第二話:安奈
雛森は安奈を連れ、車で国の用意したホテルへ向かった。車内は静かだ。二人の間に会話はない、いつものことだった。
助手席に乗った安奈はすっかり暗くなった町を窓越しに見る。この町唯一の繁華街は意外に賑わっており、カップルや会社帰りの人なんかが随分と多かった。
ただ、赤やら緑やら賑やかな光に紛れチラホラと裸足の子供が歩いているのが目立つ。明らかに浮いているその子たちは皆光のない瞳を持ち、細い脚でふらふらとさまよっている。安奈は思わず俯いてしまった。
ふいに昼間のあの刺すような視線を思い出し、ギュッとカーディガンの裾を握りしめた。
「気になるか」
ふいに雛森はそう言った。相変わらず冷たい視線は前だけを向いているのだけど。
安奈が返事をせずにいると、雛森は勝手に話を続ける。
「この町は戸籍のない孤児が多い。今の日本じゃとても考えられないだろうが、この町自体昔から隔離されてるからな。気味の悪い町だ、あまり一人で出歩くなよ」
「……分かってるよ」
安奈はチラリと運転中の雛森を盗み見た。その冷たい横顔は娘を心配するというより、何かあれば自分に責任がいくことを恐れているようだ。
しばらく無言の中繁華街を走る。周りの車に比べ一際目立つこの高級車を道行く人が好奇と妬みの目で見ては通り過ぎていった。傾いたビルの片隅に溜まっている二、三人の子供たちが腕組みをしてこちらを見ている。その中の一人が手に持った小さなナイフをくるくると回しているのを見て言い知れぬ不安を覚えた安奈はすぐに窓から離れた。
しかし安奈の思いとは裏腹に車はだんだん人通りの少ない裏に入って行く。かろうじて届いていた町の光も、奥に進むにつれ失われていった。冷たく暗い工場跡ばかりのその場所では月の光と車のライトだけが頼りだった。
雛森はチッと舌打ちをして辺りを見た。生田にもらった地図だと確かにこの辺のはずだが、ホテルどころか家すらない。
ゴミの転がる狭い道をゆっくりと進みながらハンドルを切る。ふいに誰かがこちらを観察しているような気配を感じ、思わずスピードを上げた。
しかし不運にも車は行き止まりにさしかかってしまった。暗くて辺りが見えない上に行き止まり。気の短い雛森をイラつかせるには十分だった。
「ねぇお父さん、大丈夫なの?」
不安げな安奈に構いもせず雛森は様子を見ようと車を出る。不気味なくらい静まり返ったそこはまるで異世界に迷い込んでしまったかのようで、鳥肌が立つほど奇妙な雰囲気が漂っていた。
不安を隠しきれず、安奈も続いて外へ出る。雛森から離れ、一人もと来た道を辿ってみた。しかし車が見えるくらいの距離まで。さすがに遠くまで行く勇気はない。
勝手に動き回るな、という雛森の声も聞かず持ち前の好奇心も手伝って安奈はどんどん歩いて行った。
(誰かいないかな……)
目が暗闇に慣れてきた頃、自分を見ている誰かの視線に気がついてすぐに振り向く。山積みになった粗大ゴミの上に立っている二人を確認した。どちらも子供で一人は自分と同じくらいの背格好。もう一人はまだ十才にも満たないような小さな子だった。
見下ろされているが昼間感じた敵意ある視線ではないことに安心し、何の迷いもなく安奈は二人に近づく。すると大きい方がぽつりと呟いた。
「今日はよそ者が多いな」
「あの、私東京から来たの」
「何をしに」
「お父さんの仕事の都合で。君たちは何してるの、こんな時間に」
答えたのは小さい方の少年だった。
「よそ者の車があったからー、ぶっ壊してやろうと思ったんだよぅ」
「え?」
「だからぁ、お前らを」
「やめろ、レオ」
大きい方の少年がそう言って制止する。よく意味が理解出来ず、ただ二人を見上げている安奈に向かってあ【「早くここから離れろ」】あと短く言い放った。
