龍神の章 (3)
北国街道を進んで行くと街道の両側に一町に渡って、飯を焚き出している人々の姿が続き、既に握り飯を頬張っている兵や酒を飲み出している兵の姿も見られた。
常足で進む月下と長尾景虎の前にあずき色の頭巾を被った商人姿の男が、腰を低くして近づいて来る。
「立花屋次郎三郎でございます」
目尻の下がった腰の低い商人は、用意していた民家に長尾景虎を案内した。
長尾景虎は、宇佐美定満、柿崎景家を従えて立花屋次郎三郎の後に続き、斉藤朝信、色部勝長は、長尾景虎たちと別れて、兵が集まっている方に向かって行った。
手入れの行き届いた庭を通り、座敷に上がると香が焚かれた畳の間に通された、控室のようだ。
長尾景虎は、全ての警戒心を解いた訳ではないが、従事の者に命じ、色糸通腹巻鎧を外させた。
宇佐美定満と柿崎景家もそれぞれ身に着けていた甲冑を脱ぎ始めた。
案内された民家は、古いが手入れが行き届いており、畳も張り替えられていて立花屋次郎三郎の心尽くしが感じられる。
長尾景虎が、寛いでいると使いの者がやって来て、客間に案内をされた。
床の間には、明国の交易品と思われる水墨画が掛けられている。
立花屋次郎三郎は、下座に控えており、用意された膳には、琵琶湖で取れたものだろうか、焼き魚とシジミの煮物が並べられていた。
毒見の意味もあるのだろう立花屋次郎三郎が、杯に注がれた酒に口を付ける。
長尾景虎も酒が嫌いではなかった。注がれた酒を飲み干す。
「立花屋、この馳走の目的はなんだ? 」
白い直綴に切袴姿の長尾景虎が、杯に酒を受けながら訊ねた。白い肌がほんのり紅く染まり始める。
「弾正様の行軍の疲れを少しでも癒していただければと準備をいたしました」
立花屋次郎三郎は、長尾景虎を弾正と官名で呼び、警戒心を抱かせない笑顔を見せた。
長尾景虎も顔を綻ばせ白い歯を見せた。
「もうよい。立花屋、青眼寺のことも含め本音で話せ」
長尾景虎の涼しげな声が、命令口調で発せられる。
立花屋次郎三郎は、青眼寺の名前が出ても表情を変えず笑顔のままだった。
「青眼寺のことも、隠すつもりはございません。疲れを癒していただきたいというのは、本心で御座います」
宇佐美定満は、シジミの煮物に箸を付け、柿崎景家は、杯を口に当てていた。
立花屋次郎三郎が従事の者に命じ、長尾景虎に酒を勧める。
「青眼寺の志すところは、戦が無い、民が平和に暮らせる世を創ることで御座います。そのためには、弾正様には軍事力を、無間道六様には戦略を、私は、財力を持って幕府再興を図ることが、使命だと思っています」
立花屋次郎三郎は、箸を置き、姿勢を正して長尾景虎に向かい合い、自分も含めて青眼寺の役割を語った。
長尾景虎の視線が、一瞬、猛禽類の様な鋭い目に変わった。
「わたしに幕府再興の戦をしろと? ならば訊くが、立花屋は使命として越後勢五千の軍費を賄うことが出来るのか? 」
長尾景虎は、口元に微笑を浮かべて言ったが、目は笑っていない。
「軍費の話しは、出来るのかどうかではなく、やらなければならないことだと思っています。例え立花屋が潰れようと、これは覚悟の問題で御座います」
立花屋次郎三郎は、きっぱりと答えた。表情は、相変わらず笑っている。
「この長尾景虎に覚悟を決めよと言うわけか? 立花屋に訊く、無間道六は、全てを掛けて信ずるに値する者なのか?」
長尾景虎の感情が、僅かに動いた。色白の頬が、紅を差したように染まった。
杯を飲み干す。従事の者が、空になった杯に酒を注いだ。
「幕府の再興がなった時は、無間道六は何を望む? 管領か、副将軍か? 」
長尾景虎は、鼻で笑うように言葉を投げかけた。
宇佐美定満も柿崎景家も酒を飲む手が止まった。
酒の影響か、言葉がきつくなっているのが、自分でも分かった
立花屋次郎三郎は、長尾景虎の言葉にも目尻を下げたままだった。
「無間道六様は、何も望まないと思います。幕府再興が成ったら、仏門の修行に励みたいと考えていると思います」
「立花屋、何がそこまで信じさせる。無間道六は、今や幕府の権威の代弁者とも言えるのだぞ」
微風が開けていた襖を通り、長尾景虎の火照った頬を撫ぜて行った。
立花屋次郎三郎の顔から、静かに笑みが抜けていくのが見て取れる。
「万民論について、無間道六様と一晩語りました。無間道六様と万民論を語れば、私の言っていることが、分かっていただけると思います」
「無間道六と万民論を語ることに、どんな意味があると言うのだ」
「万民論は、無間道六様が諸国を旅し、民の苦しみや生きることへの執念を目の当たりにし、書き上げた魂の書で御座います。無間道六様の全てであり、ご自身でもあるのです。一晩語れば、無間道六様がどういう人となりで、どういう志を抱いているのかが分かります」
沈黙。立花屋次郎三郎が、表情を緩めた。いつもの笑い顔に戻っている。
長尾景虎の笑い声が、部屋中に響き渡った。
「もうよい、分った」
長尾景虎が、笑いながら発した言葉で、その場の空気が一変した。
宇佐美定満も笑顔を見せ、柿崎景家は、止めていた箸を焼き魚に伸ばした。
「わたしも無間道六は、大変な人物だと思っている。但し、幕府再興を望むならば、見返りを求めるのが人であろう。立花屋は、無間道六の志は、もっと高い所にあると言いたいのか? 」
「その通りでございます。商人のわたしが言うのもなんですが、戦が無い世を創るという夢は、私利私欲で動く者では、成し遂げられません。無間道六の志は、天に上る龍の如く崇高なもので御座います」
長尾景虎が一段と大きな声で笑い、立花屋次郎三郎は、目尻を下げて微笑んだ。
「天に昇る龍が二匹」
宇佐美定満が、酒を一口飲んで呟いた。
長尾景虎率いる越後勢五千は、この日、今浜に滞陣し休息を取った。
翌朝、今浜を出発し、琵琶湖を左手の望みながらの行軍で二日後には、決戦の地と想定している野洲に着陣した。
長尾景虎は、北国街道を見渡せる小高い丘を本陣とし、宇佐美定満、柿崎景家に守らせ、先陣には、甘粕景持、鬼小島弥太郎、長尾政景の千二百を当て、左翼には吉江景資、本庄繁長の千、右翼には、新発田長敦、大熊朝秀の千を布陣させた。
後詰には、斉藤朝信、色部勝長の千を配した。
長尾景虎は、本陣から野洲の平地を望み、鶴翼に広がる越後の軍勢を見て三好長慶との決戦に気持ちが高鳴るのを感じていた。
宇佐美定満が、長尾景虎の横に歩み寄る。
「御館様、西の空に黒い雲が広がっております。夕刻には、一雨来るかもしれませんね」
「西の空か、京の方角だな」
長尾景虎が、暗雲の広がる西の空を見ながら、誰に話すとも無く、呟いた。
東の空に目を移す、青い空に浮かぶ白い雲が、龍の姿に見えた。
本陣では、毘と龍の旗が、琵琶湖からの風を受け、たなびいていた。




