明日からはいい子になるから
自分がどうしようもないヤツだってことぐらいは、ぼくのようなバカでも理解できている。
勉強や運動はからっきしで、先生や父さんが言うような努力をしてみても、よくなったためしがない。
自分では必死でがんばっているつもりなのに。
いっしょうけんめい考えているつもりなのに。
いつも「お前はなまけている」とか、「お前はふざけている」と言われるばかり。
得意な事は何もない。
好きな事ならあるけれど、それは得意な事ではなかった。
同じクラスのあの子やその子。
そっちの方が、ぼくよりもずっとうまくできるし、みんなにもほめられている。
もしぼくがやってみせたところで、みんなはぼくのことをすごいとは言わないだろうし、むしろバカにされるだけだろう。
だれだって、初めから何もかもうまくできる人間を好きになるに決まっている。
それとは反対に、勉強にしろ何にしろ、うまくできないところを人に見せれば見せるほど、「ああ、あいつはそういうやつなんだな」と思われてしまう。
ぼくが何かをするということは、ぼくがどうしようもないヤツだということを証明する作業以外の何物でもないんだ。
もう、これ以上はやらなくても十分だろう?
今のまま大人になってしまったら、一体どんな人生が待っているのだろうか。
前に、父さんが母さんをどなっている所を見てしまったことがある。
「一体あいつは、いつになったらまともになるんだ」と言っていた。
母さんは、ふるえているようだった。
きっと父さんは、ぼくがまともな人間になる気配がないから、あんなにおこっていたんだろう。
そして母さんも、同じように思っているから、父さんに何も言えなかったんだろう。
母さんは、いつもぼくに優しくしてくれていた。
いつも笑顔を見せてくれていた。
父さんがあんな風にぼくのことをけなしたことも、だまってくれていた。
でも、ぼくには分かるんだ。
母さんが、笑顔の裏で、泣いているであろうことが。
もしも私の子どもがこんな子ではなかったなら、ここまでつらい人生を送らなくても済んだのに。
そんな風に思っているのが、はっきりと分かるんだ。
こんなどうしようもないぼくが、博士に出会えたのは、運が良かったと言うしかなかった。
博士は、ぼくの話を聞いてくれるだけではなく、ぼくがどうすればいいのかまで教えてくれた。
そして、この薬をくれたんだ。
博士は社会の事や環境の事について研究しているみたいで、どうすればよりよい人間社会が、よりよい地球環境が実現できるかを考えているらしい。
ぼくにとって、博士の話は難しいものだったけれど、何を言おうとしていたのかは何となく分かった。
世の中に「能力」や「知性」の足りない人間があふれかえっているから、世の中はどんどん悪くなっていくし、限りある資源は使いつぶされて、環境の破壊も留まるところを知らない。
これを解決するためには、今この世界に生きている人間そのものを「改良」しなくてはいけないのだそうだ。
だから、博士はこの薬を作ったんだと言っていた。
これがどんな薬なのか、博士はロール・プレイング・ゲームに例えて説明してくれた。
レベルを上げて、ボスをたおして、もっとレベルを上げて、ラスボスをたおして、ゲームをクリアする。
それをコンピュータが勝手にやってくれるような感じを想像してほしい、と言われた。
人生というゲームを、考えたり迷ったりしなくても勝手にクリアできるようになる。
そんな薬だというのだ。
低レベルな人間は、むだな事を考えたり、余計な事をやってばかりいるから、いつまでたってもレベルが上がらない。
レベルが低いままだから、何をやってもうまくいかないし、場合によってはとんでもない結果を招くこともある。
それは本人だけではなく、周りや社会、さらに言うなら地球にとっても有害なのだ。
この薬を飲めば、低レベルな人間も簡単にレベルアップができるようになるし、それによって高レベルな人間が増えることは世の中にとってまちがいなくプラスになるのだ。
博士は興奮した様子で、そんな風に話していた。
薬を飲んでみたいと言ったぼくの事を、博士はすばらしいとほめてくれた。
自分自身が低レベルであると認めることは、大人でも難しい。
むしろ、年をとった大人ほど、「自分は低レベルではない」と言ってむきになるのだそうだ。
低レベルであることを自覚して、改善しようとすることは、君だけでなく君の周りの人にとっても大きなプラスになる。
君がこの計画に協力してくれることで、人類は大きな前進をすることが出来る。
博士にそう言われて、はじめてぼくはいい事をしているのだという気になれた。
本当の事を言うと、この薬を飲むのはとてもこわい。
ぼくがぼくではなくなってしまうような、そんな気がするからだ。
でも、ぼくがぼくのままでいつづけることは、果たしていいことなのだろうか。
どうしようもないヤツのままでいることは、許されるのだろうか。
ふと、母さんの顔が頭をよぎった。
どんな時でも、ぼくに笑顔を見せてくれていた母さん。
父さんとちがって、決してぼくに向かって厳しい言葉をぶつけてこなかった母さん。
でも、その母さんは、ぼくが今のぼくのままでいつづける限り、苦しみ続けるのだろう。
だから、ぼくがするべき事は、ただ一つ。
出来損ないのぼくに出来る、たった一つの正しい行いは、自分で自分自身にけりをつける事だけなんだ。
そう決心して、ぼくは薬を飲み下した。
きっと、明日からはいい子になるから。
そんな風に考えながら。
◇
一体おたくのお子様はどうしたの?
