不安の肖像
犬は私たちとは違う世界を見ている。人が3種類の錐状体を持つのに対し、犬はそれを2つしか持たないからだ。ハチの色判別範囲は人のものより狭く、私たちが見るのとは違う色で花を見ている。
もっとも、蜜の採れる花を見分けることが出来ているのだから、ハチにとっては生きる上で何の支障もない。犬好きな私としては、犬には私たちと同じものを見ていて欲しいという思いを、抱かなくもないが、それは無意味なセンチメンタリズムでしかない。
かく言う私も色弱で、学生時代に検査に引っ掛かったことがある。美味しいものと危険なものを識別できれば、生きてゆくのに何の問題もない。そのはずだった。
無名都市にある六連美術館は、小さいながらマニアックな展示を催すことが多く、私のお気に入りのスポットの一つだ。仕事柄土日が休日でない私は、いつも平日の人気のない空間を堪能している。
最初見たとき、私はそれを告知ポスターだと思った。
『あなたにはこれがみえますか?』
額に入っていることから作品だと知れた。キャンバスを赤い十字が区切り、区切られた右上部に緑、左下部に橙が置かれている。抽象画だとすれば、面白みもなく、何も心に響くものがない凡庸な作品だが、十字の横棒に、さらに濃い深紅で文字が書かれているのが見て取れた。
『あなたにはこれがみえますか?』
それ以外の文字はなく、特別展示の告知でも無さそうだ。訝しむ私に気付いたのか、パイプ椅子に腰を下ろしていた若い男性学芸員が、にこやかな笑みを浮かべ近付いてきた。
「見ましたね?」
嫌な予感がした。曖昧な愛想笑いを浮かべてやり過ごそうとしたが、長身の学芸員は、私の進路を遮るようにして動こうとしない。
「ええ。トリックアートの類ですか? 作品名も作者の名前も記されていないみたいだけど」
「興味を持たれたようですね。お時間宜しいようでしたら、少し解説いたしましょう」
新手のナンパか? 興味も何も、この男が私をここに留めているだけなのだけど。
ただの観覧者なら無視して引き返す所だが、館の職員相手にはそうもいかない。同意を得たと認識したのか、学芸員は語り始めた。
「アメリカの近代芸術家、アーサー・ギュネイをご存知でしょうか」
「来週から特別展示が始まるって、表に告知ポスター貼ってあったね」
「はい。是非ご来館下さい。ところでこのアーサー・ギュネイ、呪われた作家として呼ばれているのはご存知で?」
芸術家など、多かれ少なかれ皆呪わた存在だ。常に不安に苛まれ、身を削り精神を擦り減らせ、己の才能に酔いしれたかと思えば、自分の凡愚さ加減に絶望する。それは世に認められたとしても例外ではない。ギュネイは不遇の作家で、遺された作品は、死と苦痛を想起させる禍々しいものばかりだと記憶している。
「ああ、抽象的な意味ではなく。文字通り、《《見れば死ぬ》》という代物です」
私の難しい表情を見て取り、学芸員はひとり続ける。
「聞いたことないけど? ポスターにもそんな紹介無かったじゃない」
「《《呪われそう》》な絵ならともかく、本当に《《呪い殺される》》絵はまずいでしょう? プロビデンスでは学芸員が一人。プラハでは老女が一人、それぞれ心臓発作で亡くなっています」
関連付けて語られるのがこの二例だというだけで、犠牲者はまだいるのではないかという。眉唾な話だ。
「まずいって分かってるのに展示するの? それとも、まだ被害者が出るか試してみるつもり?」
「まさか。ですが、半分ほどは当たっております」
学芸員が言うには、この厄介なコレクションを持て余していたところ、物好きな蒐集家から、まとめて買い取りたいという申し出があったという。ただし、条件が一つ。コレクションの中から、死を呼ぶ一枚を探し出し確定させること。
「曰く付きのものを手に入れたいが、それで死ぬのはまっぴらだという事でしょう。我々は候補を、最晩年に描かれた連作『不安の肖像』にまで絞り込むことが出来ました」
ゴヤの黒い絵を思わせる、5枚の陰鬱な作品群だ。肖像とあるが、薄暗く螺子くれたそれらは、悲嘆に憤怒、憎悪や嫉妬に妄信など、あらゆるネガティブな感情を象徴するもので、言われなければとてもモデルが人間だとは思えない。
「それを全部省けばいいじゃない」
「コレクションの目玉ですからね。全てとなると、価値が大幅に下がってしまう。そこで我々は、犠牲者の関連性を調べてみました。どちらも女性であること以外、特に目立った関連は無いように見えたのですが、ひょんなことからどちらも4色型色覚を持った方だったと判明したのですよ!」
「4色型色覚?」
「通常の人間は3色型色覚。赤、緑、青を感知する錐体細胞を持ちますが、これに加え、紫外線光を感知する4つ目の錐体細胞を持つ方が稀に存在するようなんですよ。当然他の者とは見えている世界が違う。彼女たちはこれに当てはまった。一体何を見たんでしょうね?」
「それでコレってわけ。そこまで分かったのなら、同じ方法で調べられなかったの? 紫外線を感知できるカメラとか――」
テストピースだった展示物を指し示す私に、学芸員は肩をすくめてみせた。
「そこまで上手く行きませんでした。それに、万一何か見えてしまっても困りますから」
悪びれた様子もなく、学芸員は言い放った。