赤ちゃんファイト
それは、よくよく言われている、忘れた頃にやってくる天災のような出来事だった。
居間で夜九時からの恋愛ドラマ見て、ひとり潤んでいた中学生の加奈には、聞こえてきたその声がなんなのか、始めはよく分からなかった。声と言うよりも、騒音と言った方が加奈の持った印象としては正しかったのかもしれない。エンドロールを見つめながら感動の余韻に浸る加奈にとって、声は深夜に爆走する暴走族の排気音よりも煩わしいものになりつつあった。心は未だにドラマに預けたまま、加奈の重い腰が自然と持ち上がる。
来週の展開はどうなるんだろう。主人公はこれからどうなってしまうのだろう。まさか、まさか主人公の恋人が過去の事件に関わっていたなんて……。可哀想だ……。可哀想過ぎるよ、主人公。
そんなことを考えながらハンカチで瞼を押さえ、加奈はゆっくり二階へと上がっていく。悠長に階段を登っている間も、声は一向に止まる気配を見せないまま響き続けいていた。と言うよりも、むしろ大きくなってきている。腹の底から力一杯引き抜いたような響きの声は、次第に感傷にくれる加奈の思考にも染み込み始め、ようやく加奈はこの声について考え始めた。
一体誰なのだろう。泣き声だし、妙にキンキンするような気がする。……赤ちゃんなのかなあ。
ぼんやりとそんな風に考えた。けれど、そのように結論付けるには不可解なことがあった。現在この家には、加奈と加奈の弟しかいないはずなのだ。父親は出張で数日前から広島に行っているし、母親は彼女の妹と一緒に外食へと出かけている。何より、加奈の家には長らく赤ちゃんなどいなかったのだ。
しかしながら、確かに聞こえてきているこの耳をつんざかんばかりの泣き声は、赤ちゃん特有の泣き声ではないだろうかと恵美は考える。そしてピコンと閃いた。もしや、誰かの……。例えば父さんや、もしくは母さんの……。そう、あれだ。隠し子だ。どちらかの隠し子が今家の中にいて、それでわんわん泣いているんだ。……って、なわけねえっつうの。
とかなんとか、ひとり突っ込みを入れながら加奈は階段を登る。馬鹿みたいなことを考えたために、余計に泣き声が耳に障るようになってしまっていた。
あーあ。母さんめ。優雅に外食なんぞに出かけよってからに。留守番のあたしは虚しくインスタントだったんだよ、こんちくしょう。はあ、ひもじい。おいしいものが食べたい……。思わず、加奈の唇からため息がこぼれだす。お腹を擦る動作がいかにもらしくて、とても哀れな姿だった。
しかしながら、そんな加奈の頭の中にふと疑問が浮かび上がる。それにしてもどうして母さんは外食なんかに出かけたんだろうか。あのどけちな人が、たとえ叔母さんと一緒だからと言って家族を残し一人優雅に外食するなんて、まずありえないのに。
加奈の母親は、それはそれは目を見張るほどの倹約家だった。日々の生活の中における無駄はもちろんのこと、外食や家族旅行に至るまで、どうしてそこまでこだわらなければならないのかと見ている側の方が、頭が痛くなってしまうほどの人物だったのだ。そんな母親は、曲がりなりにも自分だけ贅沢しようなどと思う人物ではない。家族想いではあるのだ。外食は一緒に行くのが常だった。
……んー、何か忘れてるような気がする。
ゆっくり移動した問題の声が響いてくる部屋の前で、加奈は一度立ち止まった。何か物事の中核をなすとても大切なパーツが抜け落ちているようなもどかしい感覚に襲われていたのだ。それを補おうとして加奈はゆっくりと思考の渦を覗き込み、母親の言葉を反芻し始める。夕暮れ時、叔母からの電話を受け取った母は、服を着替え軽く化粧をし、慌ただしく加奈に離しかけてきたのだった。
『加奈〜。お母さんね、ちょっと美和子と外で食べてくるわね。そのね、美和子がちょっと育児ノイローゼみたいなのよ。だからね、ちょっと気を紛らわそうと思って。うん。そう。ちょっと赤ちゃんから離れさせて、羽根を伸ばさせてやろうと思ってね。だから、お願いなんだけどさ、美和子の赤ちゃん、ちょっとだけ世話しててくれないかなあ。なあに、ほんの二、三時間だけだから。ね。お願いね』
思い出しながら、加奈は血が引いていく音を聞いたような気がした。
焦り、勢いよく目の前の戸を開けながら、加奈の頭はめまぐるしく回転していた。そうだ。この声は叔母さんの赤ちゃんの泣き声なんだ。確か、ちょっと微熱があるって言ってて、べつに寝かしてれば問題はないって言ってたけど、何かあったら看病しなくちゃならなくて……って言うか熱があるなら家に置いてくなよ!
