26 怜弦の場合
僕の家にはお父さんはいなかった。でもそれはずっとそうだったからいなくて寂しいとも思わなかったし、僕にはママがいればそれだけでよかった。
ママは僕を保育園に預けて夜遅くまで仕事をしていた。それでも僕の前ではいつも笑顔でいてくれたし、そんなママをお出迎えするのが僕の役目だと思っていた。
でも僕はもう保育園に行かなくていいとママに言われたお家で一人でお留守番になってごめんねとママは謝った。そして一人でお留守番できるようにと犬の絵本を買ってくれた。新しい絵本に僕は喜び、そして一人でお留守番できるとママに堂々と言えた。
それから一人でお留守番する事が増えた。少し寂しい気持ちはあるけれど、僕は変わらずにママをお出迎え出来るから大丈夫だった。
僕の四歳の誕生日を迎えた頃にママは知らない人を連れて帰って来た。おじさん、と呼ぶと嫌がってたからいつもお兄さんと呼んでいた。お兄さんをママは仲が良いみたいで、お兄さんも僕にお菓子をくれた。お兄さんはいい人だった。でも、お兄さんが来るとママとお兄さんは僕を置いて出掛ける事が増えていた。僕とママが一緒に入れる時間が少なくなっていった。
それでも僕はママをお出迎えするのが大好きだった。ママも笑顔で僕を抱っこしてくれていたから、特に嫌な事は無かった。
でもある日、ママが忘れ物したからって僕とお兄さんを家に置いて出掛けてしまった。僕はお兄さんに遊んでもらえないかと聞こうとしたら、僕はいつの間にか眠っていたみたいだった。
いつの間にか帰ってきていたママが僕を抱きしめて、少し痛むほっぺに冷たいタオルを当ててくれていた。ママはお兄さんと喧嘩をしていて、僕は喧嘩をしないでとお願いした。ママの怒った顔は見たくなかった。でもそれからお兄さんは変わってしまった。
お兄さんはよく僕を殴るようになった。ママがいない時は必ず、そしてママがいる時にも僕を殴ったり蹴ったりした。ママは僕を庇ってお兄さんに殴られるようになってしまって、僕は必死にそれを止めた。ママは殴らないでと、必死に。そしたらお兄さんは僕をさらに殴るようになった。ママを脅してご飯もくれなくなった。遊んでいないで勉強しろとまだよく読めない文字が書かれた本も渡してきて、できていないとさらに殴るようになった。それでも僕は我慢した。ママが笑顔を向けてくれるよう、頑張った。
でも、だんだんママは僕に笑顔を向けてくれなくなった。ママが一人で帰って来ても僕を抱きしめてくれなくなった。ママの作った料理をくれなくなった。いつも怖い顔で、ママは僕を見るようになった。
そして僕がママの作ったオムライスが食べたいと言うと、お兄さんみたいに殴って来た。すぐにママは謝って僕を抱きしめてくれたけれど、それが何回も続いた。
何で殴られるんだろう。そう考えて、僕がきっと悪い子だからなんだと思った。お兄さんも僕を怒りながら殴ってくる。僕が悪い子だからお兄さんは殴るんだ。だから僕はいい子になろうと頑張った。分からない文字も頑張って読めるようにして、一人でもいれるようにして、お兄さんとママが一緒にいる時は邪魔しないように押し入れの中で声を出さないようにしていた。
いつかまたママは笑顔で僕を抱きしめてくれると信じていた。
そしてママは、寝ている僕を見下ろしていた。苦しくて目を開けたら、ママは僕の首に両手を伸ばしていた。息ができなくて苦しい。でも、ママは凄く怖い顔で、僕を見下ろしていた。
苦しくて苦しくてママに手を伸ばしたら、ママは怖い顔じゃなくなった。僕の首から手を離して僕を抱きしめてくれた。「ごめんね」と謝りながら、泣きながら。でも、謝らなくなったかと思うと、涙を流しながら言った。
「死んでくれればいいのに」と。
その言葉がママが望む事なんだとわかった。僕が死ねばママは喜ぶんだ。ママには僕が殺せなかったなら、僕が自分で死ねばいいんだ。そうすればママはいつものママに戻るんだ。
でもどうやったら死ねるのかわからなかった。ママがやったみたいに首をぎゅっと締めれば死ねるのかなって思っても自分では上手くできなかった。じゃあどうすればいいのだろうと考えて、ご飯を食べなければ死ねるかなと思った。最近はお兄さんがいるとご飯が食べれなかったからちょうどいいと思った。だからそれから僕はママがご飯を用意しても食べないようにした。最初は怒られたけれど、いつの間にか用意されないようになった。