「でも道に迷ったの。ホテルに行くつもりなんだけど」
「ん、」
ぶっきらぼうに少年は安奈の後方を差す。
「あっちに向かって真っ直ぐ行けばじきに着く」
そこには確かに道があった。どうやら暗闇のせいで見落としていたらしい。安奈は礼を言って頭を下げるが、少年はただあ【「早く行け」】あと繰り返すだけだった。
「女がこんな所にいたら襲われるぜ」
「誰に?」
「誰にでも」
「例えば……君たちとか?」
「俺たちが女なんか襲うか」
少年は少しだけ笑ってそう言った。本気か冗談かは分からないが、嫌な気はしなかった。
安奈は最後にもう一度礼を言ってその場を去ろうと背中を向けた。だがすぐにまた振り向くと、今度はさっきよりも明るい声で聞く。
「君、名前は?」
「……名前?」
「うん、あるでしょ。私、安奈」
「……壱。こっちのチビが、レオ」
レオと呼ばれた少年は欠けた歯を見せてニタリと笑った。愛嬌ある笑顔に安奈も思わず微笑み返す。
「またね」
そう言って、雛森の待つ車へ駆けて行った。
車へ戻ると、案の定雛森は不機嫌そうに安奈を見た。早く乗れ、とため息混じりにドアを開ける。
「道聞いてきたよ。少し戻った所を左に曲がるの」
「本当か。誰に聞いたんだ」
「知らない男の子」
「男の子?」
雛森はハンドルを握ったまま少し考えた。こんな時間にこんな場所を彷徨いているなんてどう考えても普通の子供じゃない。
(チッ、孤児か)
自分が孤児に助けられたその事実をプライドの高い雛森は耐えられなかった。孤児なんかにこの俺が、昔からそういうことを気にする男なのだ。
それに比べ娘の安奈は誰の輪にもすんなり入っていく素直さがあった。明らかに母親似だ。そういう所を見るたびに雛森はつい舌打ちをしたくなる。
「ほら、見えたよ」
見えてきたホテルを指差し、少し得意気に言う安奈。やはり雛森は返事をしなかった。安奈もそれを分かっていたのか、特にそれを咎める気はなく平然としている。
そのホテルは雛森がいつも泊まる高級ホテルとは程遠く、どこにでもありそうな小さな三流ホテルだった。内装もホテルマンも地味で、がらんとしたロビーに他の客の姿はない。
受付を済ませ、荷物を運ぶというホテルマンを素っ気なくはねのけ、鍵を受け取って二階へ上がった。エレベーターは壊れているので階段を使わなくてはいけなかった。
高級思考の人間がさっそうと歩く都会とは違い、汚い子供が這い回っているような町にきた雛森の疲労はかなりのものだった。そんな神経質な父親を気遣ったのか、安奈は鍵を受け取ると早々に自分の部屋へ入る。自分の子供でさえ煩わしい彼は部屋を別々にとっていたのだ。
「明日から俺は仕事だ。夜には戻る。それまで一人で大丈夫だろう」
「大丈夫だよ」
安奈は明るく答え、先に部屋へ入った。
よくあるホテルの一室。何の特徴もない、ただ清潔なだけの部屋。ベッドとテーブル、鏡台に小さなテレビ。しんと静かなこの部屋はなぜか安奈には必要以上に広く感じた。
(大丈夫、大丈夫……)
言い聞かせるように心の中で呟いた。一人は慣れている。物心ついた時から母親はおらず、父親は仕事ばかりで構ってくれなかった。寂しくならないように余計なことは何も考えないことにした。今までそうやって、一人の時間を乗り越えてきたのだ。父だってきっと自分と同じなのだと安奈には分かっている。
(疲れた……)
荷物も解かず、ベッドに倒れ込み目を閉じた。すぐに眠気が襲ってくる。現実から夢の中へと意識を預ける瞬間、なぜか先ほどの少年のことを思い出した。壱、と名乗った少年の顔が脳裏に浮かぶ。だけどすぐにまた睡魔がやってきた。
耐えきれず、安奈は意識を手放した。