心中で叫び、加奈は赤ちゃんのいる部屋へと飛び込んだ。同時に世界中が泣き喚いているかのような音の渦の中に飲み込まれてしまった。
赤ちゃんの泣き声は、それはもう家全体に響き渡っているんじゃないだろうかと疑ってしまうくらいに強烈で、これはいよいよ泣き声で家具が壊れてしまうんじゃないだろうかと加奈は思った。ドアを開けたまま耳を塞ぎ、とりあえず近くの壁にあるはずの電気のスイッチを探す。
この子の声量は半端じゃない。こりゃあ、叔母さんがノイローゼにもなるのもしかたがないのかもしれないな。
電気をつけて明るくなった寝室の小さなベビーベッドに寝転んだ赤ちゃんを見て、加奈の脳裏にそんなことが過ぎった。顔をしわくちゃにして泣き叫ぶ赤ちゃんの姿は、どこか自分達とは似て非なるような存在に見えて、加奈は少し怖気づいた。けれど、すぐに現状を思い直し、気を取り直すと赤ちゃんのすぐ側まで近づいた。
当の本人は涙をぼろぼろ流しながら、体全体で音を増幅させて、まるで拡声器みたいに感じている不快感を懸命に表していた。顔は真っ赤になっていて、見ている加奈までもが苦しくなってしまうような表情をしている。これはやばい加奈は直感的に思った。何がどうやばいのかは分からないけれど、とにかく何かが緊急事態だった。
素早く手を額に添えて熱を確認してみる。少し熱いような気がするものの、あまりよく分からない。これくらいの熱なら平熱のような気もするし、もしかしたら微熱があるのかもしれないと言うような体温だった。加えて、赤ちゃんの体温と言うものは少し高めであると言うようなことを加奈は聞いたことがあった。だから、この熱が危険なのか普通の状態なのかよく分からなかったのである。
どうしよう、どうしたらいいのだろうと、焦りばかりが募り頭はどんどん混乱していく。泣き声が更にそれを加速させていた。呼吸を繰り返しどうにかこうにか加奈は気持ちを落ち着かせる。とにかく赤ちゃんが泣く原因について、いくつか思いつくことを確認していった。
怪我なんてあるわけがないし、当然のことながら寒そうでもない。むしろ熱そうなのだ。ああ、熱いのだろうか。いや待て。ここで不用意に薄着をさせてはよくないような気がする。おっぱいのことは分からないし、単なる夜泣きなのかもしれない。でも、それにしては酷いような気がするし……なら、もしかしたらオムツが汚れているのかも……。
考えて、躊躇った。加奈は他人の下の世話など経験したことなどなかったのだ。例えそれが赤ちゃんのものだとしても、先走る嫌悪感が行うべき行動を鈍らせてしまった。
やだなあと、加奈は思う。何であたしがやらなくちゃならないんだろうと理不尽さを呪わずにはいられなかった。
しかしながら、そこではっとした。そういえば、いま家の中にはもうひとり人がいる。あいつにやらせれば……。誰かに任せられると言う安心感に希望を見出し、表情をほころばせた加奈は、勢いよく部屋を飛び出すと目的の人物、中学受験を控えている弟の部屋の前へと急いだ。なにも考えず勢いに任せてドアを開け放つ。
「良太様、大変です!」
「ノックをしろ。この大馬鹿者」
「あ、すみませんでした」
ばたん。
「じゃなくて!」
加奈はいったん閉めたドアを再び開けた。いそいそと勉強机に向かう弟に近づくや、目を通しているのであろう参考書に手を突き、熱く語りかけた。
「大変なのです。赤ちゃんが、赤ちゃんが人生を悲観しています!」
加奈には弟に対して敬語を使ってしまう癖がある。今みたいに急を要する時とか、加奈自身の感情が昂ぶってしまっている時などだ。それはおおよそ加奈と良太との力関係を表していると言えなくもない事柄だった。加奈はあらゆる点においてずばずばと物を言ってくる弟が苦手で、その度に何度も立場を逆転しようと試みるのだが、いつもいつも、どうしても軽くあしらわされてしまうのだった。
良太が持っていた筆記用具をゆっくりと机に置く。隣に立つ加奈を見上げた。本来ならば常時全ての物事に対してつまらなそうにしている瞳が特徴的な男の子なのだが、今回は様子が違っていた。にっこりと微笑ましい表情を浮かべていたのである。額に浮んだ青筋を除いてではあるが。