ご飯を食べなくなってからもお兄さんは僕を殴った。時には熱いお湯を掛けられた事もあったし、落とすように投げられた事もあった。でもそれは僕がまだ生きている悪い子だから我慢した。
そうして僕は動く事も出来なくなってきた。これが死ぬってことなのかもしれないとなんとなく思った。これで良い子になれるんだ。これでママは笑ってくれるんだ。とても嬉しかった。
でもそれは叶う事が無かった。
「可哀想に」
知らない女の人の声がした。今家には僕一人のはずだった。なのにその声は悲しそうに歪んで聞こえてくる。
「このような幼気な子がこのような思いをするなんて、なんて残酷なのでしょう。この子は彼らにはいらない子だというのでしょうか」
僕の身体を暖かいものが包んだ。身体がポカポカと暖かい。
「ならば、私がこの子を慈しみましょう。私が貴方を私の世界に連れて行きましょう。それぐらいの力は巫女がいない今は溜まっていますしね」
そして僕の目の前が真っ黒に塗りつぶされて、次に目が覚めると知らない場所にいた。
見た事が無い広い部屋、見覚えのない大きなベッド。そして知らない服を着ている。起き上がった僕に部屋に入って来た知らない女の人は驚いて、どこかに行ってしまった。ここがどこか分からずに僕は家に帰ろうと床から遠いベッドからなんとか降りると、沢山の人が僕の元にやって来た。
何もわからない僕に大人たちは僕が神様から選ばれた巫女なんだと教えてきた。そして恐らく前の家にも帰れないと。そして僕の身体が大変な事になっていたから治療したと。
僕はどうやら死ぬ事が出来なかったみたいだった。それは僕はまだ悪い子なんだという事だった。
もうママには会えないだろうけれど、それでもママの願いを叶えたいのは変わらなかった。僕は死んだ方がいい子供なんだと、それはこの世界で生きていても変わらなかった。
僕が寝ている間に僕の身体を借りて神様が何かしているらしい。いつの間にか大人たちの僕を見る目が可哀想にと同情してくれていたものが恐れの色に変わっていた。
そして僕を暖かく迎えてくれた教皇様は神様の気まぐれで殺されたと聞いた。そしていつの間にか僕が教皇になっていた。でも僕はただ椅子に座っていればいいと神様は望んでいるらしくて、僕は必要ないようにしか思えなかった。
そうして僕は大人になっていた。食べ物も無理に食べさせられ、高い所から落ちる事が無い様に柵を用意され、刃物も持たされることは無かった。ただの死にぞこないだった。
だからあの時刃を向けられて、無慈悲な神様が僕を助ける前に感じた感覚が呼び起こされて僕は本当に嬉しかった。本当に僕は死ぬんだと。今度こそ死ねるんだと、嬉しかった。早く死にたかったのに、それを彼女は許してくれなかった。さっきまで僕に向けていた殺意を消して、僕を抱きしめた。
生きろ、と。そのずっと欲しかった温もりを僕に与えながら、僕に罰を告げながら。そして僕を殺すと告げながら、僕の母になってくれると。
「母さん」
自分より小さなその身体に呼び掛けると、母さんは少し不満げな顔をこちらに向けてきた。
「またその呼び方。やめてくださいって言いましたよね?」
「他に誰もいないのを確認してるから大丈夫だよ。母さんはこれからどこか行くの?」
「……ルデルの所に。服を作ってもらいに行ったらしいから様子を見に行こうと思ってね」
「えー、僕も行きたいけどまだ書類仕事があるってジャンシェに言われたんだよね」
「そう。仕事頑張りなさい。貴方にしかできないんだから」
「うん。僕頑張るね」
僕の顔を見て満足してくれたのか、母さんは僕の背中を撫でてから廊下を歩いて行った。その背中を見送ってから僕は仕事の為に執務室に向かう。
今となってはもうママの顔も声も覚えていない。あの時泣いて、涙と一緒に記憶も流れて行ったみたいだ。でも僕はそれが残念には思わない。もう僕は怜弦ではなくエレオスで、ママではなく母さんがいるのだ。僕はこれから死んでいくためにも、この国の為に働いていく。それが今の僕が出来る事なのだ。




