鋭く研がれた包丁が俺の胸に突き刺さる
テッカは両手で包丁を持ったまま迷わず俺の胸を突いてきた。
俺は動かせる右手に【硬甲殻】を集中させて包丁を手づかみにして止めた。
「え!? さ、さすがお兄ちゃんですの!」
おいおい、こいつ今迷わず俺を刺そうとしたぞ。
一撃を与えるのが条件とは言ったけど、まさか刃物で襲いかかるとは思わなかった。
それにテッカの攻撃動作は洗練されていて無駄がほとんどない。
どんな訓練してきたのか知らないけど腕は立つようだ。
もし俺が戦えない奴だったら今ので死んでいたかもしれないな。
「ちょっと待て。始める前に二つだけルールを決める」
「ルールですの?」
「一つ目は制限時間だ。今日の夜八時までに俺に一撃も当てられなかったら、俺の事はあきらめて大人しく帰るように」
時間制限を設けないと、いつまでも諦めない可能性があるからな。
「二つ目は俺以外のこの旅館内にいる人全てに危害や迷惑をかけない事だ。もちろん建物や備品を壊すのも駄目だ。それが守れるなら相手をしてやる」
「分かりましたの! 愛の前ではどんな障害も乗り越えますの!」
さっきの攻撃を見た限りでは、テッカには俺に一撃を与える実力はない。
時間制限と人に迷惑をかけないというルールさえ認めさせれば、俺が勝利するのは間違いないだろう。
それから俺は【念話】でセルフィナに状況を伝え、俺とテッカの鬼ごっこを旅館の従業員達にも伝えてもらった。
万が一にも俺が負ける事は無い。
なぜなら俺には良い作戦があるからだ。
「よし。じゃあ始め!」
俺は掴んでいた包丁を放す。
するとテッカは座卓を踏み台にして再び銀色に光る包丁を突き出した。
しかし、そこには俺の姿は無い。
「あれ? ですの!」
俺はその時ギンコがするように天井板を外し天井裏へと逃げていた。
まともに相手をする必要なんて無い。
一撃を受けないようにする一番の方法は、逃げ続ければいいのだ。
夜まで逃げきればテッカは俺を諦め、めでたく国元へと帰る事になるだろう。
俺はこの旅館内だったらほぼ全ての人の気配を察知できる。
本来は気配を感じにくい霊体の魔物さえも居場所が分かるんだ。
テッカの気配が近づいて来たら移動するを繰り返して、彼女に近づかないようにすれば完璧。
だから彼女を避けつつ従業員達の手伝いだってできる。
そうして俺は逃げ続けて時間が経過していった。
=====
午後七時五十五分
=====
制限時間まであと五分だ。
俺の考えた作戦がうまくいったようだな。
鳳凰の間を出てから一度もテッカとは顔を合わせていない。
意外な事に付添人のクサカベは俺とテッカの鬼ごっこの事を知っても何も言ってこなかった。
あのおっさんの事だから文句を言って来ると思ったんだけどな。
逆にテッカの望むようにさせてあげてくれと頼まれた。
そんなに甘やかされてるという事は。
実家では手のかかるお転婆お姫様なのかもな。
だから早く婿を取って落ち着いて欲しいと思われているのかもしれない。
わざわざマロヒコに仮病を使わせて脅してくる程か。
どんなお姫様だとしても俺の勝利は揺るぎない。
だからといって油断なんかしない。
ウサギとカメという昔話のウサギのようにはなりたくないからな。
テッカの現在位置は……モミジの喫茶店か。
特に焦っているような素振りはないな。
時間があと五分しか残っていないから諦めたのかもしれないな。
ん? 医務室から出て来たのはアサハナだ。
「あ、ユラリさんちょうどいいところにっす」
「どうした? 俺になにか用か?」
「そうなんすよ。おいらの調合した薬を飲んで欲しいっす」
「薬?」
「ギンギラギン配合の精力増強ドリンク。その名も、三日三晩っ!」
え、精力増強だって?
それにネーミングが効果の凄さを物語っている……。
アサハナは茶色の小瓶のフタを開けて俺に差し出した。
「これをユラリさんに飲ませて、おいら達の初夜を盛り上げようと思って【調合】してみたっす」
そういえばアサハナとは夫婦になってからまだ一度も夜ラブしてないから、そろそろとは思っていた。
アサハナもそれを気にしてくれていたのかもしれない。
「さあ飲んでみてくださいっす! ぐぐっと!」
「い、いや、今は遠慮しておくよ。まだ遊戯場の片付けも残ってるし。それに、なんだか今は飲んではいけない薬のような気がする」
「え!? おいらの事信じられないっすか?」
アサハナはショックを受けたように悲しげな表情になった。
「そ、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、せめて香りだけでもっす」
アサハナは強引に小瓶を俺の鼻に押し付けてきた。
小瓶の中からは嗅いだ事の無い苦く甘い香りがする。
その香りを吸い込んだ直後、俺の身体に異変が起きた。
「くっ……か、身体が重い……?」
まるで自分の身体じゃないような感覚。
重力が何倍にもなったかのように身体が重い。
「かかったっすね」
「ア、アサハナ!? これはどういうことだ?」
「ユラリさんには申し訳ないっすけど。実はこの小瓶の中身は精力増強剤なんかじゃないっす。一度嗅ぐだけで身体の動きを鈍くする吸引薬で、元々は患者の痙攣や発作を抑えるための薬なんすよ」
「どうしてそんなものを俺に……」
「とある事情からおいらはテッカちゃんに協力する事にしたっす。おいらの役目はユラリさんの動きを鈍くする事っすよ」
え!? アサハナがテッカに協力だって?