「人生を悲観しているかどうかは別として、なあ加奈、お前少しそこになおれ」
「はっ!」
言われるがままにその場に正座してしまったあとで、加奈は瞬間的にものすごく後悔した。それは今から身に降りかかる出来事が常日頃から身に染み込んでいる一連の動作から分かったからであったし、またその原因が先ほどの軽率な行動にあると言うことが分かったからだった。
「ごめんなさでふっ」
「許さん」
ハリセン片手に忌々しそうに加奈を見下す良太が、すうと息を吸ってから口を開いた。
「なあ、ばか加奈、お前が何かしたんじゃないのか。さっきから聞こえてくるこの泣き声。相手は赤ん坊なんだからさ、いくら暇だったからと言って無茶させたらいけないよ」
「違うよ! 私ではありません。断じて違います」
ひりひりと痛む頭上を擦っていた加奈が俄然強気になって反論し始めた。
「突然泣き出したんだよ。あたしずっと下でドラマ見てて、なんかうるさいなあって思って二階に上がって、そこでようやく気が付いたんだもん。あたしが行った時にはもうぎゃーわーうるさかったもん。だからね、その、赤ちゃんさ、二階の部屋でずっと眠ってたから、何が原因で泣いてるのかよく分からなくて、で、もしかしたら原因が分かったかもしれなくて、でもその原因ってのが、その、ちょっとあれで、で、良太に助けを求めようと思って……だー、もう。だからとにかく来て!」
身振り手振りを加えて加奈は終始興奮気味に説明したが最後の最後で諦めた。それを聞いていた良太は、要領の得ない加奈の説明に対しては何の期待もしていなかったものの、どうやら自分の手を借りようとしていることが分かり、俄かに顔をしかめた。椅子を回して、身体ごと加奈としっかりと向き合うように姿勢を変える。じっと、そわそわしている加奈を見下ろしてから、ざっくりと核心を突いた。
「加奈、お前僕に面倒ごとを押し付けるつもりだろう」
言われて、加奈は思わずにじりと後ずさりする。反応を見て、追撃を打つかのように良太がずいと身を乗り出した。
「なあ、そうなんだろう。自分がやりたくない事を僕に押し付けて、事を収めようとしている。違うか?」
加奈の旗色は悪くなるばかりだ。上体は見事に仰け反っていて、視線は忙しなく泳ぎ続けている。ここに白々しい口笛なんかが加わればまさしく大馬鹿者なのだが、幸いなことに加奈はそんなことはしなかった。けれど、そんな加奈の様子を見るだけで、良太は確信を得てしまう。それもいとも簡単に。良太はひとつため息をついた。
「まったく、いつも言ってるじゃないか。嫌な事、やりたくない事を前にして立ち向かって、どうにかこうにか乗り越えてこそ人は成長できるんだってさ。そしてその時の努力や工夫、地道な継続や思い切った行動によって新たな自分と出会えるのだって。そうやって人は大きくなっていくんだよ。それなのにさ、加奈、お前はどうしていつもそうなんだ。どうして厄介ごとから逃げてばかりなんだよ。分かってる? 自分からその大切な機械を失おうとしているんだよ。大体において……」
「もういいよ! 長いし、さすがに傷付くよ!」
少し泣きそうになりながら加奈が遮った。年下の弟にぐちぐちと知ったような口を利かれたため、挫けてしまったようだった。意外と打たれ弱いのだ。
対して、良太はここにいたってようやく心から愉快そうな顔をした。ぎいと椅子のスプリングを鳴らして体重を移動させると満足そうな表情で加奈のことを見下ろした。ねちねちと理屈っぽいところや、浮んだ表情で性格の悪さがうかがえる嫌な男の子である。
「そうか。分かってくれたか。それはよかった。うん、本当によかったよ。では、そう言うわけだから諦めてくれ。僕はこれでも受験を控えている身でね。何かと忙しいんだ」
そう言って大仰に机に向き直ってしまった。早速参考書に目を通し、さらさらと筆記用具を動かし始める。我関せずと、全身が言い表しているかのような姿だった。
