ自分達の都合が悪くなると、隠棲しているヤツを引っ張り出してまで使うような厚かましさだ」
それこそ真純が拉致された時の事を言っているのだろう。
「俺は、俺達は、アンタの兄には借りを作ってばかりだ。兄が兄なら弟も弟で、国が面倒臭さがって黙認していたような巨悪を、たった一人で身を挺して誅するような義賊ときやがる。個人的感情としては、お前達兄弟には頭が上がらん」
「それは今この場で言う事なのか? 如何にも短慮働きの刑事のしそうな事だが、遠謀をぶち壊しおって──」
「そんな短慮働きの石ころだから、いつ消されるか分かったモンじゃないだろう? それなら少しでも憂いをなくしておこうと思ってな」
「自分の中で溜め込んでおけないといってもだな、少しは吐き出すところを考えられんのかお前らは?」
「アンタらと違って俗人は秘密を保持出来ないんだよ。悪く思うな」
「開き直って終わらそうとするな。これだから依存心の高いヤツは嫌いなんだ」
「主幹先生」
ヒートアップしそうなところで、理事長がいつも通りに釘を刺す。
「ちっ」
それで紗生子が、あからさまな舌打ちと共にそっぽを向く。いつも通りだ。という事はやはり、重ね重ねも事実なのだろう。その何かの鬱憤晴らしとしたものか。急に俺に向かって身を乗り出して来た紗生子が、ついでのように、
「いでででで!」
「いつまで呆けてるんだ。しっかりしろ」
と、その怪力で俺の尻をつねってくれた。
「夫婦漫才ってヤツか? まぁ結構な事だが──」
それを鼻で笑ってくれる滝川が、その旦那の方をいじり倒してくれるこの状況は、それこそ憂さ晴らしの吊るし上げ大会のつもりのようだ。
「まさかとは思ったが、やはり今まで知らなかったようだな」
いやスマンスマン、とわざとらしくもいよいよ最後の最後で詫びを口にする滝川の、そのデリカシーは崩壊している。
──嬉しそうに話すなぁこの人。
長年、それなりの非日常の中を歩んできた刑事、という事なのだろう。
「──こんな事ぐらいでどうした? 俺はアンタの事を殆ど何も知らんが、どう見てもひ弱そうな極東アジア系のくせに、仏軍外人部隊であの不破が頼んだ義弟にして、今や米空軍少佐の御身だ。アンタが歩んできた人生は、こんなぶっちゃけ話ぐらいで動揺する程柔なモンじゃなかろう? 違うか?」
「白々しいな」
それを紗生子が、また見事に代弁してくれた。同じ聞くなら、その遠謀を持つ口から聞いた方がよさそうな話だが、こうなってはもう先が気になって仕方がない。
「──その短慮の小耳が挟んだところによると、不破と高坂の御令嬢が今度結婚するそうじゃないか?」
「──で?」
「恩人が高坂と縁続きになるんだ。その出来た兄に似た弟の事でもある。俺はそんな背景を踏まえた上で、ここにいるって事を伝えておきたくてな」
「どうだかな。海千山千の刑事ともなれば、秘密録音の一つも講じているんじゃないのか?」
「それをやっていれば分からないアンタ達じゃないだろう? それこそ下手な事をすれば俺なんざ、さっさと闇に葬り去られたんじゃないのか?」
「CCとレジオンに狙われて豪儀な事だな」
「全くだ」
と言う割に、滝川は相変わらず堂々としたものだ。
「したたかなところだけは一丁前か」
「お褒めに与り光栄な事だ」
「こっちは言葉尻を取り合う程暇じゃないんだ。まだ何かあるんならさっさと言え」
流石の紗生子も、すっかりやさぐれている。
「正直言うとな。暴力団被害の事件だ。こんな連中に手を裂かれる程警察は暇じゃないんだよ。警視庁ってのは確かに職員数はそれなりに潤沢だが、色んな事件で他県と合同捜査していて結構手が足りていないのもまた事実だ」
今回も、俺が東京にいる事をよい事に、広島県警からその組織力を頼られた警視庁は、まんまと抱き込まれてしまった構図だとか。それこそ高千穂の思う壺だろう。
「組同士の抗争ってんなら喧嘩両成敗だ。その反社会勢力の組織力を削るための意義に成り得るだろう。が、何の組織力も持たないたった一人の人間に襲撃されて、おめおめ壊滅したような連中の事なんざ知った事か。それこそ散々やらかしてきたツケを払わされたって事だろう。それを未だ、その汚いケツを拭いてもらっているようなザマで何が任侠だ」
「人の事を何だかんだの言ってくれた現職警官とは思えん言い種だな」
「アンタらもよく知る本音と建前ってヤツだ」
「なら捜査を止めればいいじゃないか。それこそ任侠の徒が被害申告した訳でもなかろう?」
「そうしたいところは山々だが、こうも大花火を打ち上げられたんじゃあそれも出来ん。見事に仇討ちを果たした嶌は天晴としたモンだが、色々と頭が痛いところもあってなぁ」
いくら反社会勢力被害の事件とはいえ、その面々は憲法で尊厳を保証された一国民の集まりだ。場合によってその尊厳の一部が停止する事はあっても、全面的に剥奪される事はない。何せそれなりに世を驚かせた事件だ。法治国家がその国民を襲った無法を放置する事は許されない。
「さっさと時効がきてくれりゃあよかったんだが、総監が絡んでいるからそうもいかんし、国際手配までしちまってるからいつまで経っても手仕舞いに出来んザマだ。だからアンタらにこうして頭を下げて──」
「──いるのか、それで?」
「主幹先生、いい加減大人気ないですよ」
そこで、また理事長が釘を刺したその隙に、
「まぁアンタの兄さんの事を含めて諸々の詳しいところは、何でも知っているアンタの嫁さんにでも聞いてくれ。それにしても俺のようなヤツでも、最後の最後で一本取ったか」
はっはっは、と言う事を言ってスッキリしたような滝川は、教頭先生に戻ってさっさと退室してしまった。その足音がまだ近いというのに、
「無駄に勘がいいところを見ると、流石は海千山千の刑事という事らしいな。言いたい放題の挙句、結局抱き込まれたのはCCの方だ。何が独り言か。ろくな事を言わん」
と、珍しくも堪り兼ねたように毒を吐いた紗生子だ。
「まぁまぁそう仰らずに──」
それを理事長が上手く掬い取る。
「──真琴さんの元義理のお兄様の事は、お婆様も長年気にしておられましたから」
「尻を拭わされるのは、結局いつも私だ」
「それだけあなたを頼りにされているという事ですよ」
「はぁ──」
と、また盛大な溜息が聞こえたかと思うと、
「いでででで!」
またしても尻を摘まれ、火がついたように痛い。
「いつまで呆けているんだ全く」
この手癖は、それこそ今後紗生子の悪癖なるのではないか。加えて気がつけば、俺と不破氏が兄弟だったというロジックが成立してしまっている。
この状況って──
一体、何なんだ。他人の憂さ晴らしのネタにされただけなのか。
──それとも。
まだ他に、思わぬ展開が待ち受けているのか。
「はあ、すぃません」
悩みは尽きない。




