第97話:さよならF.S.V
長文になります『ドイツ編』最終話になります。
日本に帰国する日、ドイツを離れる朝がやってきた。
「じゃあ、朝の練習に行ってきます」
「朝食の時間までには帰ってくるのよ、コーちゃん」
「うん、分かった」
早起きしていた母親に挨拶をして、オレは街中のホテルを出発する。
ドイツで住んでいた借家はすでに解約して、中心街のホテルに滞在していた。
借家の大きな荷物は全部処分して、残る荷物も既に日本に郵送していた。
残る荷物は野呂家の4人。
今日の午前中の高速列車と飛行機に乗って、引っ越しは完了だった。
だから荷造りを終えていたオレは、最後の朝練に向かうのだ。
「そういえ一人で朝練に向かうのは、久しぶりかな?」
いつも一緒に朝練に行っている妹の葵は、今朝はまだ寝ている。
昨夜はドイツでの最後の夜。
だから家族4人で、市内のレストランで遅くまで食事会をした。
そのお陰で食べ過ぎた妹と、飲み過ぎた父親は、まだホテルのベッドで寝ているのだ。
「一人でドリブルしていると、なんか一年目に戻った感じかな?」
そんな訳で住み慣れた街の裏路地を、3年前のように一人でドリブルしていく。
『おはよう、コータ! あら、今朝はアオイちゃん、寝坊かい?』
『あっ、パン屋のおばさん、おはようございます! 実はそうなんですよ』
途中で近所のパン屋のおばちゃんに挨拶される。
この3年間、毎日のように顔を合わせている。だから一緒にいない葵のことを、心配しているのであろう。
(おばちゃん、今日まで本当にお世話になりました……)
ドリブルで去りながら、オレはそう感謝する。
だが心の中だけで、口に出すことしない。
何故ならオレが今日帰国することは、街の人には内緒なのだ。
(これもF.S.Vの好調な雰囲気を、壊さないために……)
街に人に内緒にしてもらったのは、オレの考えであり、F.S.Vの経営陣にお願いしたことだった。
何しろ今のF.S.Vは2部リーグ優勝と昇格を決めて、乗りに乗っていた。
だからオレみたいな選手の強制帰国のニュースで、その流れを壊したくなかったのだ。
(オレが退団したことは当分の間は内緒にしてもらって、5月くらいにひっそりと発表してもらおう……)
立つ鳥跡を濁さず……とは少し違うかもしれない。
少し寂しい気分もあるが、後悔はなかった。
「それにしても、この街には3年間、本当にお世話になったな……」
ドリブルしながら街に風景を眺めていく。
ここは決して大都市ではないが、歴史と文化にあふれた街であった。
特に感動したのが、住んでいる市民の人情の深さ。
3年前、見知らぬ土地から来たオレに対して、誰もが優しくてくれた。
美味しい店を教えてくれて、また一緒に公園で遊んでくれた子どもたちもいた。
「あっ、中等部だ……こことも、今日でお別れだな……」
ドリブルをしていたら、通っていた中等部の校舎が見えてきた。
今はまだ早朝なので、誰もいない静かな雰囲気。
(無事に卒業はさせてもらえたし、本当に感謝しかないな……)
最後の方はサッカーが忙しすぎて、オレは半日しか中等部に通えない日もあった。
だがレポートを毎回提出することで、単位を貰うことができたのだ。
これでオレは一応、日本でいう中学生が卒業できた。帰国しても日本の高校に編集にすることがきる。
「そういえ中等部のクラスメートの皆は、いつも試合の応援に来てくれていたな……」
3年前の入学当初、オレがプロのサッカー選手になったことは秘密にしていた。
だがF.S.Vが2部リーグに昇格した時から、そのことはクラスメートにバレてしまった。
何しろこの地域の子どもたちは、誰もがF.S.Vのファン。隠し通せるはずがなかったのだ。
そんな訳でF.S.Vの1軍の試合には、いつもクラスの仲間が応援に来てくれていた。
「クラスメートの皆の声援は、誰よりも聞こえていたよな……」
中等部の皆の甲高い声は、満員のスタジアムでもよく聞こえていた。
試合中でオレが苦しい時。いつも彼らの声援が、オレの背中を後押してくれた。
本当に感謝しかない。
「でも逆にミスした時は、月曜日の朝は気まずかったけどね……」
月曜日の朝は、嫌でもクラスで同級生と顔を合わせる。