そんな弟を前にして面白くないのは加奈である。当初の理由はおろか、ぼろくそに言われてしまったのだ。悔しかったし恥ずかしかったし、何よりも腹が立っていた。何とかしてこいつにやらせてらなくてはならない。そうしなければ、いつまでたってもあたしは変われない。加奈の中で何かに火がついた。
腕を組み、首を傾げて加奈は作戦を練り始める。さて、どうしたものか? どうすればこの嫌味な弟に嫌なことを押し付けることが出来るだろうか? そんなことばかり冷静に考えることが出来るのである。
しばらく正座したまま考えて、加奈は静かに辺りを見渡し始めた。きょろきょろと部屋の中を観察し、そうっと首を伸ばして机の上にも目を這わせた。そこで、あるものを見つけてしまった。にやりと、加奈の表情が残酷に歪む。こういう時、加奈は恐ろしいほどに冷静に事を運ぶことが出来るのだ。
すでに策略は練り終えた。加奈は急に落ち着いた声色になって、良太に話しかけた。
「ねえ、良太。良太ってさあ、受験生なんだよね」
質問に、良太は答えない。声色が変わったことに気が付いていた。そこに何かしらの嫌な予感を感じなかったわけではないが、このように突然変化し回りくどい言い方をし始めた加奈に対処するには、無視するのが一番だと経験から悟っていたのである。聞こえてくる声を右から左へ。受け流しつつ黙々と手を動かし続ける。
そんな反応しない弟を前にして、しかし加奈の余裕は決して崩れない。必ず弟を崩すことが出来ると算段していた。そう言うわけで、もう一度粘りつくような声で良太に声をかけた。
「ねえ、そこにあるのはもしかして漫画じゃないかなあ? あれえ、良太って受験生だよね。いいのかなあ、受験生が悠長に漫画なんて読んでてさ」
その嫌味な粘り強さに、堪らず良太が反応する。さすがにイラッと来てしまったのだ。
「さっきまで休憩時間だったんだよ。勉強ばっかじゃあ息が詰まるから」
「ふーん。大変だねえ、受験生は。うんうん。勤勉なのは良い事だ。でもねえ、このままじゃ今やってる勉強にも何かと差し支えがあるんじゃないかなあ」
参考書から顔を上げた良太が加奈の方に視線を投げつける。顔には不愉快な無表情が浮んでいた。
「何が言いたいのさ」
「ええ? 何って……。いやあねえ、そりゃあ、あたしは良いんだけどさ。だってあたしは受験生じゃないもの。勉強に一生懸命になる必要もなければ、好き勝手にドラマ見たり漫画読んだり出来るわけなのよ。つまりは、この泣き声がどれだけ続こうが我慢は出来るわけなのさ。……でもねえ、ほら、良太は受験生じゃん。受験生にはうるさいよねえ、この泣き声。集中して勉強するには邪魔以外のなにものでもないよねえ。ああ、困った困った。うるさいのは迷惑だよねえ」
良太は苦々しそうに顔を歪めて答えた。
「……何をすれば良いんだよ」
「分かればよろしい」
満面の笑みを浮かべて加奈は頷いた。時たま、こうして加奈が良太を支配下におくことがあるのだ。
元気よく立ち上がった、加奈は素早く廊下へと出ると良太を呼んだ。渋々ながら腰を上げた良太は、僕の勉強がどうこうよりもまず赤ちゃんの状態を心配する方が先だろうと、自らのことなどてんで棚に上げて愚痴を吐いた。
それにしても、この姉弟、かなり性格が悪い。一人残され大泣きしている赤ちゃんは、悠長な二人に届くように懸命に泣き声をあげ続けていた。
「何すれば良いのさ」
部屋に入るなり、うるさいなぁと呟いた良太は半ば自棄になりながらそう言った。ニコニコと、先ほどから上機嫌な加奈はオムツを確認してほしいと良太に答えた。それを聞いて良太は、不服なのを目一杯表して加奈を振り返った。睨みつける目の中には怒りの炎が燃えている。全身から不満のオーラが滲み出ているかのような姿だった。
しかしながら、そんな弟を前にして加奈は嘲るようにして「別に私は良いんだよ」などと口にする。濃すぎるコーヒーを思いっきり口に含んでしまったような表情を浮かべて、良太は渋々オムツの確認をすることにした。
少々荒々しく、赤ちゃんを横に転がしたり、足を持ち上げたりして確認してみる。見たところ汚れは確認できなかった。背後で「もうちょっと丁寧にしてあげなさいよ」などと勝手なことを抜かす姉を腹立たしく思いながらも、良太はオムツを外し確認してみようと思った。
