第一話:野良犬たち
「よそ者がいたぜ」
ロウは長い鉄パイプを肩に担ぎ、戻るや否やそう言った。そばにいた二人がその言葉にピクリと反応を見せる。
ここは町の外れにある古びた工場跡。
コンクリートに囲まれ、もう動かなくなった機械ゴミが静かに眠る場所。
この工場が生きていたのはもう遠い昔のことだ。
ガラクタばかりがゴロゴロと転がるだだっ広いこの場所に、彼らはよく集まる。
昼夜関係なく薄暗い工場の中に、吊された裸電球が申し訳程度に光っていた。
所々穴の開いたえんじ色の長ソファーがひとつと、木製の低いテーブルが中央に置いてある。黒光りするサンドバックに、場所をとらない小さな赤いスポーツカー、木馬の振り子、ぬいぐるみ、けん玉、ダンベル……どこから拾ってきたのか分からないようなものがごちゃごちゃと置いてあった。冬は寒く夏は暑いこの工場が彼らの楽園だ。
「どんな奴だ」
ソファーの真ん中にどっしりと腰を下ろした少年が、険しい表情でロウを見る。名前は虎、年齢およそ十六歳。虎のその雰囲気に一瞬たじろうも、すぐにいつもの調子で説明をする。
「女だ。俺たちと同い年くらいの女。広場の時計台の所にいた。一人だった」
「それで?」
「睨んだら視線感じて逃げてった」
お手柄だろ、と言わんばかりの笑顔でロウは得意げに鼻息を鳴らすが、虎はあまり関心がないようだ。少しだけ考えたあと、後方へ呼びかけた。
「だってさ、壱。どうするよ」
屋根のない赤いスポーツカーの中で寝ていた壱は、むくりと起き上がる。しばらく二人を交互に見たあと、再び運転席の座席に頭をもたれた。両脚をハンドルの上にドカッと置く。
「ほっとけ。女は襲わないって決まりだろ」
「でもよそ者だぜ。何か起きたらどうするよ」
「その時はその時さ」
そう言って壱は近くにあったキャップを深く被って目を閉じる。争い事も喧嘩も好む壱だが、子供も大人も関係なく女を殴ったことは一度もなかった。それは正義なんて薄っぺらいものではなくただ単に、女は殴る価値もない存在だと思っているからだ。
「それより虎、今何時だ」
「さぁ。多分四時くらいじゃないかな」
外の見えない工場の中にいると、時間の進む速度が狂う。その為正確な時間が分からないのだ。時計がいるな、と虎は独り言のように呟いた。
壱はハンドルから脚を下ろし車から飛び降りた。ズボンについた埃を手で払うとソファーにいる虎とロウの近くへ歩み寄った。何をするかと思えばソファーの横に転がっていた鉄パイプを拾い上げその小さな肩に軽々と担いだ。キャップをキュッと被り直し、首を二、三度鳴らした。
「どこ行く気だ」
「レオを探してくる。多分あのバカまた時間忘れて遊び回ってるだろうから」
「放っとけよ、そのうち帰ってくる」
「あんまり一人にしたくないんだ。この町の夜は寒いからな」
壱はポケットからガムを一枚取り出すと、口に放り込んだ。
じゃあ俺も行く、と立ち上がる虎。だが壱はすぐにそれを断った。納得いかない虎は少しムッとした表情で壱を見下ろす。小柄な壱に対して虎は年齢だけじゃなく身長も上だ。それでも喧嘩になれば壱の方が強い。結局 「お前は来るな」、と一喝され、虎は渋々座り直した。彼らの間に年齢による上下関係は存在しない。喧嘩の弱い方が強い方の言うことを聞く、それが暗黙の絶対ルールなのだ。
この町で一番高い場所、それは展望台だ。
誰も管理していない今にも崩れてしまいそうなくらい古い展望台。
かつては真っ白だったその外観も今では薄汚れ変色して、蔓草まで生えている。
