春雷の章 (2)
遠くでアオゲラの鳴く声と玲瓏の滝の水音が聴こえる。
薄花色と呼ばれる薄い青紫色の直綴に紺青色の袈裟を着た無間道六は、永平寺の会見の間にいた。
永平寺は、仏法が大陸の後漢に伝来した時の元号、永平が由来であり、永遠の平和を意味している。
三好長慶に決戦を仕掛ける無間道六と長尾景虎の会談の場としては、皮肉にも感じる。
無間道六は、板の間の下座に敷かれた褥に座り、右手に持っていた紺色の経扇を床に置いて長尾景虎の入室を待つ。
部屋の障子は開かれていて、吹き抜けるそよ風が心地いい。
直ぐに廊下を踏み鳴らす複数の足音が聞こえた。
先頭を歩いて来た男は、部屋には入らず廊下で片膝を着いて控える。
その後ろを歩いてきた僧体の細身で小柄な男は、そのまま部屋に入り、無間道六の前の褥に胡坐を掻いて座った。
「長尾景虎です」
紺色の直綴に鮮やかな唐紅色の袈裟を纏った小柄な男は、艶のある声で名乗った。
長尾景虎は、三年前に高野山に出奔した際に剃髪をし、僧体となっていた。
色が白く、鼻筋が通った小さな顔は、どこか女性的でもあり、紅潮した顔は色気さえ感じさせる。
「初めてお目に掛かります。無間道六と申します。この度は、幕府再興の願いをお聞きいただきありがとうございます」
無間道六は、心からの感謝の気持ちを述べ、深々と頭を下げた。
「大樹は、お変りありませんか? ご苦労なされておりませんか? 」
長尾景虎も足利義輝を大樹と呼んだ。
名ばかりとなった若い将軍を労わる澄んだ声が、耳に心地良かった。
「弾正様の上洛を楽しみにされておられます」
無間道六は、長尾景虎を弾正少弼と言う官職で呼んだ。
長尾景虎は、透き通るような白い肌も相まって、かすみ草を思わせる可憐でどこか危うい雰囲気を持っている。
自らを毘沙門天の化身と言い、戦をすれば一度も負けたことがない無敗の軍神の姿とは、随分と違う印象で少しの戸惑いを覚える。
「三好との戦、無間道六殿の展望をお聞かせ願えますか? 」
長尾景虎が薄っすらと微笑み、無間道六を値踏みするような視線を投げる。
幕府再興を志す同志としての価値を見極めようとしているようだった。
無間道六は僅かに頷き、薄花色の直綴の懐から折り畳まれた紙を取り出して長尾景虎にも見えるように板の間に広げる。
広げられた紙には、京を中心に畿内周辺の地図が書かれていた。
無間道六は、目の前に置いていた経扇を持ち、墨字の地図の琵琶湖南端を指した。
「弾正様には、琵琶湖の東岸を進み、瀬田、山科から京に入っていただきます」
琵琶湖西岸は、道幅の狭い山道を進まなくてはならず、奇襲を受けた時に身動きが取れなくなる危険性があった。
長尾景虎が小さく頷く。
「三好の兵は、五千に満たないと考えておりますが、弾正様の軍勢が京に近づけば、撃って出ざるを得ないと考えます」
瀬田、山科を指していた経扇は、琵琶湖東岸の一点を指して止まった。
「決戦は、野洲」
野洲は、琵琶湖の南東に位置する平地で展望も良く、街道も通っていて大軍を展開するには、都合の良い場所であった。
無間道六は、野洲に置いていた経扇の先を琵琶湖を跨いだ西側の比叡山に移し、長尾景虎の目を見て口元を緩める。
長尾景虎が、微笑み返す。
「比叡山」
無間道六と長尾景虎は、戦の全貌とお互いの力量を察した。
遠くで雷鳴が響く。
会談は、一辰刻(約二時間)ほど続けられたが、京や畿内の情勢と越後を取り巻く状況が語られた。
春雷。冬の終わりを告げる虫出しの雷。雹が屋根を叩く音がした。