「おい加奈、オムツはどうやって外せば良いんだ?」
思ったものの、良太はオムツを前に苦戦していた。ふかふかの大きなパンツと言って差し支えないようなそのオムツは、確かに始めてみる人には普通のパンツのように見えて、どこをどうすれば外すことが出来るのか分かりにくかった。終始遠巻きに眺めていた加奈がそっと赤ちゃんに近づく。指を差しながら良太に指示を出した。
「えーっと……ほら、その横のところ。マジックテープみたいのでくっついてると思うから、そこから外せばいいと思うよ」
「くっついてると思うって言われても……よく分かんないんだけど」
「だから……ああ、もういいよ。あたしがやる」
ごめんと大声を出した加奈に謝って良太は加奈と場所を交代した、意気込んで加奈がオムツを外し始める。曲りなりとも女の子だからであろうか、加奈はいとも簡単に貼り付けてある部分を見つけるとベリベリとテープを外した。
時に、一連の動作が余りにも自然に運んでしまったので、良太はおろか加奈さえも、自身が今行っていることに対して何ら感情を抱いてはいなかった。さらにつけ加えるならば、この赤ちゃん、実は男の子であった。つまり、オムツを外したそこには、小さいながらも男の象徴としての付属品が存在しているわけで……。
無造作に外したのと同時に、股間にくっついていたものを加奈は直視してしまった。中学二年生。免疫はあった。しかし、加奈と言う女の子は結構純情で、さらには余りにも自然に性が普段の思考の中に飛び込んできたのもだから、思わず音を立てんばかりに急に真っ赤くなってしまったのである。
「や、加奈。さすがは女だね。こんなにも簡単に外しちゃったよ。いやいや、すごいよ。さてと、確認確認。うーん……正面は汚れてないし、嫌な臭いもべつにしないな。うん、違うみたいだね、加奈。オムツが汚れてたんじゃない。……加奈? なんか顔、赤いよ?」
「なっ、何でもないよ! それよりさっさともとに戻してあげなよ。寒いかもしんないじゃん」
「どうしたんだよ、急に。それに加奈がやれば良いじゃないか。加奈のほうが上手いんだし」
「今はあたしがやった。じゃあ次は誰?」
「……まあ、いいけど」
釈然としないものの、良太は加奈の言い分に押し切られるようにしてオムツを付け直した。少し歪な形になってしまった。
良太は赤ちゃんを前にして腕を組み、何か重大な問題を考えているかのように眉間に皺を寄せていた。
オムツを直すのは、外すよりも格段に楽だった。と言うのも、ただ単に外した場所に戻してくっつけるだけなのだから、場所さえ分かれば簡単だったのだ。だから良太が困った顔をしているのはそんなこののためではない。そんなやり終えた瑣末なことではなくて、もっと根本的なこと、具体的にいえば赤ちゃんがまだ泣き止まないこととその理由について考えていたのだ。隣では加奈も一緒に悩み続けている。オムツを替えてから、少し時間が経っていた。
しかしながら、一向に原因が結局思いつかない。お手上げ状態になってしまった良太は、仕方なく加奈にどうして赤ちゃんは泣き止まないのか尋ねてみた。その問いに対して、同じく泣いている原因を考えていた加奈はそれほど時間を空けずに答えを返した。
「たぶんお腹が減ってるんじゃないかな」
「お腹? でも、今叔母さんいないよ。どうするのさ」
さっきから良太の頭の中に浮んでくる単語は、どうするの一言ばかりだだった。いざと言う時において、知っていなかったなどということや、興味がなかったなどということはなんら言い訳にはならない。どうあってもやらなければならないのである。今、良太は単なるお荷物なだけだった。
対する加奈は、落ち着いて考えていた。多少馬鹿でも、知識があれば道が開ける。
「うーん……あっ、確か叔母さん、粉ミルク持って来てなかったけ。台所に置いてあるんじゃないかな」
答えてから二人で台所へと向かった。一通り探して、母親がしまったのだろう、棚の中にあった粉ミルクの缶を見つけた。加奈が手に取り、二人で外観をじろじろと見渡して、果たしてミルク作りが始まった。