彼らはまだ中等生なので、オレに対する叱咤の言葉もストレートであったのだ。
「ドイツでの中等部、本当に楽しかったな……本当にありがとうございました」
サッカー漬けの毎日の中で、中等部だけがリフレッシュできた時間であった。
そんな校舎に別れと告げて、オレは次の場所に向かうのであった。
◇
「あっ、サッカーパークが見えてきた」
街並みを眺めながらドリブルしていたら、いつの間にか目的地に到着した。
ここはF.S.Vのサッカーパーク。広大な敷地内に、10個近いサッカーの練習場があるのだ。
「あれ? ジュニアユースのグラウンドに、ボールが出しっぱなしだぞ? これはたしか……」
U-15専用のグラウンドを通りかかった時に、忘れ物を発見した。
ボールはジュニアユースの一人の持ち物。オレが仲良かった仲間のボールである。
「そういえU-15の皆にも、本当にお世話になったよな……」
まだ誰もいない早朝のグラウンドを、眺めながら思い出す。
3年前のオレは、いきなり大人のプロチームに入団した。毎日が刺激的で楽しかった。
だが内心では、実はけっこう寂しかった。何しろ周りは気を遣う大人ばかり。
そんな時に出会ったのが、F.S.VのU-15……3年前はU-12だった少年たち。
このグラウンドで同年代の仲間たちと出会うことができたのだ。
「皆との練習も、楽しかったよな。本当に……」
正直なところ実力ではU-15の皆は、オレよりも下のカテゴリーであった。
でもサッカーは実力だけが全てではない。
同年代との練習は、オレにとっては大事な時間。
サッカーを楽しむ……という、本当に楽しい時間だったのだ。
「そういえF.S.V・U-15は、ここ1年は好調だから、今後も楽しみだな……」
3年前のF.S.V・U-15は、それほど強いチームではなかった。プロチームの下部組織としては、弱小チームの部類に入っていた。
だが最近では、急激に選手の個々の力が向上。
今年のドイツ国内のU-15大会では、なんと全国ベスト4に輝いたのだ。
「若い世代の成長に、F.S.Vの経営陣の人たちも喜んでいたな……今後もみんなの成長が楽しみだな」
他の強豪1部リーグのU-15チームを倒したことは、2部のクラブにとって大快挙。
この分ならF.S.Vの実力は、あと数年間は安定していくであろう。
この3年間で、F.S.Vのトップ選手から若手選手まで……クラブ全体が大きく成長していったのだ。
共に汗を流したオレにとっても、本当に嬉しいことだった。
◇
「あっ、練習場か……」
サッカーパーク内を移動していたら、大人用の練習場に到着した。
クラブハウスの横にある、いつ使う場所である。
「まだ誰もいないかな? まあ当たり前か?」
今は早朝の薄暗い5時。
連取杖には人っ子一人いない。
「この練習場には、初日から一番お世話になったよな……」
通いつめた練習場を眺めながら、また感慨にふける。
ここは入団テストを受けた場所。
3年前のオレが初めて訪れた場所であり、始まりの場所であった。
「あの時は、本当にびっくりしたよな。まさか大人のプロテストを受けていたとは……」
ゲードさんという陽気な知人から、このF.S.Vの紹介状を書いてもらった。
オレはF.S.Vのサッカースクールコースだと思って、入団テストを受けた。
だが紹介状は実は大人のプロテストだったのだ。
「今考えると、運よく合格できたあの日から、全てが始まったんだよな……」
合格した後は、凄まじい勢いで話が進んでいった。
まずオレはF.S.Vの2軍に在籍することになる。
そこで運よく結果を出したオレは、2軍のレギュラー選手になった。
レギュラー組とリーグ戦に出場していき、オレは更に結果をだしていく。
「その後は1軍との、あの交流戦か……」
2軍としてリーグ戦を優勝した後、オレに試練が訪れた。
ドイツ3部リーグに所属する1軍との、交流戦をすることになったのだ。
「あの時はやばかったよな……」
交流戦でもオレは大変だった。
まずは悲運の天才であるユリアン・ヴァスマイヤーに出会う。
オレは彼に勝負を挑んでしまい、1軍のスター選手から目を付けられてしまったのだ。
