暁の章 (1)
吐く息も白い、底冷えのする師走。
青眼寺の朝は早い。
無間道六は、まだ、日が昇る前に坐禅堂に籠ることが日常となっている。
結跏趺坐を組んだ無間道六は、繰り返される呼吸さえも意識の外にあると感じる深い瞑想の中にいた。
灯明皿の灯りが揺れながら、無間道六の右頬を照らしている。
荏胡麻の臭い。無間道六は、意識の底からゆっくりと浮かび上がる途中、どこか遠くから聴こえる金剛鈴の涼やかな音色を感じた。
「仁兵衛か? 」
「くくくく…… 」
無間道六の耳元に不気味な笑い声が届く。
坐禅堂の隅、灯りが届かない暗闇に片膝をついて控える山伏姿の霞仁兵衛の気配があった。
顔は見えないが、薄気味悪い微笑を浮かべているようだ。
「いつからそこにいる? 」
「半刻ほど前になりますかな、そろそろかと思い金剛鈴を鳴らしました」
金剛鈴の音色は、気配を感じさせない霞仁兵衛が、他人に存在を知らせるために使う合図のようなものだった。
剃髪姿の無間道六が、小さくはない切れ長の眼を開いて、苦笑いを浮かべる。
「仁兵衛が敵ならば、わたしは、半刻前に殺されていても不思議ではなかったということか? 」
「無間道六様が、敵ならばそういうことになりますな。まあ、頂けるものを頂けるうちは、むやみな殺生はいたしませんがね」
霞仁兵衛が悪びれるでもなく、薄気味悪く笑った。
隙間風が、灯明皿に灯る荏胡麻の火を揺らす。
霞仁兵衛は、無間道六に銭で雇われている忍びの頭目で、払った報酬の分だけ仕事をするという関係だった。
無間道六は、結跏趺坐を崩して板の間に胡坐をかいた。
「仁兵衛、京の様子はいかがであった」
「将軍様は、三好長慶と和睦し、京に戻られましたな。幕府の実権は、完全に長慶が握ってしまいましたがね。商人などは、次の天下様は、長慶だと、あからさまに摺り寄る者も現れました。世の移り変わりは早いものですな」
霞仁兵衛は、片膝を着いたまま呆れたような口調で、将軍足利義輝と三好長慶の北白川の戦いの結末を報告した。
「長慶が、天下様…… 」
「このままでは、無間道六様が思い描く幕府の再興は、夢のまた夢ですな」
霞仁兵衛は、薄ら笑いを浮かべたまま、遠慮がない口調で思ったことを口にした。残念なことに霞仁兵衛は、相手を思いやる気持ちを持ち合わせていない。
「長慶は、京から追い払わねばならんな」
無間道六が、顎に右手を宛がいながら独り言のように呟く。
顎に手を当てるのは、思考を巡らせているときの癖でもあった。
「三好と戦をなされますか? 」
「今が、仕掛ける時かもしれんな」
「青眼寺が戦? これは、楽しみなことで」
無間道六は、どこか他人事のように答える霞仁兵衛から視線を外して、灯明皿の灯りが届かない坐禅堂の梁を見ていた。
「越後の龍…… 」
呟き。聞こえたのか、聞こえなかったのか、底冷えのする坐禅堂の暗闇の中、霞仁兵衛が小さく頷いた気配を感じた。