ミルク作りと言っても、作り方はラベルに表記してあるのだ。大層な名前をつける必要はどこにもない。しかし、これから始まる事は紛れもなくミルク作りであって、ある種の創作活動であった。ことの発端は加奈の不用意な一言から始まる。
「ねえねえ、たまには赤ちゃんも違う味が飲みたいと思わない?」
薬缶でお湯を沸かしている最中のことだった。もうひとつ、哺乳瓶を探し出し水洗いをして先に沸かしておいたぬるめのお湯につけていた良太に加奈が話しかけた。
ラベルにある指示通りに作れば良いものを、なぜか独創的なアイデアを詰め込んで創意工夫の限りを尽くそうとする者はどこにでもいるものだ。しかしながら、そう言った独創的なアイデアは、すべからくそのほとんどが無知からくる冒険であって、概して失敗に終わる確率が高いものである。ピンと、電気が走ったかのように敏感に惨事を見越した良太は慌てて加奈を引き止めた。
「加奈、それは止めた方が良い。相手は赤ちゃんなんだ。下手に変なものを飲ませたら体調を崩してしまうよ」
「大丈夫だって。おっ、冷蔵庫の中にイチゴ発見。良太だってさっきの見たでしょ。あたしが、こうぱぱっとオムツを剥がしちゃったの。これでも女なんだからさ、何とかなるよ。絶対あの子はイチゴが好きに違いない。これは女の感ね」
女の感もこんな風に働いたら終わりだ。良太はそう思い、何度となく引き止めようとした。しかし、その度に先ほどのオムツのことを持ち出されて、のらりくらりとかわされてしまう。仕舞いにはなんだか腹が立ってきた良太は、どうにでもなれと、飲むのが自分ではないことをいいことに説得を投げ出してしまった。加奈の暴走が始まる。
「よーし。まずはイチゴをすり潰しましょう」
数分後、赤ちゃんの待つ部屋に戻った二人の間には重い空気が漂っていた。赤ちゃんの泣き声が、そんな二人を非難するかのごとく響いている。何をどうすればミルクが黒くなるのか分からないが、階下のキッチンで見るも無残な元ミルクが大量に出来てしまったのだ。
「だから、言ったのに……」
呟いた良太の声は、うなだれる加奈に突き刺さった。響き渡る赤ちゃんの泣き声も、そうだそうだと加奈を責め立てる。
「うぅ……喜んでくれると思ったんだよ……」
「その前に知識と腕前を身につけなきゃだめだね」
突っ込みに、加奈は良太を睨みつける。
「何さ何さ! 自分は遠巻きに見てるだけだったくせに。偉そうな事言わないでくれる」
「はいはい。すいませんでした。止めることが出来なくて悪うござんしたよ。にしてもどうするのさ。ミルクもうなくなっちゃたよ」
そうなのだ。何だかんだで繰り返しているうちに、ミルクの素は底をついてしまった。出来上がっていた物体は赤ちゃんには(普通の人にも)良くないことがありありと分かる臭いを発していた。二人で見つめ合い、なにも見なかったことにするために、すべて流しに流してしまった。しかして、二人は無駄な時間を過ごした挙句、何も持てずにこの部屋に戻ってきたわけである。
「どうもこうも、無くなっちゃったんだもん。どうしょうもないじゃん」
赤ちゃんの前に立ち尽くして、一方的に攻められ続けていた加奈がとうとう拗ねてしまう。
「どうしようもないって、よく言うよ。無くしたのは誰だって話だ」
そんな加奈の態度に、勉強の邪魔をされた挙句、無駄な時間を過ごしてしまった良太もカチンときた。
「そんな事言ったってもうしょうがないじゃん。じゃあ何、今から良太が新しい粉ミルク買って来てくれの? まあ、こんな時間だし薬局はどこも閉まってると思うけどね」
「何、怒ってんのさ。逆切れ?」
良太は加奈の見てそう言った。その煽りを受けて、加奈の感情も高まってくる。
「怒ってるって? ああ、そうだね。確かに怒ってるよ。だって良太はさっきからずっとすんだ事ばっかり掘り返してさ。あたしだって反省はしてるのに。それなのに何度も何度も。嫌になるよ」
そう答えた加奈に良太が勇んで身体を動かすと、とうとう向かい合って本格的な口論が始まってしまった。