「でも運よく交流戦でも勝てて、その後も大変だったな……」
なんとオレは1軍に昇格することができた。
当時の自分はまだ中学1年生。これはドイツでも異例の出来ごと。
3部リーグとはいえ、本場ドイツのリーグ戦に、日本の中学生が参加することになったのだ。
「でも、1軍も色々と問題を抱えていて、本当に大変だったよな……」
華やかに見えていた1軍は、大きな問題を抱えていた。
それは“ぬるま湯症候群”
有能な選手を抱えながらも、1軍全体のモチベーションが大きく低下していた。
そのまま放置しておけば、F.S.Vは4部降格の危機に直面していたのだ。
「4部降格の阻止……そしてF.S.Vのクラブの危機を救うために、オレはユリアンさんに再び得点王争いを挑んだ……だっけな……」
4部降格をしてしまうと、F.S.Vのメインスポンサーが離れてしまう危機があった。
それはクラブを維持していくうえで、かなり危険な状況。
だから“ぬるま湯症候群”を吹き飛ばすために、オレは行動を起こした。
チームの中でキーマンであったユリアンさんに、得点勝負を挑んだのだ。
「結果として、1軍の皆はやる気を出してくれた。本当にありがたかったな……」
オレはユリアンさんと無我夢中で得点勝負をしていた。
そんな最中、気がつくと1軍の選手たちは変化していた。
誰もがぬるま湯から足を外して、本気でプレイをするようになっていたのだ。
「あと、ユリアンさんの死亡フラグも解消できたし……」
これはオレしか知らない未来のこと。
交通事故で亡くなるはずのユリアンさんの運命を、変えることに成功した。
今はもう前向きになったユリアンさんは、この先も大丈夫であろう。
「そこからF.S.Vは大躍進をしていったな……」
モチベーションが全開になったF.S.Vは、別チームのように強くなった。
圧倒的な力で3部リーグ優勝を決めて、2部に昇格。
その後も躍進は止まらない。
最終的には先週の“史上最短で優勝”を成し遂げて、ついには1部リーグに昇格が確定したのだ。
「こうして考えるとF.S.Vは、元々は凄い潜在能力を秘めていたんだよな……」
誰かがオレのことを“F.S.V復活の立役者”とか、“F.S.Vの起爆剤男”とか褒めてくれる。
けど実際は違うと思う。
「F.S.Vは長い間、眠っていただけかもしれないな……」
オレが入団する前から、F.S.Vには凄い選手が沢山いた。
若手やベテランはもちろん、サポートするスタッフも凄い人たちばかり。
この3年間で自分がしてきたことは、そんな彼らと共に必死でサッカーをすることだけ。
毎日のようにサッカーのことを考えて、サッカーボールを蹴ってきただけなのだ。
だから、そんなF.S.Vのことを今でも尊敬している。
「そういえばF.S.Vのお蔭で、ヒョウマ君にも再会できたな……」
ドイツ2年目。
参加したUCLヤングリーグで、澤村ヒョウマ君に再会した。
再会といっても、敵チーム同士として立場で。
イタリアにサッカー留学していたヒョウマ君は、なんと名門ユベトスFCのU-18に在籍していたのだ。
「ヒョウマ君は本当に、凄い選手に成長していたよな。あのレオナルドさんにも認められるくらいに……」
対戦したユベトスU-18には、未来のスーパースターのレオナルド・リッチがいた。
そんな天才プレイヤーとも対等に、ヒョウマ君はコンビを組んでいた。
あの事件は本当に衝撃的。
オレも色々とショックを受けて、暗い霧の底に沈んでしまった。
でも結果として、その後はヒョウマ君とは仲直りも出来たのだ。
「ヒョウマ君といたヨーロッパも、楽しかったな……」
その後も同じヨーロッパにいたので、定期的に会って遊んだりもした。
まあ、遊んだと言っても、サッカーがいつも中心。そして本当に最高な思い出ばかりだった。
「そういえヒョウマ君は、もう少しイタリアに残るって言ってたな……」
ヒョウマ君はアマチュアの分類の、ユベトスU-18の所属。
だからオレとは違い、中等部3年の最後までイタリアリーグに残ることが出来る。
次にヒョウマ君に会うのは、7月以降の日本かな?
でも、もしかしたらヒョウマ君は高等部も、そのままイタリアに残ったりするのかな?