彼らのいる工場も含め、この町にはそんな建物が腐る程あった。高層ビルもタワーも、機能していたのは遠い昔のことなのだ。もちろん小さなビルや学校、娯楽店なんかはある。どうして精密なビルや工場だけが古びてしまったかは分からない、ただここは世界から置いて行かれた人間ばかりが住む町なのだ。
レオはその展望台のてっぺんにいた。小さな背中をもっと小さく丸め、たった今沈もうとしている夕日をじっと見つめる。彼は町がオレンジ色に染まるこの瞬間が一番好きだった。
「レオ、」
後ろから声をかけたのは壱。鉄パイプを片手にぶら下げ、振り向いたレオに優しく微笑んだ。普段鋭い目で睨みをきかせる彼も、レオの前では自然と表情が緩むのだ。
レオは壱の姿を見た途端、垂れ気味の目尻を更に下げてニタリと笑った。抜けた前歯がチラリと覗く。その笑顔を見て、壱は呆れたように苦笑いをした。
「夕方には帰って来いって言っただろ。最近日が暮れるのが早いから」
同じ注意をするのはこれで何度目だろう、と壱は内心溜め息を漏らした。レオはまだ小さい。もうすぐで十歳になるであろう彼は、教育を受けていないからか元々なのか分からないが、他の同年代より喋り方も行動もひどく幼かった。だからある時からずっと、壱が守っているのだ。
「なぁ壱、これ、見ろ」
「なんだ?」
駆け寄ってきたレオの小さな手に握られていたのはわずかな小銭だった。聞けば今日、町のゲームセンターで金持ちの子供と喧嘩して奪ってきたらしいのだ。
「すげーよな、すげーだろ。強いんだぜ。壱にも見せたかったなぁ」
「やるじゃん、レオ」
「そしたら店員が入ってきたからさぁ、こうやって蹴り食らわしてやったんだよぅ」
その時の様子を再現するようにレオは何もない空中に向かって蹴りを入れた。
(……まずいな)
最近レオは自分に似てきた、と壱は思う。町を歩けば喧嘩をし、金や玩具や食べ物を奪って帰ってくることが多くなった。もちろん壱はそういう生き方しか知らない、故に近くにいるレオも真似をするようになったのだ。ずっと見ていたのだろう、教えてもないのに喧嘩の仕方を勝手に覚えた。才がある、だからこそレオにはそんな生き方をさせたくなかった。
「稼ぐのは俺の役目だって言ったろ。レオはまだ小さいからそんなことしなくていいって」
レオの小さな頭にポンと手の平を乗せる。子供扱いされたのが嫌だったのか、レオは頬を膨らまして壱を見上げた。
壱は気にせず【な
「帰るぞ」な】と短く言い、展望台の割れた窓に脚を掛ける。そして少しの躊躇も見せずに後ろ足を蹴って飛び降りた。風に乗って下へ下へと落下していく壱に続いてレオも同じように飛び降りた。
民間の屋根に着地すると、壱は慣れた様子ですぐに立ち上がる。レオも猫のように柔軟な脚を使い、無事屋根の上に降りてきた。
彼らは臆さない。屋根へ飛び移るなど簡単なことだ。弱かった頃の壱の生きる手段は誰よりも早く逃げることだった。盗みをしても喧嘩になっても逃げれば明日も生きられる。その極限の生活の中で身についた身体能力は誰よりもずば抜けて高い。そうじゃなければ生きていけないような生活を今までずっとしてきたのだ。屋根から屋根へ器用に飛び移っていく二人を驚きの目で見る通行人はいない。
「壱、壱」
「なんだよ」
「なぁなぁ」
「だから何だよ」
「また虎たちも工場にいるのか?」
「いるよ」