「だって、それは本当の事じゃないか。どうしてあそこであんな変な冒険をしたんだよ。普通に作ってたら、今頃この子は泣き止んでたのにさ」
「なにそれ。泣き止むかもしれないって言ってくれない? 日本語は正確に使ってよね。もしかして違うのが原因かもしれないんだからさ」
「はあ。なんだよ、違うのって。分かるのかよ、もっと違う原因がさ。なあ分かってるならさ、早くやれよ。やって泣き止ませてやれよ」
「あーあ、やだやだ。こうやって自分は考えもしないくせして妙に高圧的でさ。自分は何にも思いついてないんでしょ? ならさ、もっと謙虚になりなさいよね。それにちょっとは自分から考えたらどうなのさ。まったく、年上のあたしに向かって勝手なことばっかり」
「何だよそれ。今のこととは関係ないじゃないか」
「関係あるよ。良太はさ、いっつも知識だけでその他のことはほとんど知らなくてさ。さっきのオムツの時だってそうだったじゃんか。なのに無駄に頭だけはいいから付け上がっちゃって」
「お前だって、何も知らずに冒険ばっかじゃないか。僕はやめろって言ったのに。勝手な想像働かして全部ダメにしたのは誰なんだよ」
「あのさ、前々から思ってたんだけど、なんでそんなにも消極的なわけ? 見ててイライラするよ。どうして詰め込んだ知識だけ開かせるだけでさ、自分からやってみようとは思わないの。もっと活動的になりなよ」
「じゃあ、言わせて貰うけどさ、僕も前々から思ってたんだ。加奈ってさ、ちょっと無計画過ぎるよ。知識も経験もないくせにさ、思いつきだけで突っ走っちゃって。それでいっつも失敗ばかり。少しは学んだらどうかな。あと、妙な自信を持つのは止めたほうがいいと思うよ」
「ちょっと何よ。何その言い方。それはあたしの長所でしょ。偏屈な見方で人を見ないでよ」
「お前だってそうじゃないか。僕の特徴とか正確とか、曲がった見方でしか見てない」
「それはあんたがそうやって見てるからでしょ?」
「いや、加奈が見てるからだね」
「良太の方だよ」
「加奈の方だ」
「良太!」
「加奈!」
それっきり、言葉が出てこなくなって、二人は睨み合った。これまで姉弟喧嘩などほとんどしたことがなかった二人だった。口が悪く、お互いに服従したりさせたりするようなことはあっても、こんなふうに正面からぶつかり合うことはほとんどなかった。久々にやってしまった口喧嘩はこれまでの喧嘩の中でもなかなかに性質の悪い喧嘩だった。言葉は身体に痣を作らない代わりに、心を強打する。身体の痣は時と共に消えていくけれど、心の痣はなかなか消えないものなのだ。時と場合によりきりではあるが、もしかすると、一生ものになる可能性だってあるものなのだ。
そういった言葉の怖さについては、二人は両親から何度も諭され、気を付けるようにはなっていた。言葉から色々な厄災が始まることを確かに理解はしていたのだ。
けれど、この日かかっていたリミッターが解除されてしまった。言い合った日ごろ感じ取っていた感情を吐き出し吐き出されたことによって、傷つき、またとても嫌な気持ちになりながら二人はじっと睨み合い続けていた。吐き出されたありのままの感情というものは、飛び出しながら両者を切り刻み、行き場を無くして再び自分に帰ってくるものなのだ。居心地の悪い空気の中で、二人は退くことも進むことも出来ずじっと時間が経つのを感じていた。
そんな険悪な空気に不釣合いな、心底楽しそうな笑い声が響いたのは、ちょうど二人がもう口を利かないと同時に決心する瞬間の直前だった。声の主は、もちろん赤ちゃんだ。
火花を散らし合っていた二人は、声に引かれるようにして同時に赤ちゃんを振り返る。そこに浮んでいた笑顔に驚いて、再び顔を合わした時には心底嬉しそうな笑顔になっていた。
「「笑った!」」
そして二人は同時にそう言ったのだった。
それから母親と叔母が帰ってきた。その表情にはどこか疲れが見て取れるものの、何か吹っ切れたような明るさが満ちていた。寝室へとやって来て、笑う赤ちゃんを抱いた母親としての叔母の温かな表情を見て、加奈と良太は敵わないなあとしみじみと思った。
抱かれた赤ちゃんの表情が、緩やかに柔らかくなるのが分かったのである。母親ってすごいと二人は思い、そして赤ちゃんにも分かるんだなあとそっと思った。もしかしたら、あの時赤ちゃんが笑ったのは、奸悪な二人の中をとりなそうとしたからなのかもしれない。おそらくは、わいわいぎゃーぎゃー騒ぎ始めた二人の姿が可笑しかっただけなのだろうが、そんなことを加奈と良太は思わずにはいられなかったのである。
翌日、安らかに眠る赤ちゃんを抱いて頭を下げた叔母を見送って加奈と良太は少しだけ淋しくなった。だから家を出て行く前に、目を閉じたままの赤ちゃんに近づいてそっと頬と突っついてやった。
「いつでも来ていいからね」
「今度はしっかり面倒見るよ」
交互に言って、親子を見送った。
テーブルを囲みながら、加奈と良太はぼうっと赤ちゃんについて思いを馳せている。どうしたものかと不審に思った母親が声をかけてきた。
「まったく、どうしたのよ。粉ミルクは駄目にしちゃうわ、イチゴも駄目にしちゃうわ、散々だったくせに」
その問いに、加奈がへへへと鼻を掻いて返事をする。昨夜のことを、目の前に良太がいるために少し恥ずかしかったものの、事細かに説明した。聞いた母親は、なにやら含んだ恵美を浮かべると、ふーんとだけ答えてさっさとキッチンに戻っていってしまった。それが何を意味するのか、加奈にも横で見ていた良太にも分からない。けれど、何かしら母親が掴んだことは確かだろうなと二人は思った。それはどちらかと言うと掴まれて困るようなことではなくて、むしろ知ってもらえて嬉しくなるような種類も事柄なのだろうと、どことなくむず痒くなりながら二人は思った。
とんとんとキッチンで母親が昼食の準備をする音を聞きながら、加奈と良太はじっと向き合ったままテーブルについていた。ちらちと相手を見上げては、視線が合うとそそくさと違う方を見ると言うようなことが続いている。正直なところ、昨夜の喧嘩が少しだけ尾を引いていたのだ。言い過ぎたと、謝らなければならないと思いながらも、恥ずかしくて言い出せずにいたのである。
「「あのさ」」
呟きは見事に重なってしまった。何さとか、そっちから言えよとかお馴染みのやり取りをしてから、沈黙して、恥ずかしそうに加奈が口を開いた。
「……その、ごめんね。昨日はあんなこと言っちゃったけど、ほんとごめん」
「その、僕も悪かった。なんだか本当のことを言われたような気がしてさ」
言い合って、二人は見詰め合って、どちらともなくにししと笑い合った。そんな二人の様子を、母親はキッチンからこっそり覗き見ていたりする。優しく微笑むと、さらりと表情を変えて、良太に声をかけた。
「あらあら、受験生さん。そんなに悠長にしていていいのかしらね」
言われて、良太の表情がぴしりと固まる。そんな変化が面白くて加奈はにやりといやらしく笑った。キッチンから母親がやってくる。
「ささ、もうちょっとで受験なんだから、勉強もラストスパート頑張りなさいね。それから加奈、お昼の手伝いしてちょうだい」
言われて、二人は返事をし、同時に席を立つ。加奈は母親の背中を追ってキッチンに、良太はひとり二階へと上がっていった。
窓の外には寒い寒い冬の景色が広がっている。町は彩度を落としたかのようにモノトーン調に息を潜めていて、空を覆う灰色の雲がいよいよ景色を殺風景にしていた。
そんな景色を覗きながら、加奈が何かを見つける。
「雪だ」
ひとつ、またひとつとほろほろ舞い落ち始めた雪は、とても綺麗な初雪だった。
ネタ集などという墓場の中なら、面白そうなものを見つけたので蘇らせてみました。読み返してみると稚拙な表現が多々あって(今もそれほど変わらないような気が……orz)あれでしたが、のりとしていい味を出していたので風味を残したまま電子レンジで解凍しました。
至らないところが多いと思われますが(赤ちゃんの世話の場面はかなりが想像です)少しでもほのぼのしてもらえたらこれ幸いです。
少々長い短編となりましたが、ここまで読んでくださった読者様に圧倒的感謝多謝!
ではでは、またいつかお会いしましょう(連載していますきつねつきもよろしくお願いします!)。それでは。