落ち着いたら、こんど聞いてみよう。
「とにかく本当に、色んなことがあった3年間だったな……」
他にも語りつくせない出来ごとが沢山あった。
F.S.Vヤングチームの皆の思い出と、UCLヤングリーグを優勝できたこと。
また妹の葵がF.S.VのU-15の試合で大活躍したことや、女子プロのスカウトを受けたこと。
本当にドイツでの毎日は、激動と呼ぶのには相応しい毎日であった。
「本当に感謝しかないな……ありがとうございました」
オレは練習場に向かって、深々と頭を下げる。
ここは全ての始まりの場所。
オレにとっての一番の思い出の場所なのだ。
◇
「やっぱり……最後もここに来ていたのね、コータ?」
そんな時である。
一人の少女が練習場にやってきた。
「あっ、エレナ。おはよう!」
彼女はエレナ・ヴァスマイヤー。
中等部でのクラスメートであり、このF.S.Vのクラブオーナーの孫娘である。
「帰国する当日まで早朝練習するなんて、コータは本当に末期のサッカーバカよね」
「そういうエレナも早朝から、クラブの仕事でしょ? 同じ仲間だね、ボクたちは」
F.S.V特別アドバイザーであるエレナは、誰よりもサッカーを愛する少女。
オレ以上にサッカーことを勉強している。
だからこうして早朝にも顔を合わせていた。
でも、今朝のエレナはいつもより早いな。どうしたのかな?
「け、今朝は、たまたま早く目が覚めたから、来ただけよ、コータ! それにF.S.Vが好調なお蔭で、仕事は山のようにあるからね、私も」
「そっか……いよいよ来季は1部昇格で、来年は新スタジアムが完成予定だからね。エレナは大忙しだね」
今日はまだ3月31日。2部リーグは残り7試合ある。
だが今年の8月上旬には、ドイツサッカーの来シーズンが開幕する。そこでF.S.Vは1部で戦うことになるのだ。
また来年の6月には、F.S.V新スタジアムが完成する予定となっていた。
だからエレナたち経営陣は、忙しい日々を過ごしていたのだ。
「たしかに大変だけど、3年前のあのどん底の日々に比べたら、たいしたことないわ……」
エレナは苦笑いを浮べていた。
たしかにオレが出会った時のエレナには、余裕がなかった。
何しろF.S.V1軍は4部降格と、クラブ自体が消滅の危機にあったのだ。
そんな彼女とオレの出会いは、偶然だった。
エレナと過ごしたこの3年間は、本当に激動の日々だった。
「私もコータと出会った日のことを、今でも鮮明に覚えているわ……」
「2軍でのリーグ戦の時かな? たしかに懐かしいよね」
これもご縁なのであろう。
オレがF.S.Vに来られたのは、サッカーのお蔭。
エレナと出会えたのも、この小さなサッカーボールのお蔭なのだ。
「ねえ……コータ。一つ聞いてもいい? コータは帰国してから、どうするの?」
「うーん、そうだな……? とりあえずは少しだけ勉強して、その後にゆっくりしてから、考えるかな?」
日本に帰国したら4月。オレは日本の高校生となる。
帰国子女として高校に入学か、編入する予定。
入学する高校が決まってから、サッカーをする環境を考えるつもりだった。
(少しゆっくりした後は、日本でも頑張らないとね……)
日本での今度の目標は、地元のサッカークラブを15年後の消滅から救うこと。
今のところ一番の良策は、クラブをJ1まで導くことだった。
「つまりコータの故郷のクラブを、日本のJ1カテゴリーまで昇格させたら……その後、コータは自由になるのよね?」
「うーん、そうだね。たしかに、そういうことになるね」
故郷のクラブは“ある事件”が起きて、消滅の危機に瀕する。
その消滅のフラグは原因があって、J1に昇格することでフラグ自体が無くなる。
つまりエレナの言う通りであった。