壱の予想通り、レオは少し嫌そうに眉を歪めた。壱の隣を走りながら下唇を突き出す。虎たちは壱を勝手にリーダーに仕立て上げている、そしてまとわりつき何かあれば壱の力を借りようとする。それが幼いレオには気に入らないのだ。
「アイツら自分たちの喧嘩、いつも壱に持っていくもん」
「いいんだよ、その分報酬貰ってるだろ」
「あの工場だって、元はといえば俺たちの家だったのに。偉そうに居座ってさ」
レオ、と壱は少し真剣味を帯びた声で呼ぶ。
「まぁ、そう言うな」
「でもさぁ」
「あんな工場いくらでもくれてやる。俺が欲しいのは汚い工場のひとつじゃない」
沈もうとする夕焼けが壱の横顔を照らした。鋭く、何か企みを秘めた黒い瞳だった。
「ここは俺の町だ。それだけは誰にも渡さないさ」
工場へ向かう途中、他のグループの子供が溜まっているのを見つけた。
ここら工場一辺は壱たちの活動範囲だ。野良犬と同じように、孤児たちにも一応縄張りというものがある。無論、壱はこの町全体を自分のものだと思っているので縄張りにはあまりこだわらないが。だから平気で他のグループの溜まり場にも行く。そのたびに彼は喧嘩を繰り返し、活動範囲を広げているのだ。
「なんだぁ、アイツら」
「……」
陽はだいぶ沈み、辺りは薄暗い。建物の隅に座り込んだ壱と同い年くらいの子供が五人。中には一人、女の子もいる。みんな壱とレオを必要以上にジロジロと見ては小馬鹿にしたように笑い出した。
「見ない顔だな」
隣町の子供か、それともだいぶ離れた所に住んでいるのか、初めて見るグループだった。
二人は歩みを止め、五人をじっと見る。睨む、というよりも観察していると言った方が正しい。鉄パイプを脇に挟み、ズボンのポケットに両手を突っ込む。あくまで今はまだ喧嘩する気はない。
しかしレオは違った。冷静な壱とは反対にこの年にして血の気の多いレオは獣のように低く唸りながら腰を落とす。今にも飛びかかって行きそうだ。
「誰だよ、お前」
五人の中で一番体のデカいリーダー各の少年が言った。壱のことを知らないとなると、やはり隣町の子供のようだ。しかも汚れていない服やどこか清潔感のある彼らは孤児ではなく、普通の中学生のようで、壱とレオの汚れた風貌を見て笑っていたのだ。どの子供も片手に煙草を挟んでいる。彼らが散らかしたであろうジュースやお菓子の袋が無造作に捨てられていた。
気に食わねえ、壱は小さく呟いた。それを聞きレオも真似して同じことを言う。
「おい見ろよ。本当に孤児っているんだな」
「な?言っただろ。この町が汚いのは有名なんだよ」
「やだぁ、可哀想じゃない」
好き勝手言い盛り上がる彼らを尻目に、壱は静かにポケットから手を出す。鉄パイプを担ぎ、レオに下がっていろと目配せをした。しかしレオはその視線を無視。壱が止める間もなく、何の合図も無しに飛びかかった。
(くそ、ちっとも言うこと聞きやしねぇ)
いきなり飛びかかってきたレオに驚いた五人は立ち上がるのも忘れ、思わず叫んだ。レオは一番手間にいた少年の腕に噛みつく。腕が千切れるんじゃないかというくらい容赦がなく、少年は痛さの余り顔を歪めて悲鳴を上げた。すぐにその腕から血が流れ始める。生きる為なら物を選ばず何でも食べてきたレオの歯は固く鋭い。
「離れろ、このガキ」
後ろから殴りかかってきたリーダー各の少年に、反射神経の良いレオは容易に反応する。すっと身を縮めれば、少年の拳は情けなく空中を掻いた。故にバランスを崩したその瞬間、いつの間にか後ろに周り込んでいた壱が鉄パイプを振り上げた。頭を殴る鈍い音が夜の路上に響く。リーダー各の少年は声も上げず人形のように地面に突っ伏し動かなかった。