いつのまにそんな関係になっていたんだ。
テッカは動きが鈍くなった俺に襲いかかる作戦なのか?
「大丈夫っすよユラリさん。本物の精力増強剤はすでに完成してるっす。おいらの心も身体も薬も、胸だって準備万端っすよ!」
「そ、それは嬉しいんだけど。どうしてテッカに強力するんだ?」
「今はまだ言えないっす」
アサハナが俺を捕まえようと抱きつこうとしてきた。
俺は【縮地】を使いアサハナの手から逃げて距離をとる。
身体の動きが鈍くなったとはいえ、スキルを使えばそれを補う事は可能だ。
「さすがユラリさんっすね。この薬を嗅いだら普通の人は全く動けなくなるはずなんっすけど」
俺は後ずさりしてアサハナから逃げようとしたが、どこからともなく重りのついた鎖が飛んで来て俺の全身に巻き付く。
「えっ!?」
「師匠。申し訳ありません。お叱りは後でお受けします」
俺の身体に鎖を巻き付けたのはギンコだった。
俺の近くに来ていたのは気配で知っていたけど、ギンコもテッカに協力しているとは思わなかった。
という事はまさか……。
その時、背後からゆっくりと歩いて来たのはストレッドだ。
ストレッドもテッカに協力しているのか!?
「総支配人ユラリ。私が援護してやろう」
俺はストレッドが味方だと分かり首だけ彼女に振り向くと、彼女の右腕は人一人を捕まえられる程大きな虫取り網に変形していた。
それって明らかに俺を捕まえる為だよなっ!?
ストレッドはその大きな虫取り網を振りかぶり俺を網の中に閉じ込める。
「悪いがこれもマスターヒラガの快適な生活を守る為だ」
「ストレッド。お前もか!」
鎖や網程度なら俺が全力を出せばすぐに逃げ出せる。
テッカはまだ喫茶店にいるから焦って逃げる事もないだろう。
そこに我が旅館の看板娘で仲居頭のペティが現れた。
彼女の隣には手鞠を持った座敷童の少女も一緒だ。
ま、まさかペティも!?
「皆さん! ご主人様になんて事を!」
良かった。
ペティは本当に俺の事を心配してくれているようだ。
しかし、俺の淡い期待は一瞬で潰えた。
「そんな乱暴な方法だとご主人様が怪我しちゃうかもしれませんよ!」
「え、ペティ?」
「ご、ごめんなさいご主人様。じゃあマリちゃん、お願いしますね」
マリと呼ばれた座敷童の少女は微笑みながら頷き、手に持っていた手鞠を空中に浮かすと小さな声で術を唱えた。
「いっしょにあそびましょ?【念縛】」
次の瞬間、俺の身体は全く動かせなくなった。
指先どころか眼球も動かない。
強力な金縛りか。
全力で動こうとしてみたが、そもそも筋肉が動かない。
まるで脳から全身に伝わる命令を遮断されているようだ。
ペティも俺を捕まえにきたのか。
どうしてこの四人がテッカに助力するのか検討がつかないけど、テッカと約束した制限時間はあと二分。
テッカの現在位置は喫茶店から動いてない。
喫茶店から医務室のあるこの場所までは走れば二分で来れるけど、今のテッカには動く素振りは無いから焦ることはないか。
ここで俺が動けなくなってもテッカが来なければ時間切れで俺の勝ちだ。
だから俺はここで待つだけでいい。
待つだけでいい?
本当にそうか?
この四人がテッカに協力したという事は他にも彼女の協力者がいるかもしれない。
という事はあいつも……。
俺の予想は当たっていた。
俺の目の前に突如としてウサ耳のニゲレナとテッカが出現。
ニゲレナの【転移】を使えば距離なんて関係ないんだった!
「ふふふ。お兄ちゃん見〜つけた!」
包丁を両手で持っているテッカは、にやりと不気味な笑みを浮べながら俺にゆっくりと近づく。
俺は全く動けない。
アサハナがテッカに協力していると分かった時点で、他に協力者がいる可能性に気付くべきだった。
アサハナの吸引薬の効果だけなら全力で逃げれば時間切れになったかもしれないのに、油断したつもりはなくても結果的に油断していたという事か。
これじゃまるでゴールの手前で眠ってしまい、カメに追い抜かれたウサギだな。
今は反省している場合じゃない。
座敷童の【念縛】の効果で術やスキルまで使えない。
このままではあの包丁で胸を刺される!
「……お兄ちゃん。テッカと永遠に愛し合う為に、死んでなのっ!」
恍惚とした表情のテッカは俺の胸に飛び込んで来た。
鋭く研がれた包丁が俺の胸に突き刺さる。