故郷のクラブをJ1にさえ導ければ、今世でのオレの大きな目標は完遂。
つまり自由気ままに生きていくことが出来るのだ。
「ねえ、コータ。そのクラブがJ1まで昇格するには、最短で何年かかるの?」
「最短で、エレナ? そうだな……あと5年。いや、理論上の最短で4年かな?」
頭の中で今世の故郷クラブの状況と、未来の進む道をすり合わせていく。
それによると最短だと4年で、J1まで昇格することが可能。
もちろん、そのためには高校生であるオレが、何とかして未来を変えるしかない。
かなりの理論上のハードモードであった。
「そっか……4年ね。コータ……私、ドイツで待っているから」
「えっ? エレナがボクのことを?」
「ち、違うわよ! コータが4年で目標を達成したら、このF.S.Vがあなたのことを獲得するんだから!」
エレナは顔を真っ赤にしながら、説明してきた。
オレが日本での目標を達成したら、一応は自由の身となる。
だから、その時にはプロの選手として、F.S.Vが獲得に動きだす意味だったのだ。
「なるほど。そっか、そういうことか、エレナ!」
「あなたは4年後に、絶対にF.S.V戻ってくるのよ、コータ! 毎年、ヴァスマイヤー家のクリスマスパーティーで、タダで食べた分の恩を返しに、必ず戻ってくるのよ!」
「えー、そんな⁉ でも、F.S.Vとヴァスマイヤー家の皆には、本当にお世話になったからね……」
数年後、もしもオレが日本での目標を達成できた時。
エレナが言う通り、F.S.Vに戻って来るもの悪くはない。
このクラブにはこの3年間、本当にお世話になってきた。そしてオレにもクラブに対して愛着があったのだ。
「でも……本音を言うなら……4年も待てないよ、コータ……」
「えっ? どうしたのエレナ?」
さっきまで元気だったエレナが、急に小さな声になる。
小さな声で何かを言った。
顔を下に向けて、彼女は何かの感情に葛藤している。
「でも、私……頑張るから。コータがいない、これからの4年間で、F.S.Vを世界一のクラブにして……コータが帰って来るのを、待っているんだから!」
そして急にまた顔を上げる。
これはいつものエレナの顔。
オレが世界の誰よりも尊敬している、サッカーバカな少女の笑顔であった。
「さすがエレナだね! それならボクも頑張る。世界一の凄いプレイヤーになるね! エレナに負けないように!」
またF.S.Vに戻ってこられるか分からない。
でも今世のオレには、いろんな夢があった。
その一つは世界中の人たちに、サッカーで幸せを感じてもらうこと。
目標を達成しても、夢には死ぬまで終わりはないのだ。
「あっ、そろそろ時間だ!」
腕時計のアラームが鳴る。
そろそろ家族の待つホテルに戻る時間だった。いつの間にか、こんな時間に。
これからホテルに戻って、帰国の最終準備をして街の駅に向かう。
その後は高速列車に乗って、ドイツの空港まで行って、日本行きの国際便の搭乗するのだ。
「ねえ、コータ。最後に、お願いをしてもいい?」
「お願いを? いいけど、何かな、エレナ?」
「私、これから4年間、頑張るから……アナタの力を分けてちょうだい」
「えっ? ボクの力を? いいけど、どうやって、エレナ?」
「目をつぶって、5秒間だけ……」
「目を? うん、いいけど……」
エレナから、よく分からないお願いをされた。
でも、そのぐらいのお願いなら簡単なご用だ。
「じゃあ、いくよ、エレナ……」
オレは目を閉じて、数を数える。
5……
4……
3……
2秒……と、ゆっくり数えていく。
そして最後の1を、数えようよした瞬間だった。
(えっ……?)
オレの唇に、なにかの感触があった。
柔らかくて、暖かくて、いい香りのする感触だった。
(これって……もしかして……?)