そんな風に言われる度に、私は心がじんわりと痛むのを感じる。
もっとも、夫の方はそんな私の事など気にかける様子も無い。
ただただ、得意そうにしているだけだ。
あの子が、スポーツが得意になるとは思わなかった。
あの子が、テストでいい成績を収めるようになるとは思わなかった。
私は、それでもいいと思っていた。
どんな子どもでも、出来る事と出来ない事があるのは当たり前だし、たとえ得意な事が無くても、あの子にはあの子なりの良さがあると信じていたから。
元々悪ふざけをするような子でも、なまけてばかりいる子でもなかった。
ただ、要領が悪いのだろうと、親としては考えていた。
夫は事あるごとに、あいつがあんなに出来が悪いのは何か原因があるはずだ、と言っていたけど、私はそう思わなかった。
私たちが、あの子の良さに気付けていないだけなんだと、そんな風に考えていた。
宿題や、それ以外の勉強にも、粘り強く取り組むようになった。
体力をつけるために、外での運動もするようになった。
学校の他の子が読まないような、子どもには難しそうな本もどんどん読むようになった。
普通の親であれば、喜んで当然だと思うし、実際夫は喜んでいた。
でも私は、息子の変化に空恐ろしいものを感じていた。
今ではすっかり優等生になってしまったあの子を見ていて、私の心はいつも落ち着かない。
最初は、何か無理をしているのではないかと思っていた。
夫が何か強い言葉をかけたりして、それが悔しくてがむしゃらになっているのではないのかと考えた。
しかし、数週間が過ぎ、数か月が過ぎても、ずっと息子は変わらなかった。
何があったのか気になって、一度ゆっくり話をしようと声をかけたこともある。
それでも、今は勉強をしたいんだとか、本を読みたいんだと言われて、まともに話を聞けずに現在に至っている。
あの子は本当に私の子どもなのだろうか。
そんな事を考えてしまう時すらある。
我が子の様子の変化を不自然だと思って、夫に相談したこともある。
しかし、夫はこう言っただけだった。
「親は無くとも子は育つという言葉もあるが、子どもはいつの間にか成長するものだ。お前は手がかからなくなったのを悲しんでいるだけ、子離れが出来ていないだけだ」
その言葉に、この人は息子の事を本当の意味で見ていないのだと、心の底から思い知らされたものだった。
そんなある日の夕方の事だった。
「お母さん」
いきなり声をかけられて、私ははっとした。
ここ半年くらい、あの子が私や夫に声をかけてくることはほとんど無かったからだ。
「……何かしら?」
努めて平静を装って、私は返事をした。
「お母さんは、ぼくの事を、いい子だと思う?」
何を思ってそんな事を聞いてきたのか、正直分かりかねた。
ただ、まるでロボットか何かのようになってしまった息子が、めずらしくそんな事を聞いてきたので、私は思ったままの事を答えた。
「そうね……」
私が何を言うのだろうかと、息子はじっと注目している様子だった。
「あなたはいい子よ。でも、あなたは昔からずっといい子よ」
「昔から……?」
息子が、私の言葉に引っかかるものを覚えた様子であることを察して、私はさらに続けた。
「そう。あなたはずっといい子。勉強が出来るからいい子だとか、スポーツが上手いからいい子だとか、何か得意な事があるからいい子だとか、そんな風に母さんは考えたりしないわ。どんなあなたでも、あなたは母さんにとってかけがえのないいい子なのよ」
私は、心からそう言ったつもりだった。
その言葉を聞いた息子の反応に、私はどきりとした。
息子が一瞬見せた表情を、私は見逃すことが出来なかった。
さびしいような、やるせないような目。
この子がこういう目をするのは、何か失敗をした時とか、考えが足りずに良かれと思って間違った事をしてしまった時だと、相場が決まっていた。
ここ最近いつも見せている、ガラス玉のような目とはまるで違っていた。
「お母さん……」
「良かったら話してくれない? 何があったの? 誰かに何かを言われたの? ここ最近のあなたの様子、母さんはとても心配しているのよ?」
思い切って息子に尋ねてみたが、ちゃんとした返事は得られなかった。
「……何でもない。また勉強してくるね」
息子の目や表情は、いつもの無機質なものに戻っていた。
「お母さん、今までずっとつらい思いを、苦しい思いをさせてごめんなさい。これからは、ちゃんとするからね」
私の方を振り返る事なく、息子はそう言って自分の部屋へと戻って行った。
残された私は、ただぼうぜんと立ち尽くしていた。
私は久しぶりに、息子がほんの一瞬だけこの家に戻ってきたように感じていた。
一体あれは何だったのだろうか。
なぜあの子は、あんな表情を見せたのだろうか。
もしかしたらあの子は、何か後悔するような事をしてしまったのだろうか。
夫にこの事を話しても、きっと何の収穫も得られないだろう。
なにせ今のあの子は、夫にとっては「自慢出来る息子」でしかないのだから。
けれど息子のあの様子が、本心からの行動ではないのだとしたら。
もしも心の奥底で、あの子が苦しんでいるのだとしたら。
私は一体、何をしてあげられるのだろうか。
どのように手助けしてあげればいいのだろうか。
そんな風に考えずにはいられなかった。