「後ろから襲う時は静かにやるのが基本だ」
灰色の鉄パイプの先端に赤い斑点が着く。その血を見て戦意喪失した残りの四人は青く顔を強ばらせて固まっていた。女の子は今にも泣きそうなくらいカタカタと震えている。
レオは頭を低くした体勢のまま尊敬の眼差しで壱を見上げていた。無意識のうちに壱はレオに戦い方を教えてしまっているのだ。
「次」
そうとも気付かず壱は四人に目を向ける。次、と言ったが当然出てくる者はいない。
するとあまりの恐怖に一人が逃げ出した。それに続いて他の子供も逃げようと走る。ただ一人腰の抜けてしまった女の子だけがその場に座り込んでいる。自分を見捨てた少年達に絶望しているようだ。 しかし簡単に逃がしはしない。喧嘩は壱の仕事。金にならない仕事など意味がないのだ。
レオに少女を見張るよう言うと、途端に追いかけて行った。
「捕まえた」
あっという間に全員捕まえ、一発ずつみぞおちへ重い拳を埋める。口の端から涎を垂らしうずくまる三人の少年に対し、更に容赦なく蹴りを食らわせた。声にならない声を上げ苦しそうに唸る。
馴れた手つきで彼らの懐を探る。三つの財布の中身だけを抜き、その辺に投げた。相手は隣町の普通の中学生。この町の子供なんかよりずっと金持ちだ。思わぬ収穫に顔をほころばせ、壱はきびすを返してレオの所へ急いだ。
「あ、壱」
お帰りー、とレオがぶんぶん手を振る。ちゃんと少女はそこにいた。腰が抜けて立てないのだから当然ないのだけど。よく見れば先程までなかった痣が、少女の右頬に出来ている。
「うるさかったから蹴っちゃった」
少女が大人しいのはそのせいか。少しも悪びれないレオ。将来とんでもない鬼畜になるのではないかと壱は苦笑いを零した。
「お前の仲間、全員向こうで倒れてるぜ」
「……」
少女は壱を睨みつけるが、目が合った途端その圧に弱々しく視線をそらす。
壱は真正面にしゃがみ、少女の顎に手をかけた。品定めでもするようにじっくりと見る。少女は更に怯えた表情で、これから自分がどんな目に合うのかを想像しポロポロと涙を零す。少年による少女への性的暴行は決して少なくないのだ。
「お願い……それだけは、やめて」
小さな声を振り絞り少女は言った。壱は表情ひとつ変えずに相変わらず観察している。勿論壱にはこの少女を襲うつもりは毛頭ないが、他の飢えた孤児に金と引き換えに売ってやろうという気持ちが決して無かったわけではない。実際、そうやって金を稼いでいる孤児もこの町にはいる。
「壱ー、何してるんだよぅ」
「んー。何もねぇよ」
そう言って手を引っ込め立ち上がる。やはりそんな金儲けの仕方は彼のプライドに反するのだ。
金と煙草を出せと短く言われ、慌ててポケットを探る少女。素直にそれらを壱に渡す。受け取った壱は財布をレオに投げ、煙草を自分のポケットにしまった。見事財布キャッチしたレオは中身だけを抜き、あとは地面に投げ捨てる。これも壱の真似だ。
「俺は壱。このちっこいのはレオ」
固まる少女に気にせず続ける。
「二度と俺の町に来るな。他の連中にも言っとけ、それと」
「……」
「いつまでもこんな所にいたら襲われるぞ。夜は飢えた奴らが腐る程出てくるからな。身ぐるみ剥がされるくらいじゃ済まねえよ」
それを聞き少女は上がらない腰を懸命に動かそうとしていた。壱はフンと鼻を鳴らして顔を背け、その場から離れた。
夜が来る。こんな所にいちゃいけない。夜は冷たく、そして暗いのだ。