最後の1秒を数えてから、ゆっくりと目を開ける。
そこにあったのはエレナの顔。
顔を真っ赤にしたエレナであった。
「こ、これは、ドイツでは、最近のドイツでは、挨拶みたいなもんだから! コータへの最後の挨拶なんだから!」
「あれ? ドイツにそんな習慣あったっけ、エレナ? でも、これでお願いも完了だね。じゃあ、エレナまたね! 3年間、本当にありがとね!」
帰国への時間が迫っていた。
エレナと最後に握手をして、再会を誓い合う。
次に会うのは数年後になるかもしれない。
でもサッカーを続けてさえいれば、この世界は意外と近くて狭い。
何故ならサッカーの世界の頂点は一つしかない。
これからのオレとエレナは、その頂きを共に目指していく。
あっ、時計のアラームがまた鳴ってしまった。
今はとにかく帰国のためにダッシュしないと。
「コータ、気を付けて帰国するのよ! 世界一の選手になって、その鈍感なところも直してきてくるのよ! 鈍感なコータのバカ! 本当にバカ……コータの……コータの……」
走る去るオレの背中に、エレナの元気な声が飛んできた。
いつもオレにパワーをくれた、少女の激励の声。
でも、今日は……最後の言葉は、少しだけ、涙声だったような気がする。
(エレナ……)
だがオレは振り返らなかった。
何故なら誰にだって、見られなくない顔もある。
いくら鈍感なオレでも、今日だけは、そう感じていたのだった。
◇
◇
エレナと別れた後、ホテルに戻って家族と合流した。
朝食を食べて、最後の荷造りをしてチェックアウトする。
街の駅に向かうためのタクシーに、家族4人で搭乗した。
「いよいよ、この街ともお別れか……」
タクシーから見える外の景色を眺めながら、改めて感慨にふける。
住んでいたのは3年間だったけど、本当に濃い毎日を過ごしていた。
それが今日でお別れと思うと、何とも言えないセンチメンタルな気分になる。
「コーちゃんは友だちとは、ちゃんとお別れできたの?」
「うん、母さん。昨日までで、一通りは挨拶できたかな」
中等部の皆とは、最後の授業の後に挨拶ができた。
またF.S.VのU-15の友だちとは、一昨日の最後のミニゲームで交流を深めた。
そしてエレナとは、さっきちゃんと話ができた。
(でも、しいて言えば、大人のチームメイトの皆と、サポータ団の人には、ちゃんと別れの挨拶が出来なかったかな?)
F.S.Vは優勝を確定していたが、まだリーグ戦の真っ最中。
練習やミーティングで選手は忙しい。
だからユリアンさんやチームメイトとは、ちゃんと挨拶できなかった。
あとF.S.Vのサポータ団や一般市民は、まだオレが帰国することは知らない。
だから、その人たちとは、ちゃんとお別れをしていないことになる。
(ちょうど今もF.S.Vは、練習試合をしている真っ最中かな?)
3月31日のスケジュールを思い出す。今日の午前中はたしか、練習試合が行われると聞いていた。
だから最後の見送りも、物理的に不可能であろう。
(できれば最後に、みんなの顔を見たかったな……)
この3年間、F.S.Vの皆には、数え切れないほど世話になった。
何しろ入団した当時オレは、右も左も分からない異国の中学生。
そんなオレを、誰もが真摯にサポートしてくれたのだ。
(監督やコーチとスタッフの皆さん……2軍の皆や、ヤングチームの人たち……あとユリアンさんと1軍のみんなに……そしてサポート団の人たち……)
この街でお世話になった人たちの顔を、順に思い返していく。
本当に誰もが優しく、熱いサッカー魂を持った人ばかり。そんな皆の顔を最後に見たかった。
「コータ、駅に着いたぞ。高速列車に乗り換えるぞ」
「うん、分かった。お父さん」
いつの間にか、街の駅に着いた。
これから空港行きの高速列車に乗って、その後は国際便で帰国。
いよいよ、この街を……ドイツを離れる時が来たのだ。
「お兄ちゃん、この席だよ! 隣に座ろう!」
「うん、そうだね。葵」
家族四人で、高速列車の指定席に座る。
妹の葵は相変わらず元気。あまりドイツに離れることは悲しんではいない。
まあ、マイペースで葵らしいのだが。
(それに比べて、オレは悲しみ過ぎなのかな……?)
高速列車が出発する時間が近づき、まだ胸が苦しくなってきた。
この街を離れてしまう寂しさ……。
最後チームメイトに挨拶できなかった後悔……。
サポート団の人たちに、内緒で帰国してしまう後ろめたさ……。
そんな感情が入り交じり、苦しい想いに、胸が押し潰されそうになっていた。
『これより当列車は、まもなく発車いたします』
車掌さんが車内アナウンスで、出発の時を告げてきた。
いよいよ、この街とお別れの時間が来たのである。
それを聞いて、更に胸が苦しくなってきた。
『出発の前に、当列車から連絡がございます。お客様の中にコータ・ノーロ様はいらっしゃいますか?』
「えっ?」
いきなり車内放送で、自分の名前が呼ばれた。
思わず声をあげる。
もしかしたら、オレは何か忘れ物とかをしたのかな?
それとも帰国を前にして、重大なミスをしていたとか?
でも、最終チェックはちゃんとしたはずなのに……。
『コータ・ノーロ様はホーム反対側のブラインドを開けて、外の景色をご覧くださいませ』
「えっ……外を?」
車内アナウンスは不思議なことを指示してきた。なんで窓の外を見る?
