戦慄
(ヴィンス……)
こんなことなら、彼に抱かれていればよかった。彼に捧げればよかった。
それを引き延ばしていたからこんなことに……。
もっとも、ヴィンスにはそれも迷惑かもしれないけれど。「離縁され令嬢」なんて、ぜったいにそそられないでしょうから。
ヴィンスはいっさい誘わず、そういう素振りすら見せない。
毎日同じ部屋ですごしていても、まるで同性どうしでいるような、そんな安心感がある。危機感だとか緊張感だとか、そういうものは皆無である。
(ヴィンス、ごめんなさい)
ヴィンスには迷惑かもしれないけれど、こういうことをするのなら、初めての相手は彼だと自分の中では決めていた。だから、それが叶わないいま、彼に詫びずにはいられない。
その瞬間、頭の中でなにかが弾けた。それは、以前一度あった感覚とまったく同じものだった。
が、今度は前とは違った。
前はなにかわからない、正体不明のなにかが出てきただけだった。
しかし、今度ははっきり現れた。
古風な衣装をまとったヴィンスだった。彼は、頭の中に現れてわたしに向かって叫んでいる。
おそらくはわたしの名を……。
とはいえ、驚きや疑問はすぐに書き換えられた。
恐怖、にではない。勇気、に。
ぜったいに、ぜったいにこんな奴らなんかに抱かれてたまるものですか。わたしがこの身を捧げるのは、この世でただひとり。
それは、ヴィンスよ。
そう決意をすると、体の奥底から力が湧いてきた。
「やめなさい」
瞼を開き、すぐ眼前に迫っている男の瞳を睨みつけつつ命じた。
「なんだと?」
男の動きが止まった。その彼の瞳には、驚き以上の物が浮かんでいる。
「やめなさい。そして、すぐにどきなさい」
男は、無言のままわたしを見つめている。その彼の瞳の色がグレーであることに、淡い月光の中でもはっきりと見てとれた。
「どきなさい。そして、さがりなさい」
男は、弾かれたようにわたしの上から飛びのいた。そのタイミングで、上半身を起こして立ち上がった。
「ちょっと待て。おい、待ってくれよ」
男は、じわじわとうしろにさがっていく。それをゆっくり追いかけた。
「出て行きなさい。わたしの前から消えなさい。仲間を連れ、王宮から出て行きなさい」
(わたしなの? これって、わたしなの?)
言葉を発して男に迫っているが、それが自分の意思によるもののようには感じられない。まるでだれかに操られているかのような感覚に襲われる。
男とわたし自身を、どこか遠くの方で見ている感じがする。
ついに男は、わたしではないわたしに追い詰められた。
彼の背中が扉のノブにあたる。
「わ、わかった。言う通りにする。言う通りにするからやめてくれ。殺さないでくれ」
男は、哀れな様子で懇願を続けている。
その言葉に心底驚いた。
(殺さないでくれですって? わたしが、彼を殺すの?)
「さっさとしなさい」
そんなわたしの驚愕をよそに、わたしとは違うわたしが鋭く命じた。
「は、はい」
男はうしろ手にノブをまわすと、扉を開けて……。
「ユリッ!」
その瞬間、男がふっ飛んだ。文字通り、彼はおもいっきり部屋の中に飛んでいった。
男がいたところにヴィンスが立っている。手に血に染まった剣を握りしめて。
「ユリ」
ヴィンスは、こちらに駆けてきつつ剣を振るって左腰の鞘に納めた。その流れるような所作は、彼が剣に精通していることをあらわしている。
「ヴィンス」
いま彼を呼んだのは、間違いなくわたしの意思だった。違うわたしではなかった。
「ユリ、許してください。わたしは、またあなたを守れなかった。またあなたを失うところだった」
彼は、わたしを痛いほど抱きしめた。抱きしめつつ、何度も何度も同じことを繰り返した。
「大丈夫よ、ヴィンス。ほら、わたしは無事だから」
そして、わたしも何度も何度も同じことを繰り返す。
「ユリ」
さらに圧がかかった。
グレイスが、わたしたちを抱きしめた圧である。
「ユリ、わたしたちを許して。あなたを守れなかったわたしたちを許して」
グレイスもまた、同じ言葉を繰り返す。
「グレイスも、わたしはこの通り大丈夫だから……」
「ユリッ!」
「ユリ」
自分では笑っているつもりで、そこまで言葉を紡いだ。だけど、不意に強烈な睡魔に襲われた。
ヴィンスとグレイスのやさしさをひしひしと感じつつ、抗いようのない眠気に身を委ねた。