信じられないほどの美貌の青年
「うわっ」
馬車から降りた瞬間、驚きのあまり叫んでしまった。
月が大きな雲に隠れてしまったので、反射的に空を見上げてみた。
すると、わたしの手を取っているのが背の高い方の馭者ではないことに気がついた。
さらに背が高くてスラッとした人である。
雲に月光が隠れてしまったので、暗くて顔はよく見えない。
それでも、眉間に皺をよせ、目が痛くなるほどより目にして顔を見ようとした。そのタイミングで、雲から月が現れ、その光が再び地上に降り注ぎはじめた。
「うわーっ」
またまた驚きの叫び声が、口から飛び出していた。
これまでの人生で見たことのない美貌の青年が、こちらを見おろしている。
「ようこそ、レディ・ウッドワード。わたしは、ヴィンセント・ソーンダイク。あなたの夫になる男です。どうかヴィンスとお呼びください」
一瞬、その名にきき覚えはあるものの、だれかはわからなかった。
が、すぐに思い出した。
「ああ、あなたが『母親溺愛王子』?」
そう尋ねてから失言だったと気がついた。
遅すぎるけれど。
「『母親溺愛王子』?」
彼は、さわやかな笑声を上げた。
(なんてことかしら。これほどさわやかに笑う人ってこの世に存在するわけ?)
彼のそのさわやかな笑い方は、それほど彼に似合いすぎている。
「母に敬意は払っていますが、溺愛しているというわけではありません。母よりも妻の方がよほど大切ですし、愛すべき存在ですので」
そして、また笑った。
「はあ、そうですか」
としか、答えようがない。
「レディ、お疲れでしょう。食事を準備しています。ゆっくり食事をして風呂に入ってください。今夜はゆっくり休んで、明日あらためて話をしましょう」
「はあ、そうですか」
バカみたいに同じことしか言いようがない。
「というか、手を離してもらえないかしら?」
まだ手を握られたままなのだ。
注意すると、彼は自分の手を見おろした。
「おっと、これは失礼しました」
つられてわたしも自分の手を見おろした。
ひっこめようとした彼の右手首から手にかけて傷が走っていることに気がついた。それは、細くて白いリボンのように見える。あるいは、真っ白な蝶が羽ばたいているかのように。
その瞬間、頭の中でなにかがひらめいたような気がした。一瞬のことすぎて、なにかはまったくわからない。とにかく、光が弾けてその中に映像らしきものが浮かんだような感じだった。
「レディ・ウッドワード、どうかされましたか?」
尋ねられてハッとした。
「いえ、なんでもないわ。ユリよ。わたしの名前はユリ。ここに来るレディの名は、違う名を知らされているかもしれないわね。だけど、いまあなたの目の前にいるのはユリだから。それと、違うレディが来たからといって追い返さないでちょうだい。嫌なら嫌でいいけれど、ほとぼりが冷めるまでは置いてちょうだい。わたしもワケありなの。どうせ政略結婚なんだし、あなたもそれなりに諦めているでしょう? 諦めついでにしばらく置いてくれればいいわ。いずれにせよ初対面でこんなことを言うのは、フェアじゃないから。わたし、秘密とか嘘とかごまかしとかそういうのが大嫌いなの。というわけで、いまのことはオーケー?」
自分でもなにを言いたいのか、伝えたいのかわからない。
まったくまとめていなかったから。彼にしてみれば、支離滅裂にしかきこえなかったに違いない。
でも、このことだけはちゃんと伝えたかった。それも一番最初に。
いきなりお父様たちの意に反してしまっているけれど。
正直、お父様たちのことなんてどうでもいい。
はやい話が、わたしの気がすむようにしたかっただけ。つまり、身勝手なわたしらしく、自分の思うようにしたかっただけである。
「オーケーです、ユリ。いま、あなたが伝えてくれたことも含めて、明日話をしましょう。では、食堂に案内します」
彼は、また手を差し出してきた。
(エスコート?)
エスコートだなんて有難迷惑だけど、拒否するのも面倒くさい。
彼の手を取ると、彼はそれを自分の腕に絡めた。
古びた屋敷のエントランスに向いながら、小さく溜息をついた。
(どうも調子が狂うわ)
そう認めざるを得なかった。