でも自分の重大なミスだとしたら大変。
オレは急いで閉まっていたブラインドを上げる。
「えっ……これは……?」
窓の外に広がっていた光景に、思わず言葉を失う。
何故ならホーム反対側の外には、駅裏の広場があるはずだった。
いつもはひと気のない、静かな広場があるはずだった。
「えっ……この人だかりは……?」
だが広場には、ものすごい数の市民が集まっていた。
その数、およそ数百人。
無数の市民が大集結していたのだ。
「このチームカラーは……」
そして全ての市民は、お揃いのカラーの身につけていた。
「これは……そんな……皆さん……」
そのカラーはF.S.Vのクラブの色。
集まっていたのは全員、F.S.Vサポート団だったのだ。
「それに……真ん中にいるのは……」
サポート団の中央にいたのは、試合用のユニフォームをまとった選手たち。
彼らはF.S.Vの1軍と2軍の全ての選手。
ユリアンさんを中心にして、全チームメイトが大集結していたのだ。
よく見ると、監督やコーチたちスタッフも全員いる。
「でも……なんで? 今は練習試合の真っ最中なはずなのに……?」
突然のことで、頭が真っ白になっていた。
冷静に考えたら練習試合の情報自体が、オレに対するウソ情報だったのであろう。
だが、そんな簡単なことに気づけないほど、オレは混乱していた。
『よーし、いくぜ、野郎ども!』
『『『オォオオオ!』』』
そんな時、サポート団のリーダーの合図で、広場が大きく揺れる。
彼らは太鼓を激しく鳴らし、雄叫びを上げ出したのだ。
同時にF.S.V旗が、大空に舞い上がる。
『『『コータ! コータ! はるか東方から来た、小さな戦士……』』』
広場から駅全体まで、サポータ団の大合唱が響いていく。
列車の中まで響き渡る、激しい大合唱。
その歌は彼らが、オレのための作ってくれた応援歌。
世界にひとつだけの、オレを激励するためのオリジナルの応援歌であった。
「あっ……もしかして。みんな……わざわざ、このボクのために……」
そこでオレはようやく気がつく。
F.S.Vの仲間たちが中心になって、このサプライズを仕掛けてきたことに。
「そんな……こんな大掛かりに……」
彼らはオレに気づかれないように動いていたのだ。
水面下で選手とスタッフ、サポータ団が連絡をとって打ち合わせ。
当日の今日は市民を偽装して、駅裏に静かに待機。
おそらく先ほどの車掌さんもグル……いや、熱狂的なF.S.Vファンなのだろう。
そして発車のタイミングで、オレにサプライズを仕掛けてきたのだ。
総勢、数百人による一大サプライズを。
「みんな……こんな大掛かりに……それに本当にバカみたいに、あんなに笑って……」
チームメイトの皆は、こちらを見ながら笑っていた。
腹を抱えながら、大笑いしている陽気な人。
クールに親指を立てて、笑みを浮べている人。
中にはシャンパンを開けて、オレを見送っている仲間もいた。
サプライズが大成功して、全員が子どものように大喜びしている。
そして誰もが、本当にいい顔で、オレのことを見送ってくれていた。
「皆さん……本当に……今までありがとうございました……」
オレは窓にへばり付いて、広場の全員に感謝を述べる。
高速列車の窓は、開けることはできない。
だからオレは彼らに何度も、何度も皆に感謝の言葉を伝える。
『……それでは当列車は発車いたします。この街の小さな英雄を乗せて』
いよいよ、時がきた。
車掌さんのアナウンスと共に、列車は静かに動き出す。
『ユリアンさん……みんさん……本当に、本当にありがとうございました……』
列車は静かに、ゆっくりと駅から離れていく。
広場にいる皆の姿が、段々と遠くに消えていく。
そして車内まで響いていた応援歌も、次第に聞こえなくなっていった。
『本当に……本当に……お世話になりました……』
だがオレは止めることはなかった。
街を出るまで最後の瞬間まで、感謝の言葉を続けていくのであった。
この街でお世話になった全ての人たちに、想いが届くように。
この3年間のことを思い出しながら……心を込めて、最後の別れの言葉を伝えたのだった。
◇
こうして多くの大切なモノを得て、オレは日本に帰国するのであった。
◇
次にドイツ編の閑話を1話してから、新章になります。




