序の章
直垂に香でも焚き付けているのであろう、白檀の香りが残る。
高貴なお方は、板の間に平伏している無間道六の横を通って、上座の畳に座った。
朽木基綱の館。通された部屋の障子は、開かれていて心地よい初夏の風が通り抜けて行く。
「面を上げよ」
凛とした威厳のある声。
顔を上げると征夷大将軍足利義輝が座っていた。
足利義輝は、陪臣にあたる三好長慶に追われ、管領細川晴元と共に近江の国、朽木谷に逃れていた。
若き流浪の将軍は、藍色の直垂に烏帽子姿と質素な身なりではあるが悲壮感は無く、涼しげな目元からは、意志の強さが感じられる。
二ヶ月前のこと朽木基綱が、まだ雪が残る青眼寺を訪ね、足利義輝が無間道六の執筆した万民論を読み、非公式ではあるが謁見を許すとの申し入れを伝えた。
万民論は、無間道六が二十歳の時から二年の歳月を掛け、東海、関東、東北、北陸の諸国を旅し、貧しいながらも強く生きる民の姿を目の当たりにして、この国の政のあるべき姿を記した思想の書である。
足利義輝は、同世代でありながら諸国を回り、万民論を書き上げた無間道六に強い関心を抱いていた。
「万民論を読んだ。民が豊かに暮らすことが国の力を強くする。私もそのような国の形を造っていきたいと思っている」
「拙僧の戯れ言にもったいないお言葉でございます」
無限道六は、足利義輝の思いもよらない言葉に真意を計りかねていた。
「そう畏まらなくてもよい。調べたところによると無間道六は、我が足利に連なる家系と聞いている」
足利義輝が、親しみを込めた笑顔を浮かべる。
「生きることに精一杯で、出自のことなど忘れてしまいました」
苦笑い。無間道六が、乱世を生き抜いた二十五年を思い返す。
「今は、ただの道に迷う坊主にございます。六道を巡り、未だ乱世と言う無間地獄を彷徨っております」
「無間道六を名乗るは、そう言う意味か」
足利義輝が、口元を緩めた気がした。
「では、道に迷った坊主に訊ねる。国とは何だ? 」
「国とは、民でございます。国の姿は、民の暮らしに映し出されるものでございます」
足利義輝の凛とした声が静か無間道六に届く。
「では、青眼寺とは何だ? 」
足利義輝が、万民論に興味を持ったことは嘘ではないが、一番の関心事は、無間道六が主宰する青眼寺の存在だった。
青眼寺は、宗派に囚われず、仏教の本質的な救われ方を学ぶ根本道場として、無間道六の記した万民論を実現するための寺社組織だが、足利義輝は、青眼寺を単なる仏教寺院だとは考えてはいないようだ。
無間道六が、言葉を選ぶ。
「青眼寺は、乱世の闇に苦しむ民のための灯明にございます」
風がそよぐ。足利義輝の口元から笑みが消えていく。
「闇と申すか? 民にとってこの世は、希望も見えぬほどの闇に包まれていると言うのか? 」
幕府は、足利義政の治世に起きた十一年にも及ぶ、応仁の大乱で疲弊し、統治機構としての機能を失っていた。
足利義輝は、治世者としての力の無さを嘆いているのか、表情には深い悲しみが浮かんでいる。無間道六は、覚悟を決めたように深く息を吸い、静かに言葉を発した。
「戦乱が続くこの世は、まさに暗闇でございましょう。ただ民は、もがき苦しみながらも、この暗闇の中で生きていかなければなりません。青眼寺はそのための灯明であり、わずかに灯る希望の光になりたいと思っております」
足利義輝が問う。
「民が豊かに暮らすためには、この国に何が足りないと言うのだ? 」
無間道六が答える。
「秩序でございます。公武一体のこの国の秩序を整えることでございます」
沈黙。足利義輝の目が一瞬、光を戻した。
「無間道六よ、民が豊かに暮らせる国造りのために、この義輝の灯明となってはくれぬか? 」
足利義輝の突然の申し出に無間道六は、戸惑い、言葉が続かない。
身体の奥底から熱いものが噴き出して来る。
「拙僧には、もったいないお言葉…… 」
このお方は、命を懸けて民のためにこの乱世を正そうとしている。
無間道六は、若き将軍の切実な言葉からその覚悟を感じ取った。
ならば、青眼寺が、将軍足利義輝の灯明となろう。
爽やかな初夏の風が、二人の漢の運命を結び付ける。
遠くで、キビタキの鳴く声が